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四巡目

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 卯子酉丁酉は大学構内の階段から突き落とされて死んだ。そして、所謂天界なる場所へと魂だけ連れて行かれ、哀れんだ自称女神にとある能力を授けられることになる。

 『死ぬ一ヶ月前にセーブポイントを作れる能力』
 そんな能力を手にしてやってきたゲームの世界で、俺が一番最初に出会ったのは巨大な魔獣だった。
 そう、アルバネード戦記と同じ展開だ。それでも初めて現れた魔獣に情けなく腰を抜かし、悲鳴をあげる俺の前に現れた人影を思い出す。

 ――アンフェールは、俺がこの世界にきたときに初めて出会った攻略キャラクターだった。
 アンリではない、そこにいたのは卯子酉丁酉――俺だった。
 アンリがいた場所にも、どのスチルにもアンリがいた場所には俺がいた。
 なのに、気付けば俺がいるはずのそこにはアンリで上書きされていたのだ。

「……リシェス?」
「……え?」
「どうした、酷い顔色だぞ」

 呼びかけられ、現実に引き戻された。
 こちらを覗き込むアンフェールに、ドクドクと更に脈は激しくなる。

「い、や……大丈夫だ、続けてくれ」

 汗が止まらない。
 なんだ、これは。なんだこれは。雑音が消え失せ、クリアになった頭の中――浮かび上がる明らかな異物の存在に気が遠くなりそうだった。

 俺が思い出した卯子酉丁酉の記憶の中には、八代杏璃なんてキャラクターは存在しなかった。

「本当に大丈夫なのか」
「ああ、大丈夫だ。だから、早く……」
「……分かった」

 ドクドクと脈が乱れる。我慢できず、俺は自分の指を噛んだ。背後に回るアンフェールの存在に、気配に、恐ろしいほど静かな頭の中と比例して鳴り響く鼓動にどうにかなりそうだった。
 柔らかくベッドに押し倒され、背後から覆いかぶさってくるアンフェールに肩を押さえつけられる。
 首筋に当たる髪の感触にこそばゆさを覚えたのも束の間、アンフェールの歯が項に食い込んだ。
 瞬間、心臓から押し出される血液がマグマのように熱を持って全身に駆け巡る。

「っ、ぅ、ぐ……ッ!」

 強く、強く、痛みで塗り替えられていく。これは幸福な痛みのはずなのに。
 シーツに爪を立て、深く首筋に埋まっていく歯の感触に堪らず奥歯を食いしばる。
 アンリに噛まれたときの記憶が蘇りそうになるのを振り払い、俺は肩を掴むアンフェールの腕へと指を伸ばした。


 全身に負荷が掛かる。無意識に痛みで強張っていた体を押さえつけられたまま、気付けばアンフェールは俺の項から唇を離していた。
 血が出ているのか、噛まれた直後の項に鋭い痛みが走る。同時に、じわりと広がる熱は時間が経つに連れて次第に波が引いていく。

「っ、は……」

 終わった、のだろうか。先程までの恐ろしいほどの感情の昂りが嘘のようだった。
 痛みで滲んだ視界の中、項を舐められビクリと体が震える。

「ぁ、アンフェール……」
「悪い、痛かったか」
「いや、大丈夫だ」
「気分は」
「……わからない」

 正確には、言語化した際に必要な言葉が咄嗟に出てこないというべきか。
 それでも、明確にアンリと噛まれたときとは違う。胸の奥のモヤが薄くなっていき、呼吸も落ち着いていく。
 体を起こし、唇を血で濡らしたアンフェールを見据える。

 アンフェールに対するこの感情がリシェスのものなのか、卯子酉丁酉のものなのか、俺にはもう判断つかなかった。
 それでも、目の前の男に噛んでもらったことに安堵と喜びを覚えるこの感情に嘘偽りはないはずだ。

 そう自分に言い聞かせながら、俺はアンフェールにそっとキスをした。



 ――アンフェールの自室・寝室。

 隣で眠るアンフェールの寝息を聞きながら、俺は項にそっと触れた。簡単な手当をしてもらったそこにはまだアンフェールの唇の感触が残っているようだった。
 そして、その痛みからかより鋭く鋭利になっていく全身の神経。時間が経つに連れ、とめどなく溢れかえっていた記憶は整頓されつつあった。

「……」

 卯子酉丁酉は、アンフェールの恋人だった。
 紆余曲折ありながらもハッピーエンドを迎えたあと、なぜだかその直後の記憶がない。そして、次に目覚めたときはあのリシェスの婚約破棄の現場だった。
 リシェスとはもちろん面識があった。リシェスとアンフェールを別れさせた記憶もある。
 あのときのリシェスが俺を見る目も、ずっと覚えている。

 この体には今、リシェスと卯子酉丁酉二人分の記憶がある。問題は、何故そんなことになっているのかということだった。
 卯子酉丁酉の記憶が取り戻せたところで根本的にはなにも解決していない。
 ――けれど、間違いなくあの男が関わっていることには違いない。

 余韻からか、火照った体ではなかなか寝付くこともできなかった。
 少し、風でも当たってこようか。
 そう体を起こしたときだった。隣で眠っていたアンフェールがもぞりと体をこちらへと向ける。

「……リシェス」

 まだ眠気の残った掠れた声で名前を呼ばれ、少しだけぎくりとした。薄暗い部屋の中、アンフェールがこちらを見ているのが分かった。

「悪い、起こしたか」
「……眠れないのか?」 
「まあそんなところだ。……少し風に当たってくる」
「一人じゃ危ない、俺も行こう」 

 アンフェールの言葉は純粋に嬉しかった反面、なんとも言えない気持ちになる自分もいた。

 アンフェールがこうして優しくしてくれるのは、俺が卯子酉丁酉だからなのか、なんて考えてはいけないと分かっていた。リシェスとして愛してくれているのだ、アンフェールだ。そのはずなのに、二人分の記憶がより鮮明になっていくに連れ相反する感情が胸に広がる。

「……じゃあ、頼む」




 噛まれた項を隠すように首輪を締める。とはいえど、怪我もあるし見えない程度にゆるく留め具を着けた。

 アンフェールとともに夜の寮舎内を歩く。無論、消灯時間を過ぎた暗い寮内を歩き回る生徒は俺たち以外にいない。
 寮を出て、夜の学園を散歩した。考え事をするには最適な時間だ。アンフェールもなにかを考えているのだろう、俺達の間に会話らしい会話はなかった。


 ――妹から借りたゲームのパッケージ、そこにはアンリの姿などなかった。

 見知らぬ少年と青年の中間くらいの主人公と呼べる男の子はいたが、少なくともそれはアンリではない。
 そして、リシェスとしての俺が婚約破棄されたとき――あの場にいたのもだ。
 故意に記憶が歪まされていたのだ。アンリがいたはずのあそこにいたのは、卯子酉丁酉――俺だったのだ。

 ならば、八代杏璃が何者なのか。
 何故あの男が俺を認知しているのか、どこまで知っているのか。そして、俺はどうなるのか。
 そんなことを考えては無意識に眉間に皺が入っていたらしい、いつの間にかこちらを見下ろしていたアンフェールに「険しい顔だな」と声をかけられ、思わず言葉に詰まる。

「……考え事をしてたんだ」

 またくよくよ悩んでいたのか、と言われるのではないかと思ったが、アンフェールは茶化すようなことは言ってこなかった。

「なんの考え事だ」
「……、……」

 言えるはずがない。それも、こんなこと言えばアンフェールを困らせることになる。

 ――自分がゲームのキャラクターだと気付いてしまったらどうする。
 ――しかも、お前とのハッピーエンドが用意されていないと分かっているときた。

「なあ、アンフェール」
「なんだ」
「決められたルートから外れたらどうなると思う?」

 アンフェールは立ち止まる。夜空の下、聳え立つ校舎を背にアンフェールは俺を見下ろした。冷たい風が俺たちを包む。

「なるようになるだけだ」
「……は」
「……なに笑ってる?」
「アンフェールの口からそんな言葉が出るなんてな」

 投げやりで、大雑把で――それなのに前を見据えているその言葉に胸の内がすっと軽くなった。
 確かに、そうだ。なるようになって俺はここまできたのだ。
 今更ゲームのキャラだからなんだ。ハッピーエンドがなかろうが、力づくでもここに辿り着いた。……アンフェールと番になれる世界線に。
 なければ作ればいいのだ。

「……ありがとう、アンフェール」

 そう、アンフェールに笑い返そうとした矢先のことだった。目の前に、アンフェールの顔に大きなノイズが走る。
 ジジ、と耳障りな雑音とともに目の前の映像が乱れるのだ。
 このノイズ、雑音には身に覚えがあった。

「アンフェール……っ!」

 なにかがおかしい。
 嫌な予感がし、咄嗟にアンフェールの方へと手を伸ばした瞬間だった。なにもなかった空間に大きく裂け目のようなノイズが走った。そして、真っ白な腕が伸び、俺の手を掴む。

「よい……しょっと。……はは、っぶないなあ。なに? もしかして、僕がいない間に茶番ごっこしようとしてなかった?」

 広がる裂け目により視界が奪われる。黒いノイズの海に飲み込まれる。
 どこからともなく聞こえてくる聞きたくもなかったその声に血の気が引き、咄嗟に元の世界に戻ろうとするが、不可能だった。

「ああ……ごめん、ちょっとデータ改造しすぎちゃったみたいでさ。ところどころ破損しちゃったみたいなんだ」
「……あ、んり」
「よかった、僕のことはちゃんと覚えててくれて。……なら、あとはもうどうなってもいいかな」

 黒欠けしていた世界に色が戻ったと思った次の瞬間には、そこには先程までの夜の学校の風景はなかった。白く、太陽が煌々と照らす学園の前、俺とアンリは立っていた。
 見慣れた制服を身に纏って、知っているはずなのに知らない男がそこにいたのだ。

「進行不可の致命的バグが発生したらしいんだけど……ねえリシェス君、君、心当たりある?」
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