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異国の風

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 この佐々木邸の枝折戸は見た目以上に傷んでいるので扱いは慎重にしなくてはならない――。

 そう心得ている太一郎は、丸々と太った体を俊敏に動かして枝折戸を通過した。
 通過してからそっと振り返ると、枝折戸は怪しく不規則に揺れている。

「頼む、持ちこたえてくれ……」

 思わずつぶやいてしまった。
 これを壊すと、この屋敷の住人に――ことに、修復を担当する次男坊・英次郎えいじろうに――さんざん文句を言われるのだ。
 文句だけで済めばいい。うっかりすると、戸をすぐに直せと刀を突き付けられるかもしれないし、真新しい戸を直ちに持ってこいなどと無茶を言われるかもしれない。
 やくざ者を平気で脅す御家人の次男坊など、お江戸広しといえどもそうそう居るものではない。
 そんな太一郎の胸の内を知っているのだろう、枝折戸は哀れな声を上げながらも元の位置へおさまってくれた。
「よしっ……いいぞ……」
 たっぷり呼吸三つ分枝折戸を見つめてそれ以上の変化が無いことを確認した太一郎は、急いでその場を離れた。向かう先は、佐々木家の庭だ。
 縦にも横にも大きい男が、ど派手な袷あわせの裾を絡げてどたどたと走る。
 一本だけ落とし差しにした長刀がいかにも邪魔そうである。その姿は、本所・深川界隈で一番のやくざ衣笠組の親分とはおもえないほどに滑稽なのだが、本人は一切気にしない。
 そうして回り込んだ先には朝日にきらめく庭があり、すがすがしい空気が満ちて静まり返っている。いつもは内職の荷が積み上げられている縁側にも人の姿はない。
「さすがにまだ内職は始めておらぬか。表玄関に回るか、このまま待つか……」
 額に浮いた汗を拭う太一郎の背後から、ふいに声がかけられた。
「おや、太一郎親分ではありませんか。このような朝早くに、いかがなさいました」
「ややっ、これはお絹さま、今朝も一段とお美しゅうござる」
「ほほほ、髪に白いものが混じり始めたお婆さんに向かって嬉しいことを……」
 ころころと可愛らしく笑う彼女は、貧乏御家人佐々木家唯一の女手である「お絹」だ。
 彼女は幼いころから本所・深川界隈の「武家娘三小町」の一人として知られていた。しかも器量だけではなく気立ても良い。
 どうした因縁か極め付きの貧乏である御家人佐々木家に嫁いできてからは、ぐうたらな舅と亭主と息子たちをびしびしと叱りつつ、次男・英次郎と一緒にさまざまな内職に精をだして佐々木家を支えている「女傑」だ。

 そんなお絹の前では、そろそろ四十に手が届こうかという太一郎も、思わず背筋が伸びて口調も自然と改まる。
「佐々木家の皆さまの知恵と腕とを拝借したいと思い、こうして出張ってきたのです」 
「そうですか。では英次郎を起こしてまいりましょう」
「いやいや、働き者の英次郎がこの刻限にまだ寝ているということは何か格別な仕事があったに違いない。それがし、こちらで待ちます」
 それでもお絹は、英次郎の様子を見てくるからと言い残して、いそいそと奥へと消えて行った。


 庭には、静けさが戻ってきた。
 縁側に座ってほっと一息。ここ数日は冬に戻ったかのように寒かったが今日は一転してあたたかい。
「やれやれ。今年は桜が早いかな……」
 日が昇りきらないうちに日本橋を越えて急ぎ足でここまで来た。
 まるまると太った太一郎の額にはうっすら汗がにじんでいる。それを手拭いで乱暴に拭う彼の足を、何かが突いた。
「いたいっ!」
 それが何であるかなど、わざわざ確認する必要もない。
 畑と化した庭には菜が豊かに実り、場合によってはその周囲を鶏たちが元気に歩いているのが、昨今の御家人屋敷の実情だ。それは佐々木家も同様である。
 そしてここの鶏たちは、太一郎がお気に入りであるらしい。
 彼らはどこからともなく寄ってきては彼の足を突いたり膝に飛び乗ったり、まとわりついてくる。
「よしよし。そなたらの好物、きちんと持参しておるでな、慌てるでないぞ。鶏と申せども御家人佐々木家の一員であることを忘れてはならぬぞ」
 鶏たちに言い聞かせながら太一郎は懐に手を突っ込み、小さな包みを取り出した。太一郎が自ら「調合」した、鶏たちの餌だ。
「それっ、しっかり食べて美味い卵をしっかり産め」
 威勢よく太一郎が撒けば、先を争うように鶏たちが食べ始める。その騒がしい様を眺めていると、お絹が戻ってきた。

「お待たせいたしました」
「なんの!」
 ぴくぴく、と太一郎の丸い鼻が蠢いた。
「これは『かすていら』の香り!」
 お絹が小さく微笑んだ。
「はい、たったいま出来上がったばかりです。親分、朝餉はまだでしょう? 五つで足りますか?」
 甘いものと酒が大好物の太一郎、すでによだれを垂らさんばかりである。
 目の前にお絹特製の「お絹かすていら」とお茶が置かれるや否や、いただきます、と行儀よく手を合わせた太一郎は、一切れ手の上に載せてとっくりと眺めて目で楽しんだ。次いで壊れ物でも扱うかのように丁寧に持ち上げて、そうっと口へ運んだ。
「ああ、たまらぬ。……この舌触り、絶妙の甘さと香り……何とも言えぬ」
 うまい、うまいと言いながらあっという間に皿が空になり、名残惜しそうに太一郎が皿を見つめる。
「おかわりをお持ちしましょうか?」
「是非に、と言いたいところであるが……これを楽しみにしている者はおれだけではあるまいな……」
「ではのちほどこちらへ寄って下さいな。組の皆様と召し上がれるように、用意しておきます」
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