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外道の家族
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……何も見えない。辺り一面、暗闇に包まれている。ここはいったい何処だ? 頭がボーッとする。
鼻の奥深くを突き刺す様な金属臭。何処かの工場なのか。ふと、足下に目をやると不自然に折れ曲がった鉄パイプが転がっている。
いや、これじゃない。
確信があった。直感とか、何となくとか、そういう物じゃない。それは強烈な生臭さ。金属からは決して香る事の無い微生物が分解された時の吐き気を催す程の独特な臭い。
この場から、一秒でも早く離れたいという思いから一歩前へ踏み出す……と、その瞬間“ピチャリ”という、まるで水溜まりを踏みつけたかの様な音が響き渡る。が、それが水溜まりでない事は直ぐに分かった。
ぬるぬるする。地面は土じゃなくコンクリート、泥と化している訳でも無い。にも関わらず、ぬるぬるする。思わず足を上げようとすると、それは足に引っ付いて来た。どうやらある程度の粘着性を含んだ物らしい。
鉄の様な金属臭、強烈な生臭さ、そしてある程度の粘着性を含んでいる。それだけの条件が揃えば、正体は容易に想像出来た。
血だ。
それも哺乳類、肉や魚など何でも食べる人間から流れ出る血だ。でなければ、この異臭に説明が付かない。
すると、天井の壊れた隙間から淡い光が差し込む。どうやら厚い雲に覆われていた月が顔を出した様だ。月の光が辺りを包んでいた暗闇を消す。そこに広がっていたのは……死体だった。
死体は全部で三体、共通として顔の原型が分からなくなるまで余すこと無く殴られており、その残酷さが窺えた。中には微かに息をしている者もいるが、出血の量からもう間も無く命の灯火が消えるのは間違いない。
そんな死体の中心に男は立っていた。全身傷だらけ、拳は殴り過ぎて皮膚が裂けて血塗れになっており、中の骨が飛び出しヒビが入っている。よく見ればまだ若い。年齢的に高校生だろうか。虚ろな目で遠くを見つめ、息を切らしている。
遠くの方からサイレン音が聞こえて来る。時間が経つに連れて音が大きくなっていく事から、こちらに向かって来ているのは明白だ。普通なら慌てふためくのだが、この男は全てを諦めたかの様に空を見上げていた。
「(俺は……俺は……)」
人を殺めたという気の動転からか、記憶が混濁している。否、意識はハッキリしており、自分が何をしたのか確りと覚えている。
何故、この様な出来事が起こってしまったのか。その全てを語る前にまずは“彼”について説明しなければならない。そう、始まりは今日みたいに月が綺麗に輝く夜の日の事だった。
***
人気の無い寂れたアパート。吹きさらしの木造階段にはカビが生え、殆ど腐りきっていた。その一室、壁にはヒビが入っており、隙間風は勿論、隣からの騒音は日常茶飯事。そんな劣悪な環境の中、赤ん坊の産声が響き渡る。俺事、“外藤駆”の誕生だ。
生まれたばかりの俺に対して、母親が最初に放った言葉は『うるさい』だった。俺の口に自らの乳房を突っ込んで無理矢理黙らせた。上手く呼吸が出来ない赤子の口を無理矢理塞ぐなんて、何とも優しい母親だと思う。お陰で何回気絶したのか覚えていない。
因みに父親はいない。物心付いた時には既にいなかった。母親はよく酒の肴として俺に聞かせてくれた。
「『お前の父親はクズ野郎よ。付けろって言ったのに付けずにやって、それで子が出来たらポイ捨て。手切れ金を酒に使って堕ろす金が無くなったから仕方なく生んだけど、金と手間しか掛からない。本当にお前は疫病神だよ!!』」
最初こそ父親の愚痴を垂れるが、最終的な矛先は俺に向けられた。悪口や軽蔑位ならどうってことない。だが、機嫌が悪い時は殴られたり蹴られたりした。
そんな母親だ、飯なんてまともにくれた事なんかない。いつも食べ残した物を食べたり、ごみ捨て場の物を食べているが、運が悪いと何日も食べられない時がある。
そんな運の悪い日が何日も続いたある日、俺は運命の出会いを果たした。いつもの様にゴミを漁っていた俺の横を一人の女性が通り過ぎた。ふわっと香る甘い香水の匂い。なびく髪は丁寧に手入れされ、枝毛が全く無い。一目でお洒落に気を使っている事が伺えた。
そんな彼女は通り際、流し目でゴミを見て来た。しかしそれは、明らかにごみ捨て場でない方向に向けられていた。
腹が空いてイライラしてた事もあって、俺はその女の後を付けて気付かれない様、歩幅を合わせて背後から手を伸ばし、鞄に入っていた財布をスってやった。中身を抜き取り、証拠が残らない様に財布自体は質屋に売った。
この日、俺は初めて犯罪に手を染めた。しかし、不思議と罪悪感には包まれなかった。寧ろ、バレずに盗れた事による達成感と、得た金で久し振りに美味しい物を食べられた事による幸福感に包まれていた。
それからは早かった。財布をスッた次の日、ゴミ捨て場でゴミを漁る振りをしながら次のターゲットを品定めした。
狙うのは大抵年老いた老人か、力が無さそうな女性。万が一、スッている最中にバレたとしても逃げ切れるからだ。
そんな事を繰り返していたら、遂に母親にバレてしまった。普通なら警察に突き出すだろうが、俺の母親は止めるどころか助長した。
「あそこのコンビニで“万引き”して来な」
そこは近所にあるコンビニだった。60越えた独り身の老人が経営しており、あまり人気が無かった。既に犯罪を犯しているからか、俺は何の躊躇いも無く盗んだ。
パン、牛乳、お菓子、缶ビール。目についた商品を手当たり次第に盗んだ。そして何故か警報装置は鳴らなかった。後で分かったが、経営難から警報装置を取り外してしまったらしい。
お陰で毎日盗み放題だったが一ヶ月後、コンビニは瞬く間に潰れてしまった。更に数日後、ニュースで老人が自殺した事が報じられた。
流石に罪悪感を感じた俺だったが、母親はそれを聞いて大笑いしていた。
それから言われるがまま、俺は犯罪を重ねていった。小学校に上がる頃には同級生や他校からカツアゲ。中学では個人の飲食店に軽い強盗をする様になった。
しかし、そんな犯罪行為が当たり前の日常になっていたある時、度重なる酒浸りの不摂生な生活が祟ったのか、母親が倒れた。
両手で胸を抑え、顔全体にシワを寄せながら汗と涙と鼻水でぐちゃぐちゃになって助けを懇願……いや、助けろと命令してくる母親を見て、俺は鼻で笑い飛ばしてその場を去った。
これで漸く自由になれたと思った。だが、人生そう上手くは行かない様で死体から香る腐敗臭で大家が襲来。死体発見からのトントン拍子で犯行がバレて、警察のご厄介となった。
「……と、まぁこんな感じの経緯でここにいる訳だ」
そう言いながら俺は椅子の上で胡座をかきながら、目の前の“刑事”に自分の生い立ちを馬鹿丁寧に説明した。
そう、今俺は警察署にいる。母親の死を切っ掛けに、これまでの犯行が明るみとなり、警察から尋問を受けていた。
「……成る程。その若さでお前、苦労して来たんだな」
タバコを吹かしながら話を聞く刑事。よれよれのコートに何年も履き続けているであろう古ぼけた運動靴、そして剃る事を忘れた無精髭はベテランを彷彿とさせる。
と、ドアの脇に立っていたもう一人の刑事が声を上げる。
「何、感傷に浸っているんですか!? 間接的とはいえ、こいつは一人の老人を自殺に追い込んでいるんですよ!!」
ピシッとシワ一つ無いスーツ。ピカピカに磨き上げた革靴。ヘアオイルで綺麗に整えられた髪の毛。まるで絵に描いた様な新人刑事だった。
そんな新人刑事が両手で机を思い切り叩き、こちらを睨んで来た。生意気という理由で喧嘩を仕掛けて来た上級生と似た敵意だ。
「まぁまぁ、落ち着け。相手はまだ“未成年”だぞ」
「関係ありません!! 犯罪者は等しく裁かれるべきなんです!!」
怒りに震える新人を宥めようとするベテラン。しかしその言葉が火に油だったのか、より一層激しく怒りに震え始めた。
「はぁー、お前の気持ちも分かるがな。等しく裁かれる一方で、等しく“やり直す”機会も与えられるべきじゃないか? ん?」
「それは……確かにそうですけど……」
その言葉にすっかり大人しくなる新人。シュンとしながら元の位置へと戻って行った。
「それで? 俺はこれからどうなるんだ、刑事さん?」
「あぁ、お前を引き取ってくれる身内を探したんだが……残念ながら誰もいなかった」
「ふっ、だろうな」
母親があんなだ。家族との縁はとっく切れているだろうし、父親に至っては情報が無い。唯一知っていた女が死んだ今、俺みたいな問題児を引き取ろうなんて馬鹿はいない。
良くて児童保護施設行きだろうな。
「だからお前は必然的に児童保護施設に行く訳だが……」
やっぱりな。
「手続きとか色々面倒臭いから、俺の所で育てる事が決定した」
「は?」
「先輩!?」
は? こいつ、今何て言った? 俺の所で育てるだと!!?
「それじゃあ俺はこの事を上に報告して来るから、それまで……」
「ふっ、ふざけるんじゃねぇ!!」
あまりの急展開に俺は思わず椅子から立ち上がった。俺の驚き振りに対して、ベテランはキョトンとしていた。
「何だ? 何か問題あるか?」
「大有りだ!! 何で俺がてめえの所で世話されなくちゃいけねぇんだよ!!」
「そうですよ先輩!! こんな奴、少年刑務所にぶちこんじゃえば良いんですよ!!」
「何だと!!」
食って掛かる俺に便乗して新人も口を出して来た。その言葉にカチンと来て、俺は新人に詰め寄る。
「警察だからって調子こいてんじゃねぇぞ!! あぁ!!?」
「調子こいてんのはどっちだ!!? あんまり警察嘗めんじゃねぇよ!!」
一触即発。今にも殴り合いが始まりそうな雰囲気だった。そして次の瞬間……。
「ごちゃごちゃうるせぇ!!!」
「「!!?」」
ベテランのドスの効いた声が部屋中に響き渡る。今のはさすがの俺や同じ刑事である新人も肝を冷やした。
「男が一度決めた事に横から茶々いれるんじゃねぇ。どうしても文句が言いてぇなら、俺に勝ってからにしろ」
一見、簡単に勝てそうなぬぼーとした男だが、今まで修羅場を潜り抜けて来た俺には分かる。このベテラン、強い。
「そ、そんな……剣道八段、柔道黒帯の先輩に勝てる人なんている訳ないじゃないですか……」
ほらな、やっぱり強かった。もし、何も知らずに突っ込めば、まず間違いなくヤられていたのはこっちだ。
「じゃあ大人しく黙ってろ。じゃあ俺は報告に行くからな」
「あっ、ちょ、先輩!!」
完全に武力で黙らせると席を立ち、部屋を後にしようとする。それを引き留める新人。
「そうだ、こいつが逃げない様にここで見張ってろ。いいな?」
「えっ、そんな!?」
“頼んだぞ”と、返事も待たずに出ていくベテラン。
「「…………」」
取り残された二人。ベテランが戻って来るまで終始微妙な空気が流れる事となった。
***
夕暮れ時、警察署の外でベテランと新人の二人が立っていた。近くに外藤の姿は無かった。
「……そう言う訳で、これから連れて帰るから。一人余分に作っておいてくれ。それじゃあ……」
「…………」
何処かに電話を掛けているベテラン。その様子を呆れた表情で見る新人。電話を終えたベテランに新人が声を掛ける。
「先輩、本気なんですか?」
「何がだ?」
「あの犯罪者を育てる事ですよ!!」
「大きな声を出すな。こっちは二日酔いで頭がキンキンするんだ」
「そんなの自業自得じゃないですか……って、そうじゃなくて質問に答えて下さい」
「……あぁ、本気だ。俺はあいつを家族の一員として迎え入れるつもりだ」
「そんな事して何になるんですか!?」
「あいつの側には正しく導く奴がいなかった。だから俺が手本になって、更正を促す」
「そんなの絶対無理ですよ。自分には分かります。あいつは根っからの悪人です。例えどんな施しを与えようとも、更正なんかしません。本質が悪なんですよ」
「…………」
タバコに火を付けるベテラン。夕焼けを背景に口から細い煙を吐き出す。
「……刑事って、不思議な職業だよな」
「え?」
「犯人を地獄の形相で追い詰める一方で、仏の様に市民の安全を守る。正に表と裏の両方を持ち合わせてると思わないか?」
「それが何だって言うんですか……」
「いやな、確かにお前の言う通りあいつは許されない罪を犯したかもしれねぇ。けどよ、元を辿ればあいつも俺達が守るべき市民の一人だったんだ」
「…………」
「だけど俺達は守れなかった。暗い鳥籠にいるあいつを……」
「だから今度は守りたいって……そう言いたいんですか?」
「……まぁな」
「そんなの綺麗事ですよ。例えどんなに理由があろうと、犯罪を犯している時点で情けなんか不要です!!」
「それが正しいのかもしれない。だからよ……」
ベテランが新人の肩に手を置く。
「お前はそのまま自分の信念を貫け」
「先輩……」
「悪いが俺は“仲間外れ”だからよ」
染々と語る中、警察署から一人の警察官が外藤を連れて来た。
「ご苦労様、ほら行くぞ。付いて来い」
「はぁ? 誰が大人しく付いて行くかよ」
「何だ、手でも繋いで欲しいのか?」
「子供扱いしてんじゃねぇ!!」
「なら、黙って車に乗れ。これ以上駄々をこねるのなら、素敵な“アクセサリー”を着けてやるぞ」
そう言いながらベテランは、ポケットから鎖の付いた銀色の二つのわっかを見せびらかした。
「ぐっ……分かったよ」
俺は渋々、助手席に乗り込んだ。
「偉いぞ。そんじゃあ、後はよろしく」
「せ、先輩!!」
ベテランは運転席に乗り込み、足早に警察署を後にした。残された新人は呆然と走り去って行く車を見つめるのであった。
***
「「…………」」
走行中。二人の間に無言の空気が流れていた。一人は不満そうに外を眺め、もう一人はご機嫌な様子だった。
「……どういうつもりだよ」
沈黙に耐え兼ねて、俺はベテランに声を掛ける。
「んー、何がだ?」
「どうして俺を引き取ったんだ!!」
「だから言っただろう。お前を更正させる為だ」
「はっ、更正なんかしねぇよ。俺は間違った事はしてねぇからな」
「いや、させて見せる。俺がそう決めたからな」
「くたばれ、このイカれ野郎」
「あっ、そうだ。忘れる所だった」
「なん……いっ!!?」
ふと思い出した様に次の瞬間、ベテランは運転しながら片手で外藤の頭に、げんこつを食らわせた。
「いってぇええええええ!!!?」
「これはこれまで重ねて来た悪事の分。そしてこれが……」
両手で頭を抑える外藤に更なるげんこつの追撃を食らわせるベテラン。
「ぐわぁああああああ!!!」
「自殺に追い込んだじいさんの分だ。あの人の苦しみはこんなもんじゃねぇぞ」
「て、てめぇ……刑事が暴力を振るっても良いのかよ!!? 訴えるぞ!!」
「残念ながら、今日の業務は既に終了している。つまり今の俺は刑事じゃない、悪さをしでかした息子を叱る只の“親父”だ」
「誰が誰の親父だって!!? 俺は認めねぇぞ!! 第一、親父なら子供に手を上げんなよ!!」
「悪いが俺は昔ながらの人間でね。まどろっこしい説教は嫌いなんだよ」
「時代錯誤もいいところだ!! 絶対に訴えてやるかな!!」
「ほぉ、それはつまり俺の事を親父と認めるんだな。いやぁ、嬉しいねー」
「はぁ!!? そんな訳がねぇだろう!! 誰が認めるかよ!!」
「じゃあ大人しくしているんだな」
「……納得いかねぇ……」
訴えれば親父と認める事になってしまう。それだけは避けたい。そうして外藤は上手く丸め込まれてしまった。
「あっ、それと……」
するとベテランは、本日三回目のげんこつを食らわせた。
「な、何で殴るんだよ!!?」
「さっき“くたばれ”って言った分だ。いいか、家族には口が裂けても“死ね”とか“くたばれ”なんて言葉を使うんじゃねぇ。分かったか?」
「うるせぇ!! くた……っ!!」
と、言い掛けた所で止まった。さすがに、げんこつの構えを取っている相手に言う勇気は無い。
「ん?」
「くた……くたくただ。今日一日疲れたから……」
「そうか、もうすぐ家に着くからな」
「家……ね……」
警察署から数十分。いつの間にか住宅街に入っており、いくつかの家を通り過ぎた所で車が、とある一軒家の前で止まった。
「ほら、着いたぞ。ここがお前の新しい家だ」
「…………」
これといった感想は無い。特別豪華でも、特別綺麗でも無い。何とも言えない一軒家。広くも狭くも無い庭付き。だが……。
「まぁまぁだな」
だが、今まで暮らしていたアパートと比べると、凄く良く見えた。
車から降りるとベテランが鍵を差し込み、ドアノブを回す。
「帰ったぞ」
「お帰りなさい!!」
ベテランの声に反応して、綺麗な声が響き渡る。廊下の奥から姿を現したのは、一人の女の子だった。
見た目から俺より年上。高校生だろうか。
「あっ、もしかしてその子がさっき電話で話していた?」
「あぁ、そうだ。外藤駆、今日から家族の一員だ。駆、こいつは“秋本正美”。俺の可愛い一人娘だ」
「初めまして秋本正美です。今日からよろしくね」
「う、うっす」
綺麗な顔立ちに明るい笑顔。母親以外の女の顔をまともに見た事が無かった俺は、急に照れくさくなってしまった。
「因みに俺は“秋本正義”って……」
「興味ねぇ」
ぶちん、という幻聴が聞こえたかと思うと正義は外藤の頭にヘッドロックを食らわしていた。
「いだだだだだだだ!!?」
「例え興味が無くても、人の話は最後まで聞けよな~!!」
「ちょ、お父さん!!」
正美の手助けもあり、何とかヘッドロックから解放された。俺が締め付けられた頭を抑えていると、先に玄関を上がった正義に声を掛けられる。
「ほら、何ボーッと突っ立っているんだ。上がれ」
「……お邪魔します……」
「ちょっと待った!!」
玄関から上がろうとするが、直前で止められた。
「こ、今度は何だよ!!?」
「“お邪魔します”? 違うだろ、今日からここはお前の家なんだ。家に帰ったら何て言うんだ?」
「…………」
正美の方に視線を向けると、何も言わずに頷いた。
「……た、ただいま……」
「「おかえり」」
***
「今日の晩御飯は唐揚げだよ」
リビングの食卓に並べられた山盛りの唐揚げを中心に、三人分の食器が並べられていた。
「おぉ、これは旨そうだな」
「でしょでしょ。今日は駆君が家族になった記念日。いつもより張り切って作ったんだ」
席に付く二人をドアの前で眺める外藤。中々席に付かない外藤に気が付き、正美が手招きをする。
「ん? 何突っ立っているんだ。早く席に付け、せっかくの唐揚げが冷めるぞ」
「お、おぉ……」
正義に言われ、漸く席に付いた。目の前に広がる暖かな食事に思わず唾を飲み込んだ。そういえば捕まってから、何も口にしていなかった事を思い出した。
「それじゃあ、手を合わせていただきます」
「いただきます」
「い、いただきます……」
見よう見まねで手を合わせた。二人が山盛りの唐揚げに手を付ける中、どうして良いか分からず硬直する外藤。
「どうした、食べないのか?」
「ほ、本当に食べて良いのかよ?」
「当たり前だろ。今日の料理はお前の為に正美が腕によりを掛けて作ったんだからな。食べなきゃ、罰が当たる」
「ふふっ、ほら食べてみて」
「…………」
促されるまま、唐揚げを口に運んだ。
「どう?」
「…………」
次の瞬間、犬が落ちたステーキにがっつく様に、次々と唐揚げに手を付けていく。
「あらあら」
「おいおい、俺達の分は残しておいてくれよな」
***
「ここが駆君の部屋だよ」
夕食後、寝室に案内された。電気を付けると、その部屋には化粧品棚や手が加えられた壁紙など、以前まで誰かが使っていた痕跡があった。
「誰か使ってたのか?」
「うん……お母さんがね」
すると正美は化粧品棚に置かれていた写真立てを手に取り、外藤に渡した。そこには若かりし頃の正義と、正美そっくりの女性、そして真ん中には幼い正美が写っていた。
「料理が得意で、怒ると恐いけど普段は優しくて最高のお母さんだったんだ。けど、数年前に事故で……」
「俺の母親とは大違いだな」
「お父さんから聞いたよ。その……厳しい人だったみたいだね」
「厳しいか……そうかもな」
「やっぱりお母さんがいないと寂しい?」
「……いや、俺は少なからず母親を恨んでいた。だから別に寂しいとかは感じないな」
「そっか……駆君は強いね。私は少し寂しいな」
「……駆……」
「え?」
「名前、呼び捨てで構わない」
「ありがとう、駆」
「…………」
改めて名前を呼ばれ、少しだけ照れくさそうに頭を掻いた。すると何かを思い付いたかの様に正美が両手を合わせる。
「そうだ、私が駆のお母さんになってあげる!!」
「はぁ!!?」
「駆はお母さんの暖かみを知らないけど、私は知ってる。なら、知ってる私が知らない駆にお母さんの暖かみを教えてあげられる」
「どうしてそうなるんだ!!?」
「ほら、思う存分に甘えて良いんだよ!!」
そう言いながら両手を広げて、ハグを求めて来た。これはさすがの駆も酷く動揺し、正美の背中を無理矢理押して部屋から追い出した。
「あっ、ちょっと!!?」
「お、俺もう寝るから!! 早く出て行ってくれ!!」
何とか正美を部屋から追い出せ、ホッと胸を撫で下ろす。その時、部屋のドアがノックされる。
恐る恐るドアを開けると、そこに立っていたのは正美……では無く正義だった。
「何だあんたか、ビックリさせるな。それで何の用だよ」
「いやな、お前に伝え忘れた事があってな……耳を貸せ」
「?」
「正美に手ぇ出したら、ぶっ殺す」
そう言うと正義は二本指で自身の両目を指差した後、外藤の両目を指差した。どうやら見てるからなと言いたいらしい。そして静かにドアを閉めた。
「……あのバカ親が……」
娘を溺愛する正義に呆れた表情を浮かべ、その日はそのまま床に付くのであった。
***
あれから俺の人生は百八十度変わった。毎日柔らかいベッドで寝て、毎日暖かな食事を取り、口喧しい男に面倒を見られ、甘えて良いんだよと迫って来る女を避ける生活を送る様になった。
中卒の俺はあの正義とかいう刑事の紹介で働く事になったんだが、それがまさかのコンビニバイトだった。あいつは偶然とか言っていたが絶対にわざとだ。口元がにやけていた。
適当にサボってやろうとも考えたが、定期的に確認して来やがる。それもご丁寧に変装してだ。あいつは本当に刑事として働いてるのか。
「いらっしゃいませー」
「おっ、今日もちゃんと働いてるな」
入店して来たのは正義だった。今日は特に変装しておらず、いつものコートを羽織っていた。そして外藤の前にサンドイッチと缶コーヒーを置いた。
「テメェ、俺にこんな仕事を押し付けておいて、自分は優雅にランチタイムか!?」
「ばぁーか、今は昼休憩だ。休む権利が俺にはある。ほら、さっさとレジ通せ。あっ、後タバコくれ。いつもの奴な」
「申し訳ございませんお客様。おタバコは番号で指名して下さい」
「は? いや、お前知ってるだろ。ほら、あれだよあれ」
「申し訳ございません。あれと仰られても対応しかねます。どうぞ、番号で指名して下さい」
「くっ、ちくしょう……めんどくせぇな……」
してやったりという表情を浮かべる外藤。カウンター裏の大量のタバコの中から、目当ての番号を必死に探す正義。
「あった!! 13番だ!!」
「はい、かしこまりました」
漸く見つけた番号を言うと、手慣れた手付きでサンドイッチ、缶コーヒー、そしてタバコをレジに通していく。
「へぇー、随分と様になって来たじゃねぇか」
「そりゃあ、毎日こき使われれば上達するわ。それなのに給料は安いし、売り上げは伸びねぇし。地獄かここは!!」
「でも、やりがいはあるだろう?」
「……ふん、やりがいはあっても儲けが少なくちゃ、意味ねぇよ!!」
愚痴をこぼしながら、通した商品をレジ袋に詰める。
「ほらよ、どうせ今日もエコバッグなんか持ってねぇんだろ」
「よく分かってる」
「ちょっとは地球に優しくしろ……ん?」
その時、目の端に捉えた。一人の男性が懐に商品を隠し、そのまま店の外に出ようとしていた。
「あっ、テメェ!!」
「!!!」
気付かれた男性は走り出した。その後を追い掛ける外藤。
「はぁはぁはぁはぁはぁ………」
「待てって言ってるだろうが!!」
「あぐぁあ!!!」
幸いにも男性の足は遅く、追い付く事が出来た。外藤はその男性にドロップキックを喰らわせ、無理矢理止めた。
「ごめんなさい!!」
「テメェ、よくも俺の店で万引きしてくれたな。殴られる覚悟はあるんだろうなぁあああああ!!!」
「ひ、ひぃ!!」
「っ!!!」
その時、外藤は目の前の万引き犯を見て、過去の自分をフラッシュバックさせた。
「……?」
「……くそっ、くそぉおおおおおお!!!」
「ひ、ひぃ!!!」
それにより一瞬だけ躊躇するも、直ぐ様振り払い、再び万引き犯を殴ろうとする。振り下ろされる拳。万引き犯に当たる直前、第三者による手の介入によって受け止められてしまう。
「なっ!!?」
それは正義だった。真っ直ぐとした目でこちらを見つめていた。
「その辺にしてやれ。後は警察の仕事だ」
「……ちぃ!!」
外藤は正義の手を振り払いながら、歯を噛み締めた。
***
「盗まれそうになったのはグラビア雑誌。どうやらレジに通すのが恥ずかしくて盗んだらしい」
事件後、事情聴取の為に再び警察署を訪れた。そこで正義から犯行の動機を聞かされた。
「大した値段じゃない……けど、盗まれれば大損害だ」
「そうだな。雑誌一冊でも店側からすれば被害は甚大だからな」
「しかも、レジに通すのが恥ずかしいなんて……そんなくだらない理由で……」
「じゃあ、生きる為だったら盗んでも良いのか?」
「!!!」
「あの時、お前が拳を躊躇したのは昔の自分を重ねちまったからなんだろ」
「違う!!」
「後悔してたんだろ。だから大人しく働き続けていた」
「違う!!」
「それが自分に出来る唯一の罪滅ぼしだと信じて」
「違うって言ってんだろう!!」
「…………」
息を切らしながら大声を張り上げる。否定すればする程、何故か胸が締め付けられた。
「まぁいい、俺は報告書を書く仕事が残ってるから、お前は先に帰ってろ」
「…………」
何も言わず、外藤は警察署を後にした。帰り道、頭に浮かぶのは万引き犯の事と自分自身の過去ばかり。
“どうあがこうが、あんたの罪は消えない。だって、私と同じ血が流れているんだからね”
「っ……」
思い詰め過ぎて、この世にいない筈の声が聞こえて来る。家に着いた所で我に返り、インターホンを押した。すると慌てた様子の正美が飛び出して来た。
「駆、大丈夫だった!? 何処も怪我してない!?」
外藤の姿を見るなり、体のあちこちをペタペタと触り出す正美。突然のボディタッチに外藤は顔全体が真っ赤に染まる。
「ちょ、いきなり何だよ!?」
あまりの恥ずかしさに堪えきれず、正美の手を慌てて払い除ける。
「お父さんから聞いたよ!! 仕事中、強盗犯に襲われたって!!」
「……あいつ、どんな伝え方したんだよ……誤解だ、実際は万引き犯を捕まえただけだ」
「本当?」
「あぁ」
「……良かったー!!」
外藤が無事だった事に安堵したのか、 その場に力無く座り込んでしまった。
「お、おい……」
「駆にもしもの事があったら、どうしようってずっと心配してたんだよ」
「…………」
「あんまり無茶な事はしないでね。これじゃあ、命がいくつあっても足りないよ」
「…………」
「さっ、中に入ってご飯でも食べよ」
家に入ろうと促す正美だが、何故か外藤はその場から動こうとしなかった。不思議に思った正美が声を掛ける。
「どうしたの?」
「俺の命だ。どう扱おうが、俺の勝手だろ」
「駆……」
「それに俺みたいな犯罪者は、死んだ方が世の中の為だ」
「もしかして、あの自殺に追い込んじゃった人の事を言ってるの?」
「……間接的とはいえ、俺は一人の人間の命を奪ったんだ。そんな奴が今ものうのうと生きてちゃいけないんだよ」
「……それじゃあ私も“同じ”だね」
「え?」
説教でも、諭される訳でも無く、まさかの共感された。予想外の言葉に呆気に取られた。
「私のお母さん、前に事故で亡くなった事は話したよね。実はその前日、些細な事で大喧嘩しちゃったの。それでつい心にも無い事を言っちゃった……“死んじゃえ”って」
「!!!」
「そしたら次の日、本当に死んじゃった。だからね、私がお母さんを殺したの」
「それは違うだろ!! 正美が直接殺った訳じゃ……」
「事故が起こった原因。お母さん、何か思い詰めた表情で飛び出したんだって……」
「ま、まさか……」
「そう、私との喧嘩が原因。つまり、直接的じゃないにしろ、私は“間接的”にお母さんを殺した事になる」
「…………」
「今の駆、あの時の私みたい。悩んで、思い詰めて、もう自分の命なんかどうでもいいってそんな感じ」
「正美……」
「罪を償おうと自殺しようと思ったそんな時、お父さんが言ってくれた」
『罪から逃げるのは簡単だ。だが、本当に償いたいと思う気持ちがあるのなら、逃げずに真正面から向き合え。そして生き続けるんだ。許す許さないの問題じゃない。死んだ者が送れなかった人生を最後まで送るんだ。何故ならお前の人生は、もうお前だけの人生じゃないんだからな』
「……って、その言葉を聞いてから私は決心した。私は生きる、お母さんが送る筈だった人生を背負って。だから駆も死んだ方が世の中の為なんて、そんな“無責任”な事言わないで」
「……わ、分かった……もう言わない……」
「それを聞いて安心した。さっ、一緒にご飯食べよ」
「……うん」
そして二人は静かに家に入った。何も変わっていない。でも何か変わった。そう自分の中の何かを感じる外藤だった。
***
あれから数ヶ月が経過した。俺は変わらぬ日常を過ごしていた。相変わらず口喧しい男に面倒を見られ、いちいち甘えて良いんだよと迫ってくる女を避ける、そんな毎日。でも、最近はそんな毎日が楽しく感じていた。
「いらっしゃいませー」
「よっ、今日も張り切ってんな」
いつもの様に働いていると、見慣れた無精髭男がやって来た。
「ほい、タバコ」
俺は注文を受ける前に、いつもの奴を棚から取り出し、カウンターに置いた。
「おっ、話が早いじゃねぇか。どうした? 何だか最近、やる気に満ち溢れてるじゃねぇか」
「別に何でもねぇよ」
「もしかして、どっかの素敵な刑事の素晴らしいお言葉を聞いたからかな~?」
「げっ、知ってたのかよ。そんなんじゃねぇよ。只、いつまでもお前の言いなりなのは癪だから、まずはこのコンビニの店長まで昇格して、そこから全国的に事業を拡大させようと思ってな」
「ほう、それはそれはご立派な考えで……所でもうすぐ上がりだろ、車で一緒に帰るぞ」
「おい、仕事はどうした? まだ勤務時間の筈だぞ」
「バックレる。俺は刑事の中で“仲間外れ”だからな」
「何だそりゃ」
「いいから一緒に帰るぞ。表で待ってるからな、もし一人で帰ったりしたらどうなるか分かってるだろうな?」
最後に脅しを掛けて去っていく正義。
「あれで本当に刑事かよ。たくっ、しょうがねぇな……」
何だかんだ言いつつも、一緒に帰ってあげる外藤であった。
***
「ただいまーって、正美まだ帰ってないみたいだな」
玄関に靴が無いのを見て、まだ帰っていない事を確信した。
「は? それじゃあ今日の晩御飯どうするんだよ?」
「心配しなくても、もうすぐ帰って来る筈だ。多分買い物だろ」
「はぁー、正美の奴、早く帰って来ないかなー」
「正美の奴? お前ら、随分と仲が良いみたいだなぁ~?」
「えっ、あっ、いやそれはあれだよ……歳が近いから話が合って……」
「前にも忠告したが、いくら家族であろうと正美に手を出したら、俺が許さないからな」
「わ、分かってるよ!! そ、それより正美が帰って来るまで暇だから、ゲームでもしてようぜ!!」
「……ふん、まぁいいか……」
ホッと胸を撫で下ろす外藤。
***
夕暮れ時、帰路へ着く正美。その手には買い物バッグとスーパーの袋が握られていた。
「遅くなっちゃった。早く帰って晩御飯作らないと。駆とお父さん、きっとお腹空かせてるだろうな」
お腹を空かせている二人を想像しながら、家へと急ぐ正美。そんな彼女を路地裏から見つめる三人の影。
「「「へっへっへっ……」」」
***
「…………」
「…………」
カチコチ、カチコチと時計の音だけが響き渡る。時刻は夜中の十時を回っていた。
「さすがに遅過ぎる」
「落ち着け、ちょっと買い物に手間取っているだけかもしれないだろ」
「そんな長い買い物聞いた事が無いわ!! 何かあったのかもしれねぇ!!」
「冷静になれ、もしかしたら道に迷ってるだけかもしれないだろう」
外に飛び出そうとする外藤を止める正義。
「だとしたら携帯から電話が掛かって来るだろうが!! 早く探しに行こう!!」
「携帯の充電が切れてるだけかも……」
「あんたは娘が心配じゃないのかよ!!?」
怒りに任せて正義の胸ぐらに掴み掛かった。
「心配に決まってんだろ!! たった一人の娘なんだぞ!!」
正義の怒りに圧倒され、掴んでいた胸ぐらを離した。
「だが、闇雲に探しても見つからない」
「刑事なんだろ、今こそ権力を行使する時だろ!?」
「正美が姿を消してたった数時間、それじゃあ取り扱いすらしねぇよ」
「だけど、このまま何もしないなんて……」
「誰が何もしないって言った。既に俺の部下何人かに捜索して貰っている。俺達はその連絡を黙って待ってれば良いんだ」
「そうだとしても、やっぱりじっと何かしてられねぇ!!」
「あっ、おい!!」
正義の制止を振り切り、外藤は外へと飛び出した。
「正美!! 何処だ!! 正美!!」
外藤による必死の捜索も虚しく、その日に正美が見つかる事は無かった。正美が見つかったのはそれから三日後の事だった。
***
河川敷の橋の下。警察数人が周りを取り囲み、黄色いテープで関係者以外通れない様にしていた。現場保存を行っている中、一台の車が橋の上で止まる。中から正義と外藤の二人が慌てて降りて来る。
橋の下には見慣れた顔がいた。いつぞやの新人刑事だった。現場に入ろうとする正義を制止する。
「先輩、止まって下さい!!」
「退け!! この目で確かめるまで俺は信じない!!」
「今、鑑識が調べてる最中なんです。せめてそれが終わってから……」
「そんな待てるか!!」
「あっ、先輩!!」
無理矢理新人刑事を退かし、黄色いテープを潜った。
「正美!!」
そこにいたのは変わり果てた姿の正美だった。衣服は引き裂かれ、ほぼ裸の状態。何度も殴られたのだろう、可愛かった顔にはあおたんが痛々しく刻み込まれていた。
そして何より、これまで感じていたあの優しい暖かみが、何も感じられなかった。
「そんな……正美……ぁああああああああああああああ!!!」
目の前に広がる非常な現実を受け入れられず、正美の亡骸にすがり付いて泣き始める正義。
「…………」
俺はそんな様子を呆然と眺める事しか出来なかった。
***
意外にも犯人はすぐ見つかった。鬼と化した刑事に掛かれば、造作もない事だった。しかし、問題はここからだった。犯人は三人グループなのだが、全員未成年だった。
勿論、未成年だからといって許される訳が無い。俺達は必死に抗議した。だが、悪い事は続いた。
何とそいつらは上流階級の血族だった。結局事件は公にされる事無く、少ない示談金であっさりと幕を引いてしまった。
「……ただいま」
仕事を終え、家に帰宅した。以前とは悪い意味で様変わりしていた。部屋は薄暗く、そこら中にゴミが散乱し、洗われていない食器が溜まっており、水も出しっぱなしになっていた。
蛇口を捻って水を止め、リビングに目をやると、そこには酒に酔い潰れた正義の姿があった。寝ていても酒瓶だけは手離していない程であった。
「また飲んでたのか、最近飲み過ぎじゃないか」
「うるせー、俺の勝手だろうがよ……」
「そんな情けない姿、正美が見たら何て言うか……」
「正美の話はするんじゃねぇ!!」
持っていた酒瓶を外藤に向かって投げ付ける。しかし、泥酔状態だった事もあり、真横を通り過ぎた。
「やれる事は全部やった。それでもあいつらを裁く事は出来なかった。刑事失格だよ、俺は……」
「…………」
「……へへっ、これも因果なのかもな」
「どういう意味だ?」
「前に俺は刑事の仲間外れだって言ったよな。それはな、過去に“人を殺めた”事があるからだ」
「何だと!!?」
「お前位の頃、当時の俺は毎日喧嘩に明け暮れていた。ある日、隣町の不良と喧嘩した。死闘の末、俺は相手を殺しちまったんだ」
「そんな事が……」
「けど、俺は逮捕されなかった。未成年だった事と、当時世話になった刑事のお陰でな。その時言われたのさ、“罪から逃げるのは簡単だ。だが、本当に償いたいと思う気持ちがあるのなら、逃げずに真正面から向き合え。そして生き続けるんだ。許す許さないの問題じゃない。死んだ者が送れなかった人生を最後まで送るんだ。何故ならお前の人生は、もうお前だけの人生じゃないんだからな”ってな」
「その言葉……!!」
「あぁ、その人からの請け負いだったのさ。だから俺は刑事になった、今後俺みたいな奴を見つけたら、俺がされた時の様に導いてやろうって……」
「…………」
「けど、結局その罪の因果は巡り巡って、正美に降り掛かった。俺にでは無く、正美にだ。あの子は何にも悪くないのに……正美……うぅ……すまねぇ……すまねぇ……」
これ以上、こいつの哀れな姿を見るのは堪えられなかった。俺は夕食しに外へと出掛けた。
外はすっかり日が陰り、少し肌寒かった。
「正美……」
確かに正美の死は悲しいし、殺した奴らの事は憎い。だが、あいつらに復讐する事が本当に正しい事なのか分からない。そのせいで自分達が罪になったら、元も子もない。
それに復讐する事自体、正美が望んでいるのだろうか。もしかしたら前を向いて歩いて欲しいと望んでいるかもしれない。こんな事なら、生前に聞いておくべきだったか。
そんな笑えない冗談を考えてしまう程、俺の精神は追い詰められているのかもしれない。
近くのコンビニに寄ると、入口付近で屯している若者達がいた。周りの目も気にせず、大声でバカ騒ぎしていた。普通ならこういう時は見てみぬ振りをする物だが、俺はそれが出来なかった。何故なら……。
「まさかこんな所で会えるとはな、糞野郎ども」
「あ?」
そいつらは正美を殺したあの三人組だったからだ。こうして堂々と迷惑行為を働く辺り、まるで反省の色が見られない。俺は思わず三人に声を掛けた。
「誰だよ」
因みにこいつらとは初対面だ。俺が知っていたのは、取調室のマジックミラー越しに顔を見ていたからだ。
「秋本正美の家族って言えば分かるか?」
「秋本正美? 誰だそれ?」
「何だと……お前らに殺された女だよ!!」
「んー、お前ら覚えてるか?」
「じぇーんじぇん、過去の女は覚えない派だから」
「ふぅー、カッコいい!!」
「つー訳で、悪いんだけど記憶にございませーん。どっか行けよ」
「テメェら……!!」
我慢の限界だった。もう正美の仇とかどうでも良かった。こんな奴らを目の前にして、黙って去る事が出来なかった。
「このぉ!!!」
「がぁ!!?」
顔面にキツイ一発をお見舞いしてやった。リーダー格の男が鼻血を出しながら尻餅を付いた。
「この野郎!!」
「ふざけやがって!!」
「うぐっ!!」
仲間が殴られ、逆上した残りの二人に襲われた。一対一なら何とかなったが、さすがに多勢に無勢で俺は腹を殴られ、痛みと気持ち悪さからその場に崩れ落ちた。
「はぁはぁ、こいつ嘗めた真似しやがって!! おら!! 死ね!! 死ね!!」
最後は殴ったリーダー格に背中や横腹を蹴られた。結局、俺は何も出来なかった。仇も、一矢報いる事も出来なかった。
「たくっ、何なんだよこいつ……」
「もうほっとこうぜ。それより早くいつものとこに行こうぜ」
「またあの廃工場かよ。あそこ人気ないけど汚ないんだよなぁ」
散々殴り倒した後、三人は何処かに行ってしまった。俺はボロボロの体を引きずりながら家に帰った。
***
「ただいま……」
正直、この状態で家に帰るのには抵抗があった。まず間違いなく理由を聞かれるだろう。しかも相手はベテラン刑事、下手な嘘はすぐにバレる。だが、正直に言えばどうなるか分からない。取り敢えず今夜はなるべく会わない様にしよう。
「……ん? 何だ、何の音だ?」
その時、リビングから妙な音が聞こえて来た。まるで風船の空気が抜ける様な音。恐る恐るドアを開けた。するとそこにはぐったりした正義の姿があった。酔い潰れたのではない。顔面蒼白で、生気が宿っていなかった。
「おい、嘘だっ……!!?」
部屋に入った瞬間、めまいと吐き気に襲われた。原因を探ろうと辺りを見回すと、台所のガスコンロからガスが漏れていた。
「くそっ!!」
急いでガス栓を閉め、窓を全開にした。一旦、外の新鮮な空気を取り込んだ。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
それから大きく息を吸い込み、再び部屋の中へと入り、ぐったりしている正義を外に出した。しかし、既に息はしていなかった。
「おい!! 確りしろよ!!」
必死に揺さぶるが反応は無かった。救急車を呼ぼうにも部屋の中は、まだ一酸化炭素に包まれている。携帯電話はもっていない。残された行動はたった一つだった。
「誰か救急車、誰か救急車を呼んでくれ!! こいつ……“親父”を!! 親父を助けてくれ!!」
初めて親父と呼んだ。しかし、今の彼に気にしている余裕は無かった。一秒でも早く正義を……親父を助けたかった。外藤の呼び掛けにより、近所の住人が騒ぎを聞き付けて外に出て来た。
「誰か救急車を!! 親父を……俺の家族を救ってくれ!!」
外藤の悲痛な叫びが夜の住宅街に響き渡った。
***
病院。緊急搬送された正義はそのまま急いで手術室に担ぎ込まれた。助かるかどうか分からない。俺は手術が終わるのをじっと待つ事しか出来なかった。
数時間後、医者が手術室から治療を出て来た。
「お、親父は!!?」
「大丈夫です。治療は成功しました」
「あ、ありがとうございます!!」
何とか一命は取り留めた。その事に安堵した。
「後、これ……」
そう言って医者が手渡して来たのは一枚の手紙だった。
「これは?」
「お父さんのポケットに入っていたんだ。この駆って、君の事かい?」
「あ、あぁ……」
「なら、これは君に渡しておくよ」
外藤は手渡された手紙を開ける。そこには、たどたどしい文字で一言だけ綴られていた。
“すまなかった”
病室。目の前で横になっている正義を見ながら、手紙を握り締めている外藤。
「意識が回復するのに数時間は掛かるだろうってさ。死に損ねたな」
「…………」
「あんたと初めて会った時、俺は世の中を知らないクソガキだった。変える切っ掛けをくれた事は感謝してるぜ」
「…………」
「まぁ、拳骨の事は今でも恨みに思っているけどな」
「…………」
「それから正美に出会わせてくれてありがとうな。俺にとって女性はあの母親だけだったから、あんなに優しくされたのは初めてだった。実はな、密かに惚れてたんだぜ。あんたに知られたら殺されると思ったから黙っていたけど」
「…………」
「それからコンビニで働かせてくれてありがとうな。俺、漸く働く事の大変さや喜びを理解出来た。お陰で自分がどれだけ酷い事をして来たのかも、理解する事が出来た」
「…………」
「だから……さ……」
涙が頬を伝う。ベッドの上に落ちて、シーツが濡れる。
「謝らないでくれよ……俺は……あんた達が家族で幸せだった……」
涙を拭い、決意を固めた外藤。正義の手紙の裏に文字を書いた。そしてそれを正義の手に握らせた。
「悪いが、今日をもって家族関係は解消させて貰う」
そう言うと外藤は病室を後にした。残された正義、手紙を握る彼の指が微かに動いた。
***
廃工場。既に使われなくなって数年が経過している。壊そうにも莫大な費用が掛かる為、結局そのまま放置状態となっている。中は当時の名残として加工前の鉄パイプや釘やネジが放置されている。
そんな人気の無い場所をナワバリとしているのが、三人の未成年不良グループ。上流階級の地位を利用して入手した違法薬物をつまみにして、今日もくだらない話で盛り上がっていた。
「それで俺は奴の顔面に蹴りを入れてやった訳」
「うわっ、お前えげつねぇー」
「将来、ろくな大人にならねぇぞぉ?」
「だから今を楽しむんだろぉ?」
「「「ぎゃははははは!!!」」」
汚ない笑い声が響き渡る中、それとは別の音が聞こえて来た。
カツン……カツン……
「あ? 何だこの音?」
それは鉄を叩く様なだった。何者かがこちらに近付いて来ていた。三人が音のする方向に視線を向けると、そこには鉄パイプを軽く地面に叩き付ける外藤の姿があった。
「テメェは、さっきのイカれ野郎じゃねぇか。何か用か、まさか御礼参りとか言うんじゃねぇだろうな」
「……そんなんじゃねぇよ。俺がこれからやるのは、只の殺戮だ」
「はぁ? お前頭おかしいんじゃねぇの?」
「まぁいいや、丁度退屈してた所だし、楽しませて貰おうかな」
そう言うと三人の内の一人が、その辺にあった鉄パイプを拾って外藤に近付く。
「そっちも武器持ってんだ。こっちも遠慮無く使わせて貰うよ」
「構わねぇ、寧ろそうして抵抗してくれる方が、こっちも罪悪感無く殺れるからな」
「そんな大口叩けるのも今の内だぞ。何たって俺達は上流階級の人間だからな」
「…………」
「へっ、ビビったか? 今更後悔したって遅いんだよ!!」
仲間の未成年不良がニヤニヤと見守る中、目の前の未成年不良が鉄パイプを大きく振り上げる。
「死ねやコラぁあああああ!!」
「オラァ!!!」
未成年不良が勢い良く振り下ろすのに対して、外藤は小さく横振りで未成年不良の顔面を吹き飛ばした。
「ぐべばぁ!!?」
「は?」
「へ?」
顔面を吹き飛ばされ、地面に勢い良く倒れる。空かさず外藤は倒れた未成年不良の頭を何度も何度も鉄パイプで殴り付けた。
「お、おい!! 止めろよ!! そんな事したら死んじゃうだろうが!!」
それでも止めず、何度も鉄パイプを振り下ろした。
「止めろって言ってんだろうが!!」
すると仲間の一人が、落ちていた鉄パイプで外藤の頭を思い切り殴り付けた。当然、外藤の頭からは血が流れ出した。
「へへっ、調子に乗りやが……って?」
しかし怯む様子は無く、そのまま持っていた血塗れの鉄パイプで、もう一人の頭を殴って転倒させた。そしてまた何度も何度も頭を殴り付けた。その様子に残ったリーダー格の男が悲鳴を上げる。
「ひ、人殺し!!」
慌てて逃げようとするが、恐怖から足がもつれて転んでしまう。必死に立ち上がろうとするが、足がすくんでしまって動けなくなってしまった。
「嫌だ、嫌だ、痛いのは嫌だ!!」
それでも何とか逃げようと、這いつくばりながら移動する。しかし向かった先には見覚えのある足があった。
「あ……」
恐る恐る見上げると、そこには血塗れの外藤が立っていた。
「ひぃ!! こ、殺さないでくれ!!」
「安心しろ、痛みは一瞬だ。すぐにあの世に送ってやるよ。俺には命を弄ぶ趣味は無いからな」
「た、頼む!! 何でも言う事聞くからさ!!」
「じゃあな」
「まっ……!!!」
そして、血塗れの鉄パイプが勢い良く振り下ろされた。
***
辺りに広がるのは三人の死体。血塗れの外藤は頭を殴られたショックと、血を流し過ぎた影響により意識が飛び掛けていた。
「(そうだ、思い出した……正美、悪いな。これが俺の答えだ)」
パトカーのサイレンが近付いて来る。やがて外に一台のパトカーが止まり、中から新人刑事と患者服を着た正義が降りて来た。
「駆!!」
「あれ……どうしてここに……」
「刑事を嘗めるな。人気の無い場所位、すぐに見当がついた。それに……俺はお前の父親だからな」
そう言って正義は、握り締められていた例の手紙を外藤に見せた。そこにはたった一言“ありがとう”と書かれていた。
「お礼を言うのは俺の方だ。お前は俺という父親を受け入れてくれた。それに俺の命まで……本当にありがとう」
「はぁ……はぁ……よせや、柄でもない事を言うなよ。それより、お前ら二人が来たって事は……」
「……あぁ、お前を逮捕しに来た……」
「はぁ……はぁ……当然だよな。俺は許されない事をしたんだ。相応の報いだ……がはぁ!!」
「駆!!」
息が荒くなったと思った次の瞬間、外藤は血を吐いた。
「どうせ逮捕されるなら、あんたに逮捕されたいと思ってた。俺という存在が生まれる切っ掛けを作った男に、俺という存在を終わらせて欲しかった」
「駆……お前……」
「すまねぇな、最後まで出来の悪い息子で……」
「何言ってるんだ、お前は最高の息子だよ」
「そうか……お世辞でも嬉しいもんだな……さぁ、早く俺の両手に銀色のアクセサリーを付けてくれ。じつはもうろくに前が見えなくなっているんだ……」
「おいおい、頭を殴られて記憶まで吹き飛んだのか。もう手錠なら掛けてるだろうが……」
そう言いながら正義は、外藤の両手を強く握り締めていた。
「そうだったか……随分と暖かい手錠だ……な……」
よく晴れた日。正義は墓の前でしゃがんで手を合わせていた。しばらくして、合わせていた手を解いた。
「よっ、久し振りだな。最近、何かと忙しくてな。中々会いに来れなくてすまなかった」
空を見上げると、綺麗な青空が広がっていた。
「あれから独り暮らしにはすっかり慣れたが、やっぱりまだお前らがいないと寂しいな」
感傷に浸っていると遠くから正義を呼ぶ声が聞こえて来る。
「先輩、そろそろ行きますよ!!」
「分かった、今行く!! それじゃあ、また来るよ」
そう言うと正義は、その場を後にした。墓石には三人の名前が刻み込まれていた。一人は奥さんである秋本正枝の名前、一人は娘である秋本正美の名前、そして最後の一人は息子である“秋本駆”の名前が刻み込まれていた。
鼻の奥深くを突き刺す様な金属臭。何処かの工場なのか。ふと、足下に目をやると不自然に折れ曲がった鉄パイプが転がっている。
いや、これじゃない。
確信があった。直感とか、何となくとか、そういう物じゃない。それは強烈な生臭さ。金属からは決して香る事の無い微生物が分解された時の吐き気を催す程の独特な臭い。
この場から、一秒でも早く離れたいという思いから一歩前へ踏み出す……と、その瞬間“ピチャリ”という、まるで水溜まりを踏みつけたかの様な音が響き渡る。が、それが水溜まりでない事は直ぐに分かった。
ぬるぬるする。地面は土じゃなくコンクリート、泥と化している訳でも無い。にも関わらず、ぬるぬるする。思わず足を上げようとすると、それは足に引っ付いて来た。どうやらある程度の粘着性を含んだ物らしい。
鉄の様な金属臭、強烈な生臭さ、そしてある程度の粘着性を含んでいる。それだけの条件が揃えば、正体は容易に想像出来た。
血だ。
それも哺乳類、肉や魚など何でも食べる人間から流れ出る血だ。でなければ、この異臭に説明が付かない。
すると、天井の壊れた隙間から淡い光が差し込む。どうやら厚い雲に覆われていた月が顔を出した様だ。月の光が辺りを包んでいた暗闇を消す。そこに広がっていたのは……死体だった。
死体は全部で三体、共通として顔の原型が分からなくなるまで余すこと無く殴られており、その残酷さが窺えた。中には微かに息をしている者もいるが、出血の量からもう間も無く命の灯火が消えるのは間違いない。
そんな死体の中心に男は立っていた。全身傷だらけ、拳は殴り過ぎて皮膚が裂けて血塗れになっており、中の骨が飛び出しヒビが入っている。よく見ればまだ若い。年齢的に高校生だろうか。虚ろな目で遠くを見つめ、息を切らしている。
遠くの方からサイレン音が聞こえて来る。時間が経つに連れて音が大きくなっていく事から、こちらに向かって来ているのは明白だ。普通なら慌てふためくのだが、この男は全てを諦めたかの様に空を見上げていた。
「(俺は……俺は……)」
人を殺めたという気の動転からか、記憶が混濁している。否、意識はハッキリしており、自分が何をしたのか確りと覚えている。
何故、この様な出来事が起こってしまったのか。その全てを語る前にまずは“彼”について説明しなければならない。そう、始まりは今日みたいに月が綺麗に輝く夜の日の事だった。
***
人気の無い寂れたアパート。吹きさらしの木造階段にはカビが生え、殆ど腐りきっていた。その一室、壁にはヒビが入っており、隙間風は勿論、隣からの騒音は日常茶飯事。そんな劣悪な環境の中、赤ん坊の産声が響き渡る。俺事、“外藤駆”の誕生だ。
生まれたばかりの俺に対して、母親が最初に放った言葉は『うるさい』だった。俺の口に自らの乳房を突っ込んで無理矢理黙らせた。上手く呼吸が出来ない赤子の口を無理矢理塞ぐなんて、何とも優しい母親だと思う。お陰で何回気絶したのか覚えていない。
因みに父親はいない。物心付いた時には既にいなかった。母親はよく酒の肴として俺に聞かせてくれた。
「『お前の父親はクズ野郎よ。付けろって言ったのに付けずにやって、それで子が出来たらポイ捨て。手切れ金を酒に使って堕ろす金が無くなったから仕方なく生んだけど、金と手間しか掛からない。本当にお前は疫病神だよ!!』」
最初こそ父親の愚痴を垂れるが、最終的な矛先は俺に向けられた。悪口や軽蔑位ならどうってことない。だが、機嫌が悪い時は殴られたり蹴られたりした。
そんな母親だ、飯なんてまともにくれた事なんかない。いつも食べ残した物を食べたり、ごみ捨て場の物を食べているが、運が悪いと何日も食べられない時がある。
そんな運の悪い日が何日も続いたある日、俺は運命の出会いを果たした。いつもの様にゴミを漁っていた俺の横を一人の女性が通り過ぎた。ふわっと香る甘い香水の匂い。なびく髪は丁寧に手入れされ、枝毛が全く無い。一目でお洒落に気を使っている事が伺えた。
そんな彼女は通り際、流し目でゴミを見て来た。しかしそれは、明らかにごみ捨て場でない方向に向けられていた。
腹が空いてイライラしてた事もあって、俺はその女の後を付けて気付かれない様、歩幅を合わせて背後から手を伸ばし、鞄に入っていた財布をスってやった。中身を抜き取り、証拠が残らない様に財布自体は質屋に売った。
この日、俺は初めて犯罪に手を染めた。しかし、不思議と罪悪感には包まれなかった。寧ろ、バレずに盗れた事による達成感と、得た金で久し振りに美味しい物を食べられた事による幸福感に包まれていた。
それからは早かった。財布をスッた次の日、ゴミ捨て場でゴミを漁る振りをしながら次のターゲットを品定めした。
狙うのは大抵年老いた老人か、力が無さそうな女性。万が一、スッている最中にバレたとしても逃げ切れるからだ。
そんな事を繰り返していたら、遂に母親にバレてしまった。普通なら警察に突き出すだろうが、俺の母親は止めるどころか助長した。
「あそこのコンビニで“万引き”して来な」
そこは近所にあるコンビニだった。60越えた独り身の老人が経営しており、あまり人気が無かった。既に犯罪を犯しているからか、俺は何の躊躇いも無く盗んだ。
パン、牛乳、お菓子、缶ビール。目についた商品を手当たり次第に盗んだ。そして何故か警報装置は鳴らなかった。後で分かったが、経営難から警報装置を取り外してしまったらしい。
お陰で毎日盗み放題だったが一ヶ月後、コンビニは瞬く間に潰れてしまった。更に数日後、ニュースで老人が自殺した事が報じられた。
流石に罪悪感を感じた俺だったが、母親はそれを聞いて大笑いしていた。
それから言われるがまま、俺は犯罪を重ねていった。小学校に上がる頃には同級生や他校からカツアゲ。中学では個人の飲食店に軽い強盗をする様になった。
しかし、そんな犯罪行為が当たり前の日常になっていたある時、度重なる酒浸りの不摂生な生活が祟ったのか、母親が倒れた。
両手で胸を抑え、顔全体にシワを寄せながら汗と涙と鼻水でぐちゃぐちゃになって助けを懇願……いや、助けろと命令してくる母親を見て、俺は鼻で笑い飛ばしてその場を去った。
これで漸く自由になれたと思った。だが、人生そう上手くは行かない様で死体から香る腐敗臭で大家が襲来。死体発見からのトントン拍子で犯行がバレて、警察のご厄介となった。
「……と、まぁこんな感じの経緯でここにいる訳だ」
そう言いながら俺は椅子の上で胡座をかきながら、目の前の“刑事”に自分の生い立ちを馬鹿丁寧に説明した。
そう、今俺は警察署にいる。母親の死を切っ掛けに、これまでの犯行が明るみとなり、警察から尋問を受けていた。
「……成る程。その若さでお前、苦労して来たんだな」
タバコを吹かしながら話を聞く刑事。よれよれのコートに何年も履き続けているであろう古ぼけた運動靴、そして剃る事を忘れた無精髭はベテランを彷彿とさせる。
と、ドアの脇に立っていたもう一人の刑事が声を上げる。
「何、感傷に浸っているんですか!? 間接的とはいえ、こいつは一人の老人を自殺に追い込んでいるんですよ!!」
ピシッとシワ一つ無いスーツ。ピカピカに磨き上げた革靴。ヘアオイルで綺麗に整えられた髪の毛。まるで絵に描いた様な新人刑事だった。
そんな新人刑事が両手で机を思い切り叩き、こちらを睨んで来た。生意気という理由で喧嘩を仕掛けて来た上級生と似た敵意だ。
「まぁまぁ、落ち着け。相手はまだ“未成年”だぞ」
「関係ありません!! 犯罪者は等しく裁かれるべきなんです!!」
怒りに震える新人を宥めようとするベテラン。しかしその言葉が火に油だったのか、より一層激しく怒りに震え始めた。
「はぁー、お前の気持ちも分かるがな。等しく裁かれる一方で、等しく“やり直す”機会も与えられるべきじゃないか? ん?」
「それは……確かにそうですけど……」
その言葉にすっかり大人しくなる新人。シュンとしながら元の位置へと戻って行った。
「それで? 俺はこれからどうなるんだ、刑事さん?」
「あぁ、お前を引き取ってくれる身内を探したんだが……残念ながら誰もいなかった」
「ふっ、だろうな」
母親があんなだ。家族との縁はとっく切れているだろうし、父親に至っては情報が無い。唯一知っていた女が死んだ今、俺みたいな問題児を引き取ろうなんて馬鹿はいない。
良くて児童保護施設行きだろうな。
「だからお前は必然的に児童保護施設に行く訳だが……」
やっぱりな。
「手続きとか色々面倒臭いから、俺の所で育てる事が決定した」
「は?」
「先輩!?」
は? こいつ、今何て言った? 俺の所で育てるだと!!?
「それじゃあ俺はこの事を上に報告して来るから、それまで……」
「ふっ、ふざけるんじゃねぇ!!」
あまりの急展開に俺は思わず椅子から立ち上がった。俺の驚き振りに対して、ベテランはキョトンとしていた。
「何だ? 何か問題あるか?」
「大有りだ!! 何で俺がてめえの所で世話されなくちゃいけねぇんだよ!!」
「そうですよ先輩!! こんな奴、少年刑務所にぶちこんじゃえば良いんですよ!!」
「何だと!!」
食って掛かる俺に便乗して新人も口を出して来た。その言葉にカチンと来て、俺は新人に詰め寄る。
「警察だからって調子こいてんじゃねぇぞ!! あぁ!!?」
「調子こいてんのはどっちだ!!? あんまり警察嘗めんじゃねぇよ!!」
一触即発。今にも殴り合いが始まりそうな雰囲気だった。そして次の瞬間……。
「ごちゃごちゃうるせぇ!!!」
「「!!?」」
ベテランのドスの効いた声が部屋中に響き渡る。今のはさすがの俺や同じ刑事である新人も肝を冷やした。
「男が一度決めた事に横から茶々いれるんじゃねぇ。どうしても文句が言いてぇなら、俺に勝ってからにしろ」
一見、簡単に勝てそうなぬぼーとした男だが、今まで修羅場を潜り抜けて来た俺には分かる。このベテラン、強い。
「そ、そんな……剣道八段、柔道黒帯の先輩に勝てる人なんている訳ないじゃないですか……」
ほらな、やっぱり強かった。もし、何も知らずに突っ込めば、まず間違いなくヤられていたのはこっちだ。
「じゃあ大人しく黙ってろ。じゃあ俺は報告に行くからな」
「あっ、ちょ、先輩!!」
完全に武力で黙らせると席を立ち、部屋を後にしようとする。それを引き留める新人。
「そうだ、こいつが逃げない様にここで見張ってろ。いいな?」
「えっ、そんな!?」
“頼んだぞ”と、返事も待たずに出ていくベテラン。
「「…………」」
取り残された二人。ベテランが戻って来るまで終始微妙な空気が流れる事となった。
***
夕暮れ時、警察署の外でベテランと新人の二人が立っていた。近くに外藤の姿は無かった。
「……そう言う訳で、これから連れて帰るから。一人余分に作っておいてくれ。それじゃあ……」
「…………」
何処かに電話を掛けているベテラン。その様子を呆れた表情で見る新人。電話を終えたベテランに新人が声を掛ける。
「先輩、本気なんですか?」
「何がだ?」
「あの犯罪者を育てる事ですよ!!」
「大きな声を出すな。こっちは二日酔いで頭がキンキンするんだ」
「そんなの自業自得じゃないですか……って、そうじゃなくて質問に答えて下さい」
「……あぁ、本気だ。俺はあいつを家族の一員として迎え入れるつもりだ」
「そんな事して何になるんですか!?」
「あいつの側には正しく導く奴がいなかった。だから俺が手本になって、更正を促す」
「そんなの絶対無理ですよ。自分には分かります。あいつは根っからの悪人です。例えどんな施しを与えようとも、更正なんかしません。本質が悪なんですよ」
「…………」
タバコに火を付けるベテラン。夕焼けを背景に口から細い煙を吐き出す。
「……刑事って、不思議な職業だよな」
「え?」
「犯人を地獄の形相で追い詰める一方で、仏の様に市民の安全を守る。正に表と裏の両方を持ち合わせてると思わないか?」
「それが何だって言うんですか……」
「いやな、確かにお前の言う通りあいつは許されない罪を犯したかもしれねぇ。けどよ、元を辿ればあいつも俺達が守るべき市民の一人だったんだ」
「…………」
「だけど俺達は守れなかった。暗い鳥籠にいるあいつを……」
「だから今度は守りたいって……そう言いたいんですか?」
「……まぁな」
「そんなの綺麗事ですよ。例えどんなに理由があろうと、犯罪を犯している時点で情けなんか不要です!!」
「それが正しいのかもしれない。だからよ……」
ベテランが新人の肩に手を置く。
「お前はそのまま自分の信念を貫け」
「先輩……」
「悪いが俺は“仲間外れ”だからよ」
染々と語る中、警察署から一人の警察官が外藤を連れて来た。
「ご苦労様、ほら行くぞ。付いて来い」
「はぁ? 誰が大人しく付いて行くかよ」
「何だ、手でも繋いで欲しいのか?」
「子供扱いしてんじゃねぇ!!」
「なら、黙って車に乗れ。これ以上駄々をこねるのなら、素敵な“アクセサリー”を着けてやるぞ」
そう言いながらベテランは、ポケットから鎖の付いた銀色の二つのわっかを見せびらかした。
「ぐっ……分かったよ」
俺は渋々、助手席に乗り込んだ。
「偉いぞ。そんじゃあ、後はよろしく」
「せ、先輩!!」
ベテランは運転席に乗り込み、足早に警察署を後にした。残された新人は呆然と走り去って行く車を見つめるのであった。
***
「「…………」」
走行中。二人の間に無言の空気が流れていた。一人は不満そうに外を眺め、もう一人はご機嫌な様子だった。
「……どういうつもりだよ」
沈黙に耐え兼ねて、俺はベテランに声を掛ける。
「んー、何がだ?」
「どうして俺を引き取ったんだ!!」
「だから言っただろう。お前を更正させる為だ」
「はっ、更正なんかしねぇよ。俺は間違った事はしてねぇからな」
「いや、させて見せる。俺がそう決めたからな」
「くたばれ、このイカれ野郎」
「あっ、そうだ。忘れる所だった」
「なん……いっ!!?」
ふと思い出した様に次の瞬間、ベテランは運転しながら片手で外藤の頭に、げんこつを食らわせた。
「いってぇええええええ!!!?」
「これはこれまで重ねて来た悪事の分。そしてこれが……」
両手で頭を抑える外藤に更なるげんこつの追撃を食らわせるベテラン。
「ぐわぁああああああ!!!」
「自殺に追い込んだじいさんの分だ。あの人の苦しみはこんなもんじゃねぇぞ」
「て、てめぇ……刑事が暴力を振るっても良いのかよ!!? 訴えるぞ!!」
「残念ながら、今日の業務は既に終了している。つまり今の俺は刑事じゃない、悪さをしでかした息子を叱る只の“親父”だ」
「誰が誰の親父だって!!? 俺は認めねぇぞ!! 第一、親父なら子供に手を上げんなよ!!」
「悪いが俺は昔ながらの人間でね。まどろっこしい説教は嫌いなんだよ」
「時代錯誤もいいところだ!! 絶対に訴えてやるかな!!」
「ほぉ、それはつまり俺の事を親父と認めるんだな。いやぁ、嬉しいねー」
「はぁ!!? そんな訳がねぇだろう!! 誰が認めるかよ!!」
「じゃあ大人しくしているんだな」
「……納得いかねぇ……」
訴えれば親父と認める事になってしまう。それだけは避けたい。そうして外藤は上手く丸め込まれてしまった。
「あっ、それと……」
するとベテランは、本日三回目のげんこつを食らわせた。
「な、何で殴るんだよ!!?」
「さっき“くたばれ”って言った分だ。いいか、家族には口が裂けても“死ね”とか“くたばれ”なんて言葉を使うんじゃねぇ。分かったか?」
「うるせぇ!! くた……っ!!」
と、言い掛けた所で止まった。さすがに、げんこつの構えを取っている相手に言う勇気は無い。
「ん?」
「くた……くたくただ。今日一日疲れたから……」
「そうか、もうすぐ家に着くからな」
「家……ね……」
警察署から数十分。いつの間にか住宅街に入っており、いくつかの家を通り過ぎた所で車が、とある一軒家の前で止まった。
「ほら、着いたぞ。ここがお前の新しい家だ」
「…………」
これといった感想は無い。特別豪華でも、特別綺麗でも無い。何とも言えない一軒家。広くも狭くも無い庭付き。だが……。
「まぁまぁだな」
だが、今まで暮らしていたアパートと比べると、凄く良く見えた。
車から降りるとベテランが鍵を差し込み、ドアノブを回す。
「帰ったぞ」
「お帰りなさい!!」
ベテランの声に反応して、綺麗な声が響き渡る。廊下の奥から姿を現したのは、一人の女の子だった。
見た目から俺より年上。高校生だろうか。
「あっ、もしかしてその子がさっき電話で話していた?」
「あぁ、そうだ。外藤駆、今日から家族の一員だ。駆、こいつは“秋本正美”。俺の可愛い一人娘だ」
「初めまして秋本正美です。今日からよろしくね」
「う、うっす」
綺麗な顔立ちに明るい笑顔。母親以外の女の顔をまともに見た事が無かった俺は、急に照れくさくなってしまった。
「因みに俺は“秋本正義”って……」
「興味ねぇ」
ぶちん、という幻聴が聞こえたかと思うと正義は外藤の頭にヘッドロックを食らわしていた。
「いだだだだだだだ!!?」
「例え興味が無くても、人の話は最後まで聞けよな~!!」
「ちょ、お父さん!!」
正美の手助けもあり、何とかヘッドロックから解放された。俺が締め付けられた頭を抑えていると、先に玄関を上がった正義に声を掛けられる。
「ほら、何ボーッと突っ立っているんだ。上がれ」
「……お邪魔します……」
「ちょっと待った!!」
玄関から上がろうとするが、直前で止められた。
「こ、今度は何だよ!!?」
「“お邪魔します”? 違うだろ、今日からここはお前の家なんだ。家に帰ったら何て言うんだ?」
「…………」
正美の方に視線を向けると、何も言わずに頷いた。
「……た、ただいま……」
「「おかえり」」
***
「今日の晩御飯は唐揚げだよ」
リビングの食卓に並べられた山盛りの唐揚げを中心に、三人分の食器が並べられていた。
「おぉ、これは旨そうだな」
「でしょでしょ。今日は駆君が家族になった記念日。いつもより張り切って作ったんだ」
席に付く二人をドアの前で眺める外藤。中々席に付かない外藤に気が付き、正美が手招きをする。
「ん? 何突っ立っているんだ。早く席に付け、せっかくの唐揚げが冷めるぞ」
「お、おぉ……」
正義に言われ、漸く席に付いた。目の前に広がる暖かな食事に思わず唾を飲み込んだ。そういえば捕まってから、何も口にしていなかった事を思い出した。
「それじゃあ、手を合わせていただきます」
「いただきます」
「い、いただきます……」
見よう見まねで手を合わせた。二人が山盛りの唐揚げに手を付ける中、どうして良いか分からず硬直する外藤。
「どうした、食べないのか?」
「ほ、本当に食べて良いのかよ?」
「当たり前だろ。今日の料理はお前の為に正美が腕によりを掛けて作ったんだからな。食べなきゃ、罰が当たる」
「ふふっ、ほら食べてみて」
「…………」
促されるまま、唐揚げを口に運んだ。
「どう?」
「…………」
次の瞬間、犬が落ちたステーキにがっつく様に、次々と唐揚げに手を付けていく。
「あらあら」
「おいおい、俺達の分は残しておいてくれよな」
***
「ここが駆君の部屋だよ」
夕食後、寝室に案内された。電気を付けると、その部屋には化粧品棚や手が加えられた壁紙など、以前まで誰かが使っていた痕跡があった。
「誰か使ってたのか?」
「うん……お母さんがね」
すると正美は化粧品棚に置かれていた写真立てを手に取り、外藤に渡した。そこには若かりし頃の正義と、正美そっくりの女性、そして真ん中には幼い正美が写っていた。
「料理が得意で、怒ると恐いけど普段は優しくて最高のお母さんだったんだ。けど、数年前に事故で……」
「俺の母親とは大違いだな」
「お父さんから聞いたよ。その……厳しい人だったみたいだね」
「厳しいか……そうかもな」
「やっぱりお母さんがいないと寂しい?」
「……いや、俺は少なからず母親を恨んでいた。だから別に寂しいとかは感じないな」
「そっか……駆君は強いね。私は少し寂しいな」
「……駆……」
「え?」
「名前、呼び捨てで構わない」
「ありがとう、駆」
「…………」
改めて名前を呼ばれ、少しだけ照れくさそうに頭を掻いた。すると何かを思い付いたかの様に正美が両手を合わせる。
「そうだ、私が駆のお母さんになってあげる!!」
「はぁ!!?」
「駆はお母さんの暖かみを知らないけど、私は知ってる。なら、知ってる私が知らない駆にお母さんの暖かみを教えてあげられる」
「どうしてそうなるんだ!!?」
「ほら、思う存分に甘えて良いんだよ!!」
そう言いながら両手を広げて、ハグを求めて来た。これはさすがの駆も酷く動揺し、正美の背中を無理矢理押して部屋から追い出した。
「あっ、ちょっと!!?」
「お、俺もう寝るから!! 早く出て行ってくれ!!」
何とか正美を部屋から追い出せ、ホッと胸を撫で下ろす。その時、部屋のドアがノックされる。
恐る恐るドアを開けると、そこに立っていたのは正美……では無く正義だった。
「何だあんたか、ビックリさせるな。それで何の用だよ」
「いやな、お前に伝え忘れた事があってな……耳を貸せ」
「?」
「正美に手ぇ出したら、ぶっ殺す」
そう言うと正義は二本指で自身の両目を指差した後、外藤の両目を指差した。どうやら見てるからなと言いたいらしい。そして静かにドアを閉めた。
「……あのバカ親が……」
娘を溺愛する正義に呆れた表情を浮かべ、その日はそのまま床に付くのであった。
***
あれから俺の人生は百八十度変わった。毎日柔らかいベッドで寝て、毎日暖かな食事を取り、口喧しい男に面倒を見られ、甘えて良いんだよと迫って来る女を避ける生活を送る様になった。
中卒の俺はあの正義とかいう刑事の紹介で働く事になったんだが、それがまさかのコンビニバイトだった。あいつは偶然とか言っていたが絶対にわざとだ。口元がにやけていた。
適当にサボってやろうとも考えたが、定期的に確認して来やがる。それもご丁寧に変装してだ。あいつは本当に刑事として働いてるのか。
「いらっしゃいませー」
「おっ、今日もちゃんと働いてるな」
入店して来たのは正義だった。今日は特に変装しておらず、いつものコートを羽織っていた。そして外藤の前にサンドイッチと缶コーヒーを置いた。
「テメェ、俺にこんな仕事を押し付けておいて、自分は優雅にランチタイムか!?」
「ばぁーか、今は昼休憩だ。休む権利が俺にはある。ほら、さっさとレジ通せ。あっ、後タバコくれ。いつもの奴な」
「申し訳ございませんお客様。おタバコは番号で指名して下さい」
「は? いや、お前知ってるだろ。ほら、あれだよあれ」
「申し訳ございません。あれと仰られても対応しかねます。どうぞ、番号で指名して下さい」
「くっ、ちくしょう……めんどくせぇな……」
してやったりという表情を浮かべる外藤。カウンター裏の大量のタバコの中から、目当ての番号を必死に探す正義。
「あった!! 13番だ!!」
「はい、かしこまりました」
漸く見つけた番号を言うと、手慣れた手付きでサンドイッチ、缶コーヒー、そしてタバコをレジに通していく。
「へぇー、随分と様になって来たじゃねぇか」
「そりゃあ、毎日こき使われれば上達するわ。それなのに給料は安いし、売り上げは伸びねぇし。地獄かここは!!」
「でも、やりがいはあるだろう?」
「……ふん、やりがいはあっても儲けが少なくちゃ、意味ねぇよ!!」
愚痴をこぼしながら、通した商品をレジ袋に詰める。
「ほらよ、どうせ今日もエコバッグなんか持ってねぇんだろ」
「よく分かってる」
「ちょっとは地球に優しくしろ……ん?」
その時、目の端に捉えた。一人の男性が懐に商品を隠し、そのまま店の外に出ようとしていた。
「あっ、テメェ!!」
「!!!」
気付かれた男性は走り出した。その後を追い掛ける外藤。
「はぁはぁはぁはぁはぁ………」
「待てって言ってるだろうが!!」
「あぐぁあ!!!」
幸いにも男性の足は遅く、追い付く事が出来た。外藤はその男性にドロップキックを喰らわせ、無理矢理止めた。
「ごめんなさい!!」
「テメェ、よくも俺の店で万引きしてくれたな。殴られる覚悟はあるんだろうなぁあああああ!!!」
「ひ、ひぃ!!」
「っ!!!」
その時、外藤は目の前の万引き犯を見て、過去の自分をフラッシュバックさせた。
「……?」
「……くそっ、くそぉおおおおおお!!!」
「ひ、ひぃ!!!」
それにより一瞬だけ躊躇するも、直ぐ様振り払い、再び万引き犯を殴ろうとする。振り下ろされる拳。万引き犯に当たる直前、第三者による手の介入によって受け止められてしまう。
「なっ!!?」
それは正義だった。真っ直ぐとした目でこちらを見つめていた。
「その辺にしてやれ。後は警察の仕事だ」
「……ちぃ!!」
外藤は正義の手を振り払いながら、歯を噛み締めた。
***
「盗まれそうになったのはグラビア雑誌。どうやらレジに通すのが恥ずかしくて盗んだらしい」
事件後、事情聴取の為に再び警察署を訪れた。そこで正義から犯行の動機を聞かされた。
「大した値段じゃない……けど、盗まれれば大損害だ」
「そうだな。雑誌一冊でも店側からすれば被害は甚大だからな」
「しかも、レジに通すのが恥ずかしいなんて……そんなくだらない理由で……」
「じゃあ、生きる為だったら盗んでも良いのか?」
「!!!」
「あの時、お前が拳を躊躇したのは昔の自分を重ねちまったからなんだろ」
「違う!!」
「後悔してたんだろ。だから大人しく働き続けていた」
「違う!!」
「それが自分に出来る唯一の罪滅ぼしだと信じて」
「違うって言ってんだろう!!」
「…………」
息を切らしながら大声を張り上げる。否定すればする程、何故か胸が締め付けられた。
「まぁいい、俺は報告書を書く仕事が残ってるから、お前は先に帰ってろ」
「…………」
何も言わず、外藤は警察署を後にした。帰り道、頭に浮かぶのは万引き犯の事と自分自身の過去ばかり。
“どうあがこうが、あんたの罪は消えない。だって、私と同じ血が流れているんだからね”
「っ……」
思い詰め過ぎて、この世にいない筈の声が聞こえて来る。家に着いた所で我に返り、インターホンを押した。すると慌てた様子の正美が飛び出して来た。
「駆、大丈夫だった!? 何処も怪我してない!?」
外藤の姿を見るなり、体のあちこちをペタペタと触り出す正美。突然のボディタッチに外藤は顔全体が真っ赤に染まる。
「ちょ、いきなり何だよ!?」
あまりの恥ずかしさに堪えきれず、正美の手を慌てて払い除ける。
「お父さんから聞いたよ!! 仕事中、強盗犯に襲われたって!!」
「……あいつ、どんな伝え方したんだよ……誤解だ、実際は万引き犯を捕まえただけだ」
「本当?」
「あぁ」
「……良かったー!!」
外藤が無事だった事に安堵したのか、 その場に力無く座り込んでしまった。
「お、おい……」
「駆にもしもの事があったら、どうしようってずっと心配してたんだよ」
「…………」
「あんまり無茶な事はしないでね。これじゃあ、命がいくつあっても足りないよ」
「…………」
「さっ、中に入ってご飯でも食べよ」
家に入ろうと促す正美だが、何故か外藤はその場から動こうとしなかった。不思議に思った正美が声を掛ける。
「どうしたの?」
「俺の命だ。どう扱おうが、俺の勝手だろ」
「駆……」
「それに俺みたいな犯罪者は、死んだ方が世の中の為だ」
「もしかして、あの自殺に追い込んじゃった人の事を言ってるの?」
「……間接的とはいえ、俺は一人の人間の命を奪ったんだ。そんな奴が今ものうのうと生きてちゃいけないんだよ」
「……それじゃあ私も“同じ”だね」
「え?」
説教でも、諭される訳でも無く、まさかの共感された。予想外の言葉に呆気に取られた。
「私のお母さん、前に事故で亡くなった事は話したよね。実はその前日、些細な事で大喧嘩しちゃったの。それでつい心にも無い事を言っちゃった……“死んじゃえ”って」
「!!!」
「そしたら次の日、本当に死んじゃった。だからね、私がお母さんを殺したの」
「それは違うだろ!! 正美が直接殺った訳じゃ……」
「事故が起こった原因。お母さん、何か思い詰めた表情で飛び出したんだって……」
「ま、まさか……」
「そう、私との喧嘩が原因。つまり、直接的じゃないにしろ、私は“間接的”にお母さんを殺した事になる」
「…………」
「今の駆、あの時の私みたい。悩んで、思い詰めて、もう自分の命なんかどうでもいいってそんな感じ」
「正美……」
「罪を償おうと自殺しようと思ったそんな時、お父さんが言ってくれた」
『罪から逃げるのは簡単だ。だが、本当に償いたいと思う気持ちがあるのなら、逃げずに真正面から向き合え。そして生き続けるんだ。許す許さないの問題じゃない。死んだ者が送れなかった人生を最後まで送るんだ。何故ならお前の人生は、もうお前だけの人生じゃないんだからな』
「……って、その言葉を聞いてから私は決心した。私は生きる、お母さんが送る筈だった人生を背負って。だから駆も死んだ方が世の中の為なんて、そんな“無責任”な事言わないで」
「……わ、分かった……もう言わない……」
「それを聞いて安心した。さっ、一緒にご飯食べよ」
「……うん」
そして二人は静かに家に入った。何も変わっていない。でも何か変わった。そう自分の中の何かを感じる外藤だった。
***
あれから数ヶ月が経過した。俺は変わらぬ日常を過ごしていた。相変わらず口喧しい男に面倒を見られ、いちいち甘えて良いんだよと迫ってくる女を避ける、そんな毎日。でも、最近はそんな毎日が楽しく感じていた。
「いらっしゃいませー」
「よっ、今日も張り切ってんな」
いつもの様に働いていると、見慣れた無精髭男がやって来た。
「ほい、タバコ」
俺は注文を受ける前に、いつもの奴を棚から取り出し、カウンターに置いた。
「おっ、話が早いじゃねぇか。どうした? 何だか最近、やる気に満ち溢れてるじゃねぇか」
「別に何でもねぇよ」
「もしかして、どっかの素敵な刑事の素晴らしいお言葉を聞いたからかな~?」
「げっ、知ってたのかよ。そんなんじゃねぇよ。只、いつまでもお前の言いなりなのは癪だから、まずはこのコンビニの店長まで昇格して、そこから全国的に事業を拡大させようと思ってな」
「ほう、それはそれはご立派な考えで……所でもうすぐ上がりだろ、車で一緒に帰るぞ」
「おい、仕事はどうした? まだ勤務時間の筈だぞ」
「バックレる。俺は刑事の中で“仲間外れ”だからな」
「何だそりゃ」
「いいから一緒に帰るぞ。表で待ってるからな、もし一人で帰ったりしたらどうなるか分かってるだろうな?」
最後に脅しを掛けて去っていく正義。
「あれで本当に刑事かよ。たくっ、しょうがねぇな……」
何だかんだ言いつつも、一緒に帰ってあげる外藤であった。
***
「ただいまーって、正美まだ帰ってないみたいだな」
玄関に靴が無いのを見て、まだ帰っていない事を確信した。
「は? それじゃあ今日の晩御飯どうするんだよ?」
「心配しなくても、もうすぐ帰って来る筈だ。多分買い物だろ」
「はぁー、正美の奴、早く帰って来ないかなー」
「正美の奴? お前ら、随分と仲が良いみたいだなぁ~?」
「えっ、あっ、いやそれはあれだよ……歳が近いから話が合って……」
「前にも忠告したが、いくら家族であろうと正美に手を出したら、俺が許さないからな」
「わ、分かってるよ!! そ、それより正美が帰って来るまで暇だから、ゲームでもしてようぜ!!」
「……ふん、まぁいいか……」
ホッと胸を撫で下ろす外藤。
***
夕暮れ時、帰路へ着く正美。その手には買い物バッグとスーパーの袋が握られていた。
「遅くなっちゃった。早く帰って晩御飯作らないと。駆とお父さん、きっとお腹空かせてるだろうな」
お腹を空かせている二人を想像しながら、家へと急ぐ正美。そんな彼女を路地裏から見つめる三人の影。
「「「へっへっへっ……」」」
***
「…………」
「…………」
カチコチ、カチコチと時計の音だけが響き渡る。時刻は夜中の十時を回っていた。
「さすがに遅過ぎる」
「落ち着け、ちょっと買い物に手間取っているだけかもしれないだろ」
「そんな長い買い物聞いた事が無いわ!! 何かあったのかもしれねぇ!!」
「冷静になれ、もしかしたら道に迷ってるだけかもしれないだろう」
外に飛び出そうとする外藤を止める正義。
「だとしたら携帯から電話が掛かって来るだろうが!! 早く探しに行こう!!」
「携帯の充電が切れてるだけかも……」
「あんたは娘が心配じゃないのかよ!!?」
怒りに任せて正義の胸ぐらに掴み掛かった。
「心配に決まってんだろ!! たった一人の娘なんだぞ!!」
正義の怒りに圧倒され、掴んでいた胸ぐらを離した。
「だが、闇雲に探しても見つからない」
「刑事なんだろ、今こそ権力を行使する時だろ!?」
「正美が姿を消してたった数時間、それじゃあ取り扱いすらしねぇよ」
「だけど、このまま何もしないなんて……」
「誰が何もしないって言った。既に俺の部下何人かに捜索して貰っている。俺達はその連絡を黙って待ってれば良いんだ」
「そうだとしても、やっぱりじっと何かしてられねぇ!!」
「あっ、おい!!」
正義の制止を振り切り、外藤は外へと飛び出した。
「正美!! 何処だ!! 正美!!」
外藤による必死の捜索も虚しく、その日に正美が見つかる事は無かった。正美が見つかったのはそれから三日後の事だった。
***
河川敷の橋の下。警察数人が周りを取り囲み、黄色いテープで関係者以外通れない様にしていた。現場保存を行っている中、一台の車が橋の上で止まる。中から正義と外藤の二人が慌てて降りて来る。
橋の下には見慣れた顔がいた。いつぞやの新人刑事だった。現場に入ろうとする正義を制止する。
「先輩、止まって下さい!!」
「退け!! この目で確かめるまで俺は信じない!!」
「今、鑑識が調べてる最中なんです。せめてそれが終わってから……」
「そんな待てるか!!」
「あっ、先輩!!」
無理矢理新人刑事を退かし、黄色いテープを潜った。
「正美!!」
そこにいたのは変わり果てた姿の正美だった。衣服は引き裂かれ、ほぼ裸の状態。何度も殴られたのだろう、可愛かった顔にはあおたんが痛々しく刻み込まれていた。
そして何より、これまで感じていたあの優しい暖かみが、何も感じられなかった。
「そんな……正美……ぁああああああああああああああ!!!」
目の前に広がる非常な現実を受け入れられず、正美の亡骸にすがり付いて泣き始める正義。
「…………」
俺はそんな様子を呆然と眺める事しか出来なかった。
***
意外にも犯人はすぐ見つかった。鬼と化した刑事に掛かれば、造作もない事だった。しかし、問題はここからだった。犯人は三人グループなのだが、全員未成年だった。
勿論、未成年だからといって許される訳が無い。俺達は必死に抗議した。だが、悪い事は続いた。
何とそいつらは上流階級の血族だった。結局事件は公にされる事無く、少ない示談金であっさりと幕を引いてしまった。
「……ただいま」
仕事を終え、家に帰宅した。以前とは悪い意味で様変わりしていた。部屋は薄暗く、そこら中にゴミが散乱し、洗われていない食器が溜まっており、水も出しっぱなしになっていた。
蛇口を捻って水を止め、リビングに目をやると、そこには酒に酔い潰れた正義の姿があった。寝ていても酒瓶だけは手離していない程であった。
「また飲んでたのか、最近飲み過ぎじゃないか」
「うるせー、俺の勝手だろうがよ……」
「そんな情けない姿、正美が見たら何て言うか……」
「正美の話はするんじゃねぇ!!」
持っていた酒瓶を外藤に向かって投げ付ける。しかし、泥酔状態だった事もあり、真横を通り過ぎた。
「やれる事は全部やった。それでもあいつらを裁く事は出来なかった。刑事失格だよ、俺は……」
「…………」
「……へへっ、これも因果なのかもな」
「どういう意味だ?」
「前に俺は刑事の仲間外れだって言ったよな。それはな、過去に“人を殺めた”事があるからだ」
「何だと!!?」
「お前位の頃、当時の俺は毎日喧嘩に明け暮れていた。ある日、隣町の不良と喧嘩した。死闘の末、俺は相手を殺しちまったんだ」
「そんな事が……」
「けど、俺は逮捕されなかった。未成年だった事と、当時世話になった刑事のお陰でな。その時言われたのさ、“罪から逃げるのは簡単だ。だが、本当に償いたいと思う気持ちがあるのなら、逃げずに真正面から向き合え。そして生き続けるんだ。許す許さないの問題じゃない。死んだ者が送れなかった人生を最後まで送るんだ。何故ならお前の人生は、もうお前だけの人生じゃないんだからな”ってな」
「その言葉……!!」
「あぁ、その人からの請け負いだったのさ。だから俺は刑事になった、今後俺みたいな奴を見つけたら、俺がされた時の様に導いてやろうって……」
「…………」
「けど、結局その罪の因果は巡り巡って、正美に降り掛かった。俺にでは無く、正美にだ。あの子は何にも悪くないのに……正美……うぅ……すまねぇ……すまねぇ……」
これ以上、こいつの哀れな姿を見るのは堪えられなかった。俺は夕食しに外へと出掛けた。
外はすっかり日が陰り、少し肌寒かった。
「正美……」
確かに正美の死は悲しいし、殺した奴らの事は憎い。だが、あいつらに復讐する事が本当に正しい事なのか分からない。そのせいで自分達が罪になったら、元も子もない。
それに復讐する事自体、正美が望んでいるのだろうか。もしかしたら前を向いて歩いて欲しいと望んでいるかもしれない。こんな事なら、生前に聞いておくべきだったか。
そんな笑えない冗談を考えてしまう程、俺の精神は追い詰められているのかもしれない。
近くのコンビニに寄ると、入口付近で屯している若者達がいた。周りの目も気にせず、大声でバカ騒ぎしていた。普通ならこういう時は見てみぬ振りをする物だが、俺はそれが出来なかった。何故なら……。
「まさかこんな所で会えるとはな、糞野郎ども」
「あ?」
そいつらは正美を殺したあの三人組だったからだ。こうして堂々と迷惑行為を働く辺り、まるで反省の色が見られない。俺は思わず三人に声を掛けた。
「誰だよ」
因みにこいつらとは初対面だ。俺が知っていたのは、取調室のマジックミラー越しに顔を見ていたからだ。
「秋本正美の家族って言えば分かるか?」
「秋本正美? 誰だそれ?」
「何だと……お前らに殺された女だよ!!」
「んー、お前ら覚えてるか?」
「じぇーんじぇん、過去の女は覚えない派だから」
「ふぅー、カッコいい!!」
「つー訳で、悪いんだけど記憶にございませーん。どっか行けよ」
「テメェら……!!」
我慢の限界だった。もう正美の仇とかどうでも良かった。こんな奴らを目の前にして、黙って去る事が出来なかった。
「このぉ!!!」
「がぁ!!?」
顔面にキツイ一発をお見舞いしてやった。リーダー格の男が鼻血を出しながら尻餅を付いた。
「この野郎!!」
「ふざけやがって!!」
「うぐっ!!」
仲間が殴られ、逆上した残りの二人に襲われた。一対一なら何とかなったが、さすがに多勢に無勢で俺は腹を殴られ、痛みと気持ち悪さからその場に崩れ落ちた。
「はぁはぁ、こいつ嘗めた真似しやがって!! おら!! 死ね!! 死ね!!」
最後は殴ったリーダー格に背中や横腹を蹴られた。結局、俺は何も出来なかった。仇も、一矢報いる事も出来なかった。
「たくっ、何なんだよこいつ……」
「もうほっとこうぜ。それより早くいつものとこに行こうぜ」
「またあの廃工場かよ。あそこ人気ないけど汚ないんだよなぁ」
散々殴り倒した後、三人は何処かに行ってしまった。俺はボロボロの体を引きずりながら家に帰った。
***
「ただいま……」
正直、この状態で家に帰るのには抵抗があった。まず間違いなく理由を聞かれるだろう。しかも相手はベテラン刑事、下手な嘘はすぐにバレる。だが、正直に言えばどうなるか分からない。取り敢えず今夜はなるべく会わない様にしよう。
「……ん? 何だ、何の音だ?」
その時、リビングから妙な音が聞こえて来た。まるで風船の空気が抜ける様な音。恐る恐るドアを開けた。するとそこにはぐったりした正義の姿があった。酔い潰れたのではない。顔面蒼白で、生気が宿っていなかった。
「おい、嘘だっ……!!?」
部屋に入った瞬間、めまいと吐き気に襲われた。原因を探ろうと辺りを見回すと、台所のガスコンロからガスが漏れていた。
「くそっ!!」
急いでガス栓を閉め、窓を全開にした。一旦、外の新鮮な空気を取り込んだ。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
それから大きく息を吸い込み、再び部屋の中へと入り、ぐったりしている正義を外に出した。しかし、既に息はしていなかった。
「おい!! 確りしろよ!!」
必死に揺さぶるが反応は無かった。救急車を呼ぼうにも部屋の中は、まだ一酸化炭素に包まれている。携帯電話はもっていない。残された行動はたった一つだった。
「誰か救急車、誰か救急車を呼んでくれ!! こいつ……“親父”を!! 親父を助けてくれ!!」
初めて親父と呼んだ。しかし、今の彼に気にしている余裕は無かった。一秒でも早く正義を……親父を助けたかった。外藤の呼び掛けにより、近所の住人が騒ぎを聞き付けて外に出て来た。
「誰か救急車を!! 親父を……俺の家族を救ってくれ!!」
外藤の悲痛な叫びが夜の住宅街に響き渡った。
***
病院。緊急搬送された正義はそのまま急いで手術室に担ぎ込まれた。助かるかどうか分からない。俺は手術が終わるのをじっと待つ事しか出来なかった。
数時間後、医者が手術室から治療を出て来た。
「お、親父は!!?」
「大丈夫です。治療は成功しました」
「あ、ありがとうございます!!」
何とか一命は取り留めた。その事に安堵した。
「後、これ……」
そう言って医者が手渡して来たのは一枚の手紙だった。
「これは?」
「お父さんのポケットに入っていたんだ。この駆って、君の事かい?」
「あ、あぁ……」
「なら、これは君に渡しておくよ」
外藤は手渡された手紙を開ける。そこには、たどたどしい文字で一言だけ綴られていた。
“すまなかった”
病室。目の前で横になっている正義を見ながら、手紙を握り締めている外藤。
「意識が回復するのに数時間は掛かるだろうってさ。死に損ねたな」
「…………」
「あんたと初めて会った時、俺は世の中を知らないクソガキだった。変える切っ掛けをくれた事は感謝してるぜ」
「…………」
「まぁ、拳骨の事は今でも恨みに思っているけどな」
「…………」
「それから正美に出会わせてくれてありがとうな。俺にとって女性はあの母親だけだったから、あんなに優しくされたのは初めてだった。実はな、密かに惚れてたんだぜ。あんたに知られたら殺されると思ったから黙っていたけど」
「…………」
「それからコンビニで働かせてくれてありがとうな。俺、漸く働く事の大変さや喜びを理解出来た。お陰で自分がどれだけ酷い事をして来たのかも、理解する事が出来た」
「…………」
「だから……さ……」
涙が頬を伝う。ベッドの上に落ちて、シーツが濡れる。
「謝らないでくれよ……俺は……あんた達が家族で幸せだった……」
涙を拭い、決意を固めた外藤。正義の手紙の裏に文字を書いた。そしてそれを正義の手に握らせた。
「悪いが、今日をもって家族関係は解消させて貰う」
そう言うと外藤は病室を後にした。残された正義、手紙を握る彼の指が微かに動いた。
***
廃工場。既に使われなくなって数年が経過している。壊そうにも莫大な費用が掛かる為、結局そのまま放置状態となっている。中は当時の名残として加工前の鉄パイプや釘やネジが放置されている。
そんな人気の無い場所をナワバリとしているのが、三人の未成年不良グループ。上流階級の地位を利用して入手した違法薬物をつまみにして、今日もくだらない話で盛り上がっていた。
「それで俺は奴の顔面に蹴りを入れてやった訳」
「うわっ、お前えげつねぇー」
「将来、ろくな大人にならねぇぞぉ?」
「だから今を楽しむんだろぉ?」
「「「ぎゃははははは!!!」」」
汚ない笑い声が響き渡る中、それとは別の音が聞こえて来た。
カツン……カツン……
「あ? 何だこの音?」
それは鉄を叩く様なだった。何者かがこちらに近付いて来ていた。三人が音のする方向に視線を向けると、そこには鉄パイプを軽く地面に叩き付ける外藤の姿があった。
「テメェは、さっきのイカれ野郎じゃねぇか。何か用か、まさか御礼参りとか言うんじゃねぇだろうな」
「……そんなんじゃねぇよ。俺がこれからやるのは、只の殺戮だ」
「はぁ? お前頭おかしいんじゃねぇの?」
「まぁいいや、丁度退屈してた所だし、楽しませて貰おうかな」
そう言うと三人の内の一人が、その辺にあった鉄パイプを拾って外藤に近付く。
「そっちも武器持ってんだ。こっちも遠慮無く使わせて貰うよ」
「構わねぇ、寧ろそうして抵抗してくれる方が、こっちも罪悪感無く殺れるからな」
「そんな大口叩けるのも今の内だぞ。何たって俺達は上流階級の人間だからな」
「…………」
「へっ、ビビったか? 今更後悔したって遅いんだよ!!」
仲間の未成年不良がニヤニヤと見守る中、目の前の未成年不良が鉄パイプを大きく振り上げる。
「死ねやコラぁあああああ!!」
「オラァ!!!」
未成年不良が勢い良く振り下ろすのに対して、外藤は小さく横振りで未成年不良の顔面を吹き飛ばした。
「ぐべばぁ!!?」
「は?」
「へ?」
顔面を吹き飛ばされ、地面に勢い良く倒れる。空かさず外藤は倒れた未成年不良の頭を何度も何度も鉄パイプで殴り付けた。
「お、おい!! 止めろよ!! そんな事したら死んじゃうだろうが!!」
それでも止めず、何度も鉄パイプを振り下ろした。
「止めろって言ってんだろうが!!」
すると仲間の一人が、落ちていた鉄パイプで外藤の頭を思い切り殴り付けた。当然、外藤の頭からは血が流れ出した。
「へへっ、調子に乗りやが……って?」
しかし怯む様子は無く、そのまま持っていた血塗れの鉄パイプで、もう一人の頭を殴って転倒させた。そしてまた何度も何度も頭を殴り付けた。その様子に残ったリーダー格の男が悲鳴を上げる。
「ひ、人殺し!!」
慌てて逃げようとするが、恐怖から足がもつれて転んでしまう。必死に立ち上がろうとするが、足がすくんでしまって動けなくなってしまった。
「嫌だ、嫌だ、痛いのは嫌だ!!」
それでも何とか逃げようと、這いつくばりながら移動する。しかし向かった先には見覚えのある足があった。
「あ……」
恐る恐る見上げると、そこには血塗れの外藤が立っていた。
「ひぃ!! こ、殺さないでくれ!!」
「安心しろ、痛みは一瞬だ。すぐにあの世に送ってやるよ。俺には命を弄ぶ趣味は無いからな」
「た、頼む!! 何でも言う事聞くからさ!!」
「じゃあな」
「まっ……!!!」
そして、血塗れの鉄パイプが勢い良く振り下ろされた。
***
辺りに広がるのは三人の死体。血塗れの外藤は頭を殴られたショックと、血を流し過ぎた影響により意識が飛び掛けていた。
「(そうだ、思い出した……正美、悪いな。これが俺の答えだ)」
パトカーのサイレンが近付いて来る。やがて外に一台のパトカーが止まり、中から新人刑事と患者服を着た正義が降りて来た。
「駆!!」
「あれ……どうしてここに……」
「刑事を嘗めるな。人気の無い場所位、すぐに見当がついた。それに……俺はお前の父親だからな」
そう言って正義は、握り締められていた例の手紙を外藤に見せた。そこにはたった一言“ありがとう”と書かれていた。
「お礼を言うのは俺の方だ。お前は俺という父親を受け入れてくれた。それに俺の命まで……本当にありがとう」
「はぁ……はぁ……よせや、柄でもない事を言うなよ。それより、お前ら二人が来たって事は……」
「……あぁ、お前を逮捕しに来た……」
「はぁ……はぁ……当然だよな。俺は許されない事をしたんだ。相応の報いだ……がはぁ!!」
「駆!!」
息が荒くなったと思った次の瞬間、外藤は血を吐いた。
「どうせ逮捕されるなら、あんたに逮捕されたいと思ってた。俺という存在が生まれる切っ掛けを作った男に、俺という存在を終わらせて欲しかった」
「駆……お前……」
「すまねぇな、最後まで出来の悪い息子で……」
「何言ってるんだ、お前は最高の息子だよ」
「そうか……お世辞でも嬉しいもんだな……さぁ、早く俺の両手に銀色のアクセサリーを付けてくれ。じつはもうろくに前が見えなくなっているんだ……」
「おいおい、頭を殴られて記憶まで吹き飛んだのか。もう手錠なら掛けてるだろうが……」
そう言いながら正義は、外藤の両手を強く握り締めていた。
「そうだったか……随分と暖かい手錠だ……な……」
よく晴れた日。正義は墓の前でしゃがんで手を合わせていた。しばらくして、合わせていた手を解いた。
「よっ、久し振りだな。最近、何かと忙しくてな。中々会いに来れなくてすまなかった」
空を見上げると、綺麗な青空が広がっていた。
「あれから独り暮らしにはすっかり慣れたが、やっぱりまだお前らがいないと寂しいな」
感傷に浸っていると遠くから正義を呼ぶ声が聞こえて来る。
「先輩、そろそろ行きますよ!!」
「分かった、今行く!! それじゃあ、また来るよ」
そう言うと正義は、その場を後にした。墓石には三人の名前が刻み込まれていた。一人は奥さんである秋本正枝の名前、一人は娘である秋本正美の名前、そして最後の一人は息子である“秋本駆”の名前が刻み込まれていた。
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