天国か地獄

田原摩耶

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√c:ep.1『嘘吐きは三文の得』

06

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 志摩とともに戻ってきた自室。そこには阿佐美の姿はなかった。
 俺は志摩にタオルを渡す。

「シャワー使っていいよ」
「着替えは?」
「え?」
「齋藤の服貸してよ。下着まで濡れてる感じがして気持ち悪いんだよね」

 ポトフを被ったのは主に頭じゃないのかとか、そこまで浸透性が高いものでもないんじゃないかとか、色々言いたいことはあったが一応は助けてもらった身だ。
「分かったよ」と渋々頷き、俺は慌てて少ない私服たちの中から極力文句を言われることはないだろうと思った無難な服たちを着替えセットとして志摩に渡す。
 それを受け取った志摩。そのままシャワーへ行くと思いきや、人の目の前で下着を広げる志摩にぎょっとする。

「ふーん、地味だね」
「志摩……っ、いいから早くシャワー入ってきなよ……っ!」
「なに照れてるの? って、ちょっと押さないでよ」

 俺は半ば無理矢理志摩を脱衣室へと押し込み、扉を閉める。そして一息ついた。

 さっきはバタバタしてあまりしっかりと考える余裕がなかったが、……言ってしまったのだ。壱畝に。もう帰らないと。
 あの場にたまたま風紀委員が居合せなかったときのことを考えたら気が気でなかった。
 それに、志摩にも改めてちゃんとお礼を言わないとな。
 念の為火傷になっていないかとか、こういうときは冷やした方がいいのかとか、色々自分なりに考えてみる。が、分からなかったので取り敢えず冷やしたタオルだけでも用意して、志摩が風呂から出てくるのを待った。

 ――そして数分後。

「齋藤、この服しわくちゃなんだけど。ちゃんとアイロンとか掛けたの?」

 文句を言いながら風呂から上がってきた志摩。どうやら服の柄やセンスではなく俺の保存方法が気に障ったようだ。阿佐美の部屋にバタバタ引っ越した拍子に鞄に詰め込んだまま暫く放置してたのがまずかったようだ。

「……サイズは丁度良さそうだね」
「それ話題反らしてる?」
「あの、火傷は大丈夫……? ヒリヒリしてない? 一応、濡れタオル用意したんだけど……」
「別になんてことはないよ。これくらい」

 強がりなのだろうか、そう志摩は小さく笑う。
 風呂上がりの濡れた髪からポタポタと雫が落ちるのを、咄嗟に俺は手にしてたタオルで拭おうと志摩の顔に触れた。

「……齋藤」
「あ、ご……ごめん」

 つい、と言いかけるよりも先に、手首を掴まれる。

「それ、お礼のつもり?」
「……え?」
「俺になんか優しくしてるのだよ。……普通、齋藤がこんなに気が利くわけないでしょ」

 随分な言い草だが、否定することもできない自分が悲しかった。そうだよ、と小さく口にしたとき、志摩は「へえ」と笑った。
 いつもと同じ、なんだか含みのあるような笑い方だ。

「それは悪くないね」

 そう志摩にキスをされそうになって、思わず俺は身構えた。拒もうと思えば拒めただろう。
 いきなりのことで固まる俺に、唇を離した志摩は笑う。

「……やっぱやめた」
「……っ、志摩……?」
「それより、ドライヤー貸してよ。髪濡れたままだと気持ち悪いんだよね」
「あ、うん……」

 ホッとしたような、なんだろうか。この感覚は。
 志摩の気まぐれは今に始まったことではないが、至近距離で志摩に目を覗き込まれたとき、自分自身がどんな顔をしていたのかわからなかったからこそ余計、なんとなく胸の奥がざわついた。


 志摩のドライヤーを掛けることになったが、やれ『熱い』だとか『風強すぎ』、『近すぎ、毛根死ぬから』だとか文句言ってくる志摩に悪戦苦闘してしばらく。
 玄関の方から扉が開く。どうやら阿佐美が帰ってきたようだ。

「ただいま――なんで志摩がいるの?」

 あ、まずい、と冷や汗が滲む。
 丁度髪を乾かし終えた俺は志摩から手を離し、ドライヤーを置いた。リビングまでやってきた阿佐美は冷たい目で志摩を見下ろしている。
 対する志摩は「俺がいちゃ悪いの?」と言いたげに足を組み直すのだ。

「ご覧の通りお邪魔してるよ」
「色々あって、志摩に助けてもらったんだ。……それで、志摩の制服とかが汚れることになって」

 このままではまた志摩が余計なことを言って、阿佐美にあらぬ誤解を与えてしまうだろう。
 そう思った俺は志摩の言葉を遮るように口を挟んだ。
 ほんの一瞬、『色々あって』という部分に引っかかったようだ。阿佐美は「何があったの?」と俺を向く。

「さあね、お前には関係ないことだよ」
「し、志摩……」
「志摩、お前……」
「じゃあ俺はこれで失礼しようかな。……齋藤の下着、今度洗って返すよ」

「下着?」と声を低くする阿佐美に、慌てて俺は「いいよ、いらないから」と慌てて首を横に振った。
 それから志摩は俺達の部屋を出ていくのだ。
 正直、あっさりと帰る志摩に驚いた。……俺としては助かるのだけど、やっぱり阿佐美が帰ってきたからなのだろうか。

 ばたんと閉まる扉を一瞥し、阿佐美はそのままソファーに腰をかけた。

「食堂で喧嘩があったって聞いたけど……もしかしてそれ、関係ある?」

 そして、静かな口調で尋ねてくる阿佐美に思わず言葉に詰まった。
 どうやらもう阿佐美の耳にまで届いていたようだ。俺は小さく頷き返した。

「……その、食堂でたまたま壱畝と鉢合わせになって」

 志摩がいなくなった手前、阿佐美にこのまま秘密にしておく必要もないだろう。
 そう告げれば、阿佐美はこちらを見た。前髪の下、表情は分からないが突き刺さるような視線が痛い。

「え、大丈夫だったの?」
「……大丈夫、じゃなかった。その、俺が……俺の代わりに志摩が料理を投げ付けられて」
「…………」
「それで、お風呂を貸しただけだよ。……あと、着替えも」

「なんか志摩、自分の部屋には戻りにくいらしくて」どこまで説明したらいいのかわからず、とにかく誤解がないようにだけ告げれば阿佐美は「そうだったんだ」と呟いた。その声は心なしか落ち込んで聞こえる。

「……その、壱畝遥香と揉めたのって俺のせい?」
「え?」
「俺が、あんなこと言ったから」

 声が落ち込んでると思ったら、なるほど。阿佐美はこの間の壱畝についての言葉のことを気にしてるようだ。
 俺は慌てて頭を横に振った。

「せい、とかじゃないんだ。その……話そうとしたけど、うまく行かなくて」

 どちらにせよ、少なからず壱畝を怒らせることになるという覚悟の上での言葉だ。
 そのせいで自分以外の人間が実害に遭ってしまったとなると話は変わってくるが。

 言いながらこちらまで沈みそうになっていくのを、阿佐美は「そっか」と静かに聞いてくれる。

「けど、言えたよ。……ちゃんと、『もうあの部屋に戻らない』って」
「……そっか、頑張ったね」
「壱畝は怒ってたけど、お、俺……詩織の言った通り、逃げてばかりは良くないって思って」
「ゆうき君……」

 今になって緊張の糸が緩んでしまったようだ。言いながら声が震え、何度か深呼吸を繰り返して心拍数を落ち着かせる。その間、阿佐美は優しく俺の背中を撫でてくれた。

「……でも、そのせいで怒らせて、志摩が……俺の代わりに」
「志摩は庇ったってことなんだよね? ゆうき君のこと」

 こくり、と頷けば、「じゃあ大丈夫だよ」と阿佐美は呟いた。優しい声で。

「あまり、こういうことは言いたくないけど……志摩は自分からそれを選んだんだ。……ゆうき君がそんなに気に病むことはないよ」

 恐らく、阿佐美なりに俺が気にしないように言葉を選んでくれてるのだろう。
 けれど何故だろうか、その言葉が妙に胸に引っかかったのだ。

「詩織……」
「俺が志摩の立場でもそうするし、ゆうき君を守れたのなら良かったって思うよ」

「料理ぶちまけられてもね」と阿佐美は静かに口にした。嘘でもその場しのぎの言葉でもない、阿佐美は本心からそう思っているからこそそんな言葉が出てくるのだろう。
 だからこそ、胸の奥が少し痛くなる。喜ぶべきなのだろうが、本当に良かったのか?という気持ちが芽生えるのだ。
 それでも、何も言えなかった。
 そうだね、と言葉を吐いた。背中を撫でる阿佐美の手がやけに熱く感じた。

 阿佐美に慰められたお陰で大分気持ちは楽になったようだ。
 それでも、罪悪感が完全になくなったわけではない。

 風呂から出たあと、起きているとなんだか色々なことを考えてしまうため早めに布団に潜ることにする。しかし、目を瞑ったところで冴え渡った脳は眠る気配はない。

 ――消灯時間を過ぎた頃、阿佐美はまだ起きているようだ。
 カタカタと打鍵音が響く部屋の中、不意に玄関の方から鍵が開く音が聞こえ、布団の中で俺は密かに緊張する。
 この部屋の鍵を持ってる人間は限られる。

「よぉ、詩織ちゃん――って、なんだぁ? ユウキ君はもうおねんねかよ」
「……あっちゃん、声大きいよ」
「どうせまだ起きてんだろ。ほら、ユウキ君」

 近付いてくる足音。そしてその声に冗談だろ、と思った矢先、いきなり視界が明るくなる。
 被っていた布団を剥ぎ取られたのだと理解したと同時に、こちらを見下ろすように立っていた阿賀松にぎょっとする。
 目があって阿賀松はにっと笑った。

「……ほら、狸寝入りしてやがる」
「せ、んぱ……」
「ごめんね、ゆうき君……っ、あっちゃん」
「止めんなよ。俺はこいつに用があってきたんだからな」

 用ってなんだ、と身体を起こすよりも先に阿賀松に腕を掴まれた。ベッドから引きずり出される俺に、阿佐美は困惑した様子だったがそれ以上に阿賀松を止めることはしなかった。

「用なら、ここでいいでしょ」
「あ? 俺は別に構わねえけど、お前はいいのか?」
「……っ、待って、なに」
「なにって話し合いに決まってんだろ」

「大事な、な」と笑いながら人の腰に腕を回してくる阿賀松に息を飲む。そのまま背後で腿の付け根を掴まれ、ひくりと喉が震える。
 一気に冷水浴びせられたように意識が覚醒する。「あの」と咄嗟に阿賀松の手を掴もうとしたとき。

「……っは、無理すんなよ、詩織ちゃん」
「……あっちゃん」
「つーわけでこいつ、借りるぞ」

「行くか、ユウキ君」とそのまま身体を掴まれたまま引っ張られる。なにがなんだかまだ状況が飲み込めていないが、いい予感がしないのだけは確かだった。

 そして、阿賀松に連れ出された自室の外。
 消灯時間を回った通路は薄暗い。二人分の足音が響く静まり返った通路の中、阿賀松はそのままエレベーターを使って四階へと向かうのだ。

「ぁ、あの、どこに」
「俺の部屋」

 なんで、ただの話し合いをするためにそこまで行かなければならないのか。そんなこと、聞かずともわかってしまった。
 青ざめる俺に、阿賀松は唇もだらしなく歪めて笑う。そして、そのまま開いたエレベーターに乗り込むのだ。

「まあ、別にどこでもいいんだけどよ。俺はな」
「……っ、それ、じゃあ」
「もし見られてまずくなんのはお前だけだしな、どうせ」
「……」

 腰から背筋、項までを這い上がる阿賀松の手の感触に自然とぴんと背筋が伸びた。
 凍り付く俺を見下ろし、阿賀松は「本当、わかりやすいやつだな」と笑うのだ。
 機嫌は悪くないようだ。それでも、ねちっこい触れ方が逆に恐ろしい。首筋から耳の裏までを滑る乾いた指先に「あの」と視線を泳がせたとき、目の前の扉が小さな音を立てて開かれる。目の前に広がるのは三階同様薄暗く、真っ直ぐに伸びた通路だ。

「降りろ」
「……は、い」

 逃げ場は相変わらずなさそうだ。
 観念し、俺はこの男から逃げることを諦めて『この男を怒らせないこと』へと思考を切り替えることにした。
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