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√α:ep.2『解いて結ぶ』
01
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その日、俺はぐっすりと眠ることが出来た。
会長と話したことによって緊張が解れたからか、はたまた夜の校舎を散歩して体を動かしたお陰なのかわからなかったが、久し振りに気持ちの良い朝を迎えることができた。
それから身支度を済ませ、会長がいるであろう生徒会室へと向かう。そっと扉を開けばそこに会長の姿はなく、その代わりに見知った姿が二つあった。
――灘と五味だ。
どうやら二人はなにか話していたようだ、いきなり仮眠室の扉から顔を出す俺に五味はぎょっとする。対する灘は普段と変わらない無表情のままだった。
「おはようございます、齋藤君」
「お……おはようございます。あの、すみません。もしかして俺、大事なお話中にお邪魔しましたか」
「あーいい、気にすんな。……ちょっと驚いただけだ」
嘘だな、と直感で感じた。なんとなくばつが悪そうにする五味に申し訳なくなるものの、引っ込みつかなくなった俺は開き直って五味たちの元へ向かう。
「あの、会長は……」
「あいつなら少し席を外している。……すぐ戻ってくるかもしれんが、先に飯食っとけ。いつになるか分からないしな」
飯?と小首を傾げた時だった。
生徒会室の中央、置かれたソファーの影からごそりと紙袋を取り出す灘。その袋には見覚えがあった。
「俺の方から用意させていただきました」
もしかしたら食堂へ行けということなのだろうか、という考えは灘の言葉で吹き飛んだ。灘は抱えた大きな紙袋をひっくり返し、その中身をテーブルの上に豪快に広げた。
惣菜パンから菓子パンまでずらりと並べられる多種多様なパンの数々に俺は圧倒される。どうやら灘のパン好きは健在のようだ。
「これ、全部……?」
「好きなのをどうぞ」
とは言われても、流石に全部は無理だ。
「ありがとう。……じゃあ、これもらうね」
とりあえず目に付いた適当なパンを手に取れば、灘はなにも言わずこくりとだけ頷き返してきた。
残りの大量のパンはどうするのだろうかと気になりつつも一先ず俺は空腹を満たすためソファーに座り、選んだパンを口にすることにする。
丁度そのときだった。勢いよく扉が開いたと思えば、血相を変えた十勝が生徒会室へと飛び込んできた。
「ちょっ、ちょちょちょっと! 五味さん! どういうことっすか! 佑樹が……って佑樹?!」
俺が生徒会室にいることを知らなかったようだ。ソファーに腰を下ろし、たった今朝食を取ろうとした俺に気付いた十勝はぎょっとした。
「あ、おはよう、十勝君……」
「おう! おはよう! っ……じゃなくて、五味さん……もごっ!」
そして、気を取り直して五味に迫ろうとしたとき、顔をしかめた五味に顔面を掴まれ強引に口を塞がれた十勝。
「わかった、わかったからお前ちょっとこっちこい」
「もご、もごご……!」
十勝を捕まえた五味はそのままずるずるずると十勝を引きずって生徒会室の外まで移動した。
もしかしたら俺の前では話せないということなのだろうか。十勝の血相が気になったが、わざわざ後を追うような真似も出来ない。
五味と十勝が退室し、生徒会室は静まり返る。十勝のあの反応からして、なんとなく外で何が起きているのか想像ついてしまった。それは考えられるなかで最悪なものだ。
恐る恐る俺は向かい側に腰をかけ、自分の分のパンを頬張る灘を見上げた。目が合い、一口パンズにかぶりついた灘はそのままごくりと飲み込む。そして、
「――縁方人が動きました」
「……」
「今朝、昨日のラウンジの監視カメラの映像を弄ったものが職員室のパソコンに送信されたようです」
「……それって、もしかして」
「縁方人が自分の腹を切った映像です」
ああ、と思った。動画を撮られてしまっている以上流出も視野に入れていたが、まさかこんなに早く行動に移すとは思わなかった。
「実物は自分も見ていませんが、今会長が確認しに行っているはずです」
あくまで淡々とした灘の言葉がゆっくりと俺の心臓を握り潰していく。
どのような映像がばら撒かれたのかはわからないが、恐らく縁のことだ。流出したものは俺が刺したように見えるよう出来ているはずだ。
それが担任の手にも渡っていると考えると血の気が引いていく。冷静にならなければ、そう頭では思うのに思考回路が乱れていくのだ。
そして、灘の報告はそれだけでは終わらなかった。
「それと、一部の生徒にもその映像を切り抜いた画像が流失しているようです」
そう携帯端末を取り出した灘はその画面をこちらに見せてくる。
画面に表示された写真は鮮明で、目の前に立ち塞がった縁が俺の手を取って自ら腹部にナイフを突き刺したときの写真が切り抜かれていた。
なにも知らない人間が見たら間違いなく俺が縁を刺し、縁がそれを抜こうと俺の手を掴んでいるものに見えるだろう。
突き付けられた端末の画面を見つめたまま、俺はしばらくそのまま動けなくなる。言葉すらも出てこなかった。
「今朝方、この画像を紙にコピーしたものが学園中に張り出されていました。校内の巡回は厳重にし、ばら撒かれていた用紙は全て回収したつもりでしたが……すみません、生徒同士のメッセージツールまで気を配ることは出来ませんでした」
そして、目を伏せた灘は続ける。
その言葉の意味を理解したとき、全身、指の末端から冷たくなっていく。
「ちょっと、えっと、あの、……ごめん。ちょっと待って。…………え?」
つまりそれはこの画像を何人もの生徒が見て、もしかしたら今もなお俺の知らないところで広がっているかもしれないということか。
先程、血相を変えた十勝の様子を考えると十勝もこの画像を見たということだろう。
誰の手に渡り、誰が見たのかもわからない。灘がどう頑張ったところで出処を調べることはできたとしても、新たに流出するのを防ぐこともネットの海に放出された画像をすべて消すのは難しいだろう。
「今、会長が職員室へ行っています。全ての事情がわかるまで、ここにいて下さい」
相変わらずの態度の灘だが、僅かにその目の奥が揺らいでいる。灘も、打開策を考えてくれているのかもしれない――でも、無理だ。
そう結論付けてみれば、不思議と心は落ち着きを取り戻す。
灘に「うん」と返し、俺はテーブルの上に用意されたグラスに口をつける。乾いた喉にひんやりとした水が流れていく感覚は心地がいい。
「心配することはなにもありません。君はなにも悪くない。……堂々としていれば問題ありません」
「……うん、そうだね」
「食べて下さい。ゆっくりできる内に」
最初、冷たそうな人だと思っていたが今ではよくわかる。灘はただ感情を表に出さないだけであって、心の中まで冷めきっているわけではないのだろう。
事実、この状況でわざわざ俺を気遣ったところでメリットもない。それでも、俺を励ましてくれる灘の存在は心強い。
「ありがとう、灘君」
出回った画像や映像のことは気がかりだが、一先ず会長を待とう。
状況が分からなければ、俺も悩むに悩まれない。
「くっそ、縁方人の野郎……っ! 今度は佑樹をハメるつもりかよ!」
――生徒会室内。
五味と何を話したのか、外から戻ってきてからずっと十勝は機嫌が悪かった。
苛ついたように壁を殴る十勝にびくっとしてると、そんな俺を見兼ねたのか五味は「落ち着け」と十勝を宥める。
「十勝、荒れんな。お前がキレたってあいつらの思う壺だぞ。あいつのやり口はお前が一番知ってんだろ」
「だからだよ、余計頭に来る」
「……頭にきてんのはお前だけじゃねえんだよ、いいから落ち着けっていってんだろ」
十勝なりに心配してくれているということだろう。
怒った十勝に慣れてない分ちょっと怖くなる反面、自分のために怒ってくれているのだと思うとなんだか複雑だった。
というか、十勝が縁のやり口を知っているってどういう意味なのだろうか。まさか十勝も同じような目に遭った事があるということか。
と、そこまで考えて、十勝がダブっていることを思い出す。まさか、と引っかかったが、中々聞き出せそうなな雰囲気ではない。
「でも、早く出回った画像止めねえと佑樹が……」
「無理だ。人の口に戸は立てれねえ」
「……」
「……佑樹……」
無言で俯く俺に、顔をくしゃくしゃにした十勝は心配そうに呟く。
五味の言い分はもっともだった。事実、俺もその件に関しては諦めていた。
最悪の自体は想定している。いつだって、もしもの可能性ばかりを考えていた。
とはいえど平静でいられるかどうかとなると話は別だ。
生徒会室内に重苦しい空気が流れる。そんな中、「だぁあっ!くそっ!」とイラついたように声を上げ髪を掻き毟る十勝。
「なんなんだよ、あいつ! 佑樹は関係ねーじゃん! なんで……っ」
「十勝君……」
せっかくのヘアセットも台無しだ。
怒ったように、悲しそうに、居ても立ってもいられないのか棚を蹴ろうとした十勝は寸でのところで留まり、その代わり自分の髪をぐしゃぐしゃと掻き乱した。
俺も、出来ることなら十勝のように怒鳴って回りたい。なんで俺なんだ、と。なんで俺がこんなことに巻き込まなければならないのだと。
だけどもう、そんな言い訳が通用しないところにまで片足どころか下半身全部浸かってしまってる現状だ。
そんな俺が出来る事は、せめて皆の邪魔にならないようにするということだけだ。
それからどれくらい時間が経ったのだろうか。
本来ならばとっくに授業が始まっている時間だが、生徒会の特権を駆使した五味や十勝、灘は相変わらず生徒会室で会長の帰りを待っている。
十勝はというと無言でソファーに腰を下ろしていた。先程よりかは幾分落ち着いたようだが、普段の様子を知っている俺からしてみるとやはり先程のやり取りのことを引きずっているのだろうとわかった。
五味もなにも話さないし、灘はというと先程からデスクでPCを操作している。
――そして、俺はというといつ学校から呼び出しが来るのかとビクビクしていた。
未だそれらしい校内放送もお呼び出しもかかっていないが、その代わり、ポケットに突っ込んだままになっていた携帯端末が震えだす。
このバイブの長さからしてどうやら電話のようだ。
「齋藤君、どうしました?」
この空気の中、通話に出るかどうか迷っていると俺の表情からなにか察したようだ。モニターから視線を外し、こちらに目を向けたまま灘に問いかけられ、内心ぎくりとした。
「いや……ごめん、なんでもないよ」
「ちょっと、席外してもいいかな」生徒会相手に今更誤魔化す必要もないかもしれないが、もしものことがある。
なるべく変に波風を立てたくなかった俺はそう灘たちに断りを入れ、一旦仮眠室の方へと戻ることにした。
――仮眠室。
生徒会室へと繋がる扉を閉じ、背にしたまま俺は制服のポケットに手を突っ込む。そして震える携帯端末を手にし、画面に目を向けた。
「……志摩」
そして、そこに表示された名前を思わず口にする。
一気に気分が沈んでいくのがわかった。
もしかしなくても、志摩も縁がばら撒いた画像を見たのかもしれない。
或いは、張本人からなにかを聞いたのか。
――縁の怪我のこととか、色々聞きたいこともあった。
けれど、前回喧嘩別れみたいになってしまった現状、志摩からの通話に出ることに躊躇っている自分もいた。
それに、今志摩相手に上手く誤魔化せる気もしない。
そのまま電話に出ずに画面を眺めていると、通話は途切れた。
それにホッとするのもつかの間、すぐに二度目の志摩からの電話がかかってくる。
しかも、今度はなかなか切れそうにない。
……このまま意地を張ってても仕方ないか。
それに、こうしてしつこく電話をかけてくるということは少なからず俺のことを心配してくれているのかもしれないし。
それに、今は少しでも外の情報がほしいのが現状だ。
そう覚悟を決め、俺は通話を繋げる。
なるべく緊張を悟られないように「もしもし」とトーンを落としたときだ。
『――ゆうき君?』
端末越しに聞こえてきたのはあの嫌味混じりの柔らかい声ではなく、少し掠れたような低い声だった。
「えっ、し……詩織?」
――なんで、阿佐美が志摩の番号からかけてるのだ。
思わず画面を確認すれば、どうやら俺の早とちりだった。画面には見覚えのない番号が表示されていた。
電話の相手が阿佐美であるということにホッとするのもつかの間、自分の立場を思い出し、気を引き締める。
『ああ……よかった、ちゃんと繋がって。ごめんね、いきなり電話かけたりして』
いつもと変わらない優しい声が聞こえてきて、ますます戸惑う。
まだ阿賀松のことを知らない、ってことなのか。
というか、そもそも。
「どうして、詩織が俺の番号知って……」
『前にね、あっちゃんから教えてもらったんだ。……ごめんね、ゆうき君にはちゃんと言ってなかったから驚いたよね』
あっちゃん――阿賀松伊織。
その口から出てきたあの男の名前に冷や汗が滲む。
阿佐美の態度からして、まだ阿賀松のことを聞いていないのだろうか。
でなければ、こんな風に普通に話してくれるなんて思えない。
言いにくいが、どうせ時間の問題だ。このまましらばっくれるのも不自然だし、せめて阿佐美にはちゃんと伝えておこう。
「あの、詩織……そのことなんだけど――」
そう、意を決して口を開いたときだった。
端末越し、「ゆうき君」と柔らかい声が聞こえてくる。
そして、
『……ゆうき君、俺、ゆうき君のこと応援してるよ』
『なにがあっても、頑張って欲しいと思う』返ってきた言葉に思わず「え」と聞き返してしまう。
なんだか、話が噛み合わない。
「あの、詩織」と戸惑っていると、向こう側で阿佐美は『それだけを伝えたくて』と付け足した。
まるで最後の別れのような、そんな阿佐美の言葉に胸騒ぎを覚えた。
詩織、ともう一度阿佐美に呼びかけようとしたときだった。
がさ、と端末越しにノイズが走る。そして。
『――だってよ、詩織ちゃんの心優しい声しっかり届いたかよ』
ユウキ君、と聞こえてきたその声に背筋が凍り付いた。
鼓膜に染み付くような粘っこい低音。その声は恐怖の対象として俺の頭に刻みつけられていた。
「……っ、」
どうして、と喉元まで出かかってすぐに理解する。
阿佐美の様子がおかしかったのは阿賀松がいたからか。それでも、だとしてもだ、それを意味するものは――。
『おいおい、愛しい彼氏に挨拶もねえのかよ、なあ? そんなに、新しいカレシのが良かったか?』
「……っ、せんぱ、い……」
『ああそうだよ、俺だよ。……ユウキ君』
いつもと変わらない調子ではあるが、俺には分かる。
普段よりも僅かに落ちたトーン。恐らく向こう側にいる阿賀松に笑みは浮かんでいないだろう。
「ユウキ君」
出来ることなら聞き間違いだと思いたかった。
電波が悪くなってたまたま阿佐美の声がそう聞こえただけ、そう思いたいのに、この電話の向こうにいるのがあの男で間違いないと全身が告げている。
「ぁ、あ……阿賀松、先輩……」
舌が縺れ、上手く言葉を紡ぐことができなかった。
手が震え、携帯端末ごと落としそうになるのを寸でのところで耐える。唇が震える。
無意識のうちに俺の口から「ごめんなさい」と謝罪蛾漏れていた。そんな俺の反応に、端末の向こうで阿賀松がからからと笑う。
『なんで謝んだよ。全部お前が決めたことなんだろ? なら、俺に謝る必要はねえよ』
「っ、ぁ、で、も……」
『いいんだよ、別に。……どうせこれから、なにが起ころうと全部全部お前が自分で選んで決めたことになるだけだ』
『その覚悟くらいはあるんだよなぁ、勿論』ほんの一瞬、思いの外明るい口調にまさか許してくれるのだろうかと思ったのも束の間、その期待は即座に裏切られる。
阿賀松の言葉は俺の頭に、肩に、ずしりと重くのしかかる。
そうだ、俺が決めたんだ。
栫井を庇うためとはいえ、芳川会長に楯突いたのも俺だ。
……そしてそれがどんなことを招こうとも、いても立ってもいられなかった。
『で、だ。そんな一人前のユウキ君のため、わざわざ俺はこうして詩織ちゃんに電話をかけさせたんだ』
『なんでか分かるか?』と阿賀松は続ける。
試されてるのだと分かった。そして、これからのやり取りでこれからのことも全て決まるのだと、肌で感じた。
慎重にならなければ。
「わ、かりません……」
『即答かよ、本当に考える気あんのか?』
「ぁ……す、すみません……」
『俺と取引したら、お前だけは見逃してやるよ』
一瞬、やつの言葉の意味が理解できなかった。
聞こえてきた言葉に、単語に、胸の奥で心臓が一層煩く跳ね上がる。
「っ、み……見逃す……?」
『ああ、最後のチャンスだ。俺は方人の馬鹿共にお前から出を引くよう命令するし、他のやつらにも一切手出しはさせねえ。――勿論俺も、必要以上にお前には手を出さない』
『まあ、ユウキ君が俺に協力してくれたらの話しだけどな』そう阿賀松は笑うのだ。
表情は見えないものの、脳裏にあの男のだらしなく品のない笑みを浮かべているのが安易に想像することができた。
――阿賀松に協力する。
そうなれば、必然的に芳川会長を裏切るということになる。
阿賀松はまた、俺に芳川会長を裏切れという。
『助ける』という言葉の魅力に喜ぶよりも、会長を裏切るという選択肢の重さに息が詰まりそうになった。
そんなのって、そんなのって、おかしいじゃないか。
こんな状況でまた俺が阿賀松に寝返ったところで阿賀松が俺を本気で信用するとは思えないし、なにより、俺だけ助けるってどういう意味だ。
嫌な予感に血の気が引いていく。
「ちょっと、待ってください……っ」
『待たない。俺は気は長くはねえんだよ』
「……っ」
『――栫井平佑。こいつの怪我、また一段とひでえことになってんな。なあ、ユウキ君。これ、芳川知憲がしたんだろ?』
何故、ここで栫井が出てくるのか。
まるで目の前に栫井がいるかのように続ける阿賀松に心臓が騒ぎ出す。全身を巡る血液が更に熱くなっていくようだった。
端末を握っていた手のひらには汗が滲んでいた。
『簡単だ。お前が俺にしたようにアイツを裏切ればいいだけの話なんだからなぁ? ま、裏切るっつっても難しい話じゃねえ。ただ、あいつの背中を押してくれたらいいんだ。ちょっとだけ、強くな。そうしたらあとは勝手に落ちる。お前はただ知らないふりをしてればいい。あいつも、お前が故意だとは思わないし、お前はなにも悪くない』
『なあ、悪くない話だろ?』ゾッとするほど楽しそうな声だった。子供に話しかけるような、そんな口調にただ血の気が引いていく。
――会長を裏切る。
会長は俺を裏切ったことを知らない。全て阿賀松に任せておけばいい。
そうすれば、俺は平穏に過ごすことが出来る。
蜜のように甘く、魅力的な話だった。俺がこの学園にきたときからずっと夢に描いたような話だった。
阿賀松の口から紡がれる言葉に一瞬、目が眩みそうになる。そんなときだ。
『……おい、惑わされんなっ、こいつが約束守るわけがないだろ……ッ!』
通話越し、離れたところから聞こえてきた雑音混じりのその声に息を飲む。
低く、絞り出すような掠れた声。
「栫井」と、思わず俺はその声の主の名前を漏らした。
何故、栫井がそこにいるのだ。
冷たくなる背筋に、一筋の汗が流れた。
なんで栫井が、と凍り付く。
どうやら阿賀松も栫井が口を挟んでくるとは思ってもいなかったようだ。小さな舌打ちとともに、ノイズ音が走る。そして遠くで栫井の呻き声が聞こえ、息を飲んだ。
『おい、なにしてんだよ。ちゃんと黙らせとけっていっただろうが!』
「ま、待って下さい……っ! 栫井は今、怪我を……っ」
まさか栫井に手を出しているのではないかと思ったらいても経ってもいられなかった。
慌てて止めようとすれば、『だからなんだよ』と阿賀松は冷たく吐き捨てる。
『これ以上傷が一つ増えようと大して変わんねえだろ?』
『なあ』と誰に問いかけるように続ける阿賀松。
姿が見えない分、ただ止めることもできない自分が歯痒かった。
未だ会長にバッドで殴られた傷も癒えていないはずだ。栫井の状況を考えるだけで目眩を覚える。
『それより、さっさと決めろよ。俺のいうことを聞くか、あいつにほいほいついていくか。これが最後だ』
「……っ、そんなこと……」
『っ、こいつの言う事、絶対聞くんじゃねえよ。あんたは、大人しく会長に……ッ!』
こんなの脅迫じゃないか。そう思った矢先だった、俺に聞こえるよう声を張り上げる栫井。絞り出すようなその声は最後まで続かなかった。 途中で無理矢理黙らされたのだろう。
『……あーあ、きたねえもん踏んじまったじゃねえの。この靴お気に入りなのに、汚れたらどうしてくれんだよ』
『ぅ、ぐ……ッ』
栫井のことは気になった。けれど、それと同時に栫井の言葉によって冷静になる自分もいた。
――今この現状で俺に出来ることは、少しでも栫井の状況を知ることだ。
下手に狼狽えるよりも、この会話で栫井の居場所さえ知れば。阿賀松に従わずとも、栫井を助けることができれば――。
『で、どうすんだよ。言っておくが、俺は優しいから別に強要はしねえぞ。……お前が断るってんなら、そこで話し合いは終わりってわけだ』
どうなろうともな、と阿賀松は笑う。
軽い口調だが、やつが本気だというのは性格からしてわかった。
阿賀松と手を組み、気付かれないように会長を裏切れば絶対の平穏が約束される。
会長を信じれば、阿賀松たちを敵に回すのは確実だろう。
どちらが俺にとって最善なのかはわかった、結果から考えるに阿賀松の方だろう。
だけどその平穏のため、また誰かを裏切らなければならないのなら。嵌めないといけないのなら。窒息死しそうなくらいの息苦しさを覚えなければならないというのなら、俺は。
俺は……。
「……俺はもう、嘘吐くような真似はしたくないです」
「会長にも、先輩にも」肺の中に溜まったものを絞り出すように続ける。瞬間、端末の向こうから聞こえていた阿賀松の笑い声がぴたりと止まる。
ほんの数秒、沈黙が走る。けれどまるで長い間、その沈黙は続いたように感じた。
自分の気持ちを口にするのは恐ろしかった。
けれど、はっきり告げなければならない。
緊張と恐怖で心臓が握り潰れそうになるのをぐっと堪え、俺は拳を握り締める。
沈黙の末、阿賀松は口を開く。
『……もし、自分が嘘吐かれているとしてもか?』
端末から聞こえてきたのは、激昂の声でも罵倒でもなく、静かな声だった。
予想してなかった阿賀松の反応に戸惑い、「え」と思わず聞き返す。けれど、阿賀松はそれ以上そのことについて触れることはなかった。
『そうかそうか。ユウキ君の答えはよーくわかった。今回はお前の意見を尊重してやるよ』
『悪いけど、俺にはこれ以上お前に付き合ってやれる余裕も時間もねえらしいからな』誰かさんのお陰でな、と続ける阿賀松の言葉がずしりとのしかかる。
どんな罵詈雑言を浴びせられるか、或いはもっと酷い脅迫を用意されるのではないか。そう身構えていただけに、思ったよりもあっさりと身を引く阿賀松に戸惑う。
それと同時に、嵐の前の静けさのようなものを感じてより不気味で恐ろしかった。
俺の不安は阿賀松にも伝わったのかもしれない。阿賀松は『ああ、それと』と思い出したように続ける。
『賢い選択もできないユウキ君に、最後に一つだけいいことを教えてやる。
――芳川知憲、あいつは人殺しだ』
そう言い残し、俺の返事も待たずに阿賀松伊織は俺との通話を切った。
会長と話したことによって緊張が解れたからか、はたまた夜の校舎を散歩して体を動かしたお陰なのかわからなかったが、久し振りに気持ちの良い朝を迎えることができた。
それから身支度を済ませ、会長がいるであろう生徒会室へと向かう。そっと扉を開けばそこに会長の姿はなく、その代わりに見知った姿が二つあった。
――灘と五味だ。
どうやら二人はなにか話していたようだ、いきなり仮眠室の扉から顔を出す俺に五味はぎょっとする。対する灘は普段と変わらない無表情のままだった。
「おはようございます、齋藤君」
「お……おはようございます。あの、すみません。もしかして俺、大事なお話中にお邪魔しましたか」
「あーいい、気にすんな。……ちょっと驚いただけだ」
嘘だな、と直感で感じた。なんとなくばつが悪そうにする五味に申し訳なくなるものの、引っ込みつかなくなった俺は開き直って五味たちの元へ向かう。
「あの、会長は……」
「あいつなら少し席を外している。……すぐ戻ってくるかもしれんが、先に飯食っとけ。いつになるか分からないしな」
飯?と小首を傾げた時だった。
生徒会室の中央、置かれたソファーの影からごそりと紙袋を取り出す灘。その袋には見覚えがあった。
「俺の方から用意させていただきました」
もしかしたら食堂へ行けということなのだろうか、という考えは灘の言葉で吹き飛んだ。灘は抱えた大きな紙袋をひっくり返し、その中身をテーブルの上に豪快に広げた。
惣菜パンから菓子パンまでずらりと並べられる多種多様なパンの数々に俺は圧倒される。どうやら灘のパン好きは健在のようだ。
「これ、全部……?」
「好きなのをどうぞ」
とは言われても、流石に全部は無理だ。
「ありがとう。……じゃあ、これもらうね」
とりあえず目に付いた適当なパンを手に取れば、灘はなにも言わずこくりとだけ頷き返してきた。
残りの大量のパンはどうするのだろうかと気になりつつも一先ず俺は空腹を満たすためソファーに座り、選んだパンを口にすることにする。
丁度そのときだった。勢いよく扉が開いたと思えば、血相を変えた十勝が生徒会室へと飛び込んできた。
「ちょっ、ちょちょちょっと! 五味さん! どういうことっすか! 佑樹が……って佑樹?!」
俺が生徒会室にいることを知らなかったようだ。ソファーに腰を下ろし、たった今朝食を取ろうとした俺に気付いた十勝はぎょっとした。
「あ、おはよう、十勝君……」
「おう! おはよう! っ……じゃなくて、五味さん……もごっ!」
そして、気を取り直して五味に迫ろうとしたとき、顔をしかめた五味に顔面を掴まれ強引に口を塞がれた十勝。
「わかった、わかったからお前ちょっとこっちこい」
「もご、もごご……!」
十勝を捕まえた五味はそのままずるずるずると十勝を引きずって生徒会室の外まで移動した。
もしかしたら俺の前では話せないということなのだろうか。十勝の血相が気になったが、わざわざ後を追うような真似も出来ない。
五味と十勝が退室し、生徒会室は静まり返る。十勝のあの反応からして、なんとなく外で何が起きているのか想像ついてしまった。それは考えられるなかで最悪なものだ。
恐る恐る俺は向かい側に腰をかけ、自分の分のパンを頬張る灘を見上げた。目が合い、一口パンズにかぶりついた灘はそのままごくりと飲み込む。そして、
「――縁方人が動きました」
「……」
「今朝、昨日のラウンジの監視カメラの映像を弄ったものが職員室のパソコンに送信されたようです」
「……それって、もしかして」
「縁方人が自分の腹を切った映像です」
ああ、と思った。動画を撮られてしまっている以上流出も視野に入れていたが、まさかこんなに早く行動に移すとは思わなかった。
「実物は自分も見ていませんが、今会長が確認しに行っているはずです」
あくまで淡々とした灘の言葉がゆっくりと俺の心臓を握り潰していく。
どのような映像がばら撒かれたのかはわからないが、恐らく縁のことだ。流出したものは俺が刺したように見えるよう出来ているはずだ。
それが担任の手にも渡っていると考えると血の気が引いていく。冷静にならなければ、そう頭では思うのに思考回路が乱れていくのだ。
そして、灘の報告はそれだけでは終わらなかった。
「それと、一部の生徒にもその映像を切り抜いた画像が流失しているようです」
そう携帯端末を取り出した灘はその画面をこちらに見せてくる。
画面に表示された写真は鮮明で、目の前に立ち塞がった縁が俺の手を取って自ら腹部にナイフを突き刺したときの写真が切り抜かれていた。
なにも知らない人間が見たら間違いなく俺が縁を刺し、縁がそれを抜こうと俺の手を掴んでいるものに見えるだろう。
突き付けられた端末の画面を見つめたまま、俺はしばらくそのまま動けなくなる。言葉すらも出てこなかった。
「今朝方、この画像を紙にコピーしたものが学園中に張り出されていました。校内の巡回は厳重にし、ばら撒かれていた用紙は全て回収したつもりでしたが……すみません、生徒同士のメッセージツールまで気を配ることは出来ませんでした」
そして、目を伏せた灘は続ける。
その言葉の意味を理解したとき、全身、指の末端から冷たくなっていく。
「ちょっと、えっと、あの、……ごめん。ちょっと待って。…………え?」
つまりそれはこの画像を何人もの生徒が見て、もしかしたら今もなお俺の知らないところで広がっているかもしれないということか。
先程、血相を変えた十勝の様子を考えると十勝もこの画像を見たということだろう。
誰の手に渡り、誰が見たのかもわからない。灘がどう頑張ったところで出処を調べることはできたとしても、新たに流出するのを防ぐこともネットの海に放出された画像をすべて消すのは難しいだろう。
「今、会長が職員室へ行っています。全ての事情がわかるまで、ここにいて下さい」
相変わらずの態度の灘だが、僅かにその目の奥が揺らいでいる。灘も、打開策を考えてくれているのかもしれない――でも、無理だ。
そう結論付けてみれば、不思議と心は落ち着きを取り戻す。
灘に「うん」と返し、俺はテーブルの上に用意されたグラスに口をつける。乾いた喉にひんやりとした水が流れていく感覚は心地がいい。
「心配することはなにもありません。君はなにも悪くない。……堂々としていれば問題ありません」
「……うん、そうだね」
「食べて下さい。ゆっくりできる内に」
最初、冷たそうな人だと思っていたが今ではよくわかる。灘はただ感情を表に出さないだけであって、心の中まで冷めきっているわけではないのだろう。
事実、この状況でわざわざ俺を気遣ったところでメリットもない。それでも、俺を励ましてくれる灘の存在は心強い。
「ありがとう、灘君」
出回った画像や映像のことは気がかりだが、一先ず会長を待とう。
状況が分からなければ、俺も悩むに悩まれない。
「くっそ、縁方人の野郎……っ! 今度は佑樹をハメるつもりかよ!」
――生徒会室内。
五味と何を話したのか、外から戻ってきてからずっと十勝は機嫌が悪かった。
苛ついたように壁を殴る十勝にびくっとしてると、そんな俺を見兼ねたのか五味は「落ち着け」と十勝を宥める。
「十勝、荒れんな。お前がキレたってあいつらの思う壺だぞ。あいつのやり口はお前が一番知ってんだろ」
「だからだよ、余計頭に来る」
「……頭にきてんのはお前だけじゃねえんだよ、いいから落ち着けっていってんだろ」
十勝なりに心配してくれているということだろう。
怒った十勝に慣れてない分ちょっと怖くなる反面、自分のために怒ってくれているのだと思うとなんだか複雑だった。
というか、十勝が縁のやり口を知っているってどういう意味なのだろうか。まさか十勝も同じような目に遭った事があるということか。
と、そこまで考えて、十勝がダブっていることを思い出す。まさか、と引っかかったが、中々聞き出せそうなな雰囲気ではない。
「でも、早く出回った画像止めねえと佑樹が……」
「無理だ。人の口に戸は立てれねえ」
「……」
「……佑樹……」
無言で俯く俺に、顔をくしゃくしゃにした十勝は心配そうに呟く。
五味の言い分はもっともだった。事実、俺もその件に関しては諦めていた。
最悪の自体は想定している。いつだって、もしもの可能性ばかりを考えていた。
とはいえど平静でいられるかどうかとなると話は別だ。
生徒会室内に重苦しい空気が流れる。そんな中、「だぁあっ!くそっ!」とイラついたように声を上げ髪を掻き毟る十勝。
「なんなんだよ、あいつ! 佑樹は関係ねーじゃん! なんで……っ」
「十勝君……」
せっかくのヘアセットも台無しだ。
怒ったように、悲しそうに、居ても立ってもいられないのか棚を蹴ろうとした十勝は寸でのところで留まり、その代わり自分の髪をぐしゃぐしゃと掻き乱した。
俺も、出来ることなら十勝のように怒鳴って回りたい。なんで俺なんだ、と。なんで俺がこんなことに巻き込まなければならないのだと。
だけどもう、そんな言い訳が通用しないところにまで片足どころか下半身全部浸かってしまってる現状だ。
そんな俺が出来る事は、せめて皆の邪魔にならないようにするということだけだ。
それからどれくらい時間が経ったのだろうか。
本来ならばとっくに授業が始まっている時間だが、生徒会の特権を駆使した五味や十勝、灘は相変わらず生徒会室で会長の帰りを待っている。
十勝はというと無言でソファーに腰を下ろしていた。先程よりかは幾分落ち着いたようだが、普段の様子を知っている俺からしてみるとやはり先程のやり取りのことを引きずっているのだろうとわかった。
五味もなにも話さないし、灘はというと先程からデスクでPCを操作している。
――そして、俺はというといつ学校から呼び出しが来るのかとビクビクしていた。
未だそれらしい校内放送もお呼び出しもかかっていないが、その代わり、ポケットに突っ込んだままになっていた携帯端末が震えだす。
このバイブの長さからしてどうやら電話のようだ。
「齋藤君、どうしました?」
この空気の中、通話に出るかどうか迷っていると俺の表情からなにか察したようだ。モニターから視線を外し、こちらに目を向けたまま灘に問いかけられ、内心ぎくりとした。
「いや……ごめん、なんでもないよ」
「ちょっと、席外してもいいかな」生徒会相手に今更誤魔化す必要もないかもしれないが、もしものことがある。
なるべく変に波風を立てたくなかった俺はそう灘たちに断りを入れ、一旦仮眠室の方へと戻ることにした。
――仮眠室。
生徒会室へと繋がる扉を閉じ、背にしたまま俺は制服のポケットに手を突っ込む。そして震える携帯端末を手にし、画面に目を向けた。
「……志摩」
そして、そこに表示された名前を思わず口にする。
一気に気分が沈んでいくのがわかった。
もしかしなくても、志摩も縁がばら撒いた画像を見たのかもしれない。
或いは、張本人からなにかを聞いたのか。
――縁の怪我のこととか、色々聞きたいこともあった。
けれど、前回喧嘩別れみたいになってしまった現状、志摩からの通話に出ることに躊躇っている自分もいた。
それに、今志摩相手に上手く誤魔化せる気もしない。
そのまま電話に出ずに画面を眺めていると、通話は途切れた。
それにホッとするのもつかの間、すぐに二度目の志摩からの電話がかかってくる。
しかも、今度はなかなか切れそうにない。
……このまま意地を張ってても仕方ないか。
それに、こうしてしつこく電話をかけてくるということは少なからず俺のことを心配してくれているのかもしれないし。
それに、今は少しでも外の情報がほしいのが現状だ。
そう覚悟を決め、俺は通話を繋げる。
なるべく緊張を悟られないように「もしもし」とトーンを落としたときだ。
『――ゆうき君?』
端末越しに聞こえてきたのはあの嫌味混じりの柔らかい声ではなく、少し掠れたような低い声だった。
「えっ、し……詩織?」
――なんで、阿佐美が志摩の番号からかけてるのだ。
思わず画面を確認すれば、どうやら俺の早とちりだった。画面には見覚えのない番号が表示されていた。
電話の相手が阿佐美であるということにホッとするのもつかの間、自分の立場を思い出し、気を引き締める。
『ああ……よかった、ちゃんと繋がって。ごめんね、いきなり電話かけたりして』
いつもと変わらない優しい声が聞こえてきて、ますます戸惑う。
まだ阿賀松のことを知らない、ってことなのか。
というか、そもそも。
「どうして、詩織が俺の番号知って……」
『前にね、あっちゃんから教えてもらったんだ。……ごめんね、ゆうき君にはちゃんと言ってなかったから驚いたよね』
あっちゃん――阿賀松伊織。
その口から出てきたあの男の名前に冷や汗が滲む。
阿佐美の態度からして、まだ阿賀松のことを聞いていないのだろうか。
でなければ、こんな風に普通に話してくれるなんて思えない。
言いにくいが、どうせ時間の問題だ。このまましらばっくれるのも不自然だし、せめて阿佐美にはちゃんと伝えておこう。
「あの、詩織……そのことなんだけど――」
そう、意を決して口を開いたときだった。
端末越し、「ゆうき君」と柔らかい声が聞こえてくる。
そして、
『……ゆうき君、俺、ゆうき君のこと応援してるよ』
『なにがあっても、頑張って欲しいと思う』返ってきた言葉に思わず「え」と聞き返してしまう。
なんだか、話が噛み合わない。
「あの、詩織」と戸惑っていると、向こう側で阿佐美は『それだけを伝えたくて』と付け足した。
まるで最後の別れのような、そんな阿佐美の言葉に胸騒ぎを覚えた。
詩織、ともう一度阿佐美に呼びかけようとしたときだった。
がさ、と端末越しにノイズが走る。そして。
『――だってよ、詩織ちゃんの心優しい声しっかり届いたかよ』
ユウキ君、と聞こえてきたその声に背筋が凍り付いた。
鼓膜に染み付くような粘っこい低音。その声は恐怖の対象として俺の頭に刻みつけられていた。
「……っ、」
どうして、と喉元まで出かかってすぐに理解する。
阿佐美の様子がおかしかったのは阿賀松がいたからか。それでも、だとしてもだ、それを意味するものは――。
『おいおい、愛しい彼氏に挨拶もねえのかよ、なあ? そんなに、新しいカレシのが良かったか?』
「……っ、せんぱ、い……」
『ああそうだよ、俺だよ。……ユウキ君』
いつもと変わらない調子ではあるが、俺には分かる。
普段よりも僅かに落ちたトーン。恐らく向こう側にいる阿賀松に笑みは浮かんでいないだろう。
「ユウキ君」
出来ることなら聞き間違いだと思いたかった。
電波が悪くなってたまたま阿佐美の声がそう聞こえただけ、そう思いたいのに、この電話の向こうにいるのがあの男で間違いないと全身が告げている。
「ぁ、あ……阿賀松、先輩……」
舌が縺れ、上手く言葉を紡ぐことができなかった。
手が震え、携帯端末ごと落としそうになるのを寸でのところで耐える。唇が震える。
無意識のうちに俺の口から「ごめんなさい」と謝罪蛾漏れていた。そんな俺の反応に、端末の向こうで阿賀松がからからと笑う。
『なんで謝んだよ。全部お前が決めたことなんだろ? なら、俺に謝る必要はねえよ』
「っ、ぁ、で、も……」
『いいんだよ、別に。……どうせこれから、なにが起ころうと全部全部お前が自分で選んで決めたことになるだけだ』
『その覚悟くらいはあるんだよなぁ、勿論』ほんの一瞬、思いの外明るい口調にまさか許してくれるのだろうかと思ったのも束の間、その期待は即座に裏切られる。
阿賀松の言葉は俺の頭に、肩に、ずしりと重くのしかかる。
そうだ、俺が決めたんだ。
栫井を庇うためとはいえ、芳川会長に楯突いたのも俺だ。
……そしてそれがどんなことを招こうとも、いても立ってもいられなかった。
『で、だ。そんな一人前のユウキ君のため、わざわざ俺はこうして詩織ちゃんに電話をかけさせたんだ』
『なんでか分かるか?』と阿賀松は続ける。
試されてるのだと分かった。そして、これからのやり取りでこれからのことも全て決まるのだと、肌で感じた。
慎重にならなければ。
「わ、かりません……」
『即答かよ、本当に考える気あんのか?』
「ぁ……す、すみません……」
『俺と取引したら、お前だけは見逃してやるよ』
一瞬、やつの言葉の意味が理解できなかった。
聞こえてきた言葉に、単語に、胸の奥で心臓が一層煩く跳ね上がる。
「っ、み……見逃す……?」
『ああ、最後のチャンスだ。俺は方人の馬鹿共にお前から出を引くよう命令するし、他のやつらにも一切手出しはさせねえ。――勿論俺も、必要以上にお前には手を出さない』
『まあ、ユウキ君が俺に協力してくれたらの話しだけどな』そう阿賀松は笑うのだ。
表情は見えないものの、脳裏にあの男のだらしなく品のない笑みを浮かべているのが安易に想像することができた。
――阿賀松に協力する。
そうなれば、必然的に芳川会長を裏切るということになる。
阿賀松はまた、俺に芳川会長を裏切れという。
『助ける』という言葉の魅力に喜ぶよりも、会長を裏切るという選択肢の重さに息が詰まりそうになった。
そんなのって、そんなのって、おかしいじゃないか。
こんな状況でまた俺が阿賀松に寝返ったところで阿賀松が俺を本気で信用するとは思えないし、なにより、俺だけ助けるってどういう意味だ。
嫌な予感に血の気が引いていく。
「ちょっと、待ってください……っ」
『待たない。俺は気は長くはねえんだよ』
「……っ」
『――栫井平佑。こいつの怪我、また一段とひでえことになってんな。なあ、ユウキ君。これ、芳川知憲がしたんだろ?』
何故、ここで栫井が出てくるのか。
まるで目の前に栫井がいるかのように続ける阿賀松に心臓が騒ぎ出す。全身を巡る血液が更に熱くなっていくようだった。
端末を握っていた手のひらには汗が滲んでいた。
『簡単だ。お前が俺にしたようにアイツを裏切ればいいだけの話なんだからなぁ? ま、裏切るっつっても難しい話じゃねえ。ただ、あいつの背中を押してくれたらいいんだ。ちょっとだけ、強くな。そうしたらあとは勝手に落ちる。お前はただ知らないふりをしてればいい。あいつも、お前が故意だとは思わないし、お前はなにも悪くない』
『なあ、悪くない話だろ?』ゾッとするほど楽しそうな声だった。子供に話しかけるような、そんな口調にただ血の気が引いていく。
――会長を裏切る。
会長は俺を裏切ったことを知らない。全て阿賀松に任せておけばいい。
そうすれば、俺は平穏に過ごすことが出来る。
蜜のように甘く、魅力的な話だった。俺がこの学園にきたときからずっと夢に描いたような話だった。
阿賀松の口から紡がれる言葉に一瞬、目が眩みそうになる。そんなときだ。
『……おい、惑わされんなっ、こいつが約束守るわけがないだろ……ッ!』
通話越し、離れたところから聞こえてきた雑音混じりのその声に息を飲む。
低く、絞り出すような掠れた声。
「栫井」と、思わず俺はその声の主の名前を漏らした。
何故、栫井がそこにいるのだ。
冷たくなる背筋に、一筋の汗が流れた。
なんで栫井が、と凍り付く。
どうやら阿賀松も栫井が口を挟んでくるとは思ってもいなかったようだ。小さな舌打ちとともに、ノイズ音が走る。そして遠くで栫井の呻き声が聞こえ、息を飲んだ。
『おい、なにしてんだよ。ちゃんと黙らせとけっていっただろうが!』
「ま、待って下さい……っ! 栫井は今、怪我を……っ」
まさか栫井に手を出しているのではないかと思ったらいても経ってもいられなかった。
慌てて止めようとすれば、『だからなんだよ』と阿賀松は冷たく吐き捨てる。
『これ以上傷が一つ増えようと大して変わんねえだろ?』
『なあ』と誰に問いかけるように続ける阿賀松。
姿が見えない分、ただ止めることもできない自分が歯痒かった。
未だ会長にバッドで殴られた傷も癒えていないはずだ。栫井の状況を考えるだけで目眩を覚える。
『それより、さっさと決めろよ。俺のいうことを聞くか、あいつにほいほいついていくか。これが最後だ』
「……っ、そんなこと……」
『っ、こいつの言う事、絶対聞くんじゃねえよ。あんたは、大人しく会長に……ッ!』
こんなの脅迫じゃないか。そう思った矢先だった、俺に聞こえるよう声を張り上げる栫井。絞り出すようなその声は最後まで続かなかった。 途中で無理矢理黙らされたのだろう。
『……あーあ、きたねえもん踏んじまったじゃねえの。この靴お気に入りなのに、汚れたらどうしてくれんだよ』
『ぅ、ぐ……ッ』
栫井のことは気になった。けれど、それと同時に栫井の言葉によって冷静になる自分もいた。
――今この現状で俺に出来ることは、少しでも栫井の状況を知ることだ。
下手に狼狽えるよりも、この会話で栫井の居場所さえ知れば。阿賀松に従わずとも、栫井を助けることができれば――。
『で、どうすんだよ。言っておくが、俺は優しいから別に強要はしねえぞ。……お前が断るってんなら、そこで話し合いは終わりってわけだ』
どうなろうともな、と阿賀松は笑う。
軽い口調だが、やつが本気だというのは性格からしてわかった。
阿賀松と手を組み、気付かれないように会長を裏切れば絶対の平穏が約束される。
会長を信じれば、阿賀松たちを敵に回すのは確実だろう。
どちらが俺にとって最善なのかはわかった、結果から考えるに阿賀松の方だろう。
だけどその平穏のため、また誰かを裏切らなければならないのなら。嵌めないといけないのなら。窒息死しそうなくらいの息苦しさを覚えなければならないというのなら、俺は。
俺は……。
「……俺はもう、嘘吐くような真似はしたくないです」
「会長にも、先輩にも」肺の中に溜まったものを絞り出すように続ける。瞬間、端末の向こうから聞こえていた阿賀松の笑い声がぴたりと止まる。
ほんの数秒、沈黙が走る。けれどまるで長い間、その沈黙は続いたように感じた。
自分の気持ちを口にするのは恐ろしかった。
けれど、はっきり告げなければならない。
緊張と恐怖で心臓が握り潰れそうになるのをぐっと堪え、俺は拳を握り締める。
沈黙の末、阿賀松は口を開く。
『……もし、自分が嘘吐かれているとしてもか?』
端末から聞こえてきたのは、激昂の声でも罵倒でもなく、静かな声だった。
予想してなかった阿賀松の反応に戸惑い、「え」と思わず聞き返す。けれど、阿賀松はそれ以上そのことについて触れることはなかった。
『そうかそうか。ユウキ君の答えはよーくわかった。今回はお前の意見を尊重してやるよ』
『悪いけど、俺にはこれ以上お前に付き合ってやれる余裕も時間もねえらしいからな』誰かさんのお陰でな、と続ける阿賀松の言葉がずしりとのしかかる。
どんな罵詈雑言を浴びせられるか、或いはもっと酷い脅迫を用意されるのではないか。そう身構えていただけに、思ったよりもあっさりと身を引く阿賀松に戸惑う。
それと同時に、嵐の前の静けさのようなものを感じてより不気味で恐ろしかった。
俺の不安は阿賀松にも伝わったのかもしれない。阿賀松は『ああ、それと』と思い出したように続ける。
『賢い選択もできないユウキ君に、最後に一つだけいいことを教えてやる。
――芳川知憲、あいつは人殺しだ』
そう言い残し、俺の返事も待たずに阿賀松伊織は俺との通話を切った。
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