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ハルベル・フォレメクという男

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 部屋へと帰ってきたときには夜も深くなっていた。リシェス様は既に眠りに付かれていた時間帯だったので顔を見るのは諦めたが、ちゃんと戸締まりをされた扉を確認して安心した。
 リシェス様はこの部屋の奥にいる――それだけで安心する自分がいた。
 ――何故?

 いや、疑問に思うこと自体おかしい。リシェス様の身が安全な状況下にあるということに安堵するのはなんらおかしくはない。当然のとこのはずなのに。

 前にも、こんなことがあった。それもつい最近。そのはずなのに、思い出そうとすればするほど記憶は出てこない。
 僕の名前はハルベル・フォレメク。リシェス様の家に拾っていただけた御恩でリシェス様に長年仕えている。
 僕が手にしているこれは、なんだ。ああそうだ、僕の主であるリシェス様が眠れていないようだったから、少しでも気が休まるように香油を用意したのだ。
 ……何故、こんな当たり前のことを忘れているのだ。僕は。
 記憶力には自信があった。けれど、たった今その自信はなくなってしまった。


 部屋に戻り、眠りにつく前に僕は机についた。取り出した手帳に『リシェス様は疲れてる、香油、ユーノ』とだけ書き記し、そのまま疲労感に重くなっていく体を引き摺ってベッドへと飛び込んだ。
 時計の針の音が遠くなっていく。肉体と意識が乖離していく感覚に包まれ、朝を迎えた。



 翌日、珍しく寝坊をした。とはいえど普段よりも起床時間が遅くなってしまっただけで、急ぎさえっすればリシェス様を起こしに行く時間には間に合うだろう。
 けれどそのお陰で部屋を出るときにリシェス様に渡す香油を持っていくことを忘れてしまうというミスをしてしまった。こんなこと普段の自分なら決してするはずないのに。

 ただでさえ時間は押している状況だ。僕は一先ずリシェス様の部屋に向かうことを優先させる。
 いち早く渡したい気持ちもあったが、自分のせいでリシェス様の貴重な時間を奪うわけにはいかなかったからだ。

 とにもかくにもリシェス様の部屋へと向かえば、すでにリシェス様は起床されていた。驚いたし喜ぶべきことなのだろうと思ったが、ここ数日のリシェス様の体調を鑑みるにもしかして眠れなかったのではないのだろうかと余計心配になる。

「リシェス様、今日は随分と早起きなんですね」
「……ああ、なんだか目が覚めてな」
「そうでしたか。……」
「心配しなくてもいい、別に寝れなかったわけではないからな」

 流石リシェス様、というべきだろう。僕がなにも言わずともその表情から察したらしい。
 先回りされ、心を読まれて恥ずかしくなる反面休むことには休まれたのだと一先ず安心する。
「でしたら良かったです」と答えれば、リシェス様はこちらを見るのだ。

「あの、リシェス様……?」
「昨日は、悪かったな。……その、色々言ったりして」

 ふい、と顔を逸らすリシェス様に思わず固まってしまう。

「り、リシェス様……」
「……おい、なんだその顔は」
「いえ、聞き間違いかと思って」
「失礼なやつだな。俺だって人に感謝くらいするし、謝罪もできる」

 やはりどこか体調が優れないのだろうか。「失礼します」と声をかけ、そっと額に手を触れてみれば平熱だ。

「おい、ハルベル」
「熱はいつもとお変わりはないようですが……」
「お前な……」
「リシェス様、お気持ちはありがたいですが僕に謝罪する必要なんてありません。……言ったではありませんか、僕は貴方にならば何されても構わないと」

 昨夜のやり取りを思い出す。
 ただリシェス様の期限を取るためだけの方便ではない。僕は、リシェス様にならばなにをされても喜んで受け入れる。
 リシェス様の望みが僕の望みだ――そう言えばまだ妙な顔をされてしまうのだろうか。
 が、今日は違った。

「……ふうん、なんでもか」
「リシェス様?」
「だったら今日、一日俺に付き合ってもらえるか?」
「そんなの、お安い御用です」

 だが、アンフェール様がどう思われるかは分からない。言いかけたところで、リシェス様は「じゃあよろしく頼む」と口を開いた。
 それから、リシェス様は少しだけ考え込むように目を伏せられる。睫毛が影をつくり、より憂いた表情のリシェス様に少しだけ胸が弾んだ。

「……ここ最近、気になることがあるんだ」

 それも一瞬、リシェス様の口から出た言葉に目を見開く。

「気になること、ですか?」
「ああ、身の回りで少しな」
「それは、何者かにつけられているとかですか?」
「……分からない。が、不審なことがあったらすぐ俺に教えてくれ」

 頼んだぞ、というリシェス様の表情はいつもよりも強張って見えた。わかりました、と答えれば、少しだけその緊張が和らいだように見えたのは願望ではないはずだ。

 何かあったのなら相談してほしい、というのが本音だったが、リシェス様にもなにかお考えがあるのだろう。少しでも頼って頂けることは光栄だ。
 それに、また前のようにリシェス様と一緒に過ごせるということに純粋に喜んでいる自分自身もいた。




 リシェス様の身の回りで起きているという異変のことは気がかりだった。
 言われたからといって本当にただのんべんだらりとリシェス様の隣で過ごすつもりもない。
 リシェス様が口では言わないのなら、自力でもリシェス様の負担になっている現象について調べ追求するつもりだった。
 しかし、 自分の思惑とは裏腹に穏やかな時間が過ぎていく。

 違和感といえば、リシェス様が首輪をしていないことが一つあった。
 聞けば、「首が締め付けられて窮屈だから」とリシェス様は言っていた。リシェス様の言葉を疑うつもりはないが、『何故今更そのように感じ始めたのか』という疑問はあった。確か、昨日部屋を尋ねたときも首輪を外していた。
 その身の回りの異変に関係しているのだろうか。そもそも成長期とも言われる年齢だ、おかしなことではない。首輪のサイズを新調するか尋ねたが、「そうだな」とリシェス様は呟いた。

「後で、アンフェールには会いに行く」

 今リシェス様が着けられている首輪はアンフェール様が用意されたものだった。アンフェール様に首輪を選んでもらえるのならば、リシェス様にとっても喜ばしいことだろう。「ええ、それがいいと思います」と僕は頷いた。


 それから、授業に出る。
 昨日よりもリシェス様の体調は回復されているようだ。時々険しい顔をして考え事をされてること以外は、至っていつもと変わらないリシェス様だ。

 リシェス様の身の回りにも目を光らせていたが、異変という異変は特にはない。いつもの自称リシェス様の親衛隊とやらが裏でこそこそしているのを取り締まったりしたが、彼らも表立って何かをしているわけでもなさそうだ。
 リシェス様がなにに対して違和感を覚えているのかは相変わらず分からない。が、少し気になることと言えばリシェス様のアンフェール様への態度だった。

 以前のリシェス様ならば恋する乙女のような目でアンフェール様を見つめていたが、今はそれがないのだ。
 積極的にアンフェール様と関わろうとしているのは分かるのだが、以前ほどの好意を感じない。
 リシェス様だって大人になられている。落ち着いただけだと言われれば確かにそうなのだが、リシェス様なのにリシェス様ではないような、そんな輪郭のない漠然とした違和感のようなものが芽生えていた。
 そして、それはアンフェール様にも言えた。
 以前はアンフェール様はリシェス様を冷たくあしらっている姿をよくお見かけしたが、今はどうだ。一歩引いたリシェス様と一緒にいるアンフェール様は以前とはまた別の印象を受けた。
 客観的に見ればいい傾向なのかもしれないが、問題はそれ以外のときだ。アンフェール様の周辺の空気がピリついているようだ。
 リシェス様に直接どうこうあったわけではないし、関係ないのかもしれない。しかし、アンフェール様はここ数日様子がおかしいと周辺の者たちが口々にしているのを聞いた。
 
 そんなある日のことだった。この学園に転校生がやってきた。
 朝方、学園周辺の森で魔物に襲われそうになっていたところを見回り中の執行部率いるアンフェール様に保護されたという黒髪黒目の少年だ。アンフェール様と一緒にいるところをたまたまリシェス様と僕は遭遇する。その流れで自己紹介することになったのだが、

「よろしくお願いします、ハルベルさん」

 そう手を差し伸べてくる転校生――八代杏璃の犬のように大きな目で見つめられた瞬間、ドクンと心臓が跳ねた。
 何故自分の心臓が反応しているのか分からなかった。目の前にいるのはただの至って平凡などこにでもいるようなありふれたたったひとりの少年だ。
 ただの動悸なのだろうか。疑問に思いながらも一旦それを無視し、僕は「よろしくお願いします」と八代杏璃の手を取った。
 それから流れで、リシェス様と僕で八代杏璃に学園の案内をすることとなった。

 ――八代杏璃は奇妙な男だった。
 最初は少年なのかと思ったが、話しているとただ幼さの残った青年のようにも見える。柔らかな印象の裏腹に硬い芯のようなものを感じたし、それでいて八代杏璃のことをなにひとつ理解することはできなかったのにするりと頭の中に入り込んでくるように僕と八代杏璃は意気投合した。
 そんなとき、ふとリシェス様の方を見ていたら他愛ない話で盛り上がっている僕たちを怯えたような顔をして見ていたリシェス様に気付いた。
 そこで気付いた。それと同時に自分の役目をすぐに思い出す。
 ――もしかして、この男がなにか関係あるということなのか。

 それはただの勘でしかないが、少なくとも今までリシェス様が理由もなくあんな顔をされることはなかった。嫉妬とも違う、焦燥感によく似たその表情からリシェス様はこの転校生の存在に対してなにかしら思うところがあるのかもしれない。


「ハルベルさん、どうされましたか?」
「いえ、なにも。……それより、私には敬語は不要ですよ」
「え、でも……」
「気にしないでください」
「ありがとうございます……あ」
「ゆっくりでも大丈夫ですよ。少しずつ、焦らなくても結構なので」

 アンリは恥ずかしそうに笑った。
 ――この男になにかがあるのなら、それを突き止めていち早くリシェス様に安寧を届けることが僕の役目だ。
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