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ハルベル・フォレメクという男

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 リシェス様の死によって繰り返される世界だって?
 そんなもの存在して言い訳がない。俄信じがたい言葉の羅列にただガンガンと頭が揺さぶられる。

 だとして、この手帳はなんなのだ。記憶がない間に僕が自分で書いた?何日も、何周も繰り返して?
 ――だとしたら余計、何故ここにあるのだ。
 今この僕は今日という日を何回迎えた僕なのか。

 ズキズキと脳の奥が痛み出す。頭を使うべきではないと分かってても、手帳を手にしたまま脳は煙を上げそうなほど巡る。

 この手帳は、誕生日にリシェス様が下さったプレゼントだった。リシェス様と同じ学園で学生の身分として入学するに当たって、リシェス様がくれた。
 それまで僕は手帳を付ける習慣などなかった。記憶力には自身があったからだ。
 ……それが関係してるというのか。
 そして、こうして他の世界線の僕が記録した文が残っているということはこの手帳は唯一他の世界とも共通して存在してるということだ。

 それがどういう原理なのかと考えたら脳から火が吹きそうだ。そんなとき、目を離した隙きに手帳に新たな文が追加された。

『アンリが見ている』

 背筋が凍りつく。咄嗟に手帳を閉まった。そして引き出しに施錠を掛ける。施錠した本人にしか開けられない鍵をかけるのだ。

 バクバクと心臓が騒ぎ出す。部屋の中、あの男がいないことを確認した。薄暗く、仄かなランプの明かりに照らされたそこには当たり前だが人気はない。
 はずなのに。

「……」

 じっとりと汗が滲む。部屋中の空気が幾らか下がったような気がした。
 心臓にあいつの目を埋め込まれてるような嫌な感覚だ。この感覚には覚えがある。明確に言葉にできないが、あの男に対する忌避感はもっと本能的な部分だ。

「……っ、リシェス様」

 こうしてはいられない。
 あの手帳に書かれた言葉を鵜呑みにするのならば、このままではリシェス様が死ぬ未来は避けられないということになる。
 ――ならば、どうしたらいい。考えろ。

 そもそも、リシェス様は知ってるのか。気付いているのか。ここ最近のリシェス様は確かに疲弊されていたが、もしリシェス様は全て一人で抱え込んでいたとしたら。

 そう考えたら居ても立ってもいられなかった。

 ――リシェス様に会いに行かなければならない。

 そう使命感に煽られた僕は上着を羽織り、部屋を出る。とうに消灯時間を過ぎた寮内は真っ暗闇に覆われていた。

 ひたひたと僕だけの足音が響く。そのままの足取りでリシェス様の自室前までやってきた僕はそのままリシェス様の扉で立ち止まる。そして、そのまま扉を叩こうとしたときだ。

 パチリと頭の中で光が弾けた。
 そして、次に視界を埋め尽くした白が消えたとき。

「……あれ?」

 ――なんで僕はリシェス様の部屋にきてるのだろうか。
 こんな夜分遅くに、何故。それも、汗を掻くほど急いで。

 なぜだ、と考えたとき、左腕に痛みが走る。なんだこの痛みは。いつの間に怪我をしたのだろうか、と思いながら着ていたシャツの袖を捲くった時、息を飲んだ。
 怪我どころか巻いた覚えのない包帯で覆われた腕を見てぎょっとする。そこには歪な赤い血が滲んでいた。まだ癒えていないようだ

 ただの切り傷では見ない出血量にぎょっとし、俺は咄嗟に包帯を解いた。そして、包帯の下、腕に切り刻まれた文字を見て凍り付いた。

『アンリを殺せ』

 ……まるで悪い夢を見ているようだった。
 誰がこんな傷を付けたのか考えたくもない。けれど、可能性からして『僕自身』だ。
 そして、それに宛てられたメッセージも僕へのものになる。

『お前は操られている』

 はらりと落ちる包帯を締め直そうとしたとき、目の前の壁に文字が浮かんだ。刃物で切り刻んだような文字だ。
 これは、幻覚なのか。脳がイカれているのか。気付けば僕の手には刃物が握られていて。たった今僕がこの手で彫ったというのか。なんだ、これは。知らない間に知らない僕が現れている?

「……っ、……」

 分かることは、ただ事ではないということだけだ。記憶が飛ぶときの間隔もどんどん短くなっている。

 昼間、気付けば僕は校舎裏に突っ立っていた。
 空白の時間にもう一人の僕が確かに存在していたとすれば、合点が行く。個人の中には複数の人格やそれぞれの記憶を保有する者もいるということは知識にあった。
 自分がそうだとは知らなかったが、これは明らかに『異変』だ。

 こんな血腥い体でリシェス様に会っていいのか分からなかった。けれど、嫌な予感がしたのだ。考えるよりも先にリシェス様の部屋の扉を叩く。
 けれど反応はない。

「……リシェス、様……」

 恐る恐るドアノブを掴んだ瞬間、激痛にもにたような感覚が手のひらから全神経に走った。咄嗟にドアノブから手を離しそうになったが、僕はそれを無視して一気に扉を開いた。瞬間、眩い色とりどりの光が視界を埋め尽くした。眼球を刺すようなほどの強烈な光に堪らず目を覆う。しかし、網膜に焼き付いたそれは目を閉じてもずっと瞼裏に存在していた。

「……っ、リシェス、様……」

 やがて光が収束していったとき、その部屋の向こうには見慣れた光景が広がっていた。椅子に腰をかけ、紅茶を口にしていたリシェス様は「何を突っ立っているんだ」と不思議そうにこちらにその目を向ける。

「……リシェス様、何故……」
「何故とはなんだ。それより、早くこっちにきたらどうだ。……やはり、お前が淹れた紅茶じゃなければ物足りない」
「……、……」

 これは、夢なのか。この時間帯にリシェス様が起きているはずがない。のに。

「――ハルベル」

 その唇で名前を呼ばれると、脳が、細胞が、従おうとする。この人のためにと体は勝手に動いていた。畏まりました、と僕はリシェス様の元へと向かおうとしたときだ。
 自分の足が動かないことに気付いた。
 まるで床に影ごと縫い付けられたかのように足はぴくりとも動かないのだ。

「何をしてるんだ、ハルベル。そんなところに突っ立って」
「……っ、申し訳ございません、すぐに……」

 向かいます、と動こうとするが、動けない。体が岩になったみたいに言うことを聞かない。
 じれったくて、歯痒くて、何故だ、と無理矢理体を動かそうとしても動けない。そんな俺を見て、リシェス様は「仕方ないな」と言わんばかりに椅子からゆっくりと立ち上がるのだ。

「そうやって、俺の気を惹こうとでもしているのか? ……ハルベル」

 そして、目の前までやってくるリシェス様に心臓が跳ね上がる。
 頭一個分低い位置にあるリシェスの頭から薫るのは甘い花のような薫りだ。普段ならば絶対にここまで近づかないはずなのに、すぐ鼻先、少しでも動けば抱き締められそうなほどの距離にあるリシェス様の体に全身が硬直する。

「り、しぇす様」
「お前はいつもそうだな。……饒舌なくせに、肝心なことは何一つ口にしない」
「……っ、……」
「俺が何も知らないと、何も気づかないほど幼稚な子供にでも見えたのか」

 形のいい唇が迫る。長い睫毛で縁取られた双眼は僕の間抜けな顔を映し出していた。

 ――リシェス様は、こんなことを言わない。分かっていたからこそ、目の前の光景に困惑する。

 これは、夢だ。夢のはずなのに。
 開いたシャツの襟の下から真っ白な肌、ほんの少し前屈みになるだけで開いた胸元からはその薄い体が覗き、視線を逸らさなければならないのに動けない。
 違う、これは僕の願望だ。浅ましく悍しい僕の深層に隠された願望が形になって現れている。――こんな、最悪な形で。

「っ、リシェ……っ」

 リシェス様、と言いかけたその先の言葉は出てこなかった。背伸びをし、ぷちゅ、と柔らかく重ねられる唇に物理的に言葉を塞がれたからだ。
 触れるだけ、押し付けるだけの稚拙なキス。それも、リシェス様からの。
 有り得ないと分かってるのに、そのまましなだれかかってくるリシェス様の指が僕のシャツを脱がそうとしてくるのを見て息を飲む。

「っ、い、いけません、リシェス様、貴方には……っ」
「――お前がいい」
「っ、――」
「……聞こえなかったのか? お前がいい、と言ったんだ。ハルベル」

 ぷち、と一つ一つボタンを外してくるリシェス様。それでも尚、体は動かない。
 逃げ出すこともなにも出来ない僕の体に触れてくるリシェス様。体をぴたりと寄せ、たどたどしい手付きでシャツを脱がしてくるリシェス様に口の中に唾液が滲んだ。

 ――分かっていた。こういう幻覚がどういう意味があるのだと。
 大抵ろくなことにならないと分かっていた。脳が都合のいい夢を見るときは大抵、目を覚まさなければまずいのだと。
 この世に蜜のように甘い現実など存在しない。あまつさえ、僕の愛したリシェス様はこんな真似をしない。

 そして、この夢を終わらせるためには。
 手にしていたナイフを手にしたまま、胸元に顔を埋めてくるリシェス様の後頭部を見詰める。ちろちろと小さな舌で必死に胸元を舐めるリシェス様は生まれたばかりの仔猫のように甘く、とろけるような感触で。
 ギンギンに固くなった下半身、膨らんだそこに自身を押し付けるよう、擦り付けてくるリシェス様は僕の反応を伺うようにその目を向けてくる。時折不安そうに、『これで合ってるのだろうか』と確かめるように、じっと。

 気持ちよさや快感とは掛け離れた触れ合いだ。それなのに、脳の奥から溢れる多幸感に全身が満たされていく。

 ――僕に、自分の手でこの夢を終わらせろというのか。
 ――このリシェス様を殺して。

「……っ、ハルベル、ハルベル……気持ちよく、ないのか……?」
「……………………」
「ハルベル……?」
「リシェス様…………」

 ほんのりと赤くなった頬に手を伸ばせば、びくりとその華奢な体が震えた。皮肉なものだと思った。僕の中から迷いが消えると同時に体は動くようになるのだから。

 ――どこからが夢で、どこからが現実なのか。僕にはもう判断つかなかった。
 リシェス様の部屋の扉を開けた瞬間?それとも自室を出た瞬間?失った記憶の部分こそが現実で、僕が今存在しているのは全て夢なのかもしれない。

「――僕のペニスをしゃぶってください、リシェス様」

 この小さな口で。
 そうリシェス様の柔らかな唇に触れれば、目を潤ませたリシェス様は小さく頷いた。
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