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 帰宅してベッドで篠崎に寝かしつけてもらい、起きたときにはやはり篠崎は居なかった。部屋は暗い。携帯で時間を見る。二十一時。だいぶ寝ていたようだ。
 寝る間に飲んだ薬が効いたのか、心なしか身体が軽い。でも喉が渇いた。寝室を出てキッチンに向かう。ここにも篠崎はいなかった。仕事かトイレか。そう思っているとバスローブ姿の篠崎がリビングに入ってきた。
「気分はどうだ」
 心配性なのか、安西に気付いた篠崎は開口すぐにそう訊いてきた。
「だいぶ楽になりました」
 帰宅すると、冷蔵庫にはたくさんの栄養補給ゼリーやスポーツドリンクが鎮座していた。普段からそこに置かれていたものは冷蔵庫の奥に押し込められている。片付けが苦手な篠崎が悪戦苦闘したのかと思うと嬉しくて笑ってしまった。
「これ飲んでいいですか」
「言ってくれれば取ったのに」
「今かなり楽ですから」
 篠崎が飲む分のお水も取って手渡す。ありがとう、と言ってくれるのが嬉しい。ずっと一緒にいるのに礼儀を忘れない。
「熱を測ろう」
「はい」
 ソファに座るとすぐに渡される体温計。すでにテーブルに用意されていたものだ。他にもテーブルには薬、のど飴、常温のスポーツドリンク、額に貼る冷たいシートが置かれている。なんか既視感。あぁ、お菓子の日だ。あの日もこんな風にテーブルにたくさんお菓子が置かれていた。
「身体を拭こうか」
「いえ、今のうちにシャワーを浴びてきます」
「一人で大丈夫か」
「はい。汗かいたし……あ、すみません……ベッドのシーツだけ換えておいていただいてもいいですか」
「もちろん。でも長く浴びるのはよくないからすぐに出ておいで」
 礼を言ってシャワーに向かう。身体が汗でべたついて気持ち悪い。髪も早く洗い流したい。
 そう思っていたのに、シャワーの刺激が不快だった。きっと皮膚が敏感になっているのだろう。水が肌にぶつかる度にびりびりというか、とにかく嫌な感じがしたのだ。けれどベッドは安西一人で使うものでもないし、汗の不快感だってある。せめてと洗面器にお湯を溜め、そそくさと身体を流した。

「大丈夫か」
「……えぇ、はい……」
 前向きな気持ちで浴びに行ったシャワーで襲われた不快感。そのことにだいぶ精神的にやられてしまったらしい。シャワーを出るとソファでぐったりとしてしまった。
「気分は」
「大丈夫です」
 でも、本当は肌に触れる布の感触も不快だった。普段なら力の抜けてしまう高級ソファの包み込むような座り心地も不快だった。肌に触れる全てが不快。それも、なんとも言えない言葉にならない不快感。ざわざわするような。
「大丈夫そうには見えないな」
 具合が悪いというより、多分機嫌が悪いのだ。慣れない体調不良に少しだけむしゃくしゃしている。
「……寝ます」
「うん、それがいい」
 篠崎は喉が渇いたときすぐに飲めるように、と常温のペットボトルを持ってきてくれた。優しい。嬉しい。なのに、心がすっきりしない。
「……触れない方がいいか」
「え?」
 普段通り横になっても、篠崎は腕枕をしようとはしなかった。まさか気付いていたなんて。
「……いつもみたいにしてください」
 それでもし肌が不快感を覚えても、篠崎の体温だと思えば心は和らぐ。そんな気がした。
 篠崎が伸ばしてくれた腕に頭を乗せ、身体を摺り寄せる。
「……よかった」
 篠崎が息を吐いた。
「え?」
「車でよく寝ていたから。体調が悪いからだと分かってはいたんだが、もうお役御免なのかと」
「そんな……」
 篠崎でもそんなことを考えるのか、と正直驚いた。いつでも余裕があって、先を見ていて、安西の欲しいものを察してくれる篠崎。その篠崎が、不安になるなんて。
「一人で眠れるようになっても、僕はずっとここで寝たいです」
「本当か」
「はい。篠崎は?篠崎は一人で寝れるから、僕が一人で寝れるようになったらもうこうしたくないですか」
「それはない。いつまでもこうして抱きしめていたい」
 嬉しくて、ふふ、と笑ってしまう。同じ気持ちだった。よかった。
「辛いところはないか」
「肌がちょっと敏感になっているみたいで。けれど大丈夫です」
「寝れば少しはよくなるだろう」
「はい」
「……テディも心配している」
 その言葉に、また笑ってしまった。どうにか元気付けようとしてくれているのは分かっているのだが、だからこそ余計に。まさか篠崎がテディの心を代弁するなんて。
「元気になったらたくさん抱っこしてあげるって言っておいてください」
「……言わない」
 夏祭りで、安西がテディを気に入っていることを篠崎が知っていることを知らされた。それからはテレビを観るときに抱っこしたり、本を読むときに片手で撫でたりと堂々とその触り心地にうっとりして過ごしていたのだが。
「どうして」
「俺が諒くんを抱っこするから」
 嫉妬だ、と気付く。篠崎が嫉妬している。自分がプレゼントしたぬいぐるみに。おかしい。
「篠崎が僕を抱っこして、僕がテディを抱っこしたらいいんじゃないですか」
 どうしてもおかしくて、つい篠崎を刺激するようなことを言ってしまう。
「だめだ」
 ぎゅう、と篠崎の腕に力が入る。苦しい。暑い。
「篠崎、暑い」
 そう言うとぱっと身体が離れてしまう。息苦しさは消えたけれど、やはり寂しい。
「すまない、大丈夫か」
 そう言って額に乗せられる大きな手。その冷たさが心地よくて目を閉じる。
「……諒、熱が上がってきている。測るぞ」
 腕を上げられ、体温計が差し込まれた。その感触すら冷たくて気持ち良く思えてしまう。
「……さっき解熱剤は飲んだか」
「帰って来てすぐ飲んだきりです」
 帰宅したのは夕方だった。そのときに処方された薬は全て飲んだ。朝昼晩の薬だったのでタイミングが少しずれてしまったけれど、子供ではないのだから夜中に目が覚めたときにでも夜の分を飲めばいいと思ったのだ。さすがに一晩目が覚めないことはないだろうと思って。恐らくそれが切れたのだろう。
「なら今飲んでも大丈夫か」
 時間は二十二時を回っていた。薬を飲んでから六時間近い。少し早いけれど、幼い子供のように的確に守らなければならないほどではないだろう。毎日飲んでいるわけでもないのだし。
 篠崎の手が温かくなってしまったな、と思っているとピピピと電子音が聞こえた。篠崎が体温計を抜き取る。でも何も言わない。エラーだったのだろうか。
「……諒、座薬を入れよう」
「え?」
「体温が高すぎる」
 篠崎の声に焦りが感じられた。そんなに高いのだろうか。
「四十度近い。夜に上がるだろうとは聞いていたが……座薬の方がいい」
「飲めますよ。吐き気はないし」
 座薬って、お尻から入れる、あれだろう。経験はないし、ちょっと怖い。確かにそちらの方が早く良く効くイメージはあるけれど。
「ダメだ。座薬の方がいい。楽になるよ」
「……じゃあ、篠崎部屋から出ていてください」
「何を言っている?俺が部屋から出ていたら座薬を入れられないだろう」
「え……?」
「俺がする」
「や、やです、やだ」
 まさか篠崎にされるなんて。嫌だ。絶対に嫌。
「諒くん、いいこだから。怖くない」
「や、やですよ、やだ。じゃあやっぱり解熱剤を飲みます。喉も渇いたし」
 恐怖からかやけに喉が渇いた。
「体温が上がってるからな……わかった。解熱剤を持ってくる。あと氷嚢も用意してくるから少し待っていられるか」
「はい、すみません」
 座薬を回避できたことにホッとする。きっとあのままやりとりを続けている時間が無駄だと思ったのだろう。押し切られなくてよかった。
 いつか篠崎とそういうことになる、とは分かっているし、自分もできるようになりたいと思っている。だから身体を見られたくないというわけではないのだけれど、それを許せるのはお互いそういう気分になっているからだ。今みたいに冷静な状態では恥ずかしすぎる。
「てでぃ……」
 高熱があると知ってしまったからだろうか。徐々に頭がくらくらしてくる。どうにかやり過ごそうと目を閉じた。テディをもふもふしたくて手を伸ばす。いない。ソファに置いてきたんだっけ。寝るときはいつもここにいるのに。篠崎がベッドを抜け出したときに変わりにテディが置かれているのが常なのに。
 目を開ける。世界が回っていた。
「あ……」
 間接照明の電気スタンドが、クローゼットが、テディが、全てがぐるぐると回っている。高速回転するジェットコースターみたいだ。乗ったことはないけれど。
「あ、あ、」
 気持ち悪い。目が回る。目が回っているから回転して見えるのか、回転のせいで目が回るのか。気持ち悪い、吐きそうだ。
「しのざきっ!!!!」
 大声で叫んだ。せめてゴミ箱に、と思いベッド横にあるゴミ箱に手を伸ばした途端、眩暈で落ちた。
 どん!と大きな音がする。身体が痛い。でもそれより目が回る。どちらが前なのか分からない。ゴミ箱を求めて必死に手を伸ばす。
「諒!!」
 篠崎が寝室に駆け込んできた――と思う。見えない。分からない。けれどすぐ近くから声が聞こえた。
「諒、どうした、大丈夫か!」
「きもちわるっ」
「吐きそうか」
 手に触れたゴミ箱。取ってくれたのだ。
「吐いていい。楽になる」
 吐きそう、なのにオエッとこない。目が回る。怖い。助けて。
「しのざきっ」
 涙が落ちた。鼻水も垂れる。気持ち悪い。ぐるぐるしている。怖くて目を開けていられない。だって全部回っているから。篠崎もぐるぐるする。いやだ、気持ち悪い、怖い、気持ち――
「おえっ……」
「諒!」
 目を閉じたまま吐いた。手に持ったゴミ箱に戻したつもりだけれど、ちゃんと中に吐けただろうか。でも確認できない。ぐるぐるするのが嫌で目を開けられない。どうしたらいいか分からない。風邪を引いたらみんなこんな思いをするのだろうか。すごい。人間すごい。もう何が何だか分からない。
「もう少し吐けそうか。吐いた方が楽になる」
「ううう……」
 目を開ければ多分、眩暈で気持ち悪くなるだろう。それだけで吐ける。けれど怖い。吐くのも怖い。だって経験がない。さっきは勝手に出てきただけだ。故意に吐き気を呼ぶのは怖い。
「やああ」
「……うん、怖いな。大丈夫、無理はしなくていい。口の中が気持ち悪いだろう。水を取ってくるから、漱ごうか」
「んっ」
 鼻水が垂れる。泣いたときのようなさらりとした鼻水じゃないのは風邪のせいだろうか。けれどティッシュを探すことすらできない。気持ち悪い、そう思っていると、鼻にティッシュがあてられた。
「ふん、してごらん」
「ふんっ」
 恥も外聞もなかった。とにかく少しでも不快感を取り除きたい。吐いている姿も吐しゃ物も見られ、臭いだって嗅がれているのだ。もうこれ以上は何をしても同じだ。
「いいこ。上手だ。もう一度」
 それからまたふんっと鼻水を出すと楽になった。鼻が通った。呼吸も楽になる。
「よし、じゃあ水を取ってくる。気持ち悪かったら我慢せずに吐くんだよ」
「んっ」
 頭を振ることもできず、喉の奥での返事。けれど篠崎は「うん」と言って頭を撫でてくれた。
 篠崎の気配が消える。一人ぼっちになった。途端に戻ってくる恐怖心。また気持ち悪くなったらどうしよう。やっぱりまだ世界は回っているのだろうか。
 そっと目を開けてみる。やはり部屋の中が回っていた。高速回転している。怖い。気持ち悪い。
「うえっ」
 目を開け、家具の動きを認識した途端、戻した。苦しい。喉が詰まった感じがする。けれど何も詰まっていない。だって固形物は何も食べていない。水分しか出てこない。なのに、苦しい。
「おえっ」
 苦しい。助けて。篠崎、ぎゅってして――
「諒!」
 篠崎だ。あぁ、どうしていつもこうタイミングよく来てくれるのだろう。嬉しい。篠崎が近くにいてくれるととても安心する。苦しくてももう大丈夫と思える。
「じのざぎ……」
「苦しかったな。一人にして悪かった」
 そう言って背中を撫でてくれる。嬉しい。
「もおでない……」
「うん、じゃあ口を漱ごうな」
 手を伸ばすと、グラスを持たせてくれる。頭を動かすのも怖いけれど、そっと水を口に含む。
 口を漱いでそのままゴミ箱に吐き出すと途端に楽になった。
「落ち着いたかな」
「はい……」
 吐いたせいでまた垂れた鼻水も綺麗にしてもらう。
「……しのざき」
「うん?」
「ぐるぐるする」
「ぐるぐる?」
「全部、回ってる」
「あぁ、それでずっと目を瞑っていたんだな。横になろう。座薬を入れたら楽になる」
「……お願いします」
 もうぐるぐるは嫌だった。
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