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女王が生まれる日
夫の役目
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意識がなくなっていたのは短い間のことのように思えた。
このまま寝ていたら今度こそ殺されるのではないか、その恐怖で飛び起きた瞬間だった。
「おーうじ、いつまで寝てんすか」
そこにいたのは先程まで人を女のように抱いていた憎たらしい金髪の軍人でもなければ紫色の猫でもない。赤い軍服に身を包んだ見覚えのある若い男がそこにいた。
緊張感のない声、やる気のなさそうな表情。それでも服越しでもわかる筋肉の厚み。
この男は、確か。
「さ、いす……」
「覚えててくれてたんですね、俺のこと」
嬉しそうにするわけでもなく、立ったままこちらを見下ろしていたサイスは面倒臭そうに息を吐く。
「それにしても……ひどい格好すね。その調子で食事とかできるんすか?」
そう、サイスに指摘されて気付いた。ベッドの上、一糸纏うことすらしていない己に。
そして腿から腰へと張り付いたあの男の忌々しい手の型に全身が煮えたぎるようだった。
「っ、な……!」
「あー、いっすよ別に俺そういうの引かないし偏見とかもないから照れとか大丈夫なんで」
「そ、ういう問題では……っ! 出ていけ!」
そうシーツを慌てて掴んで体を隠せば、露骨に溜息を吐いたサイスはこちらに背中を向ける。
「誰にも言いませんて。それに、ジャックさんの手グセの悪さも俺達慣れてるんで」
エースはこの男のことを戦うこと以外に興味のない馬鹿だと言っていたが、それは間違いないようだ。僕は本位ではないにも関わらず仮にもアリスと婚約していて、時期女王になるという立場だ。そんな僕がジャックと寝たと、合意ではないとしてもその事実を知った上でこの態度は他人なら有り得ない。
顔色一つ変えないこの男が異常者としか思えないが、それでも本気でアリスに告げ口するつもりもないのだとわかってしまいなんだか酷く疲れる。
「……いいから出ていけ、着替えたい」
「わかりました。けど、このあとアリス君から王子……あー、クイーンって呼んだほうがいいっすか?」
アリスを君呼びだと?と呆れる暇もなく尋ねられ「やめろ」と即答すれば「はい」とサイスは背中を向けたまま指でマルを作ってみせた。オーケーということらしい。仮にも元雇い主の立場である僕に対してハンドサインだと、とまた顎が外れかけるがこの男の一挙一動に突っ込んではキリがない。
「……取り敢えず、アリス君が王子と朝ご飯食べたいから呼んできてって言われて……あー、ジャックさんはキングのところ……えーと、キングがアリス君になったんだっけ……王子のお父様のところに呼ばれたんで行きました」
「……ッ!」
「んで、その間の警護は俺にやれと。……ま、王子といたら確実にあいつも来るから俺としては全然いいんですけどね」
……つまり、サイスがジャックの代わりに着くということか。ジャックのような暴漢よりかは遥かにましだが、それでも別の意味で大丈夫かとも心配になる。
「……お前は、エースが来たら殺す気か?」
こんなこと聞く意味があるのかわからなかったが、思わず僕はサイスに尋ねていた。やつは微動だにせず「ええ」と頷いた。
「だってあいつも俺の首狙ってくるだろ」
……それもそうだな、と納得する。男同士の熱い友情というものについて僕はよくはわからないが、それでもこの二人のような奇妙な友情もあるのだろうと思った。
「じゃ、俺部屋の外で待ってるんで。用意終わったら呼んでください。……あ、白ウサギ先生必要なら呼びますけど」
「……いい、不要だ」
「わかりました。じゃ、またあとで」
失礼します、と寝惚けた声のままサイスは部屋を後にした。ちゃんと最後まで背中を向けたままだったが、やつに忠誠心というものがあるのかどうかは未だ謎だ。
何故ジャックがあの男に呼び出されたのかだとかチェシャはどこに消えたのかだとか色々気になることはあったが、それよりも問題はこのあとだ。
……こんな体であの男の顔を見ながら朝餉を取れというのか。
気は滅入る一方だが、今はあの男の対処について考えることが優先だ。
「……風呂に入りたいな」
◆ ◆ ◆
体を清め、服を着替えることになる。
そしてサイスに連れて行かれた先、そこにはにこやかな笑顔を浮かべて僕を待つあの憎き男がいた。
――ハート城、食堂。
本来ならば父が座るはずの上座に腰を据えたアリスは、サイスに連れられてやってきた僕を見るなり微笑むのだ。
「やあ、ロゼッタ。今朝はバタバタしてしまって悪かったね。本当はもっとゆっくりしたかったんだけど……少し込み合っててね」
「御託はいい。……わざわざこいつを使ってまで人を呼び出しておいてなんの用だ」
「ふふ、面白いことを聞いてくるね。食堂ですることなんて一つだけだろう」
そうアリスが微笑んだとき、背後の扉が開き「お待たせしました~!」と緊張感のない声が響き渡る。そして辺りに充満するのは食欲を唆られる匂い。基本、僕たちの食事は使用人たちが用意する。けれど、今この城に残ってる使用人は、と顔を向け、息を飲む。瓜二つの顔、長い手足。緑と橙の髪の双子はテーブルの上に素早く料理を用意していく。――ディーとダムだ。
「っ、お前ら……」
「おーっと、王子。まだこの紅茶は熱いのでフーフーして冷ましてくださいね」
そう、僕の前で紅茶を注いでいくダムはにっこりと微笑む。拷問された形跡もなにもない、以前と変わりない人良さそうな笑みを浮かべて。
思わずアリスを見れば、ただ笑みを携えたままアリスは椅子を引かせる。自分の席の一番近くの席――そこは普段母が座っていた席だ。
「座りなよ、ロゼッタ。お茶にしよう」
聞きたいことがあるのだろう?
そう言いたげな目が、笑みが絡み付いて離れない。茶会の準備を終えたディーとダムは僕たちに向かって頭を下げ、そのまま1ミリのズレもない動作で食堂を後にする。その後ろ姿を見ても無理してるようには到底思えない。
おかしいことなんて分かっていた。目の前のアリスの存在そのものが異常なのだ、そしてこの男の思惑通りに動く世界も、なにもかも。
「……っ、なんで、あいつらがピンピンしている。あいつらはお前が……ッ!」
落ち着いて椅子に座る気などなれない。こんな気持ち悪いやつと食卓を囲むことなど、顔を突き合わせてお茶を飲むなんて殊更。
「落ち着きなよ、アリス。ほら、君のお茶なら僕が冷まして上げるからまずはこのティーを飲んでリラックスするといい。以前から思っていたが君がそう癇癪を起こすのは余裕がないからだ。いまはもう僕と君しかいないんだ、そう緊張する必要もないだろう」
「何を……っ、余計な……」
お世話だ、と言いかけたとき、背後から伸びてきた手に肩を掴まれる。背後に目を向ければそこにはサイスがいた。
「おい、離せ」と振払おうとするが離れない。強制的に椅子に座らせられる僕に、アリスは目を細める。
「サイス、乱暴はよくない。ロゼッタはお前たちと違って繊細なんだ」
「そりゃすみませんね。けど、こうでもしないと王子……ロゼッタ様はお座りになられないかと思ったので」
悪びれた様子もなく、それでも形式だけは頭を下げて謝罪して見せるサイスにアリスはふん、と鼻を鳴らす。不機嫌になるのも一瞬、すぐにその表情は柔らかくなった。
「ほら、ロゼッタ」
そう、冷ました紅茶の入ったティーカップを差し出してくるアリスに血の気が引いた。無作法も無作法、ひとをここまでコケにするつもりなのか。このティーカップを奪って中身をぶちまけてやりたかった。それをしなかったのは背後に立つサイスの存在があったからだろう。この男は僕が無礼を働けば喜んでその剣を抜く。それが分かっていたからこそ、まだ冷静でいられた。
受け取ろうとしない僕に気付いたようだ、アリスは「ああ」と慌ててティーカップを戻した。
「……ロゼッタ、すまない。僕は……また失礼な真似をしただろうか。難しいな、君には愛想尽かされたくないと思うのだけどどうも慣れない……なあロゼッタ、君の好きな洋菓子もある。他にもほしいものがあれば言ってくれ。すぐにティーとダムに用意させよう」
そうしどろもどろと続けるアリスはまるで粗相をした子供のようにすら見えた。だからこそ余計気味が悪い。この男は決定的になにかがズレている。
「……何故、あの二人はピンピンしている」
「え?」
「……拷問の傷すらない、お前がなにかしたのか?」
――僕にしたときと同じように。
そう続けることはできなかった。けれど、アリスにはそれだけでも伝わったようだ。ああ、と『そんなことか』とでも言うかのように安堵するアリス。
「ロゼッタ、君は優しいね。あいつらの心配までするなんて」
「はぐらかすなアリス、僕が聞いてるのは……」
「あのとき、君に無体を働いた二人はもういないよ」
「今ここにいるのは新しいディーとダムだ、だから安心してお茶会を楽しむといい」アリスはそう僕の手をそっと握り締め、にっこりと微笑んでみせた。
「……どういう意味だ」
この男の言葉を真に受けるな。所詮狂人の戯言だ。……そう、ずっと思っていた。
けれどこうして身を持って、そして本人でありながらも別人であるディーとダムを見てるとどこまでが現実なのかわからなくなる。
そんな僕を見て、アリスはすっと目を細めた。
「……ロゼッタ、君が気にするようなことじゃないよ。料理が不味くなる話はやめようか」
「そうだ、食事が終わったら君を連れて行きたい場所があるんだ」この話に触れられたくないのか、それとも本当にこちらの意識を反らしたいだけなのかわからない。
「この世界では花嫁は赤いドレスを着るのだと教わってから眠ってる間に何着か見繕ってもらったんだ、君に似合うドレスを。サイズは合ってるはずだからあとはロゼッタに好きなものを選んでもらおうと思ってね」
アリスの表情はころころと変わる。
先程までの冷ややかな目とは打って変わって目をキラキラとさせ、語る姿は少年のようですらあった。……それが余計寒気がした。
「っ、勝手に決めるな、僕は……っお前の花嫁になるつもりも、女王になるつもりもない」
今までだったら聞き流せた言葉の数々もこの男は本気なのだとわかった今、このまま黙って聞き流すことはできなかった。
瞬間、アリスの表情が曇る。まるで傷付いたように伏せられる目。やつの表情に今言うべき言葉ではなかったかもしれない、と後悔したがもう遅い。それも一瞬、僅かにアリスの表情が歪むのだ。それは苦しんでいるようにも見えた。
「……まあいいよ、君が口でいくら言おうが君の気持ちはすぐに変わるはずだよ」
「……っ、そういう風に作り変えるつもりか。僕も、あの二人のように」
「しないよ。……ロゼッタは特別だ」
もしかしたら今度こそ突き放されるかもしれない――そう思ったが、この男は僕がどんな言葉を投げつけようが想像とは正反対の反応を示して見せる。仕方ないと自分に言い聞かせるように、それでも僕の言葉を受け止めようとするのだ。
「……それに何か勘違いしてるが、作り変えるというのは語弊がある。僕は、君を……本来の君を取り戻してほしいだけなんだ」
……また、これだ。この男は僕を通して別の誰かを見ているのではないか、そう疑わしいほどこの男の態度は異質だった。何故僕にそこまで拘るのか、知りたくもないし興味もなかったがこの男の企みに当事者として巻き込まれてる身からしてみればいい迷惑だった。
人違いじゃないのか、僕はお前を知らない。そう言い返そうとして、やめた。この男を相手に真面目に問答しているとこっちまでどうにかなりそうだ。
「……お前と話してると頭が痛くなる」
「頭痛かい? 白ウサギを呼ぼう」
「っ、余計なことをするな」
「ロゼッタ……」
伸びてきた指に頬を触れられそうになり、咄嗟に「触るな!」とその手を払いのける。驚くわけでもなく、怒るわけでもなく、アリスはただ困ったように笑い、その手を引っ込める。
「……食事が済んだらドレスを見に行こう」
少しは気分転換にもなるかもしれないからね。
そんな独り言のようなアリスの言葉に返す気にもなれなかった。
食事を終え、アリスは僕を食堂から連れ出した。
隣を歩くアリスと背後が付いてくるサイス。
逃げ出そうと思ったが、現役の兵隊相手に敵うとは思えなかった。
アリスはこれから衣装部屋へ向かうと言った。
見慣れたはずの通路なのにまるで知らない場所を歩いているような違和感。
その原因はすぐに分かる。つい先日、三日月ウサギやエースが切り捨てた兵隊たちが当たり前のように城内を彷徨いているのだ。――ディーやダムと同じように、まるで当たり前のように。
そんな中、アリスが向かおうとしてるところがどの衣装部屋を差しているのか気付いてしまう。
「っ、待て……僕の衣装部屋はここじゃない……ここは母様の……ッ」
「『女王』の衣装部屋なんだろ? ……なら、なんら問題ないだろう」
薔薇と蔓を模した重厚な木製の扉の前。そのドアノブに手を伸ばそうとするアリスを止めようとするが、間に合わなかった。
サイスに止められたと同時に扉が開く。
記憶の中では、私室同様赤と黒を基調に揃えられていたその衣装部屋は母様が専属の仕立て屋に作らせたドレスで埋め尽くされていた。母様の自慢のドレス、母様の大好きな薔薇の匂いで埋め尽くされていたはずのその衣装部屋はあまりにも僕の記憶とは掛け離れていた。
母様の自慢のドレスはなくなっていた。その代わり、だだっ広く何もないその衣装部屋の中央には三着のドレスが飾られていた。
血のように赤いフリルに覆われたドレス、闇を溶かしたようなまっ黒なドレス。そして、暗い部屋の中では酷く浮いた白く淡いウエディングドレス。
――どれも、母様のものではない。
「っ……」
「ほら、ロゼッタ。どうだい? 君に似合いそうなものを選んだんだ、さあ早速着替えてみせてくれ」
「……ここに……」
「ん?」
「……っ、ここにあったドレスはどうした……ッ?」
握りしめた拳に力が入る。こうでもしなければ手の震えが止められそうもなかった。
僕の問い掛けに「ああ」とアリスは思い出したように微笑む。
「捨てたよ。……あんな古臭くて下品なドレス、君には似合わないだろうからね」
腸が煮え繰り返る。全身の血が頭に昇るのがわかった。
――分かっていたはずだ、分かっていた。この男はこういうやつなのだと。
「……っ、どこに捨てた」
「ロゼッタが眠っている間にジャックに燃やしてきてもらったよ。多分今頃焼け炭になってるんじゃないかな?」
「…………」
「それよりもロゼッタ、ほら、どうかな? 僕としてはこの白いドレスなんて君の美しい黒髪が際立つと思ったんだけど……」
そう、マネキンからドレスを外したアリスはその純白のドレスを僕の前に翳す。
「ああ、ほら、思ったとおりだ」と嬉しそうに破顔するアリス。
「君はやっぱり白がよく似合……――」
アリスの手からドレスを奪い、僕は食堂で盗み持ってきたナイフでそのドレスを引き裂いた。殺傷力などない、それでもよかった。すぐにサイスに腕を掴まれ、ドレスから引き離される。
「何やってんすかあんた……ッ」
「アリス、僕はお前と同じことをしてやったんだ、アリス……ッ、お前と同じことを……っ! お前には分からないだろうな、この……ッ!」
「……、……」
気狂いが、と声を上げたと同時だった。
何が起きたのか理解してなかったのか、暫し静止していたアリスの唇が震えた。そして、大きく切り裂いたドレスを手にしたままアリスは息を漏らす。死刑宣告か、勝手にしろ。許せない、僕を、僕たちを踏み躙るこいつだけは死んでも許してやるものか。そうアリスを睨みつけたとき。
アリスは腰に提げていたナイフを取り出す。とうとう殺されるかと思った次の瞬間、アリスは僕の目の前でドレスを切り裂くのだ。何度も、布切れと化するまで何度も、白いドレスだけではなく赤いドレスも、黒いドレスも全てグチャグチャに切り裂いた。
僕もサイスも呆気取られていた。無表情で、あれほど自慢していたドレスたちも全て台無しにしたアリスは最後にマネキンの胸にナイフを突き立てる。
僕に背中を向けたまま、やつは「ごめんね」と呟くのだ。
「……また、僕は君の趣味を理解できなかった。……大丈夫だすぐにまた新しいドレスを仕立てさせよう、君が気に入るまで何度も用意させるよ」
「それが夫の役目だろう?」と笑うアリスに僕はなにも言えなかった。何一つ伝わらない、噛み合わない。
――この男の心が見えない。
このまま寝ていたら今度こそ殺されるのではないか、その恐怖で飛び起きた瞬間だった。
「おーうじ、いつまで寝てんすか」
そこにいたのは先程まで人を女のように抱いていた憎たらしい金髪の軍人でもなければ紫色の猫でもない。赤い軍服に身を包んだ見覚えのある若い男がそこにいた。
緊張感のない声、やる気のなさそうな表情。それでも服越しでもわかる筋肉の厚み。
この男は、確か。
「さ、いす……」
「覚えててくれてたんですね、俺のこと」
嬉しそうにするわけでもなく、立ったままこちらを見下ろしていたサイスは面倒臭そうに息を吐く。
「それにしても……ひどい格好すね。その調子で食事とかできるんすか?」
そう、サイスに指摘されて気付いた。ベッドの上、一糸纏うことすらしていない己に。
そして腿から腰へと張り付いたあの男の忌々しい手の型に全身が煮えたぎるようだった。
「っ、な……!」
「あー、いっすよ別に俺そういうの引かないし偏見とかもないから照れとか大丈夫なんで」
「そ、ういう問題では……っ! 出ていけ!」
そうシーツを慌てて掴んで体を隠せば、露骨に溜息を吐いたサイスはこちらに背中を向ける。
「誰にも言いませんて。それに、ジャックさんの手グセの悪さも俺達慣れてるんで」
エースはこの男のことを戦うこと以外に興味のない馬鹿だと言っていたが、それは間違いないようだ。僕は本位ではないにも関わらず仮にもアリスと婚約していて、時期女王になるという立場だ。そんな僕がジャックと寝たと、合意ではないとしてもその事実を知った上でこの態度は他人なら有り得ない。
顔色一つ変えないこの男が異常者としか思えないが、それでも本気でアリスに告げ口するつもりもないのだとわかってしまいなんだか酷く疲れる。
「……いいから出ていけ、着替えたい」
「わかりました。けど、このあとアリス君から王子……あー、クイーンって呼んだほうがいいっすか?」
アリスを君呼びだと?と呆れる暇もなく尋ねられ「やめろ」と即答すれば「はい」とサイスは背中を向けたまま指でマルを作ってみせた。オーケーということらしい。仮にも元雇い主の立場である僕に対してハンドサインだと、とまた顎が外れかけるがこの男の一挙一動に突っ込んではキリがない。
「……取り敢えず、アリス君が王子と朝ご飯食べたいから呼んできてって言われて……あー、ジャックさんはキングのところ……えーと、キングがアリス君になったんだっけ……王子のお父様のところに呼ばれたんで行きました」
「……ッ!」
「んで、その間の警護は俺にやれと。……ま、王子といたら確実にあいつも来るから俺としては全然いいんですけどね」
……つまり、サイスがジャックの代わりに着くということか。ジャックのような暴漢よりかは遥かにましだが、それでも別の意味で大丈夫かとも心配になる。
「……お前は、エースが来たら殺す気か?」
こんなこと聞く意味があるのかわからなかったが、思わず僕はサイスに尋ねていた。やつは微動だにせず「ええ」と頷いた。
「だってあいつも俺の首狙ってくるだろ」
……それもそうだな、と納得する。男同士の熱い友情というものについて僕はよくはわからないが、それでもこの二人のような奇妙な友情もあるのだろうと思った。
「じゃ、俺部屋の外で待ってるんで。用意終わったら呼んでください。……あ、白ウサギ先生必要なら呼びますけど」
「……いい、不要だ」
「わかりました。じゃ、またあとで」
失礼します、と寝惚けた声のままサイスは部屋を後にした。ちゃんと最後まで背中を向けたままだったが、やつに忠誠心というものがあるのかどうかは未だ謎だ。
何故ジャックがあの男に呼び出されたのかだとかチェシャはどこに消えたのかだとか色々気になることはあったが、それよりも問題はこのあとだ。
……こんな体であの男の顔を見ながら朝餉を取れというのか。
気は滅入る一方だが、今はあの男の対処について考えることが優先だ。
「……風呂に入りたいな」
◆ ◆ ◆
体を清め、服を着替えることになる。
そしてサイスに連れて行かれた先、そこにはにこやかな笑顔を浮かべて僕を待つあの憎き男がいた。
――ハート城、食堂。
本来ならば父が座るはずの上座に腰を据えたアリスは、サイスに連れられてやってきた僕を見るなり微笑むのだ。
「やあ、ロゼッタ。今朝はバタバタしてしまって悪かったね。本当はもっとゆっくりしたかったんだけど……少し込み合っててね」
「御託はいい。……わざわざこいつを使ってまで人を呼び出しておいてなんの用だ」
「ふふ、面白いことを聞いてくるね。食堂ですることなんて一つだけだろう」
そうアリスが微笑んだとき、背後の扉が開き「お待たせしました~!」と緊張感のない声が響き渡る。そして辺りに充満するのは食欲を唆られる匂い。基本、僕たちの食事は使用人たちが用意する。けれど、今この城に残ってる使用人は、と顔を向け、息を飲む。瓜二つの顔、長い手足。緑と橙の髪の双子はテーブルの上に素早く料理を用意していく。――ディーとダムだ。
「っ、お前ら……」
「おーっと、王子。まだこの紅茶は熱いのでフーフーして冷ましてくださいね」
そう、僕の前で紅茶を注いでいくダムはにっこりと微笑む。拷問された形跡もなにもない、以前と変わりない人良さそうな笑みを浮かべて。
思わずアリスを見れば、ただ笑みを携えたままアリスは椅子を引かせる。自分の席の一番近くの席――そこは普段母が座っていた席だ。
「座りなよ、ロゼッタ。お茶にしよう」
聞きたいことがあるのだろう?
そう言いたげな目が、笑みが絡み付いて離れない。茶会の準備を終えたディーとダムは僕たちに向かって頭を下げ、そのまま1ミリのズレもない動作で食堂を後にする。その後ろ姿を見ても無理してるようには到底思えない。
おかしいことなんて分かっていた。目の前のアリスの存在そのものが異常なのだ、そしてこの男の思惑通りに動く世界も、なにもかも。
「……っ、なんで、あいつらがピンピンしている。あいつらはお前が……ッ!」
落ち着いて椅子に座る気などなれない。こんな気持ち悪いやつと食卓を囲むことなど、顔を突き合わせてお茶を飲むなんて殊更。
「落ち着きなよ、アリス。ほら、君のお茶なら僕が冷まして上げるからまずはこのティーを飲んでリラックスするといい。以前から思っていたが君がそう癇癪を起こすのは余裕がないからだ。いまはもう僕と君しかいないんだ、そう緊張する必要もないだろう」
「何を……っ、余計な……」
お世話だ、と言いかけたとき、背後から伸びてきた手に肩を掴まれる。背後に目を向ければそこにはサイスがいた。
「おい、離せ」と振払おうとするが離れない。強制的に椅子に座らせられる僕に、アリスは目を細める。
「サイス、乱暴はよくない。ロゼッタはお前たちと違って繊細なんだ」
「そりゃすみませんね。けど、こうでもしないと王子……ロゼッタ様はお座りになられないかと思ったので」
悪びれた様子もなく、それでも形式だけは頭を下げて謝罪して見せるサイスにアリスはふん、と鼻を鳴らす。不機嫌になるのも一瞬、すぐにその表情は柔らかくなった。
「ほら、ロゼッタ」
そう、冷ました紅茶の入ったティーカップを差し出してくるアリスに血の気が引いた。無作法も無作法、ひとをここまでコケにするつもりなのか。このティーカップを奪って中身をぶちまけてやりたかった。それをしなかったのは背後に立つサイスの存在があったからだろう。この男は僕が無礼を働けば喜んでその剣を抜く。それが分かっていたからこそ、まだ冷静でいられた。
受け取ろうとしない僕に気付いたようだ、アリスは「ああ」と慌ててティーカップを戻した。
「……ロゼッタ、すまない。僕は……また失礼な真似をしただろうか。難しいな、君には愛想尽かされたくないと思うのだけどどうも慣れない……なあロゼッタ、君の好きな洋菓子もある。他にもほしいものがあれば言ってくれ。すぐにティーとダムに用意させよう」
そうしどろもどろと続けるアリスはまるで粗相をした子供のようにすら見えた。だからこそ余計気味が悪い。この男は決定的になにかがズレている。
「……何故、あの二人はピンピンしている」
「え?」
「……拷問の傷すらない、お前がなにかしたのか?」
――僕にしたときと同じように。
そう続けることはできなかった。けれど、アリスにはそれだけでも伝わったようだ。ああ、と『そんなことか』とでも言うかのように安堵するアリス。
「ロゼッタ、君は優しいね。あいつらの心配までするなんて」
「はぐらかすなアリス、僕が聞いてるのは……」
「あのとき、君に無体を働いた二人はもういないよ」
「今ここにいるのは新しいディーとダムだ、だから安心してお茶会を楽しむといい」アリスはそう僕の手をそっと握り締め、にっこりと微笑んでみせた。
「……どういう意味だ」
この男の言葉を真に受けるな。所詮狂人の戯言だ。……そう、ずっと思っていた。
けれどこうして身を持って、そして本人でありながらも別人であるディーとダムを見てるとどこまでが現実なのかわからなくなる。
そんな僕を見て、アリスはすっと目を細めた。
「……ロゼッタ、君が気にするようなことじゃないよ。料理が不味くなる話はやめようか」
「そうだ、食事が終わったら君を連れて行きたい場所があるんだ」この話に触れられたくないのか、それとも本当にこちらの意識を反らしたいだけなのかわからない。
「この世界では花嫁は赤いドレスを着るのだと教わってから眠ってる間に何着か見繕ってもらったんだ、君に似合うドレスを。サイズは合ってるはずだからあとはロゼッタに好きなものを選んでもらおうと思ってね」
アリスの表情はころころと変わる。
先程までの冷ややかな目とは打って変わって目をキラキラとさせ、語る姿は少年のようですらあった。……それが余計寒気がした。
「っ、勝手に決めるな、僕は……っお前の花嫁になるつもりも、女王になるつもりもない」
今までだったら聞き流せた言葉の数々もこの男は本気なのだとわかった今、このまま黙って聞き流すことはできなかった。
瞬間、アリスの表情が曇る。まるで傷付いたように伏せられる目。やつの表情に今言うべき言葉ではなかったかもしれない、と後悔したがもう遅い。それも一瞬、僅かにアリスの表情が歪むのだ。それは苦しんでいるようにも見えた。
「……まあいいよ、君が口でいくら言おうが君の気持ちはすぐに変わるはずだよ」
「……っ、そういう風に作り変えるつもりか。僕も、あの二人のように」
「しないよ。……ロゼッタは特別だ」
もしかしたら今度こそ突き放されるかもしれない――そう思ったが、この男は僕がどんな言葉を投げつけようが想像とは正反対の反応を示して見せる。仕方ないと自分に言い聞かせるように、それでも僕の言葉を受け止めようとするのだ。
「……それに何か勘違いしてるが、作り変えるというのは語弊がある。僕は、君を……本来の君を取り戻してほしいだけなんだ」
……また、これだ。この男は僕を通して別の誰かを見ているのではないか、そう疑わしいほどこの男の態度は異質だった。何故僕にそこまで拘るのか、知りたくもないし興味もなかったがこの男の企みに当事者として巻き込まれてる身からしてみればいい迷惑だった。
人違いじゃないのか、僕はお前を知らない。そう言い返そうとして、やめた。この男を相手に真面目に問答しているとこっちまでどうにかなりそうだ。
「……お前と話してると頭が痛くなる」
「頭痛かい? 白ウサギを呼ぼう」
「っ、余計なことをするな」
「ロゼッタ……」
伸びてきた指に頬を触れられそうになり、咄嗟に「触るな!」とその手を払いのける。驚くわけでもなく、怒るわけでもなく、アリスはただ困ったように笑い、その手を引っ込める。
「……食事が済んだらドレスを見に行こう」
少しは気分転換にもなるかもしれないからね。
そんな独り言のようなアリスの言葉に返す気にもなれなかった。
食事を終え、アリスは僕を食堂から連れ出した。
隣を歩くアリスと背後が付いてくるサイス。
逃げ出そうと思ったが、現役の兵隊相手に敵うとは思えなかった。
アリスはこれから衣装部屋へ向かうと言った。
見慣れたはずの通路なのにまるで知らない場所を歩いているような違和感。
その原因はすぐに分かる。つい先日、三日月ウサギやエースが切り捨てた兵隊たちが当たり前のように城内を彷徨いているのだ。――ディーやダムと同じように、まるで当たり前のように。
そんな中、アリスが向かおうとしてるところがどの衣装部屋を差しているのか気付いてしまう。
「っ、待て……僕の衣装部屋はここじゃない……ここは母様の……ッ」
「『女王』の衣装部屋なんだろ? ……なら、なんら問題ないだろう」
薔薇と蔓を模した重厚な木製の扉の前。そのドアノブに手を伸ばそうとするアリスを止めようとするが、間に合わなかった。
サイスに止められたと同時に扉が開く。
記憶の中では、私室同様赤と黒を基調に揃えられていたその衣装部屋は母様が専属の仕立て屋に作らせたドレスで埋め尽くされていた。母様の自慢のドレス、母様の大好きな薔薇の匂いで埋め尽くされていたはずのその衣装部屋はあまりにも僕の記憶とは掛け離れていた。
母様の自慢のドレスはなくなっていた。その代わり、だだっ広く何もないその衣装部屋の中央には三着のドレスが飾られていた。
血のように赤いフリルに覆われたドレス、闇を溶かしたようなまっ黒なドレス。そして、暗い部屋の中では酷く浮いた白く淡いウエディングドレス。
――どれも、母様のものではない。
「っ……」
「ほら、ロゼッタ。どうだい? 君に似合いそうなものを選んだんだ、さあ早速着替えてみせてくれ」
「……ここに……」
「ん?」
「……っ、ここにあったドレスはどうした……ッ?」
握りしめた拳に力が入る。こうでもしなければ手の震えが止められそうもなかった。
僕の問い掛けに「ああ」とアリスは思い出したように微笑む。
「捨てたよ。……あんな古臭くて下品なドレス、君には似合わないだろうからね」
腸が煮え繰り返る。全身の血が頭に昇るのがわかった。
――分かっていたはずだ、分かっていた。この男はこういうやつなのだと。
「……っ、どこに捨てた」
「ロゼッタが眠っている間にジャックに燃やしてきてもらったよ。多分今頃焼け炭になってるんじゃないかな?」
「…………」
「それよりもロゼッタ、ほら、どうかな? 僕としてはこの白いドレスなんて君の美しい黒髪が際立つと思ったんだけど……」
そう、マネキンからドレスを外したアリスはその純白のドレスを僕の前に翳す。
「ああ、ほら、思ったとおりだ」と嬉しそうに破顔するアリス。
「君はやっぱり白がよく似合……――」
アリスの手からドレスを奪い、僕は食堂で盗み持ってきたナイフでそのドレスを引き裂いた。殺傷力などない、それでもよかった。すぐにサイスに腕を掴まれ、ドレスから引き離される。
「何やってんすかあんた……ッ」
「アリス、僕はお前と同じことをしてやったんだ、アリス……ッ、お前と同じことを……っ! お前には分からないだろうな、この……ッ!」
「……、……」
気狂いが、と声を上げたと同時だった。
何が起きたのか理解してなかったのか、暫し静止していたアリスの唇が震えた。そして、大きく切り裂いたドレスを手にしたままアリスは息を漏らす。死刑宣告か、勝手にしろ。許せない、僕を、僕たちを踏み躙るこいつだけは死んでも許してやるものか。そうアリスを睨みつけたとき。
アリスは腰に提げていたナイフを取り出す。とうとう殺されるかと思った次の瞬間、アリスは僕の目の前でドレスを切り裂くのだ。何度も、布切れと化するまで何度も、白いドレスだけではなく赤いドレスも、黒いドレスも全てグチャグチャに切り裂いた。
僕もサイスも呆気取られていた。無表情で、あれほど自慢していたドレスたちも全て台無しにしたアリスは最後にマネキンの胸にナイフを突き立てる。
僕に背中を向けたまま、やつは「ごめんね」と呟くのだ。
「……また、僕は君の趣味を理解できなかった。……大丈夫だすぐにまた新しいドレスを仕立てさせよう、君が気に入るまで何度も用意させるよ」
「それが夫の役目だろう?」と笑うアリスに僕はなにも言えなかった。何一つ伝わらない、噛み合わない。
――この男の心が見えない。
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