天国か地獄

田原摩耶

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√β:ep. 1『不確定要素』

07

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「おはようございます、伊織さん!」
「おお、おはよ。寝癖ついてんぞ安久ちゃん」
「ほ、本当ですか?!ちゃんと鏡で確認したはずなのに……うう、すみません!」
「そんなに目立たねえから大丈夫だろ。ほら、ここ」
「あっありがとうございます!」

 別に阿賀松が誰にどう接しようが俺には関係ないが、出待ちしていた安久に驚き、おまけに妙に優しい阿賀松を見せつけられると自分の待遇との差になんだかなんとも言えない気持ちになるのだ。
 それにしても、ずっとここで待っていたのだろうか。
 阿賀松の前、見えない尻尾をぶんぶんと振っている安久を遠巻きに眺めていると、不意にやつと目が合った。というより、睨まれる。

「なんでお前が伊織さんの部屋から出てきてるんだよ!齋藤佑樹!」

 そんなのこっちが聞きたいところだ。

「おい安久、あんまでけー声出してんじゃねえよ。ユウキ君はいいんだよ、俺の彼女だから」

 なんて思ってると、いきなり肩を抱かれて口から心臓が飛び出そうになる。
 彼女、その単語を口の中で繰り返してみればなんということだろうか。違和感しか残らない。
 そもそも俺は女でなければ阿賀松の恋人として機能しているかどうかも怪しい。まあ、阿賀松にしてみればそういう役名の玩具か奴隷なのだろうが。

「伊織さんがそういうならいいですけど……くれぐれも伊織さんの品位を貶めるような真似をするなよ!」

 どうやら阿賀松の言葉は絶対のようだ。そんなことを言ってくる安久にお前もなとツッコミそうになるが、そんなこと言ったら殺され兼ねない。俺は「分かったよ」とだけ応えることにした。

 ◆ ◆ ◆

 学生寮四階、阿賀松の部屋の前。
 出待ちしていたのは安久一人のようだ。

 安久も一緒に、俺達は歩き始める。

「伊織さん、そういえばなんか生徒会が揉めているそうですよ」
「へぇ、そりゃ珍しいな。何かあったのか?」
「理由まではまだ分かってないんですが……先輩が言い争いしてたのを聞いたそうです。そこの齋藤佑樹がどうたらこうたらって!」
「ふーん」

 人気が疎らな通路の中、道行く生徒達は阿賀松たちを見かける度に道開けていく。
 恐らく、安久のいう騒ぎの原因というのはどう考えても生徒手帳のことだろう。
 芳川会長のことを思うとやはり早く写真を返さなければという気持ちの方が強くなるばかりだった。

「ユウキ君、大変だなお前」

 一人決意する俺を横目に、阿賀松はそんなことを口にする。
 完全に他人事だと思っている顔だ、これは。

 これは、阿賀松の命令に逆らえなかったことへの罰なのだろう。分かってはいたが、阿賀松の笑みを見ると嫌なものが込み上げてくるようだった。

「でも大丈夫ですか?伊織さん、そんな面倒なやつ引き連れて」
「いいよ。こいつ一人にしてた方が後々面倒そうだからな」
「流石伊織さん、お優しい……!おい良かったな、伊織さんが慈悲深いお方で!」 

 大方はその慈悲深い伊織さんのせいなんだが、言えるはずもなく。

「……ありがとう、ございます」

 なんて適当に流そうとしたとき。
 前を向いていた阿賀松の目がこちらに向いた。

「お前は本当思ってもないことを平気で口にするよな」
「……」

「癖か?」と、顔を覗き込まれ、ドクリと心臓が弾んだ。
 何も考えていなかっただけに余計、阿賀松の言葉に返す言葉が見つからなくて。不意に立ち止まる俺に、阿賀松は何事もなかったように「おい」と声を上げた。

「何つったってんだよ。行くぞ」

 はい、と大きく返事をする安久。
 対する俺は結局何を返すことも出来ないまま、無言でその後についていく。
 別に、自分が一言一句心を込めるような情に深い人間だとは思っていないが。思っていないけど。
 心臓を内側から撫でられるような、嫌な感じだけが残った。

 ◆ ◆ ◆

 学生寮、食堂外テラス。
 晴天の下、暖かな陽気に包まれたそこには既に先客がいた。

「うわ、飯時に会いたくねえ面」
「んだよ、後から来たのは伊織たちだろ?なぁ、奎吾」
「……ええと、まあ、そっすね」

 中央のテーブルに腰を掛け、早めの夕食を取っていた縁と仁科は顔を合わせる。阿賀松の姿を見るなりあからさまに青褪める仁科に対して、縁はどこか楽しそうに笑った。

「んだよ、仁科てめぇ随分と偉そうだな」
「えっ?!そ、そういう意味じゃないですから」
「そーだぞ仁科!伊織さんと席をご一緒出来て嬉しいですって言えよ!」

 一気に賑やかになるテラス。
 他に利用してる生徒がいないようだが、余計利用客が減るのは間違いないだろう。
 各々好き勝手座る中、どこに座ればいいのか迷っていると「齋藤君」と名前を呼ばれる。

「ここ、おいでよ。空いてるよ」

 円卓の縁と阿賀松の間、その空いた椅子の背を叩いた縁は笑う。
 どちらかというと阿賀松から離れたかったが、不自然に避けて余計目を付けられるのも避けたい。
 俺は促されるがまま、その席に腰を下ろす。
 こんなに天気の良い日、沢山の緑を眺めながらの素晴らしい席だというのになぜだろうか、リラックスどころか緊張しかしない。

「あの、大丈夫でしたか……?」

 それを紛らすように、俺は縁に話し掛ける。
 縁がここにいるということは、志摩を追い払うことに成功したのだろう。汚れた服も着替えているようだ。縁はニコリと笑う。

「ああ、俺のこと心配してくれてんだ。優しいねぇ、齋藤君は。俺は大丈夫だよ、こう見えてタフだからね」
「そうですか……」
「なーにがタフだ、お前はタフ通り越してゾンビだろ」

 俺達の会話に入ってきたのは阿賀松だった。
 皮肉混じりに笑う阿賀松に縁は「珍しいな、伊織が褒めてくれるなんて」と目を丸くする。
 それに「褒めてねぇよ」と即答する阿賀松。それは、俺でも分かる。褒めてはないな。
 しかし、確かに縁はタフというか、初めて会った時の松葉杖が印象強かったからだろう。こうして普通に行動していると、怪我していたであろうことが嘘みたいに思える。

「つーかユウキ君、彼氏の前で他の男の心配なんて随分な真似してくれんじゃねえの?」
「そ、そういうわけじゃ……」
「どーだか。お前尻軽そうだからな」

 笑う阿賀松に顔が熱くなる。図星なわけではないが、仁科や安久たちがいる前でそういう下世話なことを言われることが耐えられなかった。
 そんな阿賀松を咎めるわけでもなく、縁はにやっと嫌な笑みを浮かべる。

「それはいい事聞いちゃったね。へーそっか、齋藤君は尻軽なのかぁ」

 するりと伸びてきた手に太腿を撫でられ、ぎょっとした。
「先輩っ」と慌ててその手を振り払えば、縁は「冗談冗談」と笑う。何が冗談なのか分からないが、嫌に生々しい撫で方をされたお陰で指の感触が残ってしまった。
 そんな俺達を見てたのか、向かい側に座る安久はテーブルに設置されたナプキンを下りながら人の椅子を蹴ってくる。

「尻軽と色ボケで変態同士いいんじゃないのか?伊織さんからさっさと離れてそこのホモ野郎にしろよ!」
「だっ、だから俺は別に……」
「仁科くーん、俺喉渇いた」

 今度はなんだ。人の言葉を遮ってマイペースに主張し出す阿賀松に俺は脱力しかける。
 最後まで言ったところで何も変わらないと分かってる分、余計虚しい。俺は口を閉じた。
 その代わり、指名された仁科は慌てて立ち上がる。

「わ、分かりました……用意してきます。方人さん、安久は?」
「僕はオレンジジュース」
「じゃー俺レモネード」
「齋藤は?」

 声を掛けられ、俺は釣られて立ち上がる。

「俺……俺も、行きます」

 この席にいるのは耐えられない。
 そう思った俺は、仁科を手伝うことにする。
 そして逃げるように俺は仁科とともに屋内へ移動した。

「あーあ、可愛いねぇ。あんなに分かりやすい反応されちゃあ」
「気持ち悪いんだよ、ここは発展場じゃないんだからな。食事を終えてから品定めしろよ」
「あーあ安久君本当そればっか、これだからガキはヤだね~」
「なッ!お前だってガキのくせに!」
「方人、お前立場弁えろよ」
「……はいはーい。分かってますよー。ただ愛でてるだけだってば」

 ◆ ◆ ◆

 カウンターでレモネードとオレンジジュース、それと自分の分の烏龍茶を貰う。
 それをトレーに乗せていると、ボトルとグラス手にした仁科がやってくる。

「悪いな、わざわざ手伝ってもらって」
「いえ、俺も何か飲みたかったところだったので……」

「それは?」と仁科の手にした透明の液体が入ったそのボトルについて尋ねれば、仁科は苦笑した。

「伊織さんがわざわざ取り寄せて貰ってるミネラルウォーターだよ。……あの人、この水じゃないと暴れるからな」
「そ、そうなんですね……」

 確かに強いこだわりを持ってそうな人だとは思っていたがまさか水だなんて。
 健康志向の、決めた物以外口にしないという人が世の中にいるのは知っていた。それが阿賀松だとは思いもしなかったが。
 恐らく暴れられた時のことを思い出してるのだろう。複雑そうな仁科に俺は大変そうだなと同情せずにいられない。

「……お前、生徒会となんか揉めてんだろ?良かったのか?わざわざここまで来て」

 そんなこと考えてると、不意に、持っていたトレーを仁科に取られた。大丈夫ですと手を伸ばすが「気にするな」と一蹴される。

「先輩に、ついてこいって言われたので」
「……そうか、大変だな」

「でも、気を付けた方が良いんじゃないのか。……伊織さんが連れ回すってことは、それで生徒会の反応を見てるだろうし」仁科の言葉に、心がざわつく。
 こうして当たり前のように外を出歩いていることへの違和感、その正体を突きつけられたように、俺はその場から動けなくなった。
 けれど、でも、あの人は。

「……でも、先輩は一応、一緒にいた方が相手も何も出来ないだろうからって……」
「齋藤は、それで納得したのか?」
「……」
「気を付けろよ。何かがあったとしても、お前のためにあの人が動くかどうか分からない」

「期待するなよ。……俺も、何かあってもお前のこと助けられるとは限んないから」悪い、と小さく続ける仁科に、俺は、何も言えなくなる。
 俺にとっては、こうして俺の身を案じてくれているだけでも嬉しかった。
 けれど、それと同時に改めて自分の身は自分でなんとかしなければならないと再認識することになる。

「……ありがとうございます」

 分かってるつもりだったが、それでも、少なからず阿賀松が本当に庇ってくれるんじゃないだろうか。そんな甘い考えを持っていたのも事実だ。
 せめて、と仁科から烏龍茶のグラスを受け取った俺は仁科とともにテラスへと戻った。

「仁科くーん、随分と長い立ち話だったなぁ」
「すみません、遅くなりました」

 言いながらも慣れた手付きで栓を開けた仁科はグラスに水を注ぎ、それを阿賀松の前に置いた。
「どうぞ」と、一言。それを受け取った阿賀松は一口、そのグラスに口を付け、注がれた液体を飲み干していく。

「ああ、やっぱり喉を潤すならこれだよなぁ」
「お前もよく飽きねーよなぁ、俺に一口ちょうだいよ」
「あ?テメェはドブ水でも飲んでろ」
「そうだそうだ!卑しいんだよ!伊織さんの水を一口貰おうだなんて烏滸がましい!」
「……」

 また騒がしくなる円卓。縁と安久、それぞれに飲み物を渡した仁科はそのまま自分の席に座る。俺も、自分の席についた。
 先に、予め注文していたであろう縁と仁科の料理が届いた。それからして、俺達が注文した料理が運ばれてくる。
 阿賀松たちと揃ってこうして食事するのは初めてかも知れない。
 だからだろう、料理の味が全くしないのだ。ただ一刻も早くこの場から立ち去りたい一心で、俺は目の前のざる蕎麦を口に詰め込む。

「齋藤君、俺のケーキあげるよ」
「えっ、いや、俺は……いいです……」
「そんな遠慮しなくていいよ。ほら、食べて食べて。君はもう少し肉を付けた方がいいからねぇ」

 言いながら、俺の手元に皿を寄せる縁。
 純粋かどうかは分からないが、好意的な縁なだけに余計断りにくい。どうしようと困惑していると、逆隣に座る阿賀松にその皿を取り上げられる。そして。

「あ!おい!何食ってんだよ!」
「うるせぇ。人のものに餌付けしてんじゃねえよ。……まっず、このクリーム脂の味しかしねえじゃねえの。安物だな」
「ひっでー、俺は齋藤君のために取っておいたのに!」
「伊織さん僕のケーキもありますよ!どうぞ!」
「もーいらねぇ」
「そんなッ!!」

 ……賑やかだな、本当。
 仲が良さそうには思えないが、それでもお互い好き勝手言い合えるということはある程度信頼しあってるということなのだろう。……約一名を除いて。

「……」

 仁科は遠巻きにそんなやつらのやり取りを見ていた。居心地がいいはずない。俺と同じだろう。妙な連帯感に、馴染み切れていない分それが窮屈で息苦しさを覚えている。そんな表情に思えた。
 不意に、仁科と目があった。
 じっと見ていたのがまずかったのだろう。さっと逸らすのも失礼なような気がして、それでもどうしたらいいのか分からず咄嗟に俺は「あの」と声を出していた。

「先輩、トマト食べないんですか?」

 何か話さなければ、と思った矢先出てきたのは皿の上、隅に追いやられているプチトマトだった。
 目を丸くした仁科に、阿賀松たちの目が仁科の皿に向けられる。
 そして俺は「あ」と後悔した。余計なことを言ってしまった。そう思った時には時既に遅し。

「おい奎吾、好き嫌いか?」
「い、いや……これはその……」
「なんだ?トマトが食べれないなんて子供だな、子供!僕はトマトは中学生の頃に克服したぞ!」

 安久は何か威張っているがそれもそれで随分と苦戦していたのが伺えるのだけれど。
 早速絡まれ始める仁科に、俺は『ごめんなさい先輩』と念を送る。届いたかどうかは不明だが、仁科は俺に「よく分かったな」と笑ってくれた。その笑顔はかなり引き攣っている。申し訳ない。

 その時だった。テラスの扉が開く音が聞こえてくる。
 そして、

「やっぱ外で食う飯は旨いよなー!」

 聞き覚えのある、弾けたように明るい声。
 その声に、阿賀松たちの視線が仁科から声のする方へと一斉に向けられた。
 それは、俺も同じで。
 テラス入口、そこから入ってくる数人の人影に、俺は目を見開いた。

「ゲッ……なんでお前らがここにいるんだよ……」

 十勝直秀は先客である俺達を見るなり露骨に顔を引き攣らせた。
 その後ろには五味、栫井の姿もあった。
 そして、その背後。

「……何をそんなところで突っ立ってる」

 聞こえてきたその声に、背筋が凍り付いた。
 芳川会長だ。
 生徒会の帰りなのか、最悪のタイミングで最悪のメンツが集まったこの食堂に俺はまるで生きた心地がしなかった。

 予想できていたはずだ。
 万が一の、最悪の展開を。

「あぁ?ここが生徒会だけなんて決まり、どこにもねぇだろうが」

「なぁ、仁科」と阿賀松に振られた仁科はギョッとして、それから「……そう、ですね」と同意する。
 そんな仁科の言葉に芳川と五味の眉根がぴくりと反応したような気がしたがそれも束の間。
 空いた隣のテーブルの椅子を軽く蹴った阿賀松により、生徒会の目がそちらに向けられる。

「どうしたんだ?座れよ。せっかく空けてやってんだから。……それとも、俺らの顔見ながら飯食えねえってか?そこの潔癖のお坊っちゃんは」
「テメーなぁ……ッ!」

 その阿賀松の分かりやすい挑発に乗ったのは十勝だった。
 苛ついたように一歩踏み出す十勝を咄嗟に手で制した五味は一言「十勝、止めろ」と口にする。

「っ、五味さん、でも……っ」
「ああ、そうだな」

「貴様の顔を見て飯を食うくらいなら飯を抜いた方がましだ。よくもまあそんな席で食事を出来るのか……俺には到底理解出来ない」それは鋭利な刃物のような、冷たい言葉だった。十勝の代わりに言い放つ芳川会長の目は確かにこちらを向いていて。言葉の端々が胸に突き刺さる。

「白けた。場所を帰るぞ、こんな空気の汚れた場所で飯なんて食えるか」
「お前、伊織さんに向かってなんて口を……っ!」

 安久の野次を無視して、会長が踵を返そうとしたときだった。隣の阿賀松が椅子を引き、立ち上がる。嫌な予感がしてそれを目を追うよりも先に、阿賀松が手元のグラスを芳川会長に向けて投げた方が早かった。

 嘘だろ、と思うよりも先に、いち早く飛んでくるそれに気付いた栫井が宙でグラスを掴む。
 しかし、グラスを受け止めたところで中の水は溢れるわけで。
 頭からそれを被った栫井は、何も言わずにグラスを近くのテーブルに置いた。
 栫井のやつ、流石にキレるのではないだろうかと思ったが、滴る水滴を拭うだけで何も言わない。
 まるで、自分が水を被るのが役目だと言うかのように。

「まるで自分は綺麗みたいな言い分じゃねえか」

「なぁ、トモアキ君」そんな栫井を一瞥し、喉を鳴らして笑う阿賀松。その視線の先には会長。それを受け止めることなく、芳川会長はテラスをあとにした。
 それの後を追う栫井。
 あっさりと身を退いた芳川会長に驚いたのは俺だけではなかった。

「まじっすか、栫井、会長……ッ!こんな……クソッ!飯の上に鳥の糞落ちろ!」

 さっさと出ていく芳川会長たちに驚きつつも、そんな捨て台詞を吐いて十勝も出ていく。
 そんな十勝に「バーカ!お前が落とされろ!鳥頭!」と安久がまた野次を飛ばしていたが十勝に届いていたかどうかは謎だ。

 そして残った影は一つ。

「武蔵」
「……」
「芳川に伝えておけ。味方蔑ろにして寝首掛かれねえよう用心しとけって」

 いつもと変わらない笑みを浮かべ、そんなことを口にする阿賀松。
 十勝のように怒るわけでも芳川のように突き放すわけでも栫井のように無視するわけでもなく、ただ「失礼します」と一言だけ口にし、そしてテラスを後にする。
 一気に静まり返ったテラス内。
 それも一瞬のことで。

「……はッ、本当骨のねえ奴」
「でも、意外だなぁ。あの会長さんがあんな言い方するなんて」
「そう?あんな頭の悪そうな暴言、いつものことじゃん!」

 先程までと変わらないよう、再び騒がしくなるテラス。 ただ一人、仁科だけは腑に落ちないような顔をしていた。

「……あいつはあんな挑発に乗るようなやつじゃねえよ」

 それは少しでも気を逸らしたら消え入りそうな声だった。

 確かに、そうだ。俺の知っている芳川会長は何を言われても涼しい顔をして流していていた。それは阿賀松に対してもそうだ。
 だけど、さっきのあの言葉は。
 俺の事に対して腹を立てているのだろうとも思ったが、それなら芳川会長なら口よりも行動で示してくる。そんな気がしたのだ。
 でも実際は何もされていない、それどころか芳川会長自ら退いた。
 阿賀松のおかげなのだろうかと考えたが、なんとなくそれだけではない気がしてならないのだ。

 それに、十勝のあの目。阿賀松たちと食事を取ってる俺を見た時の諦めと怒りが混じったようなあの目は正直、キツい。
 ……自分がしていることを考えたら仕方ないのだろうが。

 結局、俺と仁科は微妙な空気のまま、阿賀松たちは相変わらずのテンションのまま食事を終えた。
 既に空は赤くなり、段々薄暗くなり始める周囲。
 それに合わせるかのように、部活動帰りの生徒たちが食堂に集まり始めていた。

「あれ、八木じゃん」

 そんな中、ガラス張りから食堂内を眺めていた縁は声を上げる。
 釣られて安久が飛び上がり、「本当だ」と目を輝かせた。
 それが人名なのだと気付き、何気なくそちらに目を向ければ食堂で食事を取る生徒たちに混ざって、どことなく異質な生徒の集団を見つけた。
 右腕には『風紀委員』と刺繍された腕章を嵌めた数人の生徒達だ。
 それだけなら委員会帰りなのだろうと納得できる。けれど、違和感の原因はそこではなかった。
 沢山の生徒たちが和気藹々と食事を取る中、風紀委員だけがどことなく難しい顔をしていたため余計違和感を覚えたのかもしれない。

 その中の一人、一際目立つ背の高いその生徒はこちらに目を向け、そして小さく会釈をした。
 それに答えるように、阿賀松が小さく手を振る。
 すぐにその生徒はこちらから目を逸し、他の委員と話し始めた。

「抜き打ち私物検査でも始める気か?ありゃ」
「まじ?俺、手ぶらなんだけど」
「それでいいんじゃないんですか、普通」
「いや前に八木が検査してくれたときにローターポケットから出てきてさ、あの時の顔がすっげー面白かったんだよ。だから仕込んどこうと思ったんだけど」
「……何やってんスカ」
「ほんっとうお前みたいな人間にはなりたくないな」

 久し振りに安久とは同意見だが、阿賀松たちの口振りからすると今の風紀委員が八木なる人物のようだ。
 鋭い目付きといいガタイの良さといい、なんとなく怖そうな人だというのが第一印象だったがそれよりもそんな八木が阿賀松たちと顔見知りのようだというのが意外に思えた。
 風紀委員と言えば、会長達と同じ生徒会メンバーでもある。
 そんな風紀委員が、まさに風紀の乱れを体現してるような阿賀松たちと繋がっているなんて。

「面倒だな、八木が長引かせてる間に帰るか」
「賛成ー」

 そんな阿賀松の一言により、俺達は食堂を後にすることになったわけだけれど。
 テラスから食堂内へと移動すれば、賑やかだった食堂内は水を打ったように静まり返る。
 風紀委員から逃げるというのにこそこそ隠れるわけでもなく堂々と入口から帰っていく阿賀松には言葉も出ない。
 やはり、良くも悪くも目立つんだな、この人たちは。まあ主に後者が原因だろう。それにしてもやはり俺はこの人たちに馴染めそうにないなと改めて実感した。

 食堂を後にして、阿賀松たちが歩いていくのを一歩下がってついていく。どこに向かっているのか分からない。
 ただ阿賀松と縁が新しい筐体がどうとかこうとか言っていたのでまたゲームセンターで遊ぶつもりなのだろう。
 学生寮一階、ショッピングモール。
 食堂よりも沢山の生徒で賑わうそこで人の足を眺めるようにただぼんやり歩いていたときだ、すれ違い様に不意に肩がぶつかる。

「すみま……」

 すみません、と口にしようとしたがその言葉の先は呼吸に掻き消された。
 首筋に押し当てられた硬い金属の感触。そこから流れ込んでくる大量の電気に、視界が傾く。
 コードを引き抜かれたみたいに意識がぷつりと途切れるその直前、俺はこちらを見下ろす感情のない双眼とスタンガンを確かに見た。
 最後に見たそれが灘だと改めて認識することになったのは、次に目を覚ましたときだった。
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