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CASE.07『同業者にご注意』

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 どんな顔をすればいいのか、どんな風にナハトと顔を突き合わせればいいのか。
 そんなことを考えたのは、あの日以来だ――ナハトに初めて、その、あれやこれをしたとき。
 あの時の自分はどんな風に乗り越えたのだろうか。そんなに遠い記憶でもないのに、こんな肝心なときに思い出せないのだ。この脳味噌は。
 結局終始頭の中は真っ白のままシャワールームを後にすることになる。
 恐る恐るリビングルームを覗けば、ナハトがソファーに腰をかけていた。俺が戻ってくるのを待っていたようだ。思いっきり目が合ってしまう。

「あ、な、ナハトさん……」

 もう起きて来たんですね、とか。もう少しベッドでゆっくりしててもよかったんですよ。だとか。
 そんな気の利いて言葉を言いたかったけど、ナハトの顔を見るとどうしても意識してしまってうまく話すことができなくなってしまう。
 何か言わなきゃ。そう思えば思う程頭は真っ白になってしまう。

 俯いたとき、足元にナハトの足が映り込んだ。陰る視界。目の前に立つナハトに心臓の音は先ほどよりも一層大きくなった。

「な、はとさ……」
「ねえ、なんで目ぇ合わせないの」

 俯いた頭の上から落ちてくるナハトの声。
 昨夜のように強引に顔をお上げさせられることはなかった。けれど、だからこそ余計頭が真っ白になる。
 ナハトが俺の言葉を待ってると分かったからこそ、余計に。

「あ……っ、そ、れは……」
「……」
「あ、あの……」
「……」
「……っ、……お、俺……――」

 そう言葉に詰まったとき、ふと影が動いた。
 ナハトが俺から離れたのだ。そして、

「……分かった」

 そう、ナハトは呟く。
 一瞬何を言っているのかわからなかった。つられて顔を上げたとき、ナハトが見たことない顔をしていた。怒りとも、無表情とも違う。ほんの一瞬、その顔がなんだか傷ついているように見えたのだ。
 一体何が分かったというのか。俺はまだなにも、何一つちゃんとナハトに伝えられていないというのに。

「……っ、ナハトさん、ま……待ってください」

 気付いたら、俺はそう離れようとしていたナハトの腕を掴んでいた。
 驚いたように丸くなったナハトの目がこちらを捉える。心臓は相変わらず痛い。顔だって、こんなに火照ってるのはシャワーを出た後だからという理由だけではないはずだ。
 それでも、先までは見るのがあんなに怖かったナハトの顔が見れた。自分が傷つくだけならまだいい、けれど、俺のせいでナハトにあんな顔をさせたくなかった。

「お、俺は……その、う、嬉しかったです」
「……なにが」
「あ、えと……ナハトさんに好きだって、そう言ってもらえたのは」

「ですけど、その、お恥ずかしい話、俺はそういう経験はなくて」だから、どういう反応をしたらいいのか。どう答えればいいのかわからなかった。そう、しどろもどろと言葉を探りながら伝えれば、ナハトは「知ってる」とぽつりと呟いた。

「て、え……?! な、なんで知ってるんですか……?」
「そんなの、お前の反応見たらだれでも分かると思うけど」
「そ……それは……」

 ……否定できない。

「確かに、ナハトさんみたいにそういった経験はありませんけど……」
「俺だってないけど」
「そうで……――え?」

 さらっととんでもないことを口にするナハトに、思わず俺は目の前の男を二度見した。
 どこか怒ったような、イラついたような、そんな顔をしたナハトはこちらを睨んでいた。若干顔が赤い。

「だから、昨日も言ったはずだけど。……どうでもいいやつなんか相手しないって」
「え、でも、それは言葉の綾ってやつでは……」
「そんなわけないだろ」

 はあ、と深く息を吐き出し、「あーーもう!」とイラついたようにナハトは髪を掻き毟る。
 そんなナハトの反応に、まさか、と俺は思考を止めた。俺はてっきりその、そういう経験の話しだけだと思っていた。
 けど、この滅多に見ないナハトの取り乱し方からして、もしかして。これはまさか。
 一頻り唸ったかと思えば、ナハトにがっちりと両肩を掴まれる。そして、顔を真っ赤にしたナハトがこちらを睨んでた。

「俺だって……誰かにこんなこと言うの初めてだって言ってんの」
「それって……」
「――アンタが、初めて」

「全部」と、ナハトの唇が小さく動く。
 今にも破裂しそうなほど心臓は激しく脈打ち、血液が全身へと押し出されるような感覚に目の前が眩む。
 俺はまだナハトの告白を受け止め切れてなかった。正確にはちゃんと向き合おうと思ったが、それを受け止めるにはまだ俺の経験値が足りな過ぎたのだ。

 口を開いたまましばらく動くことが出来なかった。
 そうなると、必然的に沈黙になってしまうわけで。ナハトと無言で見つめあうという、謎の間がそこにできてしまう。

「……なにか言えよ」

 そんな沈黙に先に折れたのはナハトの方だった。
 ナハトに促され、俺は「あの、えと」と言葉を探る。言いたいことは色々ある、けれどやはり今キャパオーバーになった俺の頭ではうまく言語化することはできなかった。

「あの、すごい意外でした……」
「意外って、なにが」
「その、お……俺に伝えてくれたのが、そういうのが初めてだって」

 嬉しかったです、という言葉は萎んでしまい、ちゃんとナハトの耳に届いたかはわからない。
 意外ではあったが、言われてみればと妙に納得できる自分もいた。
 ナハトは見るからに人嫌いそうな一面もあるし、こうやって俺と過ごしてくれるだけでも兄の命令があったからとは言えど奇跡のようなものだったのかもしれない。
 そんなナハトが勇気を出して気持ちを伝えてくれたと思うと嬉しい、という気持ちはあった。だけど、やはりそれ以上に『どうして』という気持ちが強くなっていくのだ。
 そんな俺の表情からナハトもなにか汲み取ったのだろう。
 そのまま頬をうり、と撫でられ、そのままやんわりと顔を上げられる。

「あ、の……ナハトさん」
「俺のこと好きなのに、嬉しいのに……なんでやなの」
「い、嫌じゃないんです……っ、その、ナハトさんは悪くない……ので」

 拗ねた子供のような顔をしたナハトに慌てて答え、先ほどまでもやもやとしていた自分の気持ちがくっきりと浮かび上がる。
 ――そうだ、これは俺自身の問題なのだ。
 そう改めて自覚した瞬間、あれほどちぐはぐになっていた感情がどんどんまとまっていくのが分かった。
 だから俺は「ナハトさん」と目の前のナハトに向き直る。そのままぎゅっとナハトの手を握りしめれば、「なに」と、ナハトは僅かにたじろぐ。そして。真っ直ぐに俺の視線を受け止めてくれるのだ。

「お……俺、ナハトさんの隣に並んでも恥ずかしくない人間になります……っ! だから、その……へ、返事はもう少し待っててください」

 ――言ってしまった。
 バクバクと耳の後ろから心音が聞こえてくる。恥ずかしいし、緊張する。けれど、それはナハトも同じだったのだと思うと耐えられた。
 俺の決死の言葉に目を見開いたまま固まっていたナハトだったが、やがてその表情は崩れるのだ。

「……っ、ふ」

 そして、ナハトは小さく噴き出す。綻ぶように柔らかくなる表情に、心臓がより一層煩くなるのが自分でも分かった。

「わかった。……期待せずに待っといてやるよ」

 それもほんの一瞬のことで、瞬きした次の瞬間にはあいつもの意地の悪い顔をしたナハトが俺の頬を揉み、そしてその手は離れた。
 触られた箇所はまだじんじんと熱を持っているようだった。暫くその場から動けない俺を他所に、そのままソファーへと腰を掛けるナハト。

「いつまでぼさってしてんの。……さっさと準備済ませろよ」

 お腹減った、と野次飛ばしてくるのはいつものナハトだった。
「は、はい!」と慌てて頷きながら、俺はあまりのナハトのいつも通りっぷりにもしやさっきまでのやり取りもすべて俺の夢だったのではないか、と自分の頬にそっと触れたがじんわりと熱くなったその頬の感触は間違いなく夢なんかじゃなかった。
 俺が自信が持てるようになるまで、ちゃんとナハトに向き直れるようになるまで、ナハトは今までと同じように接してくれる――ということなのだろう。
 俺がナハトの立場だったらきっと耐えられないだろう。それでも、その選択をしてくれたナハトのことを考えると余計俺はいつも通りというのがわからなくなってしまった。

 それから、朝食はナハトがルームサービスで頼んでくれたものを部屋で二人で食べることになった。
 普段だったら仕事前は社員食堂に寄っていたのだが、ナハトが「ほら、頼んで」と問答無用で注文ページが開かれたタブレットを押し付けてきたのだ。
 もしかして二人で食べたかったのだろうか、なんて言ったらまたナハトになにか言われる気がしたので黙っておくことにしたが、俺は久しぶりにゆっくり二人で顔合わせて食事することができて素直に嬉しかったりもした。

 それから、俺も着替えて出勤する。
 例の如くナハトに営業部前まで送ってもらったあと、「ありがとうございました」とお礼を言えば「ん」とだけ応えてナハトはそのまま姿を消した。

 なんだろう、なんだろうかこの感じは。
 いや、喧嘩したときみたいな重たい空気よりかは全然いいはずなのに、やはり未だ慣れないというか。
 ナハトの告白を保留にしてしまったのは俺だし、ナハトも今まで通りに接してくれてるつもり……のようだが、やはり違う。
 トクトクと脈打つ心音が周りに聞こえてはいないか緊張しながらも、俺は営業部の扉を潜った。
 そして、そこには意外な人物がいた。

「よう、良平」
「ああ、おはようございます。良平君」

 この時間帯の営業部には珍しく、貴陸と――それから安生がいた。
 ぴっしりとスーツを着た安生は一瞬誰だかわからなかったが、緊張感のない話し方や目の下の隈、ゆるりとした雰囲気から安生だと分かった。
 どうやら二人だけのようだ。

「あ……貴陸さん、安生さん、おはようございます」
「早起きじゃありませんか。それとも、ずっと起きてたんですか?」
「やめろよ安生、うちの新人虐めんのは。良平は毎回きちんとこの時間帯にきてくれるんだぞ」
「なるほど、それはいいことですね」
「あ、ありがとうございます……っ!」

 褒められてるのだろうかと慌てて頭を下げれば、安生は「相変わらず元気ですね」と笑う。
 それにしても、二人とも随分と親しげだ。
 ナハトやノクシャス、モルグを除いた他の社員たちは皆、安生に一目を置いているようだったのでなんとなく意外だった。
 二人を見てると、俺の視線に気付いたらしい。目があって「ああ」と安生は目を細める。

「もしかして、なんでお前がいるんだ……って思ってます?」
「あ、いえ、お前なんて……っ!」
「冗談ですよ、冗談。……今日はちょっとした野暮用でしてね」
「ほら、良平昨日言っただろ? 査察官の話」
「あ、はい……ってことは、もしかして」

 そこで点と点が繋がる。貴陸の言葉に釣られて安生を見上げれば、にっこりと笑った安生は「つまりそういうことなんです」と声を抑えるのだ。
 仮にも立場的にトップに近い安生が自ら査察官になるなんて。
 けど確かに会社全体の信用に関わる問題だしな、安生が出てくるほどの大きな問題なのだろう。
 だから安生がちゃんと正装してるのか、と納得する。

「まあ今日の私はただの査察官ですから。あまり気にしないでくださいね」
「は、はい……」
「本当無茶言うよな。……ってことで、良平。今日一日望眼のやつは借りるけど、一人で大丈夫そうか?」

 そうか、望眼は挨拶回りがあるのか。
 人数も多いって言ってたし、相当大変なのだろう。こればかりは仕方ないし、俺だっていつまでも望眼に頼ってばかりでは駄目だ。
 そう覚悟を決め、「はい」と頷けば貴陸は快活に笑った。そして「いい返事だ」と背中を叩かれる。吹き飛びそうになり、「力加減をしてください」と貴陸が安生に叩かれてた。
 俺の体幹が弱いばかりに申し訳ないことをした。

 ひと悶着ありつつ、気を取り直した貴陸は小さく咳払いをする。

「お前のタブレットに新しい担当のデータ送ってる。一連の流れはわかるだろ? ファーストインプレッションが大事だからな」
「……っ、は、はい! 頑張ります!」

 まさかこんなに早く新しい担当を貰えるとは思えなかった。
 サディークの件を払拭できるよう、今度は頑張らなければ。そう声をあげれば、安生は少し妙な笑い方をした。

「ええ、頼みましたよ。……きっと、貴方が適任でしょうから」
「……? は、はい……っ」

 どういう意味なのだろうか。
 そのときはあまり深く考えなかったのだが、二人を見送ったあと、新しい担当のデータを確認してから俺は安生の言葉の意味を理解する。

『トリッド』――そこにはフードを被った赤髪の男の顔が表示されていた。
 紅音朱子が次の俺の担当になる。

 そして、安生も恐らく俺と紅音の関係を知っててあの反応だったのだろう。
 少し驚いたが、とにかく自分にできることをやるまでだ。


 ――安生と貴陸を見送ったあとの営業部にて。
 早速俺は紅音の連絡先に担当になった旨のメッセージを送ることにした。
 そして一息つき、返信が帰ってくるまで待つ。

 紅音のこと、兄が手を回してくれたのだろうか。
 気になったが、そうでなければ訳ありである紅音を俺に近付けないだろう。兄がそれを良しとしないからだ。
 そこまで考えて、最近兄と会ってないことを思い出す。忙しいのだろうが、なんだかホームシックのような気持ちになりかけるのを必死に堪えた。

 それから、タブレット端末がメッセージを受信してることに気付く。慌てて確認したら、それは紅音からではなくサディークからだった。
 前回と同じように、今日会えないかというメッセージが入っていた。

「う、うーん……」

 またサディークから連絡があったら望眼は自分に教えろと言っていた。しかし、今日は望眼が忙しいだろう。

 けれど、今回を逃したらまた会えなくなるかもしれない。
 一応サディークに会って、俺の方から望眼に担当が変わったということを説明した方がいいかもしれない。サディークにはそれから望眼に会ってもらえばいいだろう。
 そう思い、俺はサディークに「大丈夫です」と返事を送る。

 それからサディークとは昼飯の約束をすることにした。
 望眼から注意されたことを念頭に置き、念の為人が多い場所を待ち合わせに指定する。それから、食事する場所は俺が決めていいという許可ももらった。
 社内の食堂ならば、流石にサディークと変な感じになることはないはずだ。
 そう、サディークに返信すればサディークは了承してくれる。

「……」

 仕事中ではあるけど、一応望眼にもサディークから連絡あって会うことにしたと伝えておくか。
 勝手に会いに行くなと怒られるだろうか。なんて思いつつ、取り敢えず望眼にメッセージだけ送り、俺はサディークとの予定の時間まで執務室の掃除をして時間を潰すことにした。


 ◆ ◆ ◆


 昼下り。俺は執務室を後にし、サディークとの待ち合わせのため本社のフロントまでやってきていた。
 あのあと望眼から連絡があり、すごく心配していたが一応本社の社員食堂で会う予定だと伝えると一まずは納得してくれたようだ。
 『ホテルにはついていくなよ』と念押しされて、そんな望眼さんじゃあるまいしと喉元まででかけて「分かりました」とだけ応える。

 というわけでサディークを待つこと暫く。
 サディークに会ったときの謝罪のシュミレーションをしていると、いきなり背後から「あ……」と声が聞こえてきた。

「……良平」

 気のせいかと思ったが、気のせいではなかった。
 名前を呼ばれ、慌てて振り返ればそこには背の高い男がいた。
「サディークさん」とその人物の名前を口にすれば、話しかけづらそうにしていたサディークは目を泳がせる。

「わ、悪かった……いきなり呼び出して」

 そして、俺が謝ろうとする前にサディークに先越されてしまう。
 久しぶりに会ったサディークは以前よりも顔色が悪そうだ。周りの目を気にしてるのか、なんだか落ち着かない様子のサディークが気になったが、サディークに謝らせてばかりなのもおかしい気がして。

「いえ、こちらこそ……この間はサディークさんに失礼な真似をしてしまってすみませんでした!」
「うわ、なに謝ってんの」
「……その、ずっと直接謝りたかったんです。俺の方から誘うような真似をしておいて、サディークさんを避けるような真似……」
「あーストップ、待って、声でかいって良平……っ!」

 咄嗟に、赤くなったサディークは慌てて俺の口を塞ぐ。そして、触れてしまったことに気付いたらしい。慌ててサディークは俺から手を離した。
 それから、バツが悪そうに俯くのだ。

「いや、あれは……十割俺のせいだから。その、もう……触らない」

「俺の方こそ、この間は悪かった」とそっぽ向いたままサディークはぼそぼそと謝罪を口にする。
 何を言っても許してもらえないだろうと思っていただけに、サディークの方からそんな風に言ってもらえるとは思わなくて驚いた。

「さ、サディークさんは悪くないです……っ! あの、確かにその……びっくりしたんですけど、元はといえば……」
「ねえ待って、そこ掘り下げなくていいから」
「あ、すみません……俺また……」

 謝罪に謝罪を重ねてしまう俺を見兼ねたように、サディークは気を取り直すように咳払いをする。
 それから、先程まで天井や柱を見ていたその目がこちらを向いた。

「……取り敢えず、移動しよっか。……ここじゃ落ち着かないし」
「は、はい……」

 取り敢えずサディークに許してもらったということに気が抜けてしまいそうだった。いけない、一応これも仕事の一環なのだ。
 いつまでも望眼に頼ってばかりではいけない。今回はちゃんとサディークとこれからの話もしないといけない。
 そう気合を入れ直し、俺はサディークとともに場所を移動することにした。



「………………」
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