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五月六日目【恋人】
03
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階段の段差を登っていく。
一人になったのがここまで心細いとは思わなかった。人の声が、笑い声に囲まれるような錯覚。どうか、教室に入るまでに阿賀松たちと会いませんように。そう、願うことしかできなかった。
足早に階段を駆け上がろうとしたとき。踊り場に、見覚えのあるシルエットを見つけた。
……なんでこいつが。息を呑む。それに気付かれないように視線を外したまま、俺はそいつの前を通り過ぎようとした。
けれど。
「よお」
腕を掴まれ、体を引っ張られた。
さっき学生寮のエレベーター前で俺を無視した栫井平佑がそこにいたのだ。
「……」
「なに無視してんだよ」
お前だって、無視したくせに。とは言えなかった。気づかないふりして逃げようにも、掴まれた腕は離れない。なるべくなら、関わりたくなかった。会長がいない今だからこそ余計。
と、そこまで考えてある思考が働いた。
……もしかしてこいつ、会長がいなくなるのを見計らって待ち伏せしていたのか?だとしたら、最悪だ。
「……な、に」
「……会長となにかあった?」
「……っ、栫井には関係ないだろ」
「……」
声が思わず大きくなる。通行人が何人かこちらを見ていたが、そこにいるのが栫井だとわかるとなにごともなかったようにその場を離れるのだ。
俺も通行人に混ざって栫井振り切ろうとするが、段差に足をかけたところで首根っこ掴まれ引き戻される。
「う、わ」
落ちそうになるのを背後から抱き止められ、襟首を大きく引っ張られその下を覗き見られる。
そこには会長に貼ってもらった絆創膏があるはずだ。それを見た栫井は、片眉を釣り上げて笑う。
「……へえ」
「っ、や、めろ……っ!」
「……新しい痕はついてねーみたいだな」
「……ッ!」
喉の奥で笑うその低い声に、全身の血液の温度が上がったのを感じる。
やつがなにを言わんとしているのかがわかった。
それは俺にとってもだが、なによりも会長の優しさをバカにされたみたいでひどく屈辱的だった。
俺は栫井の腕を振り払い、振り返らずにそのまま階段を駆け上がろうとする。
「……おい、勝手に歩いていくなよ」
「……っ、いい加減にしてくれ……教室に行かなきゃいけないんだ」
「……一人でいけんのか?」
「いける」そう答えた声は思いの外大きくなってしまう。
怒鳴るように答える俺に、栫井は面倒臭そうに髪を掻きながら「あっそ」とだけ答えた。
そして、それ以上追いかけてくることもなく、階段を降りていく。あっさりと退く栫井に素直に驚いた。
……もしかして俺を送るつもりだったのか?
そんな思考が働くが、それにしてもだ。あんなやつに送られるくらいなら、という気持ちの方が強かった。首筋に残ったやつの指の感触を拭い、俺はもやもやを腹の中に抱え込んだまま足早に教室へと向かった。
教室内は既に来ていた生徒で賑わっていた。
昨日今日のことなのに、何故だかこの騒がしい空気が既に懐かしく感じる。
教室には志摩も阿佐美もいないようだ。
まるで自分の居場所が見当たらない。最初からなかったけれど、それでもまるで地に足がつかないような……そんな落ち着かない気分のまま自分の席へと向かった。
授業の準備でもして時間を潰そうかとカバンを机の横にかけ、椅子に座る。そのまま引き出しを弄ったとき、見慣れないノートが入ってることに気づいた。
「それ、昨日の分のノートだよ。後半の授業、結構大事っぽそうだったから齋藤のためにまとめておいたんだ」
「……っ!」
いきなり背後で声がして、慌てて振り返ればそこにはいつもと変わらない笑顔の志摩がそこにいた。
「おはよう、齋藤」と微笑む志摩に、俺はつい反応に遅れてしまう。
「……あ、りがとう」
「別にこれくらいお安いご用だよ。……たまには委員長らしいことしとかないとね」
「それで、どう? 少しは惚れ直した?」冗談なのか本気なのかわからない調子で続ける志摩に、俺はなにも言えなかった。
どんな顔をして志摩と接したらいいのかもわからない。ただ、じっとこちらを見てくる志摩の視線が嫌だった。何も言えない俺に、志摩は大袈裟な溜息をついた。
「……まあいくらジョークとはいえ、そういう反応されると流石に俺も傷つくけどね」
「……っ、ごめん……」
「それは何に対してのごめん?」
見透かされてるみたいだった。いや、本当は志摩はわかってるんじゃないかと思う。俺が志摩に対してどう思ってるかも。だからこそこんな意地の悪い言い方をするのだ。
……あんなことがあったあとなのに、素知らぬ顔して。
「それより、昨日具合悪くなって早退したって聞いたんだけど……今日は大分顔色よくなってるね」
俺が何も答えないのがわかると、志摩は話題を変えてきた。
早退……確かに、会長がそう言っていた。志摩からしてみれば昼休みに連れて行かれたっきり戻ってこないということになってたはずだ。
下手な勘ぐり入れられないように予め根回ししてくれていた会長にも脱帽だが、それでも敢えてそこに突っ込んでくる志摩に執念のようなものを感じ、正直ぞっとしなかった。
「もう大丈夫なの?」
「……う、うん」
「そう、安心したよ。――昨日部屋に帰ってこなかったからよっぽど具合悪いのかと心配してたんだよ」
志摩の言葉に、思わず息を飲んだ。冷たい汗が背筋を伝い、落ちる。
……なんで、俺が部屋に帰っていないことを知ってるんだ。
まさか、ずっと待ってたのか?
凍り付く俺に構わず、志摩は自分の席へと腰を下ろす。
「保健室にもいないみたいだし、一体どこで休んでたのか気になったけど……その調子じゃ大丈夫そうだね」
「っ、し……ま……」
「齋藤が昨日受けてない授業と言えば……そうだ数学、課題やってきた?俺まだだから良かったら一緒にやらない?」
「……」
「……齋藤? どうしたの? そんな顔して。もしかしてまだ具合悪いの?」
こちらを覗き込んできた志摩は、俺の首筋に目を向け、そしてすっと双眼を細める。
俺は慌ててシャツの襟で首元を隠し、それから「大丈夫」と首を横に振った。
そう、と志摩の視線は外れた。そして。
「……ああ、そうだ齋藤。そのノート、別に要らなかったら捨てていいから」
表情は笑っているはずなのにそう言い放つ志摩の声はひどく冷たかった。
志摩のことがわからなくなる。前までの志摩はこんな風じゃなかった、もっと話しやすかったはずなのに、今は何言っても届かない。そんな気がしてならなかった。
……いや、前までの志摩ってなんだ。
俺は志摩の何を知ってるんだ。思い返せば、俺は志摩のことを何も知らない。
親しみやすさとは裏腹に起伏の激しい気性を持ってるのは薄々感じていた。けれど、それだけだ。
志摩がどうしてこんな風になったのか、きっかけはあの肝試しした夜からだ。
……そして、変わったのは志摩の態度だけではない。
俺もだ。あの夜から、志摩に対してどう接したらいいのかわからない。
言われてみればあの志摩の皮肉混じりの軽口もいつもの志摩と言われればそう感じる。俺が、俺が志摩に対する見方が変わったからか?
志摩の言動すべてが裏側があるように感じて、なんだか息苦しくなるのだ。
「齋藤?」
遠くから聞こえてきたチャイムの音と、名前を呼ぶ声にハッとする。
顔を上げれば、既に授業が終わったあとだった。
俺は、うたた寝をしてしまっていたらしい。意外そうな顔をしてこちらを見ていた志摩に、内心ぎくりとした。
「……随分とぐっすり眠ってたね。昨夜寝れなかったの?」
「……そうじゃないけど……」
「ふーん。まあいいけど、次は古文だからね。寝てたら叩き起こされるよ」
「……う、うん……」
寝不足というわけではないはずだが、なんだろう。精神的に疲弊してたのか、いつから寝ていたのかも記憶が定かではない。まだ微睡んだ頭を叩き起こしながら、俺は慌てて出しっぱなしの教科書を入れ換えようとしたときだった。いきなり扉が勢いよく開く。
そして、
「お邪魔しまーす」
水を打ったように静まり返った教室内に低い声が響いた。
血を連想させる、赤。着崩した制服。細められた目がこちらを向いたとき、ピアスがぶら下がった唇にだらしない笑みが浮かぶ。
「おーいたいた、……ユウキ君みっけ」
阿賀松伊織――誰よりも会いたくない男が、そこにいた。
190近いその長身を折り曲げ扉を潜ってズカズカと入ってくる阿賀松に、咄嗟に俺は椅子から立ち上がる。
いきなりやってきた三年の来訪、しかもよりによって阿賀松がやってきたことに周りのクラスメートたちも困惑していた。中には関わらないように無視するやつもいた。けれど共通して誰も阿賀松の存在に触れようとしない。
逃げ場なんてないとわかってても、いても立ってもいられなかった。
俺が逃げ出すよりも先に、大股でやってきた阿賀松に捕まる方が早かった。
「……おいコラ、なに逃げようとしてんだよ」
「な、ど……して……ここに……」
「そりゃ勿論お前に用があってきたんだよ。……来い」
体の傷も構わず乱暴に掴み上げられ、抱き寄せられる。
抵抗する暇もなかった。力ずくで引っ張られ、そのまま教室から引きずり出されそうになったときだ。
「待てよ」
掛けられたその声に、阿賀松は動きを止めた。
「あ?」と不愉快そうに眉を吊り上げた阿賀松は背後を振り返った。
他の連中が見て見ぬふりを貫く中、ただ一人、志摩だけは阿賀松に食いかかるのだ。
「次の授業まで時間ないんだけど? 他人の授業邪魔するのってちょっと非常識すぎない? ……そもそも、五分前行動は基本でしょ」
「……へえ、随分と優等生みてえなこと言うんだな、お前。けど、お前には言われたくねえよな」
自分の足を止めてきた志摩に憤るかと思いきや、相変わらずの調子で突っかかる志摩に阿賀松はクク、と喉を低く鳴らして笑う。
そんな阿賀松に相対して、志摩の表情から笑顔が消える。
「いいから齋藤から手を離せよ」
「やだね」
一発触発な空気に、止めなきゃ、と思うが俺一人ではどうすることもできない。周りも関わりたくないという色を濃くしてる。
どうすれば、と辺りを探るよりも先に、阿賀松の太い腕に肩を抱き寄せられた。目の前に阿賀松の首筋が映り込む。一層濃くなる阿賀松の甘いタバコの匂いに、頭がくらくらした。
「自分のもんをどうしようが俺の勝手だろ? ……それともなんだ、亮太お前……一丁前に妬いてんのか? この俺に」
「……ッ、何言って……」
「ユウキ君、こいつ俺を悪者と勘違いしてるみてえなんだけど?……言ってやれよ、お前の恋人が誰なのか」
顎を掴まれ、顔を上げさせられればすぐ目の前には阿賀松の顔があった。こちらを見下ろすその目を直視することができなかった。
……どういうつもりだ、こいつ。
芳川と付き合えという口で、俺に自分の恋人だと宣言させようとする。
きっと気まぐれだとわかっていたが、こうしてクラスメートたちの前で、それも、志摩の前でわざわざ宣言させ用とする阿賀松に血の気が引いた。これではそう、公言してるようなものだ。
「……齋藤……っ」
違う、そう一言言えば良い話だ。わかっていたが、体に食い込む指に、与えられた痛みが蘇り恐怖で口が動かなかった。
何か言いたさそうにする志摩が視界に入る。志摩は、怒ってるのだろう。何故違うと言わないのかと。今度こそ呆れられて嫌われたのかもしれない。
「フン……時間の無駄だな」
最初から阿賀松は俺の返答を期待してなかったのだろう。興味なさそうに吐き捨て、そして。
「……五分前行動は基本だったなぁ? そんなら、さっさと用件済ますか」
行くぞ、と阿賀松は俺に目で合図した。逆らえば殺す、そう言われてるようで、命じられた時点で俺に逃げ場はなかった。志摩は、今度は止めなかった。
静まり返った教室を出ていく。その背中に突き刺さる視線を感じる。
何でも良かった、今はたださっさとこの場からいなくなりたかった。
阿賀松の命令に逆らった自分がこれからどんな目に遭うのか、想像しただけで生きた心地がしなかった。
教室を出れば、何事かとこちらを見た生徒たちはすぐ隣にいる阿賀松を見ると全員道を避け、視線を反らす。けれど、見て見ぬふりをする連中を恨む気にはなれなかった。俺だって、傍観者の立場ならそうするだろう。こんな男と進んで関わりたいと思わない。
『何かあればすぐに俺を呼べ』
「――ッ」
頭に会長の姿が過る。自分の身を守れるのは自分しかいない。そのことを知ってるはずだ、俺は。
息を呑む。相手を見る。俺が逃げないと思って安心しきってるのだろう。それでも肩に回された腕は外れない。けれど先程よりも僅かに緩くなっていた。その隙を狙った。
咄嗟に、足を止めて、阿賀松の腕から抜け出そうとする。
そして。
「誰か、助け……ッ」
助けて、と近くにいた生徒に手をのばした瞬間だった。
腰から背中にかけて、腹をぶち抜くような衝撃が走った。阿賀松の蹴りが飛んできたというのはすぐにわかる。反動に耐えられず転倒する。巻き込まれそうになった生徒は慌てて俺を避け、そのまま悲鳴をあげて廊下の奥へと逃げていった。
「っ、う゛ッ、ゲホッ……!」
「なぁーにやってんだか……馬鹿だよなぁ、お前も」
「ぅ゛……ぐ……ッ」
逃げなきゃ、逃げなきゃ、早く。
そう思うのに、体が痺れたように動かない。肺が潰れるように苦しくて、喘ぐ。背中から踏まれてるのだとわかった。後ろ髪を掴まれて、思いっきり顔面を廊下へと叩きつけられた。地面とキス、なんて可愛らしいものではない。
額から全身の骨へと鈍い痛みが走り、視界が真っ白に塗りつぶされた。拍子に歯が唇にぶつかったらしい。どぱ、と血の味が広がる。
どっか、骨、折れたんじゃないのか。そう思えるほどの痛みと衝撃はじわじわと顔面から全身へと広がる。
痛みで竦んだ体は、もう阿賀松から逃げる気を失っていた。這いずる俺の体を抱え上げ、阿賀松は笑った。
「……これくらいで諦めるんなら、最初からやんじゃねえよ」
もっと殴られるかもしれない。そうビクつく俺の頭を撫で、阿賀松は笑う。
それからは、ただ阿賀松の小脇に抱えられ移動した。手足に力が入らない俺にも関わらず、阿賀松は荷物かなにかのように軽々と俺を運ぶのだ。
……もう、どうにでもなれという気持ちだった。阿賀松の言う通りだ。わかってたはずなのに、あの場にいた誰も助けてくれなかった。こうして血を流して引きずられる俺を見た奴らも、教師も、何も言わない。
わかってたじゃないか、最初から。
一人になったのがここまで心細いとは思わなかった。人の声が、笑い声に囲まれるような錯覚。どうか、教室に入るまでに阿賀松たちと会いませんように。そう、願うことしかできなかった。
足早に階段を駆け上がろうとしたとき。踊り場に、見覚えのあるシルエットを見つけた。
……なんでこいつが。息を呑む。それに気付かれないように視線を外したまま、俺はそいつの前を通り過ぎようとした。
けれど。
「よお」
腕を掴まれ、体を引っ張られた。
さっき学生寮のエレベーター前で俺を無視した栫井平佑がそこにいたのだ。
「……」
「なに無視してんだよ」
お前だって、無視したくせに。とは言えなかった。気づかないふりして逃げようにも、掴まれた腕は離れない。なるべくなら、関わりたくなかった。会長がいない今だからこそ余計。
と、そこまで考えてある思考が働いた。
……もしかしてこいつ、会長がいなくなるのを見計らって待ち伏せしていたのか?だとしたら、最悪だ。
「……な、に」
「……会長となにかあった?」
「……っ、栫井には関係ないだろ」
「……」
声が思わず大きくなる。通行人が何人かこちらを見ていたが、そこにいるのが栫井だとわかるとなにごともなかったようにその場を離れるのだ。
俺も通行人に混ざって栫井振り切ろうとするが、段差に足をかけたところで首根っこ掴まれ引き戻される。
「う、わ」
落ちそうになるのを背後から抱き止められ、襟首を大きく引っ張られその下を覗き見られる。
そこには会長に貼ってもらった絆創膏があるはずだ。それを見た栫井は、片眉を釣り上げて笑う。
「……へえ」
「っ、や、めろ……っ!」
「……新しい痕はついてねーみたいだな」
「……ッ!」
喉の奥で笑うその低い声に、全身の血液の温度が上がったのを感じる。
やつがなにを言わんとしているのかがわかった。
それは俺にとってもだが、なによりも会長の優しさをバカにされたみたいでひどく屈辱的だった。
俺は栫井の腕を振り払い、振り返らずにそのまま階段を駆け上がろうとする。
「……おい、勝手に歩いていくなよ」
「……っ、いい加減にしてくれ……教室に行かなきゃいけないんだ」
「……一人でいけんのか?」
「いける」そう答えた声は思いの外大きくなってしまう。
怒鳴るように答える俺に、栫井は面倒臭そうに髪を掻きながら「あっそ」とだけ答えた。
そして、それ以上追いかけてくることもなく、階段を降りていく。あっさりと退く栫井に素直に驚いた。
……もしかして俺を送るつもりだったのか?
そんな思考が働くが、それにしてもだ。あんなやつに送られるくらいなら、という気持ちの方が強かった。首筋に残ったやつの指の感触を拭い、俺はもやもやを腹の中に抱え込んだまま足早に教室へと向かった。
教室内は既に来ていた生徒で賑わっていた。
昨日今日のことなのに、何故だかこの騒がしい空気が既に懐かしく感じる。
教室には志摩も阿佐美もいないようだ。
まるで自分の居場所が見当たらない。最初からなかったけれど、それでもまるで地に足がつかないような……そんな落ち着かない気分のまま自分の席へと向かった。
授業の準備でもして時間を潰そうかとカバンを机の横にかけ、椅子に座る。そのまま引き出しを弄ったとき、見慣れないノートが入ってることに気づいた。
「それ、昨日の分のノートだよ。後半の授業、結構大事っぽそうだったから齋藤のためにまとめておいたんだ」
「……っ!」
いきなり背後で声がして、慌てて振り返ればそこにはいつもと変わらない笑顔の志摩がそこにいた。
「おはよう、齋藤」と微笑む志摩に、俺はつい反応に遅れてしまう。
「……あ、りがとう」
「別にこれくらいお安いご用だよ。……たまには委員長らしいことしとかないとね」
「それで、どう? 少しは惚れ直した?」冗談なのか本気なのかわからない調子で続ける志摩に、俺はなにも言えなかった。
どんな顔をして志摩と接したらいいのかもわからない。ただ、じっとこちらを見てくる志摩の視線が嫌だった。何も言えない俺に、志摩は大袈裟な溜息をついた。
「……まあいくらジョークとはいえ、そういう反応されると流石に俺も傷つくけどね」
「……っ、ごめん……」
「それは何に対してのごめん?」
見透かされてるみたいだった。いや、本当は志摩はわかってるんじゃないかと思う。俺が志摩に対してどう思ってるかも。だからこそこんな意地の悪い言い方をするのだ。
……あんなことがあったあとなのに、素知らぬ顔して。
「それより、昨日具合悪くなって早退したって聞いたんだけど……今日は大分顔色よくなってるね」
俺が何も答えないのがわかると、志摩は話題を変えてきた。
早退……確かに、会長がそう言っていた。志摩からしてみれば昼休みに連れて行かれたっきり戻ってこないということになってたはずだ。
下手な勘ぐり入れられないように予め根回ししてくれていた会長にも脱帽だが、それでも敢えてそこに突っ込んでくる志摩に執念のようなものを感じ、正直ぞっとしなかった。
「もう大丈夫なの?」
「……う、うん」
「そう、安心したよ。――昨日部屋に帰ってこなかったからよっぽど具合悪いのかと心配してたんだよ」
志摩の言葉に、思わず息を飲んだ。冷たい汗が背筋を伝い、落ちる。
……なんで、俺が部屋に帰っていないことを知ってるんだ。
まさか、ずっと待ってたのか?
凍り付く俺に構わず、志摩は自分の席へと腰を下ろす。
「保健室にもいないみたいだし、一体どこで休んでたのか気になったけど……その調子じゃ大丈夫そうだね」
「っ、し……ま……」
「齋藤が昨日受けてない授業と言えば……そうだ数学、課題やってきた?俺まだだから良かったら一緒にやらない?」
「……」
「……齋藤? どうしたの? そんな顔して。もしかしてまだ具合悪いの?」
こちらを覗き込んできた志摩は、俺の首筋に目を向け、そしてすっと双眼を細める。
俺は慌ててシャツの襟で首元を隠し、それから「大丈夫」と首を横に振った。
そう、と志摩の視線は外れた。そして。
「……ああ、そうだ齋藤。そのノート、別に要らなかったら捨てていいから」
表情は笑っているはずなのにそう言い放つ志摩の声はひどく冷たかった。
志摩のことがわからなくなる。前までの志摩はこんな風じゃなかった、もっと話しやすかったはずなのに、今は何言っても届かない。そんな気がしてならなかった。
……いや、前までの志摩ってなんだ。
俺は志摩の何を知ってるんだ。思い返せば、俺は志摩のことを何も知らない。
親しみやすさとは裏腹に起伏の激しい気性を持ってるのは薄々感じていた。けれど、それだけだ。
志摩がどうしてこんな風になったのか、きっかけはあの肝試しした夜からだ。
……そして、変わったのは志摩の態度だけではない。
俺もだ。あの夜から、志摩に対してどう接したらいいのかわからない。
言われてみればあの志摩の皮肉混じりの軽口もいつもの志摩と言われればそう感じる。俺が、俺が志摩に対する見方が変わったからか?
志摩の言動すべてが裏側があるように感じて、なんだか息苦しくなるのだ。
「齋藤?」
遠くから聞こえてきたチャイムの音と、名前を呼ぶ声にハッとする。
顔を上げれば、既に授業が終わったあとだった。
俺は、うたた寝をしてしまっていたらしい。意外そうな顔をしてこちらを見ていた志摩に、内心ぎくりとした。
「……随分とぐっすり眠ってたね。昨夜寝れなかったの?」
「……そうじゃないけど……」
「ふーん。まあいいけど、次は古文だからね。寝てたら叩き起こされるよ」
「……う、うん……」
寝不足というわけではないはずだが、なんだろう。精神的に疲弊してたのか、いつから寝ていたのかも記憶が定かではない。まだ微睡んだ頭を叩き起こしながら、俺は慌てて出しっぱなしの教科書を入れ換えようとしたときだった。いきなり扉が勢いよく開く。
そして、
「お邪魔しまーす」
水を打ったように静まり返った教室内に低い声が響いた。
血を連想させる、赤。着崩した制服。細められた目がこちらを向いたとき、ピアスがぶら下がった唇にだらしない笑みが浮かぶ。
「おーいたいた、……ユウキ君みっけ」
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190近いその長身を折り曲げ扉を潜ってズカズカと入ってくる阿賀松に、咄嗟に俺は椅子から立ち上がる。
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逃げ場なんてないとわかってても、いても立ってもいられなかった。
俺が逃げ出すよりも先に、大股でやってきた阿賀松に捕まる方が早かった。
「……おいコラ、なに逃げようとしてんだよ」
「な、ど……して……ここに……」
「そりゃ勿論お前に用があってきたんだよ。……来い」
体の傷も構わず乱暴に掴み上げられ、抱き寄せられる。
抵抗する暇もなかった。力ずくで引っ張られ、そのまま教室から引きずり出されそうになったときだ。
「待てよ」
掛けられたその声に、阿賀松は動きを止めた。
「あ?」と不愉快そうに眉を吊り上げた阿賀松は背後を振り返った。
他の連中が見て見ぬふりを貫く中、ただ一人、志摩だけは阿賀松に食いかかるのだ。
「次の授業まで時間ないんだけど? 他人の授業邪魔するのってちょっと非常識すぎない? ……そもそも、五分前行動は基本でしょ」
「……へえ、随分と優等生みてえなこと言うんだな、お前。けど、お前には言われたくねえよな」
自分の足を止めてきた志摩に憤るかと思いきや、相変わらずの調子で突っかかる志摩に阿賀松はクク、と喉を低く鳴らして笑う。
そんな阿賀松に相対して、志摩の表情から笑顔が消える。
「いいから齋藤から手を離せよ」
「やだね」
一発触発な空気に、止めなきゃ、と思うが俺一人ではどうすることもできない。周りも関わりたくないという色を濃くしてる。
どうすれば、と辺りを探るよりも先に、阿賀松の太い腕に肩を抱き寄せられた。目の前に阿賀松の首筋が映り込む。一層濃くなる阿賀松の甘いタバコの匂いに、頭がくらくらした。
「自分のもんをどうしようが俺の勝手だろ? ……それともなんだ、亮太お前……一丁前に妬いてんのか? この俺に」
「……ッ、何言って……」
「ユウキ君、こいつ俺を悪者と勘違いしてるみてえなんだけど?……言ってやれよ、お前の恋人が誰なのか」
顎を掴まれ、顔を上げさせられればすぐ目の前には阿賀松の顔があった。こちらを見下ろすその目を直視することができなかった。
……どういうつもりだ、こいつ。
芳川と付き合えという口で、俺に自分の恋人だと宣言させようとする。
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「……齋藤……っ」
違う、そう一言言えば良い話だ。わかっていたが、体に食い込む指に、与えられた痛みが蘇り恐怖で口が動かなかった。
何か言いたさそうにする志摩が視界に入る。志摩は、怒ってるのだろう。何故違うと言わないのかと。今度こそ呆れられて嫌われたのかもしれない。
「フン……時間の無駄だな」
最初から阿賀松は俺の返答を期待してなかったのだろう。興味なさそうに吐き捨て、そして。
「……五分前行動は基本だったなぁ? そんなら、さっさと用件済ますか」
行くぞ、と阿賀松は俺に目で合図した。逆らえば殺す、そう言われてるようで、命じられた時点で俺に逃げ場はなかった。志摩は、今度は止めなかった。
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何でも良かった、今はたださっさとこの場からいなくなりたかった。
阿賀松の命令に逆らった自分がこれからどんな目に遭うのか、想像しただけで生きた心地がしなかった。
教室を出れば、何事かとこちらを見た生徒たちはすぐ隣にいる阿賀松を見ると全員道を避け、視線を反らす。けれど、見て見ぬふりをする連中を恨む気にはなれなかった。俺だって、傍観者の立場ならそうするだろう。こんな男と進んで関わりたいと思わない。
『何かあればすぐに俺を呼べ』
「――ッ」
頭に会長の姿が過る。自分の身を守れるのは自分しかいない。そのことを知ってるはずだ、俺は。
息を呑む。相手を見る。俺が逃げないと思って安心しきってるのだろう。それでも肩に回された腕は外れない。けれど先程よりも僅かに緩くなっていた。その隙を狙った。
咄嗟に、足を止めて、阿賀松の腕から抜け出そうとする。
そして。
「誰か、助け……ッ」
助けて、と近くにいた生徒に手をのばした瞬間だった。
腰から背中にかけて、腹をぶち抜くような衝撃が走った。阿賀松の蹴りが飛んできたというのはすぐにわかる。反動に耐えられず転倒する。巻き込まれそうになった生徒は慌てて俺を避け、そのまま悲鳴をあげて廊下の奥へと逃げていった。
「っ、う゛ッ、ゲホッ……!」
「なぁーにやってんだか……馬鹿だよなぁ、お前も」
「ぅ゛……ぐ……ッ」
逃げなきゃ、逃げなきゃ、早く。
そう思うのに、体が痺れたように動かない。肺が潰れるように苦しくて、喘ぐ。背中から踏まれてるのだとわかった。後ろ髪を掴まれて、思いっきり顔面を廊下へと叩きつけられた。地面とキス、なんて可愛らしいものではない。
額から全身の骨へと鈍い痛みが走り、視界が真っ白に塗りつぶされた。拍子に歯が唇にぶつかったらしい。どぱ、と血の味が広がる。
どっか、骨、折れたんじゃないのか。そう思えるほどの痛みと衝撃はじわじわと顔面から全身へと広がる。
痛みで竦んだ体は、もう阿賀松から逃げる気を失っていた。這いずる俺の体を抱え上げ、阿賀松は笑った。
「……これくらいで諦めるんなら、最初からやんじゃねえよ」
もっと殴られるかもしれない。そうビクつく俺の頭を撫で、阿賀松は笑う。
それからは、ただ阿賀松の小脇に抱えられ移動した。手足に力が入らない俺にも関わらず、阿賀松は荷物かなにかのように軽々と俺を運ぶのだ。
……もう、どうにでもなれという気持ちだった。阿賀松の言う通りだ。わかってたはずなのに、あの場にいた誰も助けてくれなかった。こうして血を流して引きずられる俺を見た奴らも、教師も、何も言わない。
わかってたじゃないか、最初から。
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無月陸兎
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山奥にある全寮制男子校、桜白峰学園。食べ物目当てで入学した主人公は、学園の権力者『REGAL4』の一人、一条貴春の不興を買い、学園中からハブられることに。美味しい食事さえ楽しめれば問題ないと気にせず過ごしてたが、転入生の扇谷時雨がやってきたことで、彼の日常は波乱に満ちたものとなる──。
自分の親友となった時雨が学園の人気者たちに迫られるのを横目で見つつ、主人公は巻き込まれて恋人のフリをしたり、ゆるく立ちそうな恋愛フラグを避けようと奮闘する物語です。
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