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人の心も二週間
鏡は嘘付かない
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夢を見た。恐らくそれは悪夢という部類に入るものだろう。
自分が、ヒズミと一緒に暮らしている夢だ。
夢の中の俺は幸せそうにヒズミに笑いかけていて、ヒズミもまた幸せそうに笑っていた。だけど、その部屋から出たらそこにはたくさんの死体が転がっていた。
その中には純やユッキーといったよく知った顔もあって、そして、マコちゃんも…。
頑なに俺を部屋の外に出そうとしないヒズミに違和感を覚え、そこで気付く。
自分の首に、首輪が掛けられているのを。そしてその首輪に取り付けられたリードはヒズミの手に握られていて――そこで、目を覚ました。
「……は……」
全身が汗でぐっしょりと濡れていた。
なんだったんだ、あの夢は。震える上半身を抱き締め、竦んだ時。
「……仙道?」
名前を呼ばれ、全身が緊張した。恐る恐る声のする方を振り返れば、そこにはよく知った人が居た。
「ゆ…っ、き……?」
「どうした、喉が乾いたのか?水ならここにあるぞ」
「え…あ…ありがと」
どうしてユッキーがここにいるのかわからなかったが、言われてみれば喉が乾いた。ユッキーからグラスを受け取る。
「……ねえ、ユッキー。なんでユッキーがここにいるの?」
「なんでって、ここは俺の部屋だ。もう忘れたのか?」
言われてみれば香水臭い。ユッキーの部屋を忘れていたわけではないが、どうやら記憶が混乱しているようだ。
なんで俺がユッキーの部屋にいるのか、その経緯が思い出せないのだ。
確か、昨日の夜、俺はちゃんと部屋に戻ったはずだ。
そこまでは鮮明に思い出せるのに、その後がノイズがかったように思い出せなくて。
「…………」
「……ユッキー?」
「…いや、なんでもない。まあ、仕方ないよな。あんだけ酒飲んだんだから」
「……お酒?」
「ああ、本当に覚えてないんだな。まあ、無理もないか。お前、べろんべろんだったもんな」
そう笑うユッキー。言われてみれば頭が痛い。それに、お腹の中がごろごろして気持ち悪い。
なるほど、お酒か。通りで何も思い出せないと思ったら。
「というわけだから、今日は一日ここにいろ。まだ本調子じゃないんだろ?」
「んー、そうかも…」
じっとしているのは好きではない。
だけど、明日にはマコちゃんに会わなければならない。
そ今のうちにゆっくりして体力を回復させて、そんでマコちゃんとたくさん遊ぶんだ。
「……いっ……」
「どうしたっ?!」
「あ、いや……なんか頭が痛くて……」
言いながら、額に触れた時。布のようなものが指先に触れた。
僅かに、目の前のユッキーの表情が暗くなったのを俺は見逃さなかった。
「…あれ、なにこれ…」
「……」
なんでガーゼなんか、と言い掛けたその瞬間。
脳味噌の奥、電気が走ったような感覚が全身へ走る。同時に、断片的ながらもいくつかの記憶が蘇るのがわかった。
夜の校舎。よーへい君。せんせー。
怒られて、よーへい君と帰ろうとして、そうしたら、いきなりよーへい君が襲われそうになって…………。
「……ッ!」
全身に鳥肌が立った。
…………思い出した、昨日の夜、俺は。
咄嗟に着ていた服の袖を捲る。手首には鬱血痕がしっかりと残っていて、ところどころ摩擦により赤く腫れたそれは間違い無くなにかで縛られた痕だった。
「…仙道……」
「……ッ」
ベッドから下り、俺は洗面台へと向かう。
鏡の前、そこに映り込んだ自分を目の当たりにし、全身の力が抜け落ちた。全て、俺の記憶違いだったらよかった。
――けれど。
「…………」
そこに映った満身創痍の自分の姿に、四肢から力が抜けそうになる。
別に、殴られたことがないわけでもない。怪我だって、珍しいことでもないのに。それでも、咄嗟に脳裏に浮かんだのは明日のマコちゃんとの約束だった。
「…仙道…っ」
鏡には後を追ってきたユッキーが写り込んでいた。
俺よりも辛そうな顔をしたユッキーに、俺は納得した。
ああそうか、あの時聞こえた声は、ユッキーだったんだ。――そう思うと、自然と口元が緩んだ。
「……は」
笑いが零れた。
「…ユッキー、なんて顔してんの」
「悪かった、仙道…俺がちゃんと見張ってたら…」
「なんで謝んの?意味わかんねえ………」
言い掛けたとき、背後から抱き締められる。流石にビックリしたけど、それでも、暖かいその腕は割れ物を扱うかのように優しくて……だからだろう、いつもみたいに混乱を起こしそうに済んだのは。
だけど、
「……ユッキー、俺大丈夫だから、まじで」
「………」
「…ユッキー…」
どうしてなのだろうか。どうしてこういう時に、ユッキーは甘やかしてくれるんだ。お前は甘やかされすぎだと呆れたようななっちゃんの声が聞こえてくるようで、それでいてせっかく落ち着きかけていた胸の奥が波立つようだった。
せっかく我慢していたのに、泣いてしまった。
おまけにそんな自分のクソ情けない面を見なければならなくなるし、全部、ユッキーのせいだ。放っておいてくれればいいのに。そう思う反面、ユッキーの手にしがみついてる自分に余計馬鹿馬鹿しくなって俺はまた泣いた。
人前で泣くなんて冗談じゃない。そう思ってたのに、ユッキーの前で泣いたのは何回目だろうか。
ヒズミの奇襲に遭い、ユッキーが入院したとき。見舞いに行った時、逆にユッキーに慰められて泣いたんだった。
…あれから、何も進歩していない。
「……ユッキー」
「どうした?」
「あの、もういいから」
さっきからずっと抱き締められているお陰で涙は引込み、冷静になった今、次は言い表しようのない気恥ずかしさが込み上げてくる。
「大丈夫なのか?」
「うん、だから…」
「でも、俺が大丈夫じゃない」
そう言って、ぎゅうっと項に顔を埋めてくるユッキー。
昔はよくこうしてスキンシップを交わしていたけれど、いつからだろうか、ユッキーがあまり俺に触らなくなってきたのは。
だからだろう、昔に戻ったようなそんな錯覚を覚えたが、あの頃よりもユッキーは身長が高くなっている。
自分よりも大きい男に抱き締められていると思うと、正直硬い胸板よりも柔らかいおっぱいの方が好ましい俺からしてみればなかなか複雑だ。
「ちょっと、ユッキー…」
「山岸拓哉」
「…は?」
「お前に手を出した糞野郎。…この間、お前にちょっかいかけたやつと同じ野郎だ。二年C組。昨夜から部屋に戻っていなくて教室にも顔を出してない。……他の奴らに探させてるけどまだ見つかっていない」
「…………」
「…悪い、あの後逃してしまった。血まみれの仙道を放っておくことが出来なくて」
「だから、別にいいって」
山岸拓哉。
この間のラウンジ、ユッキーが見せてくれたあの生徒名簿を思い出し、腸が煮え繰り返りそうになる。
今度会ったら、絶対潰す。
「…仙道」
「なぁに?つか重いんだけど」
「山岸拓哉の方は俺に任せろ。お前は余計なことしなくていいからな」
「…なんで?」
「お前のことだ、どうせまた自分で殴り込みに行こうとか考えてるんだろ」
図星だ。正直、この前はよーへい君を庇っていたせいで本調子出すことは出来なかったが、あの程度、一対一なら潰すことくらい出来る。
そんな程度のやつに見下された上、やられっぱなしだけ嫌だった。腹の虫が収まらない。
「絶対ダメだ、お前は何もするな」
ユッキーはそれを許そうとしてくれない。
「なにそれ、また俺がやられるとでも思ってんの」
「そうじゃない。そうじゃないけど、あいつは俺が殺す」
静かな声。その口調とは裏腹に言葉の裏には確かにドス黒いものが渦巻いている。
「仙道の傷を抉るやつは全員俺が殺す。だから、お前はとにかく怪我を癒してくれ」
「なにそれ、ユッキー怖いよ?」
「…」
「ちょっと…」
なんでそこで無言なんだ。ユッキーの方を振り返ろうとした時、どっかからバイブ音が聞こえてくる。
ユッキーの携帯だろう。それをガン無視しても尚俺から離れようとしないユッキーに流石に呆れ、「ユッキー」とその手を叩けばようやく俺から離れてくれた。
「…はい」
携帯片手にそのまま部屋の隅へと移動するユッキーを横目に、俺は自分の額に触れる。ユッキーが冷やしてくれたのだろう。熱は大分引いているようだが、やっぱりまだ少し痛む。
マコちゃんち、楽しみにしていたんだけどなぁ。この顔をマコちゃんに見せたらきっとマコちゃんは卒倒するだろう。
あのマコちゃんのことだ、ビックリして腰抜かしちゃうかもしれない。痛みも顔がどうなってようが俺にとって些細なことで、問題ではない。
だけど、マコちゃんを心配させるような真似はしたくなかった。
「……はぁー」
マコちゃんには今夜までに断っておこう。
マコちゃんに電話しようと思ったら携帯ねーし、よくよく考えてみれば昨日はそのためにわざわざ校舎へ向かったんだった。
面倒臭いなあ、もう。また取りに行かないといけなかなー。なんて、思った時。部屋の扉が開く。
「仙道さんッ!」
喧しいのが一人、また増えた。
「あれー純、おはよ」
「仙道さん、その傷」
まるで幽霊でも見たかのように固まる純。
ほんと、失礼だな~なんて思うけど、正直、見られたくなかった。純には。
「ああ、これ?大丈夫だって、ほら、こんくらい」
だってほら、なんて言ったって純の顔は強張ったままだし、それどころか益々顔付きが険しくなっていくし。
「……ッ」
だけど、前よりかはましだろう。
前の純だったら俺の怪我を見るなり「何勝手に傷つくってんだてめぇ」とブチ切れていただろうし。
なんて、拳を握り締め必死に腹の中の何かを堪えているであろう純を見ていた矢先だった。
「クソがっ!」
思いっきり、壁を殴りやがった。
凄まじい音ともに、お世辞にもあまり丈夫にできていないそこにはぼこりと穴が空く。
うわー、今回おとなしいと思ったらやっぱりやりやがった。
「おい!何やってんだお前!」
部屋の持ち主であるユッキーは穴がぼっこり空いた壁を見るなり「うわぁ」と青褪める。
「俺の部屋に当たるなっていつも言ってんだろ!」
「うるせえ!山岸を逃しやがって!」
ヒートアップする純。
山岸を逃したのはユッキーが俺を優先した結果だ。そのお陰で、少しは楽になっているのも事実だし、一方的にユッキーが責められるのは見ていられない。
「ちょっと純」
「あんたもあんただっ!フラフラ出歩くなっつってんだろいつもいつもッ!」
やべー今度は矛先俺に向いた。これはヤブ蛇だったかな、なんて思いながら、胸倉を掴まれる。
純相手に殴り合う気力も戻っていない今、取り敢えず純を落ち着かせることを優先させることにした。
「第一、なんで俺を呼ばなかったんだよ!」
「だって、携帯失くしたんだもん…」
「だもんじゃねーよ!携帯ねえなら大人しくしろッ!この脳天気野郎が!!」
確かに俺に非はあるが、なぜもこうも後輩からここまで罵倒されなければならないのか。
あまりの言い草に、「誰が…」と純の腕を掴もうもした時だった。
「おい、純、悪いのは俺だろ。…仙道に当たるのは勘弁してやれ」
仲裁に入ったユッキーが、俺から純の手を引き離した。
それが更に純の癪に障ったようだ。ユッキーの手を振り払った純は、ユッキーを睨み付ける。
「あんたもあんただ…っ、甘すぎんだよッ!こんな状況でこいつの自由行動許してんじゃねーよッ!日和ってんじゃねえっ!」
そう言うなり、純は手に持っていた何かをユッキーに投げ付ける。
それはビニール袋のようだ。びっくりしながらもユッキーがそれを受け止めた時、純はそのままユッキーの部屋を出ていった。
純の言葉は正直もう、痛いくらい理解できた。
できたけど、それとこれとは別なのだろう。危機感がなさ過ぎるとつい最近純に怒られたばかりだし、純に言われた通り俺は日和っていたのかもしれない。
「…仙道」
「ん?」
「ほら」と、ユッキーが俺に差し出してきたのは俺が前よく飲んでいた栄養ドリンクだった。
「純からだとよ」
そう苦笑するユッキーに、俺は少しだけ固まる。そして、渋々それを受け取った。
「あいつも、悔しがってんだよ。俺なんかよりもずっと責任感強いからな」
ひやりとしたペットボトルには水滴が滲んでいる。ここに来る途中、どんな気持ちでこれを買ってきてくれたのだろうか。
なんて、考えたら胸の奥がきゅうって痛くなって、冷たいそれを握り締めた俺は「知ってる」とだけ呟いた。
取り敢えず、携帯を取りに行かないと。と、思うけど。
「ユッキー」
「ん?」
「行きたいところあんだけど」
「…駄目って言っても行くんだろ?」
「よく分かってんじゃん」
笑い返せば、ユッキーは困ったようにため息を吐く。
まじで困ったような顔。
「その代わり、俺も行くから」
「いいよ、別に」
「行くからって言ってんの、俺は」
「はいはーい、わかったよ」
別にユッキー来てもいいと思う。
正直、ちょっとだけ自分の腕に自信無くなってきたっていうのもあるけど、悔しいから言いたくない。
「仙道」
立ち上がろうとした時、何かを羽織られる。
ユッキーのパーカーだ。背中部分の悪趣味なイラストには見覚えがあった。
「それ、着とけよ」
「えー、暑いよこれ」
「いいから着とけ」
それしか言わないユッキーにむっとしたが、袖を捲った時、腕に残った無数の指の痕が視界に入り、一瞬息が詰まる。
なるほどね、と思いながら「汗臭くなってもしらないよ」と俺は袖を戻す。
「ほら、ちゃんと着ろよ。だらってなってんぞ」
「着てるし。ユッキーのがでかいんだって、これ」
「いーや、仙道が細すぎるんだろ」
いつも通りのユッキーだ、と思いながら視線を上げた時、不意にこちらを見下ろしていたユッキーと目があった。
「なぁに?」
そのまま不自然に硬直するユッキーに声を掛ければ、それも一瞬、すぐにユッキーは俺から手を離す。
「そうだな……今から、どこに行くんだ?」
「職員室。凩せんせーのところ行く」
「職員室?」
「携帯をさ、拾ってきてもらってたんだよね。それでそのままだったから」
「わかった、職員室な」
そう言って俺に背中を向けたユッキーは何やら端末をいじり始める。なんとなく気になったが、すぐにその動作も終わった。
「ほら行くぞ」
急かしてくるユッキーに手招きされ、俺はそのままユッキーと部屋を出る。
自分が、ヒズミと一緒に暮らしている夢だ。
夢の中の俺は幸せそうにヒズミに笑いかけていて、ヒズミもまた幸せそうに笑っていた。だけど、その部屋から出たらそこにはたくさんの死体が転がっていた。
その中には純やユッキーといったよく知った顔もあって、そして、マコちゃんも…。
頑なに俺を部屋の外に出そうとしないヒズミに違和感を覚え、そこで気付く。
自分の首に、首輪が掛けられているのを。そしてその首輪に取り付けられたリードはヒズミの手に握られていて――そこで、目を覚ました。
「……は……」
全身が汗でぐっしょりと濡れていた。
なんだったんだ、あの夢は。震える上半身を抱き締め、竦んだ時。
「……仙道?」
名前を呼ばれ、全身が緊張した。恐る恐る声のする方を振り返れば、そこにはよく知った人が居た。
「ゆ…っ、き……?」
「どうした、喉が乾いたのか?水ならここにあるぞ」
「え…あ…ありがと」
どうしてユッキーがここにいるのかわからなかったが、言われてみれば喉が乾いた。ユッキーからグラスを受け取る。
「……ねえ、ユッキー。なんでユッキーがここにいるの?」
「なんでって、ここは俺の部屋だ。もう忘れたのか?」
言われてみれば香水臭い。ユッキーの部屋を忘れていたわけではないが、どうやら記憶が混乱しているようだ。
なんで俺がユッキーの部屋にいるのか、その経緯が思い出せないのだ。
確か、昨日の夜、俺はちゃんと部屋に戻ったはずだ。
そこまでは鮮明に思い出せるのに、その後がノイズがかったように思い出せなくて。
「…………」
「……ユッキー?」
「…いや、なんでもない。まあ、仕方ないよな。あんだけ酒飲んだんだから」
「……お酒?」
「ああ、本当に覚えてないんだな。まあ、無理もないか。お前、べろんべろんだったもんな」
そう笑うユッキー。言われてみれば頭が痛い。それに、お腹の中がごろごろして気持ち悪い。
なるほど、お酒か。通りで何も思い出せないと思ったら。
「というわけだから、今日は一日ここにいろ。まだ本調子じゃないんだろ?」
「んー、そうかも…」
じっとしているのは好きではない。
だけど、明日にはマコちゃんに会わなければならない。
そ今のうちにゆっくりして体力を回復させて、そんでマコちゃんとたくさん遊ぶんだ。
「……いっ……」
「どうしたっ?!」
「あ、いや……なんか頭が痛くて……」
言いながら、額に触れた時。布のようなものが指先に触れた。
僅かに、目の前のユッキーの表情が暗くなったのを俺は見逃さなかった。
「…あれ、なにこれ…」
「……」
なんでガーゼなんか、と言い掛けたその瞬間。
脳味噌の奥、電気が走ったような感覚が全身へ走る。同時に、断片的ながらもいくつかの記憶が蘇るのがわかった。
夜の校舎。よーへい君。せんせー。
怒られて、よーへい君と帰ろうとして、そうしたら、いきなりよーへい君が襲われそうになって…………。
「……ッ!」
全身に鳥肌が立った。
…………思い出した、昨日の夜、俺は。
咄嗟に着ていた服の袖を捲る。手首には鬱血痕がしっかりと残っていて、ところどころ摩擦により赤く腫れたそれは間違い無くなにかで縛られた痕だった。
「…仙道……」
「……ッ」
ベッドから下り、俺は洗面台へと向かう。
鏡の前、そこに映り込んだ自分を目の当たりにし、全身の力が抜け落ちた。全て、俺の記憶違いだったらよかった。
――けれど。
「…………」
そこに映った満身創痍の自分の姿に、四肢から力が抜けそうになる。
別に、殴られたことがないわけでもない。怪我だって、珍しいことでもないのに。それでも、咄嗟に脳裏に浮かんだのは明日のマコちゃんとの約束だった。
「…仙道…っ」
鏡には後を追ってきたユッキーが写り込んでいた。
俺よりも辛そうな顔をしたユッキーに、俺は納得した。
ああそうか、あの時聞こえた声は、ユッキーだったんだ。――そう思うと、自然と口元が緩んだ。
「……は」
笑いが零れた。
「…ユッキー、なんて顔してんの」
「悪かった、仙道…俺がちゃんと見張ってたら…」
「なんで謝んの?意味わかんねえ………」
言い掛けたとき、背後から抱き締められる。流石にビックリしたけど、それでも、暖かいその腕は割れ物を扱うかのように優しくて……だからだろう、いつもみたいに混乱を起こしそうに済んだのは。
だけど、
「……ユッキー、俺大丈夫だから、まじで」
「………」
「…ユッキー…」
どうしてなのだろうか。どうしてこういう時に、ユッキーは甘やかしてくれるんだ。お前は甘やかされすぎだと呆れたようななっちゃんの声が聞こえてくるようで、それでいてせっかく落ち着きかけていた胸の奥が波立つようだった。
せっかく我慢していたのに、泣いてしまった。
おまけにそんな自分のクソ情けない面を見なければならなくなるし、全部、ユッキーのせいだ。放っておいてくれればいいのに。そう思う反面、ユッキーの手にしがみついてる自分に余計馬鹿馬鹿しくなって俺はまた泣いた。
人前で泣くなんて冗談じゃない。そう思ってたのに、ユッキーの前で泣いたのは何回目だろうか。
ヒズミの奇襲に遭い、ユッキーが入院したとき。見舞いに行った時、逆にユッキーに慰められて泣いたんだった。
…あれから、何も進歩していない。
「……ユッキー」
「どうした?」
「あの、もういいから」
さっきからずっと抱き締められているお陰で涙は引込み、冷静になった今、次は言い表しようのない気恥ずかしさが込み上げてくる。
「大丈夫なのか?」
「うん、だから…」
「でも、俺が大丈夫じゃない」
そう言って、ぎゅうっと項に顔を埋めてくるユッキー。
昔はよくこうしてスキンシップを交わしていたけれど、いつからだろうか、ユッキーがあまり俺に触らなくなってきたのは。
だからだろう、昔に戻ったようなそんな錯覚を覚えたが、あの頃よりもユッキーは身長が高くなっている。
自分よりも大きい男に抱き締められていると思うと、正直硬い胸板よりも柔らかいおっぱいの方が好ましい俺からしてみればなかなか複雑だ。
「ちょっと、ユッキー…」
「山岸拓哉」
「…は?」
「お前に手を出した糞野郎。…この間、お前にちょっかいかけたやつと同じ野郎だ。二年C組。昨夜から部屋に戻っていなくて教室にも顔を出してない。……他の奴らに探させてるけどまだ見つかっていない」
「…………」
「…悪い、あの後逃してしまった。血まみれの仙道を放っておくことが出来なくて」
「だから、別にいいって」
山岸拓哉。
この間のラウンジ、ユッキーが見せてくれたあの生徒名簿を思い出し、腸が煮え繰り返りそうになる。
今度会ったら、絶対潰す。
「…仙道」
「なぁに?つか重いんだけど」
「山岸拓哉の方は俺に任せろ。お前は余計なことしなくていいからな」
「…なんで?」
「お前のことだ、どうせまた自分で殴り込みに行こうとか考えてるんだろ」
図星だ。正直、この前はよーへい君を庇っていたせいで本調子出すことは出来なかったが、あの程度、一対一なら潰すことくらい出来る。
そんな程度のやつに見下された上、やられっぱなしだけ嫌だった。腹の虫が収まらない。
「絶対ダメだ、お前は何もするな」
ユッキーはそれを許そうとしてくれない。
「なにそれ、また俺がやられるとでも思ってんの」
「そうじゃない。そうじゃないけど、あいつは俺が殺す」
静かな声。その口調とは裏腹に言葉の裏には確かにドス黒いものが渦巻いている。
「仙道の傷を抉るやつは全員俺が殺す。だから、お前はとにかく怪我を癒してくれ」
「なにそれ、ユッキー怖いよ?」
「…」
「ちょっと…」
なんでそこで無言なんだ。ユッキーの方を振り返ろうとした時、どっかからバイブ音が聞こえてくる。
ユッキーの携帯だろう。それをガン無視しても尚俺から離れようとしないユッキーに流石に呆れ、「ユッキー」とその手を叩けばようやく俺から離れてくれた。
「…はい」
携帯片手にそのまま部屋の隅へと移動するユッキーを横目に、俺は自分の額に触れる。ユッキーが冷やしてくれたのだろう。熱は大分引いているようだが、やっぱりまだ少し痛む。
マコちゃんち、楽しみにしていたんだけどなぁ。この顔をマコちゃんに見せたらきっとマコちゃんは卒倒するだろう。
あのマコちゃんのことだ、ビックリして腰抜かしちゃうかもしれない。痛みも顔がどうなってようが俺にとって些細なことで、問題ではない。
だけど、マコちゃんを心配させるような真似はしたくなかった。
「……はぁー」
マコちゃんには今夜までに断っておこう。
マコちゃんに電話しようと思ったら携帯ねーし、よくよく考えてみれば昨日はそのためにわざわざ校舎へ向かったんだった。
面倒臭いなあ、もう。また取りに行かないといけなかなー。なんて、思った時。部屋の扉が開く。
「仙道さんッ!」
喧しいのが一人、また増えた。
「あれー純、おはよ」
「仙道さん、その傷」
まるで幽霊でも見たかのように固まる純。
ほんと、失礼だな~なんて思うけど、正直、見られたくなかった。純には。
「ああ、これ?大丈夫だって、ほら、こんくらい」
だってほら、なんて言ったって純の顔は強張ったままだし、それどころか益々顔付きが険しくなっていくし。
「……ッ」
だけど、前よりかはましだろう。
前の純だったら俺の怪我を見るなり「何勝手に傷つくってんだてめぇ」とブチ切れていただろうし。
なんて、拳を握り締め必死に腹の中の何かを堪えているであろう純を見ていた矢先だった。
「クソがっ!」
思いっきり、壁を殴りやがった。
凄まじい音ともに、お世辞にもあまり丈夫にできていないそこにはぼこりと穴が空く。
うわー、今回おとなしいと思ったらやっぱりやりやがった。
「おい!何やってんだお前!」
部屋の持ち主であるユッキーは穴がぼっこり空いた壁を見るなり「うわぁ」と青褪める。
「俺の部屋に当たるなっていつも言ってんだろ!」
「うるせえ!山岸を逃しやがって!」
ヒートアップする純。
山岸を逃したのはユッキーが俺を優先した結果だ。そのお陰で、少しは楽になっているのも事実だし、一方的にユッキーが責められるのは見ていられない。
「ちょっと純」
「あんたもあんただっ!フラフラ出歩くなっつってんだろいつもいつもッ!」
やべー今度は矛先俺に向いた。これはヤブ蛇だったかな、なんて思いながら、胸倉を掴まれる。
純相手に殴り合う気力も戻っていない今、取り敢えず純を落ち着かせることを優先させることにした。
「第一、なんで俺を呼ばなかったんだよ!」
「だって、携帯失くしたんだもん…」
「だもんじゃねーよ!携帯ねえなら大人しくしろッ!この脳天気野郎が!!」
確かに俺に非はあるが、なぜもこうも後輩からここまで罵倒されなければならないのか。
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「おい、純、悪いのは俺だろ。…仙道に当たるのは勘弁してやれ」
仲裁に入ったユッキーが、俺から純の手を引き離した。
それが更に純の癪に障ったようだ。ユッキーの手を振り払った純は、ユッキーを睨み付ける。
「あんたもあんただ…っ、甘すぎんだよッ!こんな状況でこいつの自由行動許してんじゃねーよッ!日和ってんじゃねえっ!」
そう言うなり、純は手に持っていた何かをユッキーに投げ付ける。
それはビニール袋のようだ。びっくりしながらもユッキーがそれを受け止めた時、純はそのままユッキーの部屋を出ていった。
純の言葉は正直もう、痛いくらい理解できた。
できたけど、それとこれとは別なのだろう。危機感がなさ過ぎるとつい最近純に怒られたばかりだし、純に言われた通り俺は日和っていたのかもしれない。
「…仙道」
「ん?」
「ほら」と、ユッキーが俺に差し出してきたのは俺が前よく飲んでいた栄養ドリンクだった。
「純からだとよ」
そう苦笑するユッキーに、俺は少しだけ固まる。そして、渋々それを受け取った。
「あいつも、悔しがってんだよ。俺なんかよりもずっと責任感強いからな」
ひやりとしたペットボトルには水滴が滲んでいる。ここに来る途中、どんな気持ちでこれを買ってきてくれたのだろうか。
なんて、考えたら胸の奥がきゅうって痛くなって、冷たいそれを握り締めた俺は「知ってる」とだけ呟いた。
取り敢えず、携帯を取りに行かないと。と、思うけど。
「ユッキー」
「ん?」
「行きたいところあんだけど」
「…駄目って言っても行くんだろ?」
「よく分かってんじゃん」
笑い返せば、ユッキーは困ったようにため息を吐く。
まじで困ったような顔。
「その代わり、俺も行くから」
「いいよ、別に」
「行くからって言ってんの、俺は」
「はいはーい、わかったよ」
別にユッキー来てもいいと思う。
正直、ちょっとだけ自分の腕に自信無くなってきたっていうのもあるけど、悔しいから言いたくない。
「仙道」
立ち上がろうとした時、何かを羽織られる。
ユッキーのパーカーだ。背中部分の悪趣味なイラストには見覚えがあった。
「それ、着とけよ」
「えー、暑いよこれ」
「いいから着とけ」
それしか言わないユッキーにむっとしたが、袖を捲った時、腕に残った無数の指の痕が視界に入り、一瞬息が詰まる。
なるほどね、と思いながら「汗臭くなってもしらないよ」と俺は袖を戻す。
「ほら、ちゃんと着ろよ。だらってなってんぞ」
「着てるし。ユッキーのがでかいんだって、これ」
「いーや、仙道が細すぎるんだろ」
いつも通りのユッキーだ、と思いながら視線を上げた時、不意にこちらを見下ろしていたユッキーと目があった。
「なぁに?」
そのまま不自然に硬直するユッキーに声を掛ければ、それも一瞬、すぐにユッキーは俺から手を離す。
「そうだな……今から、どこに行くんだ?」
「職員室。凩せんせーのところ行く」
「職員室?」
「携帯をさ、拾ってきてもらってたんだよね。それでそのままだったから」
「わかった、職員室な」
そう言って俺に背中を向けたユッキーは何やら端末をいじり始める。なんとなく気になったが、すぐにその動作も終わった。
「ほら行くぞ」
急かしてくるユッキーに手招きされ、俺はそのままユッキーと部屋を出る。
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