天国か地獄

田原摩耶

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√β:ep.last『罪と罰』

07

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 ――阿賀松伊織を直接潰す。
 芳川会長はそう言った。

「やり方は俺が考える。君は余計なことを考えなくていい。……余計な真似はするな」

 はい、とだけ俺は応えた。
 会長の力になりたい気持ちはあったが、今は俺に出来る最善は会長に任せることだ。
 ――芳川会長には、俺のことを一通り説明した。
 ……俺が死んだという意味も、阿賀松も阿佐美も俺のことを身代わりの男だと思ってると。
 会長は怒るわけでもなく、ただ無言で俺の話を聞いていた。会長に怒ってほしいわけではない、抱き締めて慰めの言葉を囁いてほしいわけでもない。
 会長だけが俺を俺だと知ってくれてたら、それだけで良かった。

「……ならば尚更、君を帰すわけにはいかないな」

 ようやく口を開いた会長はそう言ってどこかへと連絡をする。そして、間もなくして扉が三回叩かれた。
 ここに誰を呼んだのか、立ち上がった会長は玄関へと向かう。扉を開けばそこには見慣れない――いや、見たことのある男がいた。

「どーも、芳川かいちょ……あ!先輩っすね!」

 ずかずかと大股歩きで部屋へと上がってきた金髪の男は俺の顔を見るなり「うげ」と顔をしかめる。

「なんだ、まだ生きてたのかよ先輩」

 不遜な態度といい、端正な顔立ちといい、俺はこの目の前の男が誰なのかすぐに分かった。
 露骨に不満げな顔をするその金髪の男を尻目に、扉を閉めた芳川会長は深く溜息を吐く。

「櫻田、暫くこいつを見張ってろ」

 ……もしや、と思ったがどうやら当たっていたらしい。
 大分昔、一度だけ女装姿ではない櫻田に会ったことがある。
 それでも、久し振りに会った櫻田に見張りを頼む芳川会長に驚いた。……そもそも、芳川会長は櫻田のことをよく思っていなかったはずだ。
 思わず会長の方を見れば、俺が言わんとしていることが分かったのだろう。会長と視線が合う。余計なことは気にしなくていい。そう無言で言われているようだった。

「別にいいっすけど、いいんですか?俺で」
「お前しか適任がいないからな」
「あはっ!へへ、やった!先輩直々のお願いなら俺頑張っちゃいますよ」

 上機嫌に笑う櫻田は「んじゃそーいうことなんで、よろしく[D:12316]齋藤先輩」と笑いかけてくる。面影はあるものの、目の前の男から櫻田の声が聞こえてくるのはやはり違和感がある。
 ……今は会長を信じるしかない。離れ難いが、会長が選んだことならそれを受け入れるしかない。

「あの、会長は……」
「連中の様子を見に行ってくる。その間、こいつと待ってろ」

 わしゃ、と頭を撫でられる。その掌の熱に後ろ髪を引かれそうになるが、堪えた。
 会長のことが心配だったが、俺がついて行ったところで足手まといだろう。ただ無事を願いながら俺は会長を見送った。
 部屋の中、俺は櫻田と二人きりになる。
 櫻田はというと鼻歌交じりなにやら勝手に冷蔵庫を開けては水を飲んでいた。
 ……聞きたいことも色々あった、が、会長がいない今余計なことはしない方ではないか。そう思い、ソファーの片隅で座っていた。
 そんな中、水の入ったボトルを手にしたまま櫻田はどかりと隣に腰をかけてくる。ぎくりと顔をあげれば、ニッコリと笑う櫻田がいた。

「随分と大人しくなったな、齋藤先輩」
「……っ、それは……」
「なにビクビクしてんの?別になんもしねーよ、今更」

 あれほど人のことを目の敵にしていた櫻田を知っていただけに、棘が抜けたような櫻田の態度には強い違和感を覚えた。

「……どうして」

 思わず疑問をそのまま口にすれば、櫻田は「どうしてだと思う?」とずいと顔を寄せてくるのだ。

「芳川先輩が帰ってきたからだよ」
「帰ってきた?」
「ああそうだよ、俺の尊敬する先輩。ずっと、ずっともう一度会いたくてこんなところまで追いかけてきたんだ。もう二度と会えねーかもって思ってたけど、はは、やっぱあの人は生徒会長なんてものに縛られない方がいいんだわ」
「…………」

 その口振りからするに、櫻田は入学以前から芳川会長のことを知っていたということか。
 なんとなく胸にしこりのようなものを覚える。……俺は、なにも会長のことを知らない。けれど、櫻田が言いたいこともなんとなく分かった。――会長が活き活きしているように見える。
 それと同時に、やはり会長は会長なのだと思った。……一人でいるよりもずっと、側に会長がいてくれるというだけで心強い。

「……櫻田君は、その……どうして」
「あ?」
「その格好……」

 恐る恐る指摘すれば、櫻田は思い出したように「あー」と気の抜けた声を上げた。

「着る必要なくなったから」
「え?」
「なんだよ、勘鈍いやつだな。芳川先輩がこうして俺のことを頼ってくれる、側に置いてくれるってだけで俺は十分なんだよ。な、ほら、十勝のやろ……じゃねーや、十勝先輩じゃなくて俺をあんたの見張りに付けてくれたのが証拠な、証拠」

 そう、にっと嬉しそうに歯を見せて笑う櫻田。
 確かに、俺も驚いた。というよりも、会長は櫻田のことを知っててわざと避けて、だから振り向いてもらうために躍起になって女装するってのもなかなか分からないが、本当に嬉しそうな櫻田を見てるとこちらも嬉しくなった。
 ……ずっと、会長が一人になるのではないかと思っていた。けれど、櫻田は会長の味方をしてくれていたのだ。
 そして、櫻田の言葉からすると……。

「十勝君も、会長に?」
「ああ、あんたがいなくなってあちこち探しまくったんだからな。ほーんと、あのもじゃもじゃ頭が入院してる病院までいくハメになるし」
「……え?」

 思わず聞き返していた。
 もじゃもじゃ頭、と言われて栫井が過ぎった。それと同時に、背筋が冷たくなった。

「もじゃもじゃ頭って……栫井……?」
「そうそう。話聞こうとしたけど、収穫なしだったしな。本当感謝しろよ、芳川先輩にはもちろん、俺にも」
「……ぁ、ありがとう」

 ……そうか、出会わずに済んだのならよかった。
 心底ほっとすると同時に、会長たちが俺のことを探してくれてたことがただ純粋に嬉しくて、胸の奥がじんわりと暖かくなる。
 櫻田は「ハンッ」と妙な顔をして鼻で笑った。……照れているのだろうか。

「それより、今度はあんたの話聞かせろよ。先輩」
「っ、それは……」
「つっても、大方想像付くけどな。どーーせ阿賀松絡みだろ」
「…………」

 櫻田にどこまで言えばいいのか分からなかったが、櫻田も櫻田で自分の考えに自信を持ってるのだろう。それ以上執拗に聞いてこない櫻田にただ安堵した。
 そもそもさして俺のことに興味がないらしい。すぐに櫻田の興味は会長の部屋に移っており、「芳川先輩、こんな本読んでんのか」って机の上のブックスタンドを弄り始める櫻田を見て内心ひやひやした。
 櫻田と一緒にいるとよくも悪くも気が逸らされる。
 そのことまで考えて櫻田を選んでくれたのか、とも思ったがわからない。
 そして会長が部屋を出てどれくらい経っただろうか。ソファーに寝そべってテレビを眺めていた櫻田がいきなり起き上がった。そして、着崩した制服から携帯端末を取り出した。

「げ」
「どうしたの?」
「……ゴリラ先輩からだ」

 櫻田がゴリラ呼びする相手は一人しかいない。こっそりと櫻田の手の中の端末を覗き込めば、そこには連理の名前が表示されていた。
 懐かしい名前に胸が苦しくなる。が、感傷に浸ってる場合ではない。

「面倒くせーし切ろ」
「待って、大事な用かもしれない……」
「あー?じゃお前出ろよ」
「さ、櫻田君……お願い」

 そう櫻田に訴えかければ櫻田はぐ、と言葉に詰まる。そして面倒臭そうに舌打ちをし、「はーい」と電話に出る。

「今どこって……どこでもいいっしょ。つか、今お取り込み中なんですけど。………………は?」

 そう片方の耳を穿りながらだるそうに話していた櫻田だったが、一瞬にしてその表情から色が抜け落ちた。
 その様子を見て直感する、なにか良くない連絡なのだと。胸の奥がざわつく。俺は耳を澄ませ、会話の内容を聞こうとするが聞こえない。そしてゆっくりと櫻田がこちらを見た。

「会長が齋藤佑樹と一緒に消えた?」

 そうまるで幽霊でも見たかのような顔でこちらを見る櫻田に思わず力が抜けそうになる。

「ああ、わかった……すぐ連絡する。そっちも頼みます……はい」

 そう神妙な顔のまま相槌を打ち、そして櫻田は通話を終えた。

「……櫻田君、演技上手だね」
「だろ?惚れんなよ」

 そう先程までと変わらないいたずらっ子のような顔で笑いながら、櫻田は携帯端末を仕舞う。
 というか、あの場にいなかったはずの連理にまで伝わってるということは相当大事になってるようだ。
 不安は煽られるが、それでも俺は芳川会長をただ信じて待つだけだ。そんなときだった。部屋のドアノブがガチャリと音を立てた。
 解錠音はない――間違いない、来訪者だ。
 俺達は話すのを中断し、そして扉へと視線を向けた。
 櫻田に目配せをすれば、俺が思ってることが伝わったのか櫻田はこくりと頷いた。
 ――ここは黙ってやり過ごした方が良いだろう。
 そう頷き返したときだった、櫻田はそのまま立ち上がる。そしてそのまま玄関口の方へと向かう櫻田にぎょっとし、俺は慌てて櫻田の腕を掴んだ。

「さ、櫻田君……っ」
「なんだよ、誰が来たのか確認するだけだろ」
「っ、で、でも……」

 いくら防音とは言えど、こうして小声で話してる声や少しの足音でも聞こえてしまっていたらと思うと生きた心地がしなかった。

「心配し過ぎなんだよ、先輩は。つうか、あんたも気になるだろ?気になんねえの?」
「……それは……」

 気にならないと言えば嘘になる。
 一番最悪のパターンは俺が芳川会長と一緒に向かったと聞いた阿賀松がこの部屋までやってきた場合だが、あの男ならばもう少し俺のことを泳がせるだろう。それに、阿賀松はもっと乱暴だ。
 阿佐美か……それとも連理か。はたまたただ純粋に本当に芳川会長に用がある人間かもしれない。

「あんたはそこで待ってろよ、俺ドアスコープから見てくるわ」

 止めるよりも先に櫻田は扉の方へと向かう。二人分の足音が聞こえた方が怪しまれる。俺は着いていきたいのをぐっと堪え、なるべく物音を立てないように櫻田の様子を伺った。櫻田が扉に近付き、そのままドアスコープを覗こうとしたときだった。再び扉がノックされる。それにも動じることなく櫻田はノック音が止み、扉の前から人がいなくなったのを確認してこちらへと戻ってくる。

「……どうだった?」
「まあ大丈夫そうだな」
「誰だったの?」
「江古田」

 俺は思わず櫻田を見た。無視してよかったのか、と思ったが状況が状況だ。いくら櫻田と江古田の仲が良かろうが、芳川会長にじっとしてろと言われた現状勝手な真似をすることはできない。――そして、櫻田も俺と同じなのだろう。

「でも、どうして江古田君がここに」
「さあ?ゴリラに頼まれたんじゃねえの?すげえ渋々みたいな顔してたし」
「……そっか」

 それならばまだ納得が行く。
 正直、いたのが江古田でよかった。
 もし、阿賀松や阿佐美だと思うと生きた心地がしなかった。膝を抱き締め、息を吐く。
 それから暫く櫻田と共に芳川会長が戻ってくるのを待っていた。
 予め芳川会長が用意してくれていたようだ。気付けば日が落ち、うつらうつらとしていたときだった。隣に腰を掛けていた櫻田が立ち上がる。
 咄嗟に顔をあげれば、携帯端末を手にしたまま固まっていられる櫻田がいた。

「どうかしたの?」

 そう恐る恐る尋ねれば、端末を仕舞った櫻田がこちらへと目を向ける。

「会長からお達しだ。今すぐ部屋から移動しろだとよ」

 誰か押し掛けてくるということか。その一言で会長の意図は読めた。
 そして、櫻田の言葉に迷ってる暇もなかった。

「けど、俺、このままで……」
「良いだろ。んで、俺の部屋連れて行くから」

 場所を選んでる暇もない。「分かった」とだけ頷き返す。
 それから俺達は最低限必要なものだけを手にして部屋を出た。

 学生寮四階、会長の部屋の前。
 通路は静まり返っていた。そんな中、足音が静かに響いた。俺や櫻田のものでもない、硬質な靴音。

「やっぱり、そこに居たんだね」

 息が詰まる。心臓が大きく跳ね、血液がどくどくと流れ込んでくるのが分かった。視線の先、そこに立っていた男を見て毛穴が開きぶわりと汗が滲む。

「――……ゆうき君」

 伸びた前髪の下、確かに阿佐美はこちらを見ていた。冷めた瞳。その声は間違いなく“俺”に問いかけていた。

「っ、……」

 詩織、と喉元まで出かかって飲み込んだ。櫻田に制服を掴まれ、背後に隠される。
 そして、俺と阿佐美の前に立つのだ。

「悪いけど今お取り込み中なんすよね、お喋りならまた今度……」
「……」
「おい、人の話聞いてんのかよ」

 櫻田の制止も無視して阿佐美はこちらへと近付いてくる。その長身がゆらりと揺れた。
 俺の方へと歩みを進める阿佐美に、咄嗟に櫻田が動いた。
 そして、櫻田が阿佐美に掴みかかるのを見て思わず「待って」と声を漏らしてしまう。
 瞬間、阿佐美の目がこちらを見た。見開かれた目、そしてその血の気の失せた唇が動く。

「……っどうして……どうして、帰ってきたの……?」

 ゆうき君、と動くその唇に俺はただ全身が、指先から熱が抜けていくのを感じる。不思議と心の中は凪いでいた。

「……ゆうき君」
「さっきからごちゃごちゃと……っ、おい、いい加減に諦めろっての……ッ!」

 躊躇などなかった。阿佐美の胸倉を掴んだ瞬間、櫻田が拳を固めるのを見た。咄嗟に櫻田の背中にしがみつき、その腕を止める。全身の体重を掛けるが、舌打ちをした櫻田に振払われた。
 受け身など取ることもできず、そのまま床に尻餅を付けば櫻田はハッとしたような顔をする。それでも慌てて立ち上がり、待って、と今度こそ櫻田の腕を掴めば櫻田がこちらを睨んだ。

「っ、なんだよさっきから」
「っ、待って……お願いだから……」
「ああ?だってこいつは……」

 と、櫻田が言いかけた矢先だった。何かが弾けるような凄まじい音ともに、櫻田が目を見開いた。その視線の先、無表情で立つ阿佐美が手にしていたそれを見て息を止める。
 黒い塊はスタンガンだ、それを櫻田の首筋に押し当てた阿佐美はそのまま崩れ落ちる櫻田の体を支えた。

「っ、待って、詩織、それ……ッ」
「………………」

 なんで何も言わないのか。どうしてそんなものを持ってるのか。そして、なんで櫻田に使ったのか。頭の中思考が巡る。逃げなければならない、そう脳内で鳴り響く警笛。
 それなのに、まだどこか希望を抱いている自分がいたのだ。話せば阿佐美も分かってくれるのではないかと。……先に裏切ったのは、俺だというのに。

「っ、……し、おり……」
「……ゆうき君」

 そう、伸びてきた手に息を飲む。その指先が頬を触れそうになったとき、櫻田が阿佐美の手を掴んだ。

「っ、に、げろ……ッぐ、ぅ゛……ッ!!」

 櫻田の言葉を遮るように躊躇なく二発目スタンガンを押し当てる阿佐美に血の気が引いた。痙攣を起こす櫻田、それでも阿佐美の手を止めていた。
 考えるよりも先に、俺は駆け出していた。櫻田を助けなければ、そう思うが今の丸腰の俺では阿佐美に捕まるのがオチだ。
 すぐに、すぐに助けに行くから――ごめん、櫻田君。
 そう口の中で呟き、駆けていく。阿佐美は運動が苦手だと言っていた。早々追い付かれないと思いたかったが、それでも手足が冷たく震えて上手く動けない。
 とにかく、芳川会長の部屋から離れよう。どこへかなんて考えていない。

「っ、待って、ゆうき君……ッ」

 一瞬、ほんの一瞬。そう聞いたことのないほどの大声を張り上げる阿佐美の声が縋りつくような子供のように聞こえた。
 それでも、後ろを振り返ることはできなかった。
 心臓から全身へと血液が流れていくのが分かった。
 どうしよう、芳川会長に、けどそんなことしたら阿佐美が。けど。

 ――学生寮四階、非常階段。
 扉を背に息を吐く。阿佐美はまだ追いつかないはずだ。そうわかっていても、ずっとここにいるわけにはいかない。
 どうすれば、と考えたときだ。不意に、制服のポケットの中に違和感を覚えた。ポケットに手を突っ込めば、指先に触れた何かが触れた。
『それ』を取り出せば、そこには部屋の鍵が入っていた。俺の鍵ではない――もしかして、と息を飲んだ。
 櫻田の部屋の鍵か?ルームナンバーらしき番号が表記されたキーホルダーもぶら下がっていた。この短時間で俺のポケットに鍵を入れられる人間は限られてる。
 考えるよりも先に俺は階段を下った。向かう先は学生寮二階、一年フロアだ。

 ◆ ◆ ◆

 一年フロアに来るなんて早々ないので道に迷わないか心配だったが、幸い部屋順は二年フロアと相違ない。
 部屋の番号を確認しながらも歩いていく。三階同様、その階に人気はなかった。
 そして目的の櫻田の部屋が近付いていることに気が付く。そのまま部屋まで向かい、扉の前へと立つ。そして恐る恐る鍵を使えば、あっさりと扉のロックは解除された。
 緊張する手でドアノブをそっと捻れば、ゆっくりと扉は開く。
 そして、息を飲んだ。

「……っ、……」

 明かりのついたままの部屋。
 そして奥から聞こえてくるのは誰かの声。人がいる、と気付いた瞬間、扉の影からゆっくりと人影が現れた。

「……あれ……」

 そう、ぽつりと。吐き出すようなそのか細い声、視線を僅かに下げればそこにはクマのぬいぐるみがいた。……違う。

「……櫻田君……じゃ、ないんですね……」

「……ご無沙汰、してます……」先輩、と今にも消え入りそうな声とともにくまのぬいぐるみの奥から覗いてくるのは江古田だった。
 何故、江古田がここにいるのか。
 普通に考えれば櫻田のルームメイトが江古田ということなのかもしれないが、それでも、今この状況で他者と出会うのは避けたかった。それも、先程芳川会長の部屋までやってきていた江古田だ。
 江古田のことを信じたい反面、阿佐美を見てしまった直後で思ったよりも自分が動転していることに気付いた。

「……先輩……?」

 固まる俺を不審に思ったようだ。そう尋ねてくる江古田に、俺は考えるよりも先に思わず江古田の肩を掴んでいた。

「っ、……江古田君、櫻田君が……」
「……また、なにかしでかしたんですか……?」
「違う、俺を庇って」

 俺はまだいい、それでも、櫻田のことが気掛かりだった。そう口にすれば、江古田はふう、と小さく息を吐く。

「……取り敢えず、説明してもらってもいいですか……櫻田君のことは、それから決めるんで……」

 取り乱すわけでもなく、相変わらず俺の目を見ないまま江古田は口にした。いつもと変わらない江古田のお陰か幾分冷静さが戻るのが分かった。
 俺は江古田に事情を説明する。……阿佐美のことも、スタンガンのことも話した。巻き込むような真似をしたくはない、阿佐美のことを悪だと思いたくない。そもそもこれは俺が招いた結果なのだ、そううなだれる俺に江古田は携帯片手に「……ややこしくなるので結果だけ言ってください……それ以外の余計は情報はいらないので……」と呟くのだ。そして全てを話し終えたとき、江古田の部屋の扉が叩かれる。
 ノックの音に過敏になっていたが、江古田はすぐに扉を開こうとする。江古田君、と止めようとするが江古田はそれを無視して扉を開いた。
 瞬間、弾かれるように扉が開いたのはほぼ同時だった。

「りゅうちゃん!!洋介ちゃんが危険な目に遭ってるって本当なの?!」

 間一髪、手にしていたくまのぬいぐるみを緩衝材にすることにより扉を防いだ江古田だったがあまりの勢いにぺたんと尻もちを付いていた。
 そして現れた客人に、江古田は座り込んだまま「……ええ、らしいですよ……」と口にした。
 ――親衛隊総隊長、連理貴音。
 あまりにも強力な助っ人の登場に、俺は隠れる暇もなかった。
 まさかこんな形で再会するなんて。
 それは連理も同じのようだ。俺の姿を見るなり、まるで幽霊でも見たかのように目を見開くのだ。

「って、うそ、佑ちゃん……?!」
「……ご無沙汰してます、貴音先輩」

 気まずくないわけがない。
 それでも、ここで無視をするのもおかしな話だ。
 そう、頭を下げて会釈をすれば連理はうる、と目を潤ませたがそれも一瞬、俺の怪我を見ると顔を顰めるのだ。

「無事だった……わけじゃなさそうだけど、良かったわ。ずっと探してたのよ……怪我は?痛いところはない?」
「は、はい……あの、でも俺よりも……」
「あっ、そうだったわ!洋介ちゃんよね」

 本気で心配してくれていたようだ。駆け寄ってきた連理だったが、すぐに気を取り直したように江古田に向き直る。

「りゅうちゃん、さっきのメッセージどういことなの?」
「……どうもこうも、齋藤先輩から聞いた内容まんまです……」
「その、櫻田君が俺を庇ってくれて……その、阿佐美に」
「阿佐美って……二年の子よね。でもなんであの子が洋介ちゃんを?」
「それは、俺を庇ってくれて」

 阿佐美が櫻田と敵対する理由などそもそもない。
 阿佐美はあのとき間違いなく俺を探しに来ていた。櫻田は巻き込まれてしまったのだ。

「……正直、櫻田君なら心配しなくても大丈夫だと思います……阿佐美先輩が齋藤先輩を尋ねてきてるというなら、齋藤先輩が櫻田君を助けに来るのを待つのに利用するくらいかと……」

「……そもそも、あの人がそんなことすること自体あんまりイメージ付きませんけど……」そうぽそぽそと呟く江古田。
 確かに、と以前の俺ならば江古田の意見に同意してただろう。けれど今の俺にはもう阿佐美のことが分からない。
 本位ではない、と信じていたかった。
 けれど、あのときの躊躇いのなさを見て阿賀松が重なって見えたのだ。
 ……阿佐美はなんとも思っていない。

「でも、それでも……このままじゃ櫻田君が……」
「なーに言ってるのよ佑ちゃん、りゅうちゃんもなにも助けに行くなとは言ってないのよ!ねっ?」
「……いえ、僕はふよ……」
「そのためにアタシが来たんだから、洋介ちゃんのことは心配しないで!」

 そう肩を掴まれ、ぎょっとする。明るい笑顔、俺のことを励まそうとしてくれてるのだろう。
 そんな連理の明るさに救われる。その隣で江古田は「……人の聞いてください……」と連理の背中をぽすぽすぬいぐるみで叩いていた。そして連理にぬいぐるみを取り上げられる。

「洋介ちゃんはアタシに任せて、りゅうちゃんはここで佑ちゃんと待機してね」
「……一人でいくつもりなんですか、いくらゴリ……先輩でもなにかあっては一人では都合悪いかと……」
「そんなわけないでしょ、ちゃーんとナイト様は呼んでるわよ」

「ナイト?」と俺と江古田の声が重なった。
 そのとき、部屋の扉が荒々しく叩かれる。まさか阿佐美が来たのかと怯えたが、玄関扉へと歩み寄った連理は「来たようね」とこちらに向かって微笑んだ。そして扉が開く。
 扉の向こう、佇んでいた人物に思わず息を飲んだ。

「……っ、会長……」

 ――芳川会長だ。
 俺の方をちらりと見た芳川会長はすぐに連理に向き直る。

「阿佐美詩織の居場所は確認した。……あいつは俺の部屋にいる」

「伸びた櫻田も一緒にな」と続ける芳川会長。
 状況が状況だ。それでも俺に触れようともしない会長に連理は何か言いたげだったが、諦めたようだ。

「分かったわ。じゃあ、行きましょうか」

 そう、芳川会長と共に出ていこうとする連理。二人の背中に思わず「あの、俺も」と着いていこうとすれば、その先を続けるよりも先に「駄目だ」と芳川会長が声をあげた。
 俺を止めようとして手を伸ばしていた江古田も驚いたようだ、びくりと反応する。

「お前はここにいろ」

 一刀両断、取り付く島もない。

「トモ君、他にも言い方ってんなあるでしょう」
「いいから行くぞ。先手を打たれると面倒だ」
「はいはい、分かったわよ」

 そう先に部屋を出ていく芳川会長に肩を竦めた連理だったが、出ていく直前こちらを振り返り「気にしないでね、佑ちゃん」と口を動かす。
 連理も気を遣ってくれたのだろう。それでも、芳川会長のあの態度も俺を心配してくれてるからだろうと思うと落ち込むこともなかった。
 ……芳川会長のことがほんの少しだけ分かったからかもしれない。
 それでも心配じゃないとなると嘘になる。
 どうしても、芳川会長が栫井から助けてくれたときのことが過るのだ。
 連理も一緒にいるのだからあんなことはないと分かってても、芳川会長の目的は阿賀松を引っ張り出してくることなのだ。
 ……俺は、誰の心配をしてるのだろうか。
 芳川会長?……阿佐美?
 考えてはいけないと無理矢理思考に蓋をする。それでも、胸の奥がざわつくのだ。

 暫く考え込んで動けないでいると、ふと江古田に腕を掴まれる。そして江古田はそっと「……どうぞ……」とぬいぐるみを抱えさせてくれた。これも江古田なりの励ましなのだろう。
 ……ありがたくもらっておく。
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