天国か地獄

田原摩耶

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√α:ep.last 『ロウリスクハイリターン』

06

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「伊織さん!待って下さ……」

 遅れてやってきたのは八木だった。
 蹲る縁を見つけ、血相を変えた八木は俺を睨む。

「齋藤、お前……ッ!」
「待て、落ち着け八木。……テメェは向こうで待ってろ」
「でも」
「いいから、ほら、待てだ。出来るだろ?」

 あくまでいつもと変わらない阿賀松の声。怒ってる気配は感じない、それどころか笑みを浮かべる阿賀松の本心がまるで読めなくて、余計、怖かった。
 八木を追い払った阿賀松はゆっくりと視線をこちらに向ける。
 そして、

「見ねぇ内に随分と男前になったな、ユウキ君」
「……先輩……」

 蛇に睨まれた蛙のようだ、と思った。凍り付いたように足が動けなくなって、自然に呼吸が浅くなる。
 阿賀松から目を逸らせないでいたときだ、俺と阿賀松のその間、志摩は立つ。

「齋藤に近付くな……ッ」
「馬鹿言ってんじゃねぇよ、誰がそんなガキに近付くかよ」

「……つーか、何、そんな傷で俺とやり合うつもりか?」ニヤニヤと笑う阿賀松とは対照的に、警戒心を剥き出しにした志摩は俺の腕を掴んだまま牙を剥く。

「……近付くなって言ってんだよ……ッ」
「おー怖えな。余裕ねー男はモテねぇぜ」

 ぎゅっと腕を掴んでくる志摩。志摩が阿賀松のことを苦手だと思ってるのは知っていた。だからこそ余計、それでも俺の前から退こうとしない志摩が嬉しくて、心配で。
 そんな睨み合いの末、先に折れたのは意外にも阿賀松の方だった。
 志摩から視線を逸らした阿賀松は、地面の上の縁の腹を思いっきり蹴り上げた。

「おいこら方人、いつまで寝てんだよ、起きろ!」
「っ、ぁ゛、いってぇ、クソ、伊織止めろ!蹴るんじゃねえよ……!」
「うるせぇ、ゴキブリ並のお前ならこんくらい平気だろうが。甘えてんじゃねえよ」

 文句を言う縁を無視して、阿賀松は縁を引っ張り起こし、そのまま軽々と担ぎ上げる。

「俺と詩織ちゃんを欺こうなんて十年早いんだよ。……ったく、暴れんじゃねえよ。車道に捨てんぞ」

 そんな阿賀松の腕力にも驚いたが、それ以上に、そのままどこかへと歩き出す阿賀松が信じられなくて。

「……その人を、どうするつもりですか……っ」

 思わず、俺は阿賀松の背中に声を掛けていた。
 眼球だけを動かし、こちらを振り向いた阿賀松は口元を歪める。

「……なんだァ?俺がどうしようとテメェには関係ないことだろ?どうせ、お前には必要ねーものだろうし」
「……ッ怒って、ないんですか……」
「あ?」
「俺のこと……」

 少なからず、ここにいるということは縁とのことにも気付いていたということになる。
 それなのに、何もせずに立ち去ろうとする阿賀松が信じられなくて、俺は尋ねていた。

「ハッ、そんなことかよ。……ま、ぶっ殺しても足んねーよなぁ」

 そう言って、体をこちらに向けた阿賀松は一歩、また一歩とこちらに歩み寄り、そして俺の正面に立つ。
 志摩が構えたがそれを俺は手で制した。
 逃げては、あやふやにしてはいけない。それだけは確かに分かったから。

「この俺を、俺達を欺いて利用したんだ。その覚悟、勿論出来てんだろうな」

 阿賀松の表情から笑みが消える。
 薄暗く、冷たい目。底冷えするような低い声に、背筋が震えた。心臓を握り潰されるようなプレッシャーを前に、俺は掌をぎゅと握り締めた。掌の傷口は開き、血が滲んでいる。それでも、俺は手を緩めなかった。

「出来てます」

「……けれど、俺はもう、先輩の言いなりになるつもりはありません」怖いし、関わりたくない。そう思っていたのに、自分の口からそんな言葉が出来たのに正直俺自身も驚いた。恐らく、殴られたせいでろくに頭が回っていないのかもしれない。自分が死ぬよりも恐ろしいものがあるということを知ってしまったからか、それに比べたら阿賀松の存在がまだ『マシ』だと思えるようになった。
 自己保身のために大切な人が傷付くくらいなら、徹底的に、死にものぐるいで抗った方がましだ。そう思えたから、俺は。

「……齋藤」
「その言葉、忘れんなよ」

 何か言いたそうにする志摩の横、阿賀松はふっと口元を緩めた。
 そして、

「俺の用事はもう済んだ。こっちも忙しいんだ、詩織ちゃんにまで振られたお前なんかに興味ねぇよ」

 阿賀松の言葉を聞き逃さなかった。
 どうやら、阿佐美が裏で手を回してくれていたようだ。
 阿佐美が振ったということにして、俺に非がいかないようにしてくれたのだと知って、胸が痛くなる。

「ま、これ以上俺のすることに口を挟むってんなら話は別だけどな」
「……ッ」

 何も言えなくなる俺に、阿賀松は手を伸ばしてくる。殴られる、と目を瞑った時、軽く胸を叩かれた。
 しゃんとしろ、と、言うかのようなその動作に驚いて背筋を伸ばせば、阿賀松は小さく笑い、今度こそ縁を連れてその場を立ち去った。
 そして、阿賀松たちの影が見えなくなるまで、俺はその場から動くことが出来なかった。

 助かった、のだろうか。
 許された、のだろうか。
 分からない。ゲームには負けたのに、志摩は生きてる、縁もまだ、生きてる。また何か起きるかもしれない。
 混乱する頭の中、それでも、ただ、唯一分かったことがある。
 阿賀松が、助けてくれた。

「……」
「……齋藤?」

 まだ終わっていない、そう頭で理解していても、今までの緊張の糸が切れたみたいに俺はその場に座り込んだ。立ち上がろうとしても力が入らない。腰を抜かす俺に、志摩は「ちょっと、齋藤、大丈夫……?」と怪訝そうに声を掛けてくる。

「大丈夫、な、わけないよ……っ」
「……」
「し、ぬかと、思った……」
「……齋藤」
「……っ、良かった、良かった……志摩が、無事で……」
「無事ではないけどね」

 夜はまだ明けてない。けれど、空は先程よりも晴れて見えたのは錯覚だろうか。
 感極まってしまい、涙が止まらなくなる俺に志摩は呆れたように笑う。こうしてまた一緒にいられることが嬉しくて、今はただ、それだけだった。

「齋藤君、志摩君!」

 不意に、遠くから名前を呼ぶ声が聞こえてきた。
 灘だ。
 こちらに駆けてくる灘の背後には、救急隊員らしき数人の人間がいた。
 それを見て、俺と志摩は目を丸くする。

「な、灘君……?」
「馬鹿だろ、あいつ、大袈裟過ぎ……」

 呆れたように志摩が呟いたときだった。がくりと、志摩がこちらに凭れかかってくる。
 一瞬、甘えてるのだろうかと思ったがそうではないことには直ぐに気付く。

「……?志摩……?」

「志摩……、志摩ってば……どうしたの?起きてよ……」真っ赤に染まった志摩の顔、その口から咳とともに血が溢れるのを見て、血の気が引いた。

「っ、志摩……!」
「聞こえてるよ、齋藤……本当煩いな……」

 そう悪態吐く声も何かが絡まるように濁っている。
 具合が悪そうに顔を顰める志摩、その口元を制服の袖口で拭えば、心地良さそうに志摩は目を閉じた。

「ちょっと、疲れただけだってば……少し、目、瞑るだけだから……」

「だから、大丈夫だよ」と、まるで、自分かに言い聞かせるように志摩は呟き、俺の腕の中、その意、識を手放した。






 どうやら、俺はいつの間にかに気を失っていたようだ。志摩が担架に乗せられてるのまでは覚えているのだが、それからの記憶がやけにあやふやになっている。
 確か、教師たちも出てきて、ぼんやりは覚えてるのだけれど。
 見慣れない天井から視線を外した俺は、ベッド傍に佇む人影に目を向ける。
 明るい室内、私服に着替えた灘がそこにはいた。

「……灘君?」
「気が付きましたか」
「……志摩は?志摩は、どこに……」
「大丈夫です。彼は無事です。それよりも、君の怪我の方が酷い。無理して動かないでください」

 相変わらず静かな声だが、今はその声が丁度良く感じた。
 喋る度に全身が悲鳴を上げ、骨が軋む。あの時は脳内麻薬のお陰で痛みは感じなかったが、今はもうどこもかしこも馬鹿みたいに痛んだ。なるほどな、と思った。

「そうか……俺は……」
「君には、いくつか伝えないといけないことがあります」
「……伝えないといけないこと?」
「単刀直入に言います。あの夜、芳川会長が倒れました」

 あくまで事務的に口にするものだから、一瞬なんのことだか分からなかった。
 思わず顔を上げる俺に、灘は無表情のまま続ける。

「脳震盪の後遺症が出たみたいで、それが大分深刻だそうです。……今は目を覚ましているのですが脳に障害が残っていると」
「脳に、障害が……?」
「主に記憶の欠落、記憶力の著しい低下ですね。まだ俺達の名前は分かるのですが、それでも以前の芳川会長とは別人だと考えた方がいいかもしれませんね」

 淡々と告げられる事実に、俺は、あの日、倒れていた芳川会長のことを思い出す。あの時もひどく具合が悪そうだったが、まさかここまでだとは思っていなかった。
 そうなると、と、誰よりも芳川会長の身を案じていたあいつの顔が過ぎった。

「栫井は、そのことは」
「栫井君が会長が倒れた時に居合わせたお陰で救急車をすぐに呼ぶことは出来ました。幸か不幸か、一大事にならずには済みましたが……」
「……」

 その代わりにこれということか。
 栫井のことを考えると、大事にはならなかった会長を素直に喜べることは出来なかった。
 遣る瀬無い中、俺は、灘に目を向ける。

「……いくつかってことは、もう一つあるんだよね」

 そう、灘に目を向ける。
 灘は一拍置いて、そして、小さく口を開いた。

「――……志摩亮太が退学になりました」

 今度こそ思考が停止する。

 灘から聞いたことは、俄信じ難い、信じたくないものだった。
 あの後、病院に運ばれた俺達だったが怪我の有様から喧嘩があったということになったらしい。
 縁の存在は跡形もなくなっていて、学園側は当初俺と志摩両方を退学にさせることにしていたようだ。
 けれど、それを、志摩が止めた。
『自分から手を出した。自分の怪我は齋藤の自己防衛のためだ』と。
 縁の名前を出せばよかったのに、それをしなかったのはもう二度とあの人に関わりたくなかったからか。
 俺を庇い、志摩は一人で罪を被ったという

「高校生の喧嘩ということで学園側も警察沙汰にはせず志摩亮太の処分で始末を付けようとしていましたが、恐らくそれも時間の問題かもしれませんね」
「……どういう……」

 意味だ、と言い掛けたときだった。
 いきなり病室の扉が開く。
 そして、

「佑樹!」

 そこに現れた、よく知った初老の男女に目を疑った。
 立ち上がり、会釈する灘。その隣で、俺は言葉を失う。

「父さん……母さん……」

 今回のことで、流石に学園から親に連絡が行ったようだ。
 以前は阿賀松が手回しをしてくれていたが、今度はそれはない。
 俺の怪我のことを聞き、飛び出してきたという両親に俺はずっとその顔を見ることが出来なかった。


 両親は、転校すべきだと口を揃えた。
 志摩が全部責任を負ったお陰で、両親は俺がまた虐められていたと思ったようだ。実際間違いではないが、それでも、せっかく居場所を、大切な相手を見つけた今、逃げ出すような真似はしたくなかった。
「大丈夫だから」「心配しないで」と何度も説得したが、「だから一人にしたくなかった」と言ってとうとう泣き出した母親に俺は何も言えなくなる。

 元は親を困らせたくなくて、俺は離れたこの学園を選んだ。
 それなのに、余計泣かせている今自分が悪いことをしているようなそんな気すらしてきて。
 せめて、もう少し時間を。せめて志摩に会わせてくれ。そう頭を下げれば、両親は顔を顰めた。

「正気なの?貴方は怪我を負わされたのよ。そんな相手に会いたいなんて」
「違う、そうじゃないんだ……っ、そうじゃ……志摩は……」
「佑樹」

「お前は疲れてるんだよ。ゆっくり静かなところで休むべきだ」父親の諭すような言葉に、俺は最後まで説得は出来なかった。
 俺の言葉を聞き入れてもらう暇もなく、全ての物事は流れていく。

 結局、志摩に挨拶することも、誰とも話すことも出来ないまま、俺はその日の内に都心から離れた大きな病院に入院することになった。
 今日ほど、俺は自分が子供であるということを悔やんだ日はないだろう。

 目付け役の監視の元、傷を癒やすための入院生活は続く。
 なんとか目を盗んで志摩と連絡取ろうと思ったが縁に奪われたまま携帯電話はなくなってしまった上、学園に電話しても取り合ってもらうことは出来なかった。親が手を回していたせいだ。こうなったらと何度も病室を抜け出そうとしたがその度に監視に見つかっては母親に泣き付かれ、どれも失敗に終わった。
 自分一人の時間も無くなった。
 阿賀松も芳川会長も縁もいない、誰から蔑まれることも暴力を振るわれることもない平和な生活が続く。
 それでも、俺が満たされることはなかった。
 確かに、あの学園で過ごした日々は到底幸せと呼べるものではなかった。
 ろくに学業に専念することも出来なければ、友達と笑い合うこともなかった。
 それでも、俺にとっては無駄ではない時間だった。
 ぬるま湯に浸かった今だからこそ分かる。
 あそこは俺にとって苦痛を知ることのできる地獄でもあり、普通では知れない様々なことを知ることが出来る天国でもあったのだ。
 囲われて、愛されて、可愛がられて、笑って過ごす平穏な日々に憧れていた。けれど、それでも、今では自分がこうしてのうのうしている裏で志摩がどんな思いをしているのだと思うと気が気でなかった。
 志摩に会いたい。
 会いたい。
 志摩。
 怒ってるだろう。今度こそ愛想尽かされたかもしれない。俺は、志摩にお礼すら言っていない。
 なんとかして抜け出せないかとも思った。監視の目を潰せばここから逃げ出すことも出来るはずだ。俺が殺人でも犯したら両親は俺に愛想尽かして放っておいてくれるだろうか。そんなことをぐるぐると考えながらも、退院した俺は静かな街に佇む高校へと通い始めることになった。
 送り迎え付き、学校の中でも常にお付きがいるお陰で、以前とは違う一般家庭の生徒が通うその学校では酷く浮いてしまった。
 遊びに誘われても断るしかなくて、次第に誰も俺を誘うことはなくなった。寧ろ、俺にはそれがありがたかった。
 毎日ひたすら勉強して、親を安心させるためにただ机の上で参考書と向き合っていた。
 一人前の人間になって、親にもう口出ししなくても大丈夫だと思ってもらうために、血眼になって勉強した。

 一年というのはあっという間にやってきた。

 高校三年生の冬。
 卒業証書を手にした俺は、帰ってきた両親を迎えた。

「父さん、母さん、話したいことがあります」

 どれほど時間が掛かっただろうか。俺は、ようやく家を出る。
 今度はコソコソ何かから逃げるためではない、会いに行くために、自分の力で俺は家を出ることを選んだ。
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