亡霊が思うには、

田原摩耶

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ふたつでひとつ

01

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 夜。街全体が寝静まった頃。
 いつも決まった時間にそれは始まる。

『ごめんなさい、ごめんなさいごめんなさいごめんなさい!』

 一階から聞こえてくる罵声と悲鳴。
 またやってるのか。こうして、無駄にしている時間を勉強に回せばいいのに、と思いながら俺は手元に置いてあったヘッドフォンを手に取り、頭に被る。
 音量を最大にすれば、耳障りな声も破壊音も全部聞こえなくなる。

 嫌なことがあれば全てを遮断してきた。見てみぬふりをしてきた。自分は無関係だと言い聞かせてきた。
 ずっと、ずっと、これからも、そのつもりだった。

 だけど、それはある日を堺に変わった。

 泣き声の代わりに、笑い声が響くようになった。楽しそうな、腹からの笑い声。
 それでも、罵声と皿が割れる音は無くならない。それどころか日々悪化するばかりで。

 しかし、それも長くは続かなかった。
 そのうち笑い声は聞こえなくなり、罵声も悲鳴も破壊音も聞こえなくなった。ヘッドフォンはいらなくなった。

 その代わりに、夢の中、あの笑い声が響くようになる。
 耳障りで癪に障る、あの、笑い声が。
 何度も何度も、俺を呼ぶ。

『お前も死ねばいいのに』と。


 ◇ ◇ ◇


 青い顔をした仲吉を見送って数日。
 いつもと同じように昼間がやってきて、電気の通っていない薄暗い屋敷内に太陽の日が射し込む。
 今はもう世間は九月辺りだろうか。
 カレンダーもないこの屋敷では時間の感覚が麻痺してしまう。

 応接室。
 屋敷内で一番大きな窓があるそこは昼間、電気がなくても十分な明るさがあり、本を読んで時間を潰すときなど、よくここへ足を運んでいた。
 ここに来るのは陽のあたる場所を嫌う他の亡霊たちとの接触を避けるためでもあったが、今日は珍しく俺以外の姿があった。

「仲吉、最近来ねえし」
「……」
「ねえ、なんで?なんで仲吉来ねえの?」
「……」
「あ、こら!準一無視すんなってばー!」

 ソファーに座り、足を組んで本を読む俺の背後。
 不機嫌顔の幸喜は駄々っ子のように耳元で声を張り上げた。
 無視を決め込もうと思ったのだが、あまりの騒がしさに鼓膜がぶち破れそうになり、俺の我慢も限界に達する。

「……知らねえよ、そんなの」

 舌打ち混じりにそう肩を掴んでくる幸喜を振り払えば、「あ」と驚いたように幸喜は目を丸くする。

「なにいまの、反抗期?」
「幸喜がうざいからだろ」
「は?俺うざくないから!ははっ!つうか藤也に言われたくねーし!」

 いつの間に現れたのだろうか。気付いたら幸喜の隣には藤也がいて、なにが可笑しいのかゲラゲラと爆笑する幸喜とは対照的に不快感を露わにする藤也は「そういうとことか本当うざい」と吐き捨てる。

「あ?なに、藤也お前も反抗期かよ。いいよ?久し振りに仲良く遊ぼうか!」
「仲良い事は結構ですが、やるのでしたら外でお願いします。後片付けが面倒なので」
「……」

 藤也の次は、花鶏か。誰もいないかと思えば、次々と現れるやつらになんだかもう寛げる気にもならなくなった。
 わいわいと騒ぐやつらを横目に、本を閉じ、立ち上がった俺はそっと応接室を後にした。

 奈都がいなくなった。というより、姿が見えない。
 ――揉めたあの日を最後に。

 花鶏のいう成仏が本当にあるのなら、もしかして。と思ったが、あの調子で奈都が成仏するとは思わなかったし、それよりも、寧ろ。
 結界の中、消える奈都の指先が脳裏を過ぎり、背筋が薄ら寒くなる。

 残暑の絶えない初秋の空の下。それどころではなくなった俺は気分転換に屋敷を後にした。

 結界がある限り、奈都の行動範囲は決まってくる。
 ここにいるのは間違いないんだ。
 あんな別れ方をしただけに、あのとき奈都を一人にしてしまったことを悔やまずにはいられなかった。そのせいだろう。気が付いたら俺は裏庭にある焼却炉の前にやってきていた。

 そういや先日、奈都がなにかを燃やしていたな。思いながら鉄の扉を開き、中を覗く。
 薄暗い底には黒い燃えカスが溜まっていて、その中に手を伸ばし、燃えカスを摘む。
 薄いそれは少し触っただけでさらさらと灰になり、あっという間に崩れ、形を無くす。固形物ではない、その薄さは紙のような感じだった。

 もしかして、と、先日仲吉が持ってきた新聞の記事のことを思い出す。幸喜に奪われたあれは、確か奈都の手に渡っていたはずだ。

 だとすれば。

「準一さん?」

 そこまで考えた時だった。
 不意に、背後から聞こえてきた懐かしいその声に俺は飛び上がりそうになる。

「っ!……奈都?」
「こんにちは。……というより、もう、夕方ですが」

 先ほどまで青かった空には、確かに赤が射している。
 どこか照れ臭そうにはにかむ奈都知己に、今の俺の顔はは安堵やら困惑やらできっと情けないことになっているに違いない。

「お前、今までどこに」

 なんとか振り絞った声はわかりやすいほど動揺していて。
 目を見張る俺に、こそばゆそうに奈都は苦笑した。

「あ、あの、そんな怖い顔しないで下さい。……少しだけ、頭冷やそうかと思ってぶらぶらしてただけですよ」
「……そう、なのか?」

 まだ、夢を見ているようだった。
 まさかまた幸喜が化けて遊んでるのではないか。そう疑いたくなるほど、予期していない再会に動揺を隠せなくて。
 そんな俺の気持ちを汲み取ったのか、念を押すように奈都は「はい」と頷いた。

「先日はご迷惑お掛けしてすみませんでした。僕も、少し頭が可笑しくなってたみたいです」

 そういう奈都は確かに本人で間違いないようだ。
 以前、いや、以前よりもどこか清々しい奈都になんとなく引っかかる。

「別に……可笑しくなんてないだろ。お前は悪くないよ。そこまで好かれてて、その、彼女さんも嬉しかったと思うぞ。……うん」

 正直、彼女の安否を気にする奈都の性格は嫌いではないし、寧ろ尊敬するところもある。
 だから、自虐的な奈都の言葉は聞きたくない。
 しどろもどろとフォローする俺に、奈都は僅かに目を細めた。

「……ありがとうございます」

 浮かべていた笑みが、一瞬だがぎこちなく強張るのを俺は見逃さなかった。
 そんな様子が気になって、「奈都?」と声をかけたとき。

「準一さんは、優しいですね」

 ぽつりと、奈都は呟く。寂しそうな目をした奈都の纏う空気が僅かに冷えたのを感じた。

「準一さんと話していると、なんだか真綾さんのことを思い出します」

 不意に、伸びてきた手が俺の腕を掴む。
 ゆっくりと辿るように触れる奈都にそのまま掌を握られた。
 握手、なのだろう。奈都なりの。一瞬、ぎょっとして後退りそうになるのを堪え、俺はそれを受け入れた。

 真綾って、確か、志垣真綾か。
 彼女のことを言っているのだろうとわかり、俺は素で困惑した。

「あ、ありがとう……?」

 異性の恋人と重ねられて喜べばいいのかわからなかったが、それほど気を許してもらってると思ったら進歩だろう。
 その返答に満足したのか、してないのか、ゆっくりと微笑んだ奈都に俺は動けなくて。

 あれ、こいつ、こんなやつだっけ。なんて、目の前の奈都知己に違和感をいだきかけたときだった。
 屋敷の裏口が開く。

「おや、奈都君。こんなところにいましたか」

 聞こえてきたのは、柔らかくも艶のある男の声だった。
 驚いて、声のする方を振り返ればそこにはにこにこと微笑む花鶏が立っていた。奈都は俺から手を離す。

「花鶏さん。……お久しぶりです」
「ふふ、お元気そうで。見ない内に、随分と血色がよくなりましたね。まるで、生きている人間のようではないですか」
「言い過ぎですよ」

 先程までの笑みは消え、口角を上げただけの愛想笑いで返す奈都に花鶏は「そうですね。言い過ぎました」とにっこりと笑い返した。

「しかし、奈都君とこうしてまた会えることができて安心しました。貴方にまで成仏されたら寂しくなりますしね」

 そう言うわりには取り立てて安堵した様子もなく、いつもの調子で奈都と接する花鶏。
 リアクションの薄さは元からなのだろうか。それとも、奈都との再会にいちいち狼狽える俺のほうが異常なのか。

「……成仏、ですか」

 そう呟く奈都の表情は陰り、以前の奈都の名残を垣間見たような気がした。
 奈都は、花鶏たちを信用していない。成仏のことだって、今でも納得したということはないだろう。
 なんとなく居心地の悪さを覚えたとき、扉から外へと降りる花鶏はようやくこちらを見た。

「ああ、準一さんもいらしていたのですね。そんなところで話さず中に入ったらどうですか」

 どうやら俺の存在に気付かなかったようだ。
 それがジョークかまじかは分からないが、一々突っ掛かる気にもなれなかった。
 動かない俺に、青々と茂った木で覆われた空を見上げた花鶏はいつの間にかに灰色に淀んでいた空に目を細め、こちらを見る。

「今夜は、荒れるそうですよ」


 ◆ ◆ ◆


 花鶏の言葉通り、屋敷の中へと移動した途端、外は土砂降りになる。
 叩き付けるような雨音は耳障りだったが、窓から眺める外の景色はどこか心落ち着くものがあった。
 ゴロゴロと唸るような雷鳴、真っ黒に淀んだ空、強い風に煽られ揺れる木々。
 この雨で少しは涼しくなるかと思ったが、寧ろ湿気が増し、じめったような気がしないでもない。

 逃げるようにいなくなった奈都に取り残された俺はやることもなく、二階の渡り廊下の窓から外を眺めていた。

 もうそろそろ夜だろうか。こんな天気だし、もう仲吉は来ないだろうな。
 なんて物思いに耽ていると、不意に背後で陰が動くのがわかった。
 気配がして、振り向けばそこには薄く微笑む花鶏がいた。

「酷い天気ですね。……長引かないといいのですが」
「……」
「おや、無視ですか」

 つれない方ですね、と肩を竦める花鶏はそのまま当たり前のように俺の隣に並ぶ。
 ここで逃げたら意識していると思われ兼ねない。
 敢えて何でもない風を装いながら、俺は窓の外を見つめ続けた。
 そんな俺を、花鶏は喉を鳴らし笑う。

「この間のこと、気にしてるんですか」
「……なんのことですか?」
「おや、しらばっくれる必要はないでしょう。仲吉さんのことです」

 この間のことと言われ、首輪を付けられたときのことを思い出した俺だったざ思いっきり宛が外れ、顔が熱くなる。
 それを狙ってはぐらかすような物言いをしたのだろう。腹が立つ。

「霊気というのは人に悪い影響を与えますからね」
「別に、気にしてないですけど」
「そんなに嫌わなくてもいいじゃないですか」

「悲しいですね」と伸びてきた手に肩を掴まれ、顔を強張らせた俺は「触らないでください」とそれを振り払う。
 苦笑を浮かべ、手を引っ込めたと思えば今度は強く手首を掴まれた。
 目を丸くする俺に、花鶏はぐいっと顔を寄せる。

「お忘れですか、準一さん。こうして私が貴方に触れることが出来るのは私が貴方に触れたいと思い、貴方が私に触れることを望んでいるからこうして触れることが出来るんですよ」
「っ、なにが、言いたいんですか」
「この間のことは申し訳ございません。私も年甲斐なくはしゃいでしまったことを反省してますので」
「……ので?」
「……そろそろ、目を見て話してくださってもいい頃ではないですか?」

 花鶏から目を逸らし、俯く俺に花鶏は困り果てた様子で尋ねてきた。

「普通、反省している人間がそんなこと言いますか」
「言わないと、貴方はいつまで経っても臍曲げてるでしょう」
「臍曲げるとか、そういう問題じゃないでしょう。っ、あんな……」
「あんな?」

 それ以上の言葉が出ず、言葉に詰まる俺に花鶏は食い付いてきた。

「あんな?なんですか?」

 惚けたような笑み。完全に馬鹿にされている。
 怒りが、羞恥か。頭に血が上り、カッと顔が熱くなる。
 咄嗟に花鶏の腕を掴み、無理矢理自分から引き剥がせば、あっさりと花鶏は離れた。

「おお、怖いですねえ」
「もう俺に関わらないで下さい」
「無理だとわかっているくせに、愚問ですね」
「花鶏さん……」
「なんですか?」
「あんた、本当……っ」

 食えないどころではない。
 真面目に相手をすればするほど、相手の思う壺に嵌り込んでいくのがわかった。
 顔を顰め、唸る俺は花鶏を睨む。そんな俺の視線を真っ直ぐ受け止める花鶏は、一層笑みを深くした。
 嫌な空気が走り、神経が逆立つのを感じた時だった。

「チワゲンカ?」
「っ!!」

 不意にかけられた無邪気な声に全身が固まった。慌てて振り返れば、空き部屋の扉の前。
 不思議そうな顔をして、揉める俺たちを眺めていた幸喜がいた。
 いつからいたんだ、というか。

「だっ、誰が痴話……っ!」
「痴話喧嘩というより、これは準一さんの欲求不満による副作用というものでしょうか」
「欲求不満はどっちだよ!」

 あんまりな花鶏の言い草に耐え切れず、俺は声を荒げる。
 全身で拒絶する俺に、花鶏は不思議そうに小首を傾げた。

「おや、違うのですか?ここ最近貴方が物足りなさそうな顔をしているので私は少しでも貴方の心の隙間を埋めることが出来たら、と思っていたのですが」
「ふざけんじゃねえ……っ」

「おお、準一やれやれー!」とヤジを飛ばしてくる幸喜を無視し、俺は目の前の花鶏に手を伸ばした。
 そのまま着物の襟を掴もうとした瞬間、目の前にいたはずの花鶏は消え、手は宙を掠る。

「あまり年寄りを虐めないで下さい。……激しい運動は不得意なんですよ」

 唖然と掌を見つめる俺の背後、袖口で口元を抑える花鶏は困惑の表情を浮かべた。そして、すぐにいつもと変わらない笑顔を作る。

「時には怒ることも大切ですよ。心の動きというのは豊かになればなるほど動力になるのですから、貴方には死人のような姿は似合いません」

「ですが、すぐに手を出すのはよくないですよ。まあ、貴方の気が長くないことは予想ついてましたけどね」言いたいことばかりを一方的に言い放てば満足したのだろう。
 そのまま、花鶏の姿は空気中に四散するように消えた。

 相手がいなくなり、舌打ちをした俺はそのまま幸喜を残してその場を移動する。
 勿論、瞬間移動を使って。
 今は、誰と会ってもイライラしてしまいそうな気がしたのだ。

『欲求不満』

 そう、花鶏は言った。
 仲吉と会えないことが原因で欲求ばかりが溜まっていき、満たされないそれらに気ばかりが焦れて結果的それらはストレスへと変わる。
 理屈では理解できた。出来たが、認めたくなかった。口では仲吉を追い返すことばかりを言って、本心では仲吉を望むなんて。
 そんな自分に嫌悪を覚えたが、そんなジレンマすらストレスになると思ったらどうしようもなかった。
 しかし、前に仲吉に会いたくて頭が可笑しくなりそうになったのも事実で。
 また、あの時のような窮屈な息苦しさを覚えなければならないのだろうかと思うと気が遠くなるようだ。

 そのときだった。雨音響く廊下の中。窓の外に眩い閃光が走り、次の瞬間、地面を揺らすような激しい雷鳴が響いた。
 あまりの大きさに思わず足を止め、窓に目を向けた。
 今のは、どっかに落ちたんじゃないだろうか。確実に。
 ぼんやりと、変わらず吹き荒れる外の森を眺めていると不意に、廊下の奥で白いものが過る。
 気配を感じ、咄嗟に辺りに気を向けてみるが既に一瞬感じた気配はなくて。
 もしかしたら、奈都か藤也かもしれない。そう思って、もう少し気配を探ってみるが、雨の音が聞こえるくらいで他になんの気配もしない。

 まさか、幽霊とか。
 しん、と静まり返った廊下の真ん中。そんな想像をしてしまい、背筋が凍りつくような思いだったがよく考えたら自分も似たようなものだ。
 考えるのもバカバカしくなって、結果、見間違いということで自己完結した俺は止めていた足を動かし、廊下を進む。
 最近色々あって疲れてたしな、仕方ない。そう自分に言い聞かせるように、足早に。


 ――自室へと戻る途中。
 客室が並ぶ通路を歩いていたときだった。

 とある部屋の前を通った瞬間、ガタリと小さな音が聞こえてくる。
 静かな場所だからだろうか、やけにその音が大きく聞こえ、ぴくりと反応した俺は足を止め、その部屋に目を向けた。
 そこは、前に藤也が扉を壊した子供部屋だった。

「あ……っ?」

 確か、ここって誰も使っていない筈だよな。
 あの時は上手に花鶏にはぐらかされていたので聞けなかったので、真意はわからないが。

 誰かいるのだろうか。普段なら気にならないのだろうが、先程の白い影のこともあってか無性に気になり、こっそり俺はその子供部屋を覗こうとした。

 次の瞬間。

「うるっせえなゴラァ!!」
「っ!!」

 隣の部屋の扉がぶっ壊れる勢いで開かれ、般若のような血相の南波が出てきた。
 そのいきなりの怒鳴り声にビクゥッ!と肩を強張らせ、硬直する俺。
 扉の前で固まる俺に気付いたようだ。出鼻挫かれたようにキョトンとした南波だったが、すぐに青褪めていく。

「……あ?あれ?じゅ、準一さん?」
「わ、悪い……煩かったか?」
「いっいえ!違います違います!準一さんの立てる騒音なら俺喜んでご拝聴しますし!って、違う、あの、準一さんじゃないです」

 キョドり過ぎたあまり妙なことを口走る南波は、慌ててぶんぶんと首を横に振る。
 さっきの勢いが嘘みたいな萎み方だ。
 というか。

「いや、でも、俺しかいないし……」
「雷鳴るといつもうるせえんスよ、その部屋。準一さんは関係ないです!」

 断言する南波は、言いたいことだけ言うなり「から、その、すみません!失礼しましたっ!」と脱兎の如く逃げ出そうとする。
 その言葉が引っ掛かり、慌てて俺は逃げ出す南波を止めようとした。

「ちょっ、ちょっと待てよ!」

 力んでしまい、つい、声が大きくなる。それが不味かったようだ。
「ひいっ!」と飛び跳ねた南波は、そのままぴゃっと扉の陰に隠れた。

「あ、いや、怒鳴って悪い。別に怒ってない、怒ってないからそんな警戒しないでくれ」

 ちらちらと扉から覗く金髪が小さく揺れる。どうやら頷いているようだ。
 あまりの警戒心に気の毒になってきて、仕方なくそのまま離すことにした。

「その、部屋が煩いってどういうことだ?」
「う……煩いっつか、聞こえませんか?声。ぴいぴい泣き喚いてるじゃないっすか。……あーもう、うるせえっつってんだろうが!!」

 突然、苛ついたように南波は壁を殴る。
 そのときだった。誰もいないはずの子供部屋の机がガタガタと揺れる。
 雷や風のせいではない。明らかに人為的な揺れだ。
 ――ポルターガイスト。そんな言葉が脳裏を過る。
 しかし、その原因は幽霊だと言われているはずだ。

「おい、もしかして、誰かいるのか。ここ」

 苛ついている南波には悪いが、俺には鳴き声もなにも聞こえない。聞こえるのは、物音だけだ。
 不気味になって尋ねれば、ひょっこりと扉から顔を出した南波は相変わらず怯えたような目で俺を見る。

「準一さんには聞こえないすか?ガキの声」

 ガキ、ということは、子供か。
 口振りからすると、幸喜たちではないまた別のなにかを指しているようです。
 胸がざわつくのを感じながら俺は「あぁ、全く」と首を横に振る。そんな俺の返答は、益々南波の怒りを煽ってしまったようで。

「くそっ、俺だけかよ。うぜえ、嫌がらせかっての!」

 舌打ちをし、独り言のようにぶつぶつと愚痴る南波だったが俺の前だということを思い出したようだ。慌てて咳払いをする。

「とにかく、準一さん、あの、さっきの気にしないでくださいね!ホント、俺そういうつもりじゃなかったんで!」

「失礼します!」と扉越しに頭を下げる南波は言いたいことだけを言い、そのまま部屋の中へと逃げ込んだ。
 今度は引き止めることはしなかった。

「……」

 南波には聞こえて、俺には聞こえない子供の声。仲吉に対する南波みたいなものだろうか。
 ということよりも、てっきりここに住み着いているのは俺たち六人だけと思っていただけに、まさかまだまだ俺に見えないだけで蠢いているのではないだろうかと考え始めたらどうしようもなくなってくる。
 いや、しかし、幸喜たちが子供のフリして南波をからかっているということも考えられる。
 それと、南波の幻聴ということも。つまり、何一つ憶測でしかない。
 なんだか気分が悪くなってしまい、俺は足早にその場を立ち去った。

 外は相変わらずの豪雨だった。
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