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ニホニア編 Side空
OP 12日目 ラシアの雪原
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ぼくは、目の前で燃える焚き火を見つめながら、コーヒーを啜った。
広大な雪原には、ぼく以外、誰もいなかった。
少なくとも、目に見える限りは。
空には、満点の星空。
美しいという言葉に、それ以外の単語を添えるのが冒涜と感じられるほどの景色だ。
ぼくは、コーヒーを啜った。
ほぅ……、と吐いた息は、口から出た途端に白く凍りつく。
星空は確かに美しいけれど、スライムを借りなかったのは、失敗だったかな……。
旅代をケチったツケが回ってきた。
目的地の一つであるファンランドは、ハスブルゲルという美味しいハンバーガーを出すチェーン店があることで有名らしい。
たどり着いたら、腹一杯に食べよう……。
ファンランドは物価も高く、金銭的な面においては観光客に優しくないらしいが、この世界においては非常に珍しい、二十一世紀型の文明国家らしい。
写真を見た感じだと、それを教えてくれた旅人の話にも信憑性を感じられた。
ひとまずは、この、人を殺すほどの寒さしかないラシアの雪原を抜け、サンクト・トルーツクへ行かなくてはいけない。
そこから、広大なラシアを横断するスヴィルア鉄道に乗って、サンクト・フローレンスブルクへ向かい、その後はラシアの首都マスクヴァ、その後はファンランドのハルシンキ、その後は決めていない。
この雪原には、寒さ以外にも、さまざまな危険があった。
例えば、集団で狩りをするオオカミ、1日に数千キロを駆け抜けるクマ、巨大なツノを持つ大きなシカ、全長百五十メートルを越えるバジリスク、巨大なインコ、旅人を狙う盗人。
キャンプをするときは、周囲に、ネズミやリスやアリの巣穴がないかということも確認しないといけない。
冬で良かったこともある。
夏なら、グロテスクな虫たちといった、視覚的な恐怖にも苛まれることになる。
人間は毎日七時間くらい寝ないと体調が崩れてしまうらしいが、ぼくたち魔法族は基本的に三日くらいなら寝なくても平然としていられる。
毎日仮眠を取れば、まとまった睡眠時間など、一週間に一度ほど確保出来れば十分だ。
昼間は街や村に入って、カフェや広場のベンチでうたた寝をして、夜はこうして自然の中でキャンプをするのも良い。
そうすれば、宿代も浮くし、寝ている間に猛獣に襲われて食い散らかされることもない。
ぼくは、小さく笑った。
発想が、ホームレスみたいだ。
今はどの辺りだろう……。
体感的には、とっくにラシアの首都マスクヴァにたどり着いていてもおかしくはない。
実際のところは、まだ、ニホニアの方が近いはずだ。
ハバネロフスクで出会った乗車券販売員のおにいさんに言われた通り、スヴィルア特急を選んでおけばよかった。
マスクヴァまでは2週間ほどかかるらしいが、寝泊まりする場所には困らず、最低ランクのコンパートメントにも自分用のバスルームがつくらしい。
現地の人間のアドバイスは重要な判断材料になる。
短い旅の間に得た、重要な教訓だった。
もう一週間もシャワーを浴びていない。
オレジニク先生の言っていたことは本当だった。
この世界の全ての国が、ニホニアのように、安全なわけではないのだ。
ぼくは、コーヒーを啜った。
シチューが煮立った。
ニンジンとジャガイモ、鹿肉の入った物だ。
食料の心配はない。
だが、もう、数日同じ物ばかり食べている。
栄養素の偏りが心配だし、食の娯楽が欲しくなってくる。
ぼくは、地図を広げた。
ラシアの地図だ。
星空を見上げ、星座や、年中場所が変わらないと言われる星の位置から、現在地を探る。
ひとまずの目的地であるサンクト・トルーツクは、すぐそばだった。
サンクトと聞くと、ロシアの大都市であるサンクトペテルブルグが頭に浮かぶが、サンクト・トルーツクの方は、かの都とは比べ物にならないほど、規模が小さいようだった。
明日は、サンクト・トルーツクへ向かおう。
名産品はなんだろう……。
郷土料理は美味いかな……。
美味いと良いな……。
「ふぅ……、いただきます」ぼくは、木彫りのスプーンで、ニンジンを掬い上げ、口元に運んだ。
塩胡椒やニンニクや生姜などといった調味料の具合はちょうど良い。
一週間も同じ料理ばかりしていれば、そりゃ上達もする。
それか、味覚が麻痺してきたのかもしれない。
食の刺激に飢えている今なら、雪の下にちらほらと見える、ペンキや絵の具を塗りたくったような色鮮やかなキノコも食べられるかもしれない。
最近はお酒も飲んでいない、健康的な日々を送っていた。
あのキノコを食べれば、楽しい気分になれるかも……。
そんなことを冗談めかして思いながら、ぼくは、ニンジンを噛んでいた。
ほくほくながらも、中心の方には、シャキッとした食感が残っていた。
生焼けだ。
ぼくは、小さく笑った。
こんな夕食も悪くない。
寝る前に、ちゃんと日記を書かないとな……。
こういう些細な喜びやユーモアは、旅の孤独を良い思い出に変える良質なスパイスとなってくれる。
と、そんなことを思った時のこと。
がさ……、と、背後で物音がした。
ぼくは、弾かれたように背後を見た。
星の灯だけがぼんやりと照らすその薄暗闇には、一見すると、何もいないようだった。
だが、油断は出来ない。
ニホニアを出て、ラシアの雪原を歩き始めてから一週間。
ぼくは、様々なものを見てきた。
ぼくは、スープの入った鍋を焚き火の上に乗せた。
代わりに取ったのは、刀身の細い、片刃の剣だ。
ショートソードや、ドレスソードなどと呼ばれるものだった。
両刃が主流だが、以前、片刃の方が耐久性が増す、というのを、なんかの本で読んだことを思い出したので、生成する際は、このようにした。
刃渡りは72センチ、持ち手は18センチ。
片手で扱うこともできるし、両手で扱うことも出来る。
切れ味と耐久性に重点を置いて生成した。
大樹くらいなら一振りで切り倒すことが出来る程度には優れた物に仕上がった。
この剣の優れた点はまだ幾つかあり、その一点が、ぼくの意思に呼応して、鞭のようにしなるということだった。
ぼくは、音がしたところに向けて、剣を振るった。
切っ先が宙をうねり、空気を切り裂きながら、狙ったところへと飛んでいく。
地面に突き刺さり、土を掘り下げる感触。
勘違いだったか……。
ぼくは、腰を下ろし、再び夕食に戻ろうとした。
その時だった。
視界の端、ぼくが先ほど、ドレスソードの切先を突き刺した辺りの空気が、蜃気楼のように揺らいだ。
次の瞬間、そこに現れたのは、幽霊だった。
目のところに二つの黒い穴の開けられた、白いシーツを被った幽霊。
よく見れば、少しだけ透明だ。
半透明というほどではない。
四分の一くらいの透明度だった。
ぼくは、言葉を探して、「あー……」、と唸った。「……ごめん」
幽霊は肩を竦めた。「良いよ」幽霊は首を傾げた。「夕食?」
「うん」
「隣良い?」
「良いけど……、呪ったりしないでね」
幽霊は笑った。「しないよ。人と話すの久しぶりなんだ。人を見るのも久しぶりで……」
「そっか。ここら辺から離れられないの?」
「そんなことないけど、普段は人と話すのは好きじゃないんだ。今は、ちょっと人恋しいタイミングだったから」
ぼくは笑った。「最低の口説き文句だね」
幽霊は笑った。シーツ越しだったから、よくはわからなかったけど、なんとなく、申し訳なさそうな感じだった。「良いかな」
「良いよ。ぼくも、人と話すのは1週間ぶりだ」
「良い人だね」
ぼくは鼻を鳴らした。「コーヒーは?」
「もらう」
ぼくは、新しいコーヒーカップを生み出し、そこにコナコーヒーを注いで、その上からお湯を注いだ。
幽霊は、両手でカップを持ち上げ、ズズ……、と啜った。白いシーツに、コーヒーの染みがついた。
クリーニングが必要だ。
「一人旅?」と、幽霊は言った。
「うん」ぼくは頷いた。
幽霊は、人の精神に干渉する術を持つ。
人の心の中を覗き見れる。
人の魂に触れることが出来る。
幽霊には二通りあって、一つは、文字通りの幽霊だ。
死んだ生物の霊魂。
もう一つは、半幽と呼ばれる、幽霊になる術を身につけた、火の魔法と水の魔法を組み合わせた霧の魔法と精神の魔法を扱う魔法使い。
このシーツは、恐らく後者だ。
そうでなければ、コーヒーカップを持ち上げることは出来ない。
「きみは家出? 何歳?」
「9歳」
「うわぁー」ぼくは言った。「どうしたん?」
「喧嘩したの」
ぼくは頷いた。「そか」
「おにいちゃんは?」
「え?」ぼくは、周囲を見渡した。誰もいない。おにいちゃん、って言うのは、ぼくのことを指していたみたいだ。そこで気がついた。この子には、ぼくの姿が、ぼくの心の姿となって移っているのかもしれない。精神の魔法を扱う魔法使いなら、そう言うことも可能だ。「あぁ、旅行中」
「何歳?」
「15」
「そうなんだ」幽霊はコーヒーを啜った。
「名前は?」
「ピーナッツバター」
ぼくは笑った。
幽霊はぼくを見た。
シーツ越しだからよくはわからないが、なんだかムッとしているようだった。
「ごめんごめん。ぼくはスカイラー」ぼくは、旅行の間使っている偽名を名乗りながら、幽霊に右手を差し出した。
幽霊は、ぼくの右手を見て、その手をシーツ越しに握り返した。
しっとりと、冷たい手だった。
「よろしく。ピーナッツバター」
「よろしく。スカイラー。ぼく、半魔なんだ。変だよね」
「そうなんだ。普通じゃない? ぼくの世界には、普通にゴロゴロいるし」
半魔とは、脆弱な魔力を持つ魔法使いだった。
ぼくのような純魔ほどではないが、その肉体は人間の限界を超えるレベルで強靭なものだった。
扱う魔法は、スプーン曲げよりは遥かにマシだったが、それでも、日常生活を少しばかり便利にする程度の力しかない。
魔法族の中では最も人口が多く、ありふれた者たちだった。
もっとも、それはぼくの生まれ育った世界での話で、純魔ばかりがいるこの世界においては、確かに珍しい少数派で、マイノリティに属する人たちという気がする。
ちなみに、ぼくのような純魔は、ぼくの生まれ育った地球においては魔法族の総人口七億人の中の五パーセントに満たない少数派だった。
この世界においては、恐らくパーセンテージは逆転しているんじゃないだろうか。
純魔は、魔力の面においては力を持つ者たちであるために、少数派でも問題ないが、半魔はその逆なので、このハロウィン当日のスーパーのジャム・ピーナッツバターコーナーの棚から抜け出してきたようなピーナッツバターの心情も、なんとなくわかる気がする。
「スカイラーは、純魔でしょ? 良いなー、ぼくも純魔だったら、いじめられないのに」
「いじめられてんの?」
ピーナッツバターは、俯きながら頷いた。「半魔だから……、半人前で、ご飯の無駄だって……」
気にしなければ良いのに……、と思ったが、九歳なら、そんなこと出来るはずもない。
「ぼくだって、薪割りとかして頑張ってるのに……、そりゃ、誰にでも出来る仕事だし、ぼくが一時間で割れる量なんて、連中にとっちゃ指の一振りで作れるもんだってことはわかってるけどさ……」
ぼくは、器を生み出して、ピーナッツバターの前に置き、そこにスープをよそった。
「……いいよ。この姿だったらお腹空かないし」
「食べなよ。良いから」
「……ありがと」ピーナッツバターは、シーツをめくり、スプーンを使って、口元に、スープを運んだ。
口元の感じから、年齢は、確かに九歳くらいだということがわかった。
他にわかった事といえば、どうやら、ピーナッツバターは、女の子のようだった。
そうでなければ相当の美少年だ。
「こんな真夜中に、一人でいちゃダメだよ」ぼくは言った。
「スカイラーだって」
「ぼくは良いの」
「なんで?」
ぼくは首を傾げた。
自分でもわからない。「ぼくは強いから。ぼくは話し相手が出来て嬉しいけど、よく知りもしない人に話しかけるのも危ないよ」
「良い人だってわかったから話しかけたの」
「危ないよ」
ピーナッツバターは、考えるように宙を見上げて、三秒ほどしてから頷いた。「いきなり刺されてびっくりした」
「ごめん」
ぼくは、その時、思い出した。
幽霊である彼女の目に、ぼくの姿はどのように映っているのだろう。
「なんで、良い人だって思ったの? ぼくのことがどういう風に見えた? 精神の魔法を使える人って、そのものの心のありのままの姿が見えるんだろ?」
ピーナッツバターは、スープを啜りながら、首を傾げた。
「美味しくなかった?」
「美味しいよ。ありがとう。あまり食べないんだ。ぼく」
「もっとたくさん食べて、大きくならないと」ぼくは、ピーナッツバターの器に、おかわりをよそった。「小さいままな上に、自信ない感じでうじうじしてたら、本当に」お荷物になっちゃうよ……、と言いかけて、ぼくは口をつぐんだ。そういう言葉は、ピーナッツバターの心を傷つけ、閉ざしてしまうだけだ。「君は良いところをたくさん持ってる。小さいけど、強さだって持ってる」
「スカイラーだって、大きくないくせに、なんで強いの?」
「ぼくはもう成長が止まってるし、君より年上だからね。それに、最近旅続きで、空腹に慣れちゃった。初めは辛かったけど、今はあんまり感じない」
「ありがと」ピーナッツバターは、二杯目のスープを啜った。「不安なの?」
「何が?」
「自分が善人じゃなかったらどうしようって」
ぼくは、頷いた。「それは、そうだけど、それが全部ってわけじゃない。自分が善人か善人じゃないかなんて、気にしたことない。人を傷つけるのは、人から傷つけられた時だけ」
「強さに憧れてるね」
「誰でもそうだろ?」
「強さを知らない人はね」
「きみは知ってるの?」
「知ってるよ。ぼくは強くないけどね。でも、人の心を見ていると、強い人がどんな人かって言うのがなんとなくわかる」ピーナッツバターは頷いた。「ぼくにとっては、スカイラーは良い人だし、強くて優しいよ。わからないのは、どうして一人でいることを望むのか」
「巡り合わせが悪かったんだろうね。友達は数人しかいないし、それで十分。友達以外は、どいつもこいつも、ぼくにとってはクソ野郎だった」ぼくは首を横に振った。「小さい頃から、自分が周囲から浮いていないか、そればっかり気にしてた。でも、一人でいれば気にせずに済む。ここに来る前に、ぼくを食べようとした大きな蛇を殺したんだ。物凄く大きくて、ぼくのことを丸呑み出来そうな奴だった。そいつを殺した時、達成感と、力を感じられた。ああ、ぼくは能無しじゃないんだ。自分で自分の身を守れるんだ、って。安心出来た。ぼくが周囲の目を気にしてたのは、周囲に依存してるからじゃないんだって。自分を見られるのが嫌だからなんだって」
「どうして?」
「ぼく、体が女なんだ」
「そうなんだ」ピーナッツバターは、ぼくの胸をマジマジと見た。「言われて見ればそうだね。おっぱい小さいね。ぼくの方が大きいかも」
「人のおっぱいをジロジロ見るんじゃありません」ぼくは、拳を握りしめて、ピーナッツバターのこめかみをぐりぐりした。
ピーナッツバターは笑った。「どっちも嫌なんじゃない? 男でいるのも女でいるのも」
ぼくは、首を傾げた。
その時気づいた。
女として生きるのは好きじゃない。
スカートを履いて街を歩くだけで、気持ちの悪い視線を向けられる。
だから、男っぽい格好をするようになった。
でも、男になりたいと思ったことはなかった。
ただ、女として生きる上での弊害を受け入れたくなかっただけなのだ。
だって、おかしいじゃないか。
ぼくは確かに、見た目は可愛い女の子だけれど、どうして、それだけで、あんな目を向けられなくてはいけないのか。
将来股の間に移植をするのも良いかもしれない……、とも思っていたが、あんな物を体に縫い付けたいかと言われると、微妙だし、あんな物が股の間でぶらぶらしているのを想像すると、すぅ……、っと、食欲が消えていく。
だってキモいし。
「気にしなけりゃ良いんじゃないかな。スカイラーが女でも男でも、ぼくは気にしないし、あとは、スカイラーが気にしないでいられれば、多分、もっと自由に、気軽にいられるんじゃない?」
ぼくは、小さく笑った。「きみ何歳?」
「九歳。霧の魔法を使ってると、普段以上に精神の魔法が研ぎ澄まされて、人の気持ちとか考えてることとか、心の形とか色がわかっちゃうんだ。だから病む」
「ぼくの心はどんな色?」
「マーブルみたい。場所によって違う。表面は白く光ってるけど、中は灰色でくすんでる。心の真ん中には、黒い点と白い点が光ってる」
ぼくは頷いた。「ピーナッツバター」
「なに?」
「ぼく、あっちの世界から来たんだ」
「あっちの世界?」
この子はまだ、知らないみたいだ。
それもそうだろう。
九歳なら、自分の住んでいる街が、世界の全てだと思っていても、おかしくない年だ。
こっちの世界では、どう言った学校教育がなされているのかわからないが、この一週間だけでも、この世界に存在する教育格差は十分に見ることが出来た。
ぼくは、頷き、コーヒーを啜った。「そう。あっちの世界。空は飛べる?」
「うん」
「そっか。この空のね、ぐーんと上がったところをよく探すと、ドアがあるんだ。その向こうには、ぼくのいた世界がある。並行世界っていってね、なんだろ、あるんだよ、そういうの、わかるかな。パラレルワールド的な、聞いたことある?」
「わかんない。ない」
「ぼくもわかんない。量子力学だっけな……、どう説明すればいいのか。とにかく、ぼくのいた世界にはね、ピーナッツバターみたいな半魔がゴロゴロいて、ぼくのような純魔の方が珍しいんだ。あっちに行けば、多分、ピーナッツバターも悩まないで済むんじゃないかな」
「それって、天国? 死んだ後の世界? スカイラーは生き返ったの? 生まれ変わった?」
「違う違う。死んだことはないよ。ただ、あるんだよ。そういうの」
「行きたいなー」
「ぼくは、この世界で一年くらい過ごすんだ。そしたら、あっちに帰る。一緒に行く?」
「パパとママに聞いてみる」
「うん。明日、一緒に、きみの村へ行こう。ぼくは明日、トルーツクに行くんだけど、きみは?」
「ぼくもトルーツク」
ぼくは、コーヒーを啜った。「きみの街って、ホテルある?」
「ホテル?」
「宿屋」
「あるよ。ボロいけど」
ぼくは頷いた。
明日は、久々にシャワーを浴びられそうだ。
そのとき。
がさっ、と、背後で物音がした。
木の枝の折れる音、大木がちぎれ、倒れ込む音。
地面が震える。
ぼくは、ショートソードを持って、立ち上がった。
これは、間違いなく、ピーナッツバターの友達のジャムがやってきた、という感じじゃない。
薪を焚き火に放り込み、火を放つ。
獣は火を恐れない。
だが、この極寒の雪原において、巨大な火は、ぼくを励ましてくれる。
「ピーナッツバター」
「逃げよう」
ぼくは頷いた。「霧になれる?」
「なれるけど……、ううん、なれない、落ち着いてる時だけ」
「ぼくがいるから」ぼくは、暗闇を見据えながら、ピーナッツバターの頬に触れた。「深呼吸して、落ち着いて、霧になって、空に逃げて。出来る?」
「出来ない」
「大丈夫」ぼくは、膝をついて、ピーナッツバターを正面から見据えた。改めて見ると、可愛いけど、ふざけたデザインだ。「出来るよ。大丈夫。深呼吸して」
ピーナッツバターは、深呼吸をした。
呼吸が震えていた
地響きは、近づいてくる。
静かで、ゆったりとした足取り。
それでも、間違いなく、大きくて、重量感のある何かが、こちらにやってくる。
クマか、雪男か。
会話が出来れば良いのだけれど。
ぼくは、深呼吸をして、ピーナッツバターを見据えた。「ぼくも怖いよ。でも、固まってちゃ、食われるだけだよ。混乱の中でも冷静さを保って、ほんのちょっとでも冷静でいられるなら、それは、きみの心の強さの証だよ。こんな状況でも冷静でいられる、そんな強い自分を信じて、力を振り絞って」
ぼくは、深呼吸をした。
ピーナッツバターのお手本になれるように、力強く、静かに、深呼吸をした。
ピーナッツバターの呼吸が、落ち着いてくる。
「霧になって」
ピーナッツバターの体が、徐々に、現実感を、実態感を失っていく。
半透明になっていく。
「凄いね。出来たじゃん。良いよ」ぼくは頷いた。「飛んで」
「一緒に行こう」
「ぼくは大丈夫。行って」
ピーナッツバターは、躊躇していた。
「良いから。そばにいられると、力を出せない。行って。危なくなったら、助けを呼んできて。ぼくが死んだら、遺体を、ぼくの故郷に、日本に運ぶように頼んで」
「ニホン? ニホニア?」
「日本だよ。ニホニアの兄弟みたいなもん。良いから行け」
ピーナッツバターは、宙に浮いた。
十メートルくらい上がると、そこに滞空して、ぼくを見下ろした。
ぼくは、ショートソードを振るった。
鞭のようには振るわない。
飛距離は伸びるが、その分強度が落ちる。
有効射程距離、強度、軽さ、切れ味、重量。
ぼくの持ち合わせている知識や、魔法の技術では、そういった全てを満たす逸品を生み出すことは出来ない。
ぼくは、全身に、魔力を通わせた。
反射神経、速度、腕力、膂力……、身体能力、その全てを向上させ、五感を鋭敏に研ぎ澄ませる。
学園の体育の授業では、様々な護身術や、様々な武器の扱いを学んだ。
大事なことも学んだ。
例えるなら、冷静さと平静を保つこと。
戦えるのは、冷静でいられる間に限る。
冷静でいられる時だけ。
だからこそ、猛獣の体は大きく、牙や爪は鋭利で、視界に入るだけで、恐怖心を、相手に植え付け、冷静さを奪う。
獲物から冷静さを失わせると同時に鋭利な凶器にもなるそれで、怯えた獲物を借り、食べることで、生き長らえる。
それが猛獣の生き残り方であり、牙や爪が脆弱な者たちは淘汰されていった。
そうして、恐ろしい牙や爪を持った個体だけが生き残り、もう銃たちは、さらに恐ろしい形へと進化していった。
ぼくのような魔法族や人間とは、違う進化の形だった。
逃げるには遅い。
会話で済めば良い。
無理なら、戦うしかない。
戦えるのは、冷静さを保てているうちだけだ。
はじめの一手、良くて二手、最上で、三手だ。
三手で、決めなくてはいけない。
膨大な質量を持った恐怖が、その姿を表した。
クマだった。
二十メートルほど前に、四本の足で立ち、こちらを見据えていた。
黒い体毛。
血走った目。
心臓を震わせる、轟くような唸り声。
前足をついている状態ですら、ぼくよりも背が高い。
立ち上がれば、その背丈はぼくの三倍はありそうだ。
その体の分厚さも三倍はある。
巨体から生み出される力は、三倍どころでは済まないだろう。
ぼくは、全身から力を抜いて見せた。「こんばんは」ぼくは口を開いた。
『人間か……』生命の魔法のおかげで、クマの声が、脳に届いた。
「ぼくは小さいし、痩せ細ってる。夕食を分けてあげることは出来るけれど、あまり多くはない。別の獲物に向かった方が良いと思う。昼に、鹿を見かけた。メスの鹿に振られたばかりのようだったから、多分今頃は自殺しようか悩んでるんじゃ無いかな。君が食べてやれば、むしろ感謝されるんじゃないかな。北西の方だった」
『それもそそるが、今はお前を食べよう。ないよりは、ほんの少しでもある方がマシだ』
胸のことを言われている気がして、ぼくは、密かにイラッとした。「頼むから、巣穴に戻って眠ってください」
『無理だ。空腹が邪魔する』クマは、後ろ足で立ち上がった。
この数日で学んだことがあった。
鳥を狩るのは良い。
ヘビやトカゲを狩るのもだ。
でも、シカなどの、哺乳類を狩るのは、辛かった。
恐らく、哺乳類同士で、忌避感のようなものがあるからだろう。
ぼくは、剣の柄を握った。
『ツイてないな』
ぼくは、深呼吸をした。
互いにな……。
クマを見据える。
クマも、ぼくを見据えていた。
お互いに様子を見合っていたが、それは、一瞬だった。
クマは、四本の足に力を入れ、こちらに突進してきた。
ぼくは、前方に重心を傾けながら、腰を落とした。
ぼくとクマの距離が、目測で十三メートルほどになる。
ここまでで一秒。
それなりに素早いが、十分に鈍重だ。
ただのクマだ。
魔力を宿していない。
魔力を宿した動物なら、もっと素早いはずだ。
クマは、心臓を殴るような低い唸り声を上げながら、木々を薙ぎ倒し、倒木を蹴散らし、こちらに突進してきている。
十メートル、七メートル、六、五、四メートル……。
回避は出来るが、防御は出来ない。
ぼくは、右足で、一歩前へ踏み出した。
あと数瞬間でつま先が地に着くというところで、クマの、大木のような左腕が振り上げられた。
ぼくの右足の爪先が地に着く。
それと同じタイミングで、鋭利な爪が、ブォンッ、と、空気を裂きながら、ぼくの右側頭部へ迫ってくる。
ぼくは、身を伏せ、右足の爪先にスナップを利かせ、地面を蹴って、身を捻ることで、緩やかな弧を描きながら前方に飛んだ。
クマの左腕、その先に光る鋭利なナイフのような爪の下をかい潜る。
ぼくは、再び、爪先スナップをきかせて、地面を蹴った。
宙を舞いながら、身を捻れば、クマの後頭部が見えた。
クマは、ぼくを振り返った。
ぼくは、クマの顔に目掛けて、ドレスソードを振るった。
ドレスソードの先が、その脳味噌を切り裂く直前、クマは、笑顔を浮かべた。
『見事だ』
野生の動物は、自らを上回る強さを示して見せたぼくに対して、最後の言葉を口にした。
その野生的な暴力を肯定する、不愉快な賛辞が、ぼくの胸を引き裂いた。
それが、自らの命を奪った者へ対する醜い侮蔑の言葉なら、どれほど気が楽だっただろう。
お金を出せば食べられる、それが食べるということの意味だと思っていられたままなら、どれほど幸せだっただろう。
巨体が地に崩れ落ちるとともに地に足をつけたぼくは、口を開いた。
「うるさいよ……」
言いながらも、胸を満たす達成感に、ぼくは酔いしれていた。
広大な雪原には、ぼく以外、誰もいなかった。
少なくとも、目に見える限りは。
空には、満点の星空。
美しいという言葉に、それ以外の単語を添えるのが冒涜と感じられるほどの景色だ。
ぼくは、コーヒーを啜った。
ほぅ……、と吐いた息は、口から出た途端に白く凍りつく。
星空は確かに美しいけれど、スライムを借りなかったのは、失敗だったかな……。
旅代をケチったツケが回ってきた。
目的地の一つであるファンランドは、ハスブルゲルという美味しいハンバーガーを出すチェーン店があることで有名らしい。
たどり着いたら、腹一杯に食べよう……。
ファンランドは物価も高く、金銭的な面においては観光客に優しくないらしいが、この世界においては非常に珍しい、二十一世紀型の文明国家らしい。
写真を見た感じだと、それを教えてくれた旅人の話にも信憑性を感じられた。
ひとまずは、この、人を殺すほどの寒さしかないラシアの雪原を抜け、サンクト・トルーツクへ行かなくてはいけない。
そこから、広大なラシアを横断するスヴィルア鉄道に乗って、サンクト・フローレンスブルクへ向かい、その後はラシアの首都マスクヴァ、その後はファンランドのハルシンキ、その後は決めていない。
この雪原には、寒さ以外にも、さまざまな危険があった。
例えば、集団で狩りをするオオカミ、1日に数千キロを駆け抜けるクマ、巨大なツノを持つ大きなシカ、全長百五十メートルを越えるバジリスク、巨大なインコ、旅人を狙う盗人。
キャンプをするときは、周囲に、ネズミやリスやアリの巣穴がないかということも確認しないといけない。
冬で良かったこともある。
夏なら、グロテスクな虫たちといった、視覚的な恐怖にも苛まれることになる。
人間は毎日七時間くらい寝ないと体調が崩れてしまうらしいが、ぼくたち魔法族は基本的に三日くらいなら寝なくても平然としていられる。
毎日仮眠を取れば、まとまった睡眠時間など、一週間に一度ほど確保出来れば十分だ。
昼間は街や村に入って、カフェや広場のベンチでうたた寝をして、夜はこうして自然の中でキャンプをするのも良い。
そうすれば、宿代も浮くし、寝ている間に猛獣に襲われて食い散らかされることもない。
ぼくは、小さく笑った。
発想が、ホームレスみたいだ。
今はどの辺りだろう……。
体感的には、とっくにラシアの首都マスクヴァにたどり着いていてもおかしくはない。
実際のところは、まだ、ニホニアの方が近いはずだ。
ハバネロフスクで出会った乗車券販売員のおにいさんに言われた通り、スヴィルア特急を選んでおけばよかった。
マスクヴァまでは2週間ほどかかるらしいが、寝泊まりする場所には困らず、最低ランクのコンパートメントにも自分用のバスルームがつくらしい。
現地の人間のアドバイスは重要な判断材料になる。
短い旅の間に得た、重要な教訓だった。
もう一週間もシャワーを浴びていない。
オレジニク先生の言っていたことは本当だった。
この世界の全ての国が、ニホニアのように、安全なわけではないのだ。
ぼくは、コーヒーを啜った。
シチューが煮立った。
ニンジンとジャガイモ、鹿肉の入った物だ。
食料の心配はない。
だが、もう、数日同じ物ばかり食べている。
栄養素の偏りが心配だし、食の娯楽が欲しくなってくる。
ぼくは、地図を広げた。
ラシアの地図だ。
星空を見上げ、星座や、年中場所が変わらないと言われる星の位置から、現在地を探る。
ひとまずの目的地であるサンクト・トルーツクは、すぐそばだった。
サンクトと聞くと、ロシアの大都市であるサンクトペテルブルグが頭に浮かぶが、サンクト・トルーツクの方は、かの都とは比べ物にならないほど、規模が小さいようだった。
明日は、サンクト・トルーツクへ向かおう。
名産品はなんだろう……。
郷土料理は美味いかな……。
美味いと良いな……。
「ふぅ……、いただきます」ぼくは、木彫りのスプーンで、ニンジンを掬い上げ、口元に運んだ。
塩胡椒やニンニクや生姜などといった調味料の具合はちょうど良い。
一週間も同じ料理ばかりしていれば、そりゃ上達もする。
それか、味覚が麻痺してきたのかもしれない。
食の刺激に飢えている今なら、雪の下にちらほらと見える、ペンキや絵の具を塗りたくったような色鮮やかなキノコも食べられるかもしれない。
最近はお酒も飲んでいない、健康的な日々を送っていた。
あのキノコを食べれば、楽しい気分になれるかも……。
そんなことを冗談めかして思いながら、ぼくは、ニンジンを噛んでいた。
ほくほくながらも、中心の方には、シャキッとした食感が残っていた。
生焼けだ。
ぼくは、小さく笑った。
こんな夕食も悪くない。
寝る前に、ちゃんと日記を書かないとな……。
こういう些細な喜びやユーモアは、旅の孤独を良い思い出に変える良質なスパイスとなってくれる。
と、そんなことを思った時のこと。
がさ……、と、背後で物音がした。
ぼくは、弾かれたように背後を見た。
星の灯だけがぼんやりと照らすその薄暗闇には、一見すると、何もいないようだった。
だが、油断は出来ない。
ニホニアを出て、ラシアの雪原を歩き始めてから一週間。
ぼくは、様々なものを見てきた。
ぼくは、スープの入った鍋を焚き火の上に乗せた。
代わりに取ったのは、刀身の細い、片刃の剣だ。
ショートソードや、ドレスソードなどと呼ばれるものだった。
両刃が主流だが、以前、片刃の方が耐久性が増す、というのを、なんかの本で読んだことを思い出したので、生成する際は、このようにした。
刃渡りは72センチ、持ち手は18センチ。
片手で扱うこともできるし、両手で扱うことも出来る。
切れ味と耐久性に重点を置いて生成した。
大樹くらいなら一振りで切り倒すことが出来る程度には優れた物に仕上がった。
この剣の優れた点はまだ幾つかあり、その一点が、ぼくの意思に呼応して、鞭のようにしなるということだった。
ぼくは、音がしたところに向けて、剣を振るった。
切っ先が宙をうねり、空気を切り裂きながら、狙ったところへと飛んでいく。
地面に突き刺さり、土を掘り下げる感触。
勘違いだったか……。
ぼくは、腰を下ろし、再び夕食に戻ろうとした。
その時だった。
視界の端、ぼくが先ほど、ドレスソードの切先を突き刺した辺りの空気が、蜃気楼のように揺らいだ。
次の瞬間、そこに現れたのは、幽霊だった。
目のところに二つの黒い穴の開けられた、白いシーツを被った幽霊。
よく見れば、少しだけ透明だ。
半透明というほどではない。
四分の一くらいの透明度だった。
ぼくは、言葉を探して、「あー……」、と唸った。「……ごめん」
幽霊は肩を竦めた。「良いよ」幽霊は首を傾げた。「夕食?」
「うん」
「隣良い?」
「良いけど……、呪ったりしないでね」
幽霊は笑った。「しないよ。人と話すの久しぶりなんだ。人を見るのも久しぶりで……」
「そっか。ここら辺から離れられないの?」
「そんなことないけど、普段は人と話すのは好きじゃないんだ。今は、ちょっと人恋しいタイミングだったから」
ぼくは笑った。「最低の口説き文句だね」
幽霊は笑った。シーツ越しだったから、よくはわからなかったけど、なんとなく、申し訳なさそうな感じだった。「良いかな」
「良いよ。ぼくも、人と話すのは1週間ぶりだ」
「良い人だね」
ぼくは鼻を鳴らした。「コーヒーは?」
「もらう」
ぼくは、新しいコーヒーカップを生み出し、そこにコナコーヒーを注いで、その上からお湯を注いだ。
幽霊は、両手でカップを持ち上げ、ズズ……、と啜った。白いシーツに、コーヒーの染みがついた。
クリーニングが必要だ。
「一人旅?」と、幽霊は言った。
「うん」ぼくは頷いた。
幽霊は、人の精神に干渉する術を持つ。
人の心の中を覗き見れる。
人の魂に触れることが出来る。
幽霊には二通りあって、一つは、文字通りの幽霊だ。
死んだ生物の霊魂。
もう一つは、半幽と呼ばれる、幽霊になる術を身につけた、火の魔法と水の魔法を組み合わせた霧の魔法と精神の魔法を扱う魔法使い。
このシーツは、恐らく後者だ。
そうでなければ、コーヒーカップを持ち上げることは出来ない。
「きみは家出? 何歳?」
「9歳」
「うわぁー」ぼくは言った。「どうしたん?」
「喧嘩したの」
ぼくは頷いた。「そか」
「おにいちゃんは?」
「え?」ぼくは、周囲を見渡した。誰もいない。おにいちゃん、って言うのは、ぼくのことを指していたみたいだ。そこで気がついた。この子には、ぼくの姿が、ぼくの心の姿となって移っているのかもしれない。精神の魔法を扱う魔法使いなら、そう言うことも可能だ。「あぁ、旅行中」
「何歳?」
「15」
「そうなんだ」幽霊はコーヒーを啜った。
「名前は?」
「ピーナッツバター」
ぼくは笑った。
幽霊はぼくを見た。
シーツ越しだからよくはわからないが、なんだかムッとしているようだった。
「ごめんごめん。ぼくはスカイラー」ぼくは、旅行の間使っている偽名を名乗りながら、幽霊に右手を差し出した。
幽霊は、ぼくの右手を見て、その手をシーツ越しに握り返した。
しっとりと、冷たい手だった。
「よろしく。ピーナッツバター」
「よろしく。スカイラー。ぼく、半魔なんだ。変だよね」
「そうなんだ。普通じゃない? ぼくの世界には、普通にゴロゴロいるし」
半魔とは、脆弱な魔力を持つ魔法使いだった。
ぼくのような純魔ほどではないが、その肉体は人間の限界を超えるレベルで強靭なものだった。
扱う魔法は、スプーン曲げよりは遥かにマシだったが、それでも、日常生活を少しばかり便利にする程度の力しかない。
魔法族の中では最も人口が多く、ありふれた者たちだった。
もっとも、それはぼくの生まれ育った世界での話で、純魔ばかりがいるこの世界においては、確かに珍しい少数派で、マイノリティに属する人たちという気がする。
ちなみに、ぼくのような純魔は、ぼくの生まれ育った地球においては魔法族の総人口七億人の中の五パーセントに満たない少数派だった。
この世界においては、恐らくパーセンテージは逆転しているんじゃないだろうか。
純魔は、魔力の面においては力を持つ者たちであるために、少数派でも問題ないが、半魔はその逆なので、このハロウィン当日のスーパーのジャム・ピーナッツバターコーナーの棚から抜け出してきたようなピーナッツバターの心情も、なんとなくわかる気がする。
「スカイラーは、純魔でしょ? 良いなー、ぼくも純魔だったら、いじめられないのに」
「いじめられてんの?」
ピーナッツバターは、俯きながら頷いた。「半魔だから……、半人前で、ご飯の無駄だって……」
気にしなければ良いのに……、と思ったが、九歳なら、そんなこと出来るはずもない。
「ぼくだって、薪割りとかして頑張ってるのに……、そりゃ、誰にでも出来る仕事だし、ぼくが一時間で割れる量なんて、連中にとっちゃ指の一振りで作れるもんだってことはわかってるけどさ……」
ぼくは、器を生み出して、ピーナッツバターの前に置き、そこにスープをよそった。
「……いいよ。この姿だったらお腹空かないし」
「食べなよ。良いから」
「……ありがと」ピーナッツバターは、シーツをめくり、スプーンを使って、口元に、スープを運んだ。
口元の感じから、年齢は、確かに九歳くらいだということがわかった。
他にわかった事といえば、どうやら、ピーナッツバターは、女の子のようだった。
そうでなければ相当の美少年だ。
「こんな真夜中に、一人でいちゃダメだよ」ぼくは言った。
「スカイラーだって」
「ぼくは良いの」
「なんで?」
ぼくは首を傾げた。
自分でもわからない。「ぼくは強いから。ぼくは話し相手が出来て嬉しいけど、よく知りもしない人に話しかけるのも危ないよ」
「良い人だってわかったから話しかけたの」
「危ないよ」
ピーナッツバターは、考えるように宙を見上げて、三秒ほどしてから頷いた。「いきなり刺されてびっくりした」
「ごめん」
ぼくは、その時、思い出した。
幽霊である彼女の目に、ぼくの姿はどのように映っているのだろう。
「なんで、良い人だって思ったの? ぼくのことがどういう風に見えた? 精神の魔法を使える人って、そのものの心のありのままの姿が見えるんだろ?」
ピーナッツバターは、スープを啜りながら、首を傾げた。
「美味しくなかった?」
「美味しいよ。ありがとう。あまり食べないんだ。ぼく」
「もっとたくさん食べて、大きくならないと」ぼくは、ピーナッツバターの器に、おかわりをよそった。「小さいままな上に、自信ない感じでうじうじしてたら、本当に」お荷物になっちゃうよ……、と言いかけて、ぼくは口をつぐんだ。そういう言葉は、ピーナッツバターの心を傷つけ、閉ざしてしまうだけだ。「君は良いところをたくさん持ってる。小さいけど、強さだって持ってる」
「スカイラーだって、大きくないくせに、なんで強いの?」
「ぼくはもう成長が止まってるし、君より年上だからね。それに、最近旅続きで、空腹に慣れちゃった。初めは辛かったけど、今はあんまり感じない」
「ありがと」ピーナッツバターは、二杯目のスープを啜った。「不安なの?」
「何が?」
「自分が善人じゃなかったらどうしようって」
ぼくは、頷いた。「それは、そうだけど、それが全部ってわけじゃない。自分が善人か善人じゃないかなんて、気にしたことない。人を傷つけるのは、人から傷つけられた時だけ」
「強さに憧れてるね」
「誰でもそうだろ?」
「強さを知らない人はね」
「きみは知ってるの?」
「知ってるよ。ぼくは強くないけどね。でも、人の心を見ていると、強い人がどんな人かって言うのがなんとなくわかる」ピーナッツバターは頷いた。「ぼくにとっては、スカイラーは良い人だし、強くて優しいよ。わからないのは、どうして一人でいることを望むのか」
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「どうして?」
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「そうなんだ」ピーナッツバターは、ぼくの胸をマジマジと見た。「言われて見ればそうだね。おっぱい小さいね。ぼくの方が大きいかも」
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ピーナッツバターは笑った。「どっちも嫌なんじゃない? 男でいるのも女でいるのも」
ぼくは、首を傾げた。
その時気づいた。
女として生きるのは好きじゃない。
スカートを履いて街を歩くだけで、気持ちの悪い視線を向けられる。
だから、男っぽい格好をするようになった。
でも、男になりたいと思ったことはなかった。
ただ、女として生きる上での弊害を受け入れたくなかっただけなのだ。
だって、おかしいじゃないか。
ぼくは確かに、見た目は可愛い女の子だけれど、どうして、それだけで、あんな目を向けられなくてはいけないのか。
将来股の間に移植をするのも良いかもしれない……、とも思っていたが、あんな物を体に縫い付けたいかと言われると、微妙だし、あんな物が股の間でぶらぶらしているのを想像すると、すぅ……、っと、食欲が消えていく。
だってキモいし。
「気にしなけりゃ良いんじゃないかな。スカイラーが女でも男でも、ぼくは気にしないし、あとは、スカイラーが気にしないでいられれば、多分、もっと自由に、気軽にいられるんじゃない?」
ぼくは、小さく笑った。「きみ何歳?」
「九歳。霧の魔法を使ってると、普段以上に精神の魔法が研ぎ澄まされて、人の気持ちとか考えてることとか、心の形とか色がわかっちゃうんだ。だから病む」
「ぼくの心はどんな色?」
「マーブルみたい。場所によって違う。表面は白く光ってるけど、中は灰色でくすんでる。心の真ん中には、黒い点と白い点が光ってる」
ぼくは頷いた。「ピーナッツバター」
「なに?」
「ぼく、あっちの世界から来たんだ」
「あっちの世界?」
この子はまだ、知らないみたいだ。
それもそうだろう。
九歳なら、自分の住んでいる街が、世界の全てだと思っていても、おかしくない年だ。
こっちの世界では、どう言った学校教育がなされているのかわからないが、この一週間だけでも、この世界に存在する教育格差は十分に見ることが出来た。
ぼくは、頷き、コーヒーを啜った。「そう。あっちの世界。空は飛べる?」
「うん」
「そっか。この空のね、ぐーんと上がったところをよく探すと、ドアがあるんだ。その向こうには、ぼくのいた世界がある。並行世界っていってね、なんだろ、あるんだよ、そういうの、わかるかな。パラレルワールド的な、聞いたことある?」
「わかんない。ない」
「ぼくもわかんない。量子力学だっけな……、どう説明すればいいのか。とにかく、ぼくのいた世界にはね、ピーナッツバターみたいな半魔がゴロゴロいて、ぼくのような純魔の方が珍しいんだ。あっちに行けば、多分、ピーナッツバターも悩まないで済むんじゃないかな」
「それって、天国? 死んだ後の世界? スカイラーは生き返ったの? 生まれ変わった?」
「違う違う。死んだことはないよ。ただ、あるんだよ。そういうの」
「行きたいなー」
「ぼくは、この世界で一年くらい過ごすんだ。そしたら、あっちに帰る。一緒に行く?」
「パパとママに聞いてみる」
「うん。明日、一緒に、きみの村へ行こう。ぼくは明日、トルーツクに行くんだけど、きみは?」
「ぼくもトルーツク」
ぼくは、コーヒーを啜った。「きみの街って、ホテルある?」
「ホテル?」
「宿屋」
「あるよ。ボロいけど」
ぼくは頷いた。
明日は、久々にシャワーを浴びられそうだ。
そのとき。
がさっ、と、背後で物音がした。
木の枝の折れる音、大木がちぎれ、倒れ込む音。
地面が震える。
ぼくは、ショートソードを持って、立ち上がった。
これは、間違いなく、ピーナッツバターの友達のジャムがやってきた、という感じじゃない。
薪を焚き火に放り込み、火を放つ。
獣は火を恐れない。
だが、この極寒の雪原において、巨大な火は、ぼくを励ましてくれる。
「ピーナッツバター」
「逃げよう」
ぼくは頷いた。「霧になれる?」
「なれるけど……、ううん、なれない、落ち着いてる時だけ」
「ぼくがいるから」ぼくは、暗闇を見据えながら、ピーナッツバターの頬に触れた。「深呼吸して、落ち着いて、霧になって、空に逃げて。出来る?」
「出来ない」
「大丈夫」ぼくは、膝をついて、ピーナッツバターを正面から見据えた。改めて見ると、可愛いけど、ふざけたデザインだ。「出来るよ。大丈夫。深呼吸して」
ピーナッツバターは、深呼吸をした。
呼吸が震えていた
地響きは、近づいてくる。
静かで、ゆったりとした足取り。
それでも、間違いなく、大きくて、重量感のある何かが、こちらにやってくる。
クマか、雪男か。
会話が出来れば良いのだけれど。
ぼくは、深呼吸をして、ピーナッツバターを見据えた。「ぼくも怖いよ。でも、固まってちゃ、食われるだけだよ。混乱の中でも冷静さを保って、ほんのちょっとでも冷静でいられるなら、それは、きみの心の強さの証だよ。こんな状況でも冷静でいられる、そんな強い自分を信じて、力を振り絞って」
ぼくは、深呼吸をした。
ピーナッツバターのお手本になれるように、力強く、静かに、深呼吸をした。
ピーナッツバターの呼吸が、落ち着いてくる。
「霧になって」
ピーナッツバターの体が、徐々に、現実感を、実態感を失っていく。
半透明になっていく。
「凄いね。出来たじゃん。良いよ」ぼくは頷いた。「飛んで」
「一緒に行こう」
「ぼくは大丈夫。行って」
ピーナッツバターは、躊躇していた。
「良いから。そばにいられると、力を出せない。行って。危なくなったら、助けを呼んできて。ぼくが死んだら、遺体を、ぼくの故郷に、日本に運ぶように頼んで」
「ニホン? ニホニア?」
「日本だよ。ニホニアの兄弟みたいなもん。良いから行け」
ピーナッツバターは、宙に浮いた。
十メートルくらい上がると、そこに滞空して、ぼくを見下ろした。
ぼくは、ショートソードを振るった。
鞭のようには振るわない。
飛距離は伸びるが、その分強度が落ちる。
有効射程距離、強度、軽さ、切れ味、重量。
ぼくの持ち合わせている知識や、魔法の技術では、そういった全てを満たす逸品を生み出すことは出来ない。
ぼくは、全身に、魔力を通わせた。
反射神経、速度、腕力、膂力……、身体能力、その全てを向上させ、五感を鋭敏に研ぎ澄ませる。
学園の体育の授業では、様々な護身術や、様々な武器の扱いを学んだ。
大事なことも学んだ。
例えるなら、冷静さと平静を保つこと。
戦えるのは、冷静でいられる間に限る。
冷静でいられる時だけ。
だからこそ、猛獣の体は大きく、牙や爪は鋭利で、視界に入るだけで、恐怖心を、相手に植え付け、冷静さを奪う。
獲物から冷静さを失わせると同時に鋭利な凶器にもなるそれで、怯えた獲物を借り、食べることで、生き長らえる。
それが猛獣の生き残り方であり、牙や爪が脆弱な者たちは淘汰されていった。
そうして、恐ろしい牙や爪を持った個体だけが生き残り、もう銃たちは、さらに恐ろしい形へと進化していった。
ぼくのような魔法族や人間とは、違う進化の形だった。
逃げるには遅い。
会話で済めば良い。
無理なら、戦うしかない。
戦えるのは、冷静さを保てているうちだけだ。
はじめの一手、良くて二手、最上で、三手だ。
三手で、決めなくてはいけない。
膨大な質量を持った恐怖が、その姿を表した。
クマだった。
二十メートルほど前に、四本の足で立ち、こちらを見据えていた。
黒い体毛。
血走った目。
心臓を震わせる、轟くような唸り声。
前足をついている状態ですら、ぼくよりも背が高い。
立ち上がれば、その背丈はぼくの三倍はありそうだ。
その体の分厚さも三倍はある。
巨体から生み出される力は、三倍どころでは済まないだろう。
ぼくは、全身から力を抜いて見せた。「こんばんは」ぼくは口を開いた。
『人間か……』生命の魔法のおかげで、クマの声が、脳に届いた。
「ぼくは小さいし、痩せ細ってる。夕食を分けてあげることは出来るけれど、あまり多くはない。別の獲物に向かった方が良いと思う。昼に、鹿を見かけた。メスの鹿に振られたばかりのようだったから、多分今頃は自殺しようか悩んでるんじゃ無いかな。君が食べてやれば、むしろ感謝されるんじゃないかな。北西の方だった」
『それもそそるが、今はお前を食べよう。ないよりは、ほんの少しでもある方がマシだ』
胸のことを言われている気がして、ぼくは、密かにイラッとした。「頼むから、巣穴に戻って眠ってください」
『無理だ。空腹が邪魔する』クマは、後ろ足で立ち上がった。
この数日で学んだことがあった。
鳥を狩るのは良い。
ヘビやトカゲを狩るのもだ。
でも、シカなどの、哺乳類を狩るのは、辛かった。
恐らく、哺乳類同士で、忌避感のようなものがあるからだろう。
ぼくは、剣の柄を握った。
『ツイてないな』
ぼくは、深呼吸をした。
互いにな……。
クマを見据える。
クマも、ぼくを見据えていた。
お互いに様子を見合っていたが、それは、一瞬だった。
クマは、四本の足に力を入れ、こちらに突進してきた。
ぼくは、前方に重心を傾けながら、腰を落とした。
ぼくとクマの距離が、目測で十三メートルほどになる。
ここまでで一秒。
それなりに素早いが、十分に鈍重だ。
ただのクマだ。
魔力を宿していない。
魔力を宿した動物なら、もっと素早いはずだ。
クマは、心臓を殴るような低い唸り声を上げながら、木々を薙ぎ倒し、倒木を蹴散らし、こちらに突進してきている。
十メートル、七メートル、六、五、四メートル……。
回避は出来るが、防御は出来ない。
ぼくは、右足で、一歩前へ踏み出した。
あと数瞬間でつま先が地に着くというところで、クマの、大木のような左腕が振り上げられた。
ぼくの右足の爪先が地に着く。
それと同じタイミングで、鋭利な爪が、ブォンッ、と、空気を裂きながら、ぼくの右側頭部へ迫ってくる。
ぼくは、身を伏せ、右足の爪先にスナップを利かせ、地面を蹴って、身を捻ることで、緩やかな弧を描きながら前方に飛んだ。
クマの左腕、その先に光る鋭利なナイフのような爪の下をかい潜る。
ぼくは、再び、爪先スナップをきかせて、地面を蹴った。
宙を舞いながら、身を捻れば、クマの後頭部が見えた。
クマは、ぼくを振り返った。
ぼくは、クマの顔に目掛けて、ドレスソードを振るった。
ドレスソードの先が、その脳味噌を切り裂く直前、クマは、笑顔を浮かべた。
『見事だ』
野生の動物は、自らを上回る強さを示して見せたぼくに対して、最後の言葉を口にした。
その野生的な暴力を肯定する、不愉快な賛辞が、ぼくの胸を引き裂いた。
それが、自らの命を奪った者へ対する醜い侮蔑の言葉なら、どれほど気が楽だっただろう。
お金を出せば食べられる、それが食べるということの意味だと思っていられたままなら、どれほど幸せだっただろう。
巨体が地に崩れ落ちるとともに地に足をつけたぼくは、口を開いた。
「うるさいよ……」
言いながらも、胸を満たす達成感に、ぼくは酔いしれていた。
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