人生の汚点様

田原摩耶

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「……っ、な……」

 ――最悪だ。最悪だ。最悪だ。
 最も会いたくなかった相手に見つかってしまった。

「あれ、幸永君だよね? 明日真君のお友達?」

 糺君が大聖のことを知ってることにも驚いたが、そうだ。大聖のやつ、良くも悪くも目立つ男だったのだ。
 俺のことを知ってるくらいなら香春と繋がってる糺君が大聖のことを知ってても不思議ではないが――今はそんなことを言ってる場合ではない。

「友達なんかじゃないよ」
「そうそう、お友達みたいな薄っぺらいもんじゃないよな」

 目の前までやってきた大聖に思わず後退りそうになるのを堪えた。逃げ出したいが、こんな大勢の人前、おまけに女子もいる中そんな情けない姿は晒したくないという虚栄心の方が勝った。

「なんのようだ? ……見ての通り、今お取り込み中だ」
「お取り込み中なぁ? ……見ない内に随分と趣味が変わったな」
「お前には関係ないだろ。お喋りしたいだけなら他を――」

 当たってくれ、と大聖をあしらおうとした矢先だった。いきなり顎を掴まれる。
 嫌な予感がし、「なに、」と口を開いた矢先だった。視界が影で塞がれる。そして、ぬるりとした熱をもった肉厚な舌先が唇の上を這う。
 ――舐められた。

「っ、ふ、ざけ……っん、む……っ!」

 ふざけんな、という怒声すらも大聖は全て口ごと塞いできたのだ。辺りから聞こえてくるきゃあという女子の悲鳴にも似た声や雑踏が遠くなる。

「ふ、……っ、ぅ……っ」

 ――長い。
 にゅる、と唇を割って入り込んできた舌に、堪らず大聖の胸を叩いた。けれど、この男はちょっとやそっとじゃやめなかった。

 ――人が、見ているのに。いや、そんな問題ではない。それも問題ではあるが。

「ぅ、む゛……っ、ふー……っ!」

 舌から逃げようとするが、後頭部にがっちりと回された手のひらがそれを許さない。歯列から歯茎、上顎まで濡れた舌で隈なく舐め上げられ、次第に酸素が薄まっていく。

 馬鹿学生が馬鹿をしてるなという大人たちの冷めた目、大はしゃぎしながらスマホのカメラをこちらへと向ける女子たち。
 そして、ぽかんとした糺君――周囲の人間に見せつけるかのように執拗にキスをする大聖に、俺はもうとっくに我慢の限界を超えていた。
 喉の奥まで入り込んでこようとする大聖の舌に思いっきり噛みつこうとした瞬間、奥で窄まっていた舌を絡め取られた。ぐちゅ、ぐち、と粘着質な水音が咥内に響く。
 舌先の表面の感触を味わうように先っぽから根本まで蛇のように絡みついてくる舌先に、最早逃げることもできなかった。
 腰が震え、そのまま四肢から力が抜け落ちそうになったとき、大聖の腕が腰に回される。冷ややかな笑顔を浮かべたまま、大聖は糺君に視線を投げかけた。

「俺とこいつはこういう関係だ。なあ? 」
「……っ、は、ふ、ざけ……っ、んな……っ!」
「ふざけんなはこっちのセリフだろうが。……俺からは逃げたくせに、よくノコノコ男選びやがって」

 周りからは聞こえないような声量で囁きかけてくる大聖。腰を抱いていた手に尻を鷲掴みにされた瞬間、ドクンと大きく心臓が脈打った。
 やめろ、と必死に大聖の腕を掴み、引き剥がそうとしたときだった。

 喧嘩でもしてると思ったのだろうか。騒ぎを聞きつけた駅員さんがやってくるのを見て、大聖は舌打ちをする。その瞬間、確かに隙きができた。
 俺は大聖の胸を強く押し退け、それから糺君の手を取った。

「おい、明日真――」

 顔も見たくないし、声も聞きたくない。
「明日真君」と驚いた顔をする糺君に「行こう」とだけ返し、俺はその場を脱兎の如く逃げ出した。

 後ろを振り返って補導される大聖を見て笑う余裕もなかった。いち早く唇の感触を忘れたかったが、何度袖で拭っても、まだ口の中でやつの舌が蠢いているような気分だった。



「……っ、本当にごめん、糺君。……あいつのせいで、邪魔されて」
「確かにビックリしちゃったけど、気にしないで。それに、かっこいい人たち同士のキスシーンって寧ろ目の保養になるし?」

 ね、と微笑んだ糺君はそのまま俺の背中をよしよしと撫でくれる。

 ――何故、フォローしなければならない俺が逆に慰められているのだろうか。

 とにかく、また町中を彷徨いてる間に大聖に鉢合わせたくなかった俺は、大聖が嫌いそうな静かで落ち着いた雰囲気のカフェに入ることになったのだけど……。

「……はぁ」
「落ち込んでるねえ。それにしても、幸永君って男の趣味もあったのは驚いたなぁ」
「ち、違っ。あいつはただ、俺への当てつけだ……本当最悪……」
「そうなの? その割にがっつり舌絡めてた気がするんだけど」
「………………ごめん、糺君。もう忘れてくれ」

 そこまでしっかり見ていたのか。悪気はないのかもしれないが、グサグサと触れられたくないところばかりに触れられて胸が苦しい。
「あ、ごめんね」と慌てて口を手で抑える糺君は、そのまま「これ飲んで元気出して」とやけにカラフルなパフェを差し出してくる。

「いいの? せっかく頼んだんじゃ……」
「いいよ、いいもの見せてもらったお礼――じゃなくて、俺からの気持ち」
「糺君――」
「あと、さっき言いそびれちゃったけど。俺のこと呼び捨てでいいから」

 ね?と小首を傾げる糺君。
 なんか色々ぽろりと溢れていた気もするが、糺君の気持ちは素直に嬉しかった。
 俺は「ありがとう」とそれを受け取る。
 ……うお、重いな。

「それで、明日真君。この後のことだけど……大丈夫?」

 むぐ、とクリームの塊から一口分スプーンで掬いとったとき、糺君は上目で尋ねてくる。隣り合う席。椅子を寄せ、ぴっとりとくっついてくる糺君に少しだけギクリとした。

 ――これは、多分、そういうことに対する確認だろうか。

「気分乗らなかったら無理しなくても、また別日に予定作ってくれたら俺は嬉しいし」
「……いや」
「ん?」
「……寧ろ、今、一人になりたくないかも。……俺」

 それは本音でもあった。
 糺君の雰囲気や、なんでも素直に話してくれるところに感化されてしまったのかもしれない。或いは、生クリームの甘ったるさ故か。
 ぽつぽつと呟けば、糺君は少しだけ驚いたようにその目を更に丸くした。――それから、そのままそっと俺の頭を撫でてくれるのだ。

「そっか。……よかった。じゃあ、俺が一緒にいるね」

 可愛い顔をしてるのに、時折見せる顔は男なのでやはり不思議な感覚だ。けれど、こうして人に素直に甘えたりすることを今までしてこなかった分、受け入れてくれる糺君になんだか不思議な気分になっていた。
 イライラと不安、高揚感と、糺君の包容力、甘えさせ上手が重なって、なんだかいい夢を見てる気分だった。
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