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五月四日目【忠告】
04
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……正直、俺は志摩のしつこさを舐めていたかもしれない。逃げれば諦めてめくれるだろうと思っていた。嫌われることを覚悟したのに、志摩は、尽く俺の期待を裏切るのだ。
「……ッ、……どうして」
「どうして? そりゃあ、誰かさんのせいでちゃんと話もできていないんだよ。だから、会いに来た。……それとも、齋藤は俺がいると不都合でもあるの?」
そういう問題ではない。けれど、何を言ったところで志摩は納得して帰らないだろう。それに、部屋の前にいられたら帰ることも出来ない。
つまり、俺は志摩と話すことを受け入れることしかできない。志摩がそうなるように仕向けたからだ。
「方人さんに何を言われたの」
……そんなに、志摩は縁と俺のことが気になるのか。
教室の前の廊下で何度も繰り返した問答を、ここでも志摩は口にする。
これは志摩が納得するまで答えないと開放されそうにない。正直、別に隠すようなことはなにもない。
体裁を考えるならまああまり言いたくはない話題ではあるが、志摩相手ならば、別に知られてもいいと思った。けれど言いたくないのは、俺のなけなしのプライドの問題だ。
そんなもの、あっても邪魔でしかないのだろうが。
「……さっきも言ったけど、大した話はしていないよ。……ただ、これから遊びに行かないかって誘われただけ」
「本当に?」
「……本当だよ。……断ったらあっさり開放してくれた。あとは……『何かあったら連絡してよ』って連絡先教えてもらっただけ。……そこで、志摩がきたんだ」
「これで全部だよ」満足した?と聞くまでもなかった。
志摩は、まだ疑うような目を向けていたので俺は渋々生徒手帳からメモ用紙を渡した。
「これが、そのときのだよ」と差し出せば、志摩に取り上げられる。
「……それで、齋藤はまた方人さんと連絡を取るつもり?」
「そんなわけ無いだろ。何を勘繰ってるのか知らないけど……俺……あの人のこと、苦手だし……」
志摩には適当な誤魔化しは利かない。
俺は、本音を口にした。あまりこういうことはいいたくないが、志摩に納得してもらうには包み隠さないのが一番早い。
「ああ、そうなんだ」
ホッとしたのか知らないが、一先ずは俺の言葉を信じてくれたらしい。メモに目を走らせた志摩の表情は、先程よりも心なしか和らいでいるようにも見えた。
これで、開放してくれるだろうか。
そう、思った矢先のことだった。
何を思ったのか、志摩はいきなり縁のメモをビリビリに破いた。
「っ、なに、して」
「なら、これは齋藤に必要ないよね。嫌いなら連絡取らないでしょ?」
なんでもないように笑う志摩の手からメモが落ちる。細かく千切られたそれを元に戻すには手間がかかるだろう。
確かに縁を頼るような真似をしたくないとは思ったが、万が一のため、保存しておきたかったというのが俺の本音だった。けれど、志摩にはそれは通用しないらしい。
「志摩……いくらなんでも、それは……」
「なんで?嫌いなんだよね?なら何も困らないでしょ。……それとも、なに?さっきの言葉は方便だったの?俺のご機嫌取りのために適当なこと言ったわけ?」
「っ、そうじゃない、けど……」
「それじゃあ何も困らないでしょ。…………齋藤には俺がいるんだから」
息を吸うように吐き出されるその言葉に、腹の奥底がぐずりと重く疼く。恐怖、というよりも、言いようのない不快感にも似た違和感。俺は、志摩に何も言い返すことができなかった。志摩は、きっと俺が何を言ったところで通じない。思考からして、決定的に食い違ってるのだ。
分かりあえない、そう脳が判断し、言葉を失う。
「方人さんのことは俺も注意しておくけど、齋藤も、関わらないで。……あの人は、厄介だから」
志摩は、言いたいことだけ言えば満足したのか「それじゃあ、また明日」と鞄を拾い上げ、踵を返す。
何が、厄介だ。俺には、志摩がわからない。床の上、散らかったそれらを拾い上げ、俺は、部屋に戻る。復元することは諦めた。けれどせめて、残骸は残したくなかった。
志摩はまだ俺を心配してくれてるのか、それとも、俺に嫌がらせをして楽しんでるのか、わからない。けれど、以前のように向けられる笑顔が理解できず、まるで未知の生き物のように思えて仕方ない。
部屋のロックを解錠し、扉を開いた。締め切られたカーテン。クーラーは除湿モードになったまま可動しっぱなしだ。阿佐美の姿はない。
玄関の扉を閉め、瞬間、どっと疲労感に襲われる。
何をされたわけでもない、昨日の方が痛い思いはした。けれど、今日は。まるで見えない手にずっと首を締められてるような息苦しさが付き纏うのだ。
制服のまま、ベッドに雪崩込む。そのままシーツに顔を埋め、しばらく俺はその体勢のまま動くことができなかった。
芳川会長のこと、志摩のこと、色々考えては頭が爆発しそうになる。できることなら逃げ出したいというのが本音だ。
どうして、どうしてこうも悪い方へと行くんだ。俺が、駄目だからか。もっと、ハッキリと物が言えて、阿賀松にも抵抗できればまた違ったのかも知れない。
考えたところで何も変わらない。少しでも逆らったとき、大きな拳に殴られた痛みを思い出しては身が震える。
ベッドの上、布団を被り、丸まる。ダンゴムシみたいに体を守り、蹲る。何も考えたくない。できることなら、明日にでも誰かが阿賀松たちを殺してくれないだろうか、そんな風にすら思える。
『齋藤には、俺がいるんだから』
頭の中に、志摩の柔らかい声が響く。俺の心の奥底まで見透かすようなあの目が蘇り、胸がざわつく。俺は布団を押し退け、ゆっくりと起き上がった。
……シャワーを浴びよう。熱いシャワーを浴びれば、少しは気分が晴れるかもしれない。
今は何も考えたくなかった。
会長なら、どうするだろうか。会長ならそもそもこんなことにはならなかっただろう。わかったが、それでも、救いを求めてしまう。幻影に縋り付きたい気分になる。
そんなんだから、駄目なんだ、俺は。
ブレザーを脱ぎ、シャツのボタンを外していく。鏡はなるべく視界に入れたくなかった。阿賀松に殴られた痣が皮膚の下で広がり、とてもじゃないが見るに耐えないことになっていた。
鏡の前から逃げるように浴室へと踏み入れる。阿佐美が入ったあとなのだろうか、微かに浴室の空気が湿っていて、シャンプーの甘い臭いが充満していた。
……阿佐美。
阿佐美の言ったとおり、今日はおとなしく休んでおけばよかったかもしれない。そんなことを考えながら、頭からシャワーを被る。髪を濡らし落ちるシャワーの粒がやや痛いが、今の俺にはそれくらいが丁度良かった。
無心でシャワーを浴び、全身を洗った。皮膚が剥がれてアザも油汚れみたいにするんと落ちるんじゃないかってくらい、必死になって洗った。
もちろん、ただ皮膚がヒリヒリするだけだ。おまけにあまり強くない肌は赤くなり、俺は後悔した。
長くはないシャワーを終え、浴室を出た。マットの上で予め用意していたタオルで頭の水分を吸い取り、それから足下から全身の雫を拭い取る。
少しは、さっぱりしたかもしれない。それでも、熱が引けば生傷が耐えない体は至るところが痛みだしてきた。
跡に残らないよう、薬を塗らないとな。
そんなことをぼんやりと考えながら、予めタオルと一緒に用意してた新しい下着に履き替える。
そこで、着替えの服まで用意していなかったことに気付いた。
……俺は、何やってるんだ。もし阿佐美がいたらどうするんだよ。
考え事ばっかりしていたせいでいろいろなことが疎かになってしまう。
俺はタオルを被ったまま、雫を落とさないようにそろりと扉を開き、自分の私服を閉まっているクローゼットまで向かった。そして手頃なジャージを引っ張り出し、それを履こうとしたときだった。
扉が、開いた。阿佐美が帰ってきたのだ。
まずい、と俺は考えるよりも先に慌ててTシャツを被る。ジャージの紐を結び直し、慌ててタオルを被り直した。
「ただいま……って、わ、ごめん、もしかして……着替えてた?」
「い、いや……大丈夫だよ」
間一髪のところで体を見られずには済んだが、途中からなりふり構わなくなっていたせいで首元が濡れてしまった。気持ち悪いが、放っておけば直に乾くだろう。
俺はタオルでガシガシと頭を拭き、そして、それを洗濯物カゴにしまう。ドライヤーをする気にもなれず、そのまま俺は気まずさを紛らすようにテレビの電源を入れた。
丁度バラエティ番組の最中のようだ、前までは楽しみにしていた番組ではあったが、今は聞こえてくる笑い声があまり耳障りがいいとは思えなくなっていた。
チャンネルを変えようと、テーブルの上のリモコンに手を伸ばしたときだった。ふわりと、視界が陰る。そして鼻腔に広がるのは、淡い洗剤の香り。
驚いて、顔をあげればタオルを手にした阿佐美と確かに視線がぶつかり合った……気がする。
「ゆうき君、髪、濡れてるよ。……そのままじゃ風邪引いちゃう」
どうやら新しいタオルを持ってきてくれたようだ。
新しい乾いたフカフカのタオルを頭から被せられ、わしわしと髪を拭われる。
「っ、わ、わ……ちょっ、詩織……自分でやるよ……」
「……いいよ、ゆうき君は座ってて。……たまには俺にも世話を焼かせてよ」
背後に立つ阿佐美の声が頭上から落ちてくる。阿佐美がどんな顔をしてるのかわからないが、優しいその声につい、俺は抵抗の手を緩めた。
こうして、身内以外の誰かに世話をされるのは初めてかもしれない。……それも、年の近い相手にだ。
恥ずかしかったが、阿佐美が俺のことを気遣ってくれてるのがわかったからこそ、本気で拒むことはできなかった。
タオル越し、阿佐美の指が地肌の水分を拭うように頭部全体に触れていく。……正直な話、気持ちよかった。
最初は緊張してガチガチになっていた体が、阿佐美に触れられるにつれ筋肉が弛緩していくのが自分でもわかる。
「……ゆうき君、痛くない?」
「……大丈夫……なんか、ちょっと……マッサージみたいで気持ちいい……かも」
擽ったさもあるが、阿佐美の手が思いの外優しくて、すぐに凭れ掛かりそうになる。タオル越しではあるが、地肌を丁寧に指の腹で撫でられれば、ゾクゾクと脳髄が甘く痺れだすのだ。
「眠たくなったら寝てていいよ、ゆうき君」
「……っ、そんなこと……」
「ゆうき君、いいんだよ」
長い前髪の下、細められた目は確かに俺を見据えていた。暖かい眼差しに、声に、つい、甘えてしまいそうになる。
甘えてもいいんだよ、と言うかのように阿佐美は俺の髪を撫で、丁寧に水分を拭い、乾かしていく。
「……今朝から具合悪そうだったのに、学校頑張ったね。……偉いね、ゆうき君」
頭を撫でられ、優しく髪を掬われれば、鼻の奥がツンと痛んだ。色々、色々追い詰められて、俺は逃げどころを探していた。だからこそ余計、阿佐美の優しさが傷口に染みるように心が痛んで、暖かくて、必死に堰き止めていたものが溢れ出しそうになる。
視界が滲む。阿佐美は、俺にタオルを掛けたまま、俺の顔を無理に覗こうとするわけでもなく、「お疲れ様、ゆうき君」と俺の髪を拭いてくれる。
阿佐美は、もしかしたら、知ってるのだろうか。今日、何があったのか、察してるのかもしれない。それでも、深くを問いだそうとしない阿佐美の優しさに溺れそうになる。
「ゆうき君は、本当……頑張ってるよ」
響く阿佐美の言葉は、空気に溶けた。
ほんの少しの間の触れ合いだった。それだけでも、俺のささくれ立った心を落ち着かせるには十分なものだった。……我ながら単純だと思う。気付けば俺は阿佐美の腕の中、眠りに落ちていた。
「……ごめんね、ゆうき君」
夢か現かもわからない。
だけど深層へと意識が落ちる瞬間、確かに俺は阿佐美の声を聞いた。……ような気がした。
「……ッ、……どうして」
「どうして? そりゃあ、誰かさんのせいでちゃんと話もできていないんだよ。だから、会いに来た。……それとも、齋藤は俺がいると不都合でもあるの?」
そういう問題ではない。けれど、何を言ったところで志摩は納得して帰らないだろう。それに、部屋の前にいられたら帰ることも出来ない。
つまり、俺は志摩と話すことを受け入れることしかできない。志摩がそうなるように仕向けたからだ。
「方人さんに何を言われたの」
……そんなに、志摩は縁と俺のことが気になるのか。
教室の前の廊下で何度も繰り返した問答を、ここでも志摩は口にする。
これは志摩が納得するまで答えないと開放されそうにない。正直、別に隠すようなことはなにもない。
体裁を考えるならまああまり言いたくはない話題ではあるが、志摩相手ならば、別に知られてもいいと思った。けれど言いたくないのは、俺のなけなしのプライドの問題だ。
そんなもの、あっても邪魔でしかないのだろうが。
「……さっきも言ったけど、大した話はしていないよ。……ただ、これから遊びに行かないかって誘われただけ」
「本当に?」
「……本当だよ。……断ったらあっさり開放してくれた。あとは……『何かあったら連絡してよ』って連絡先教えてもらっただけ。……そこで、志摩がきたんだ」
「これで全部だよ」満足した?と聞くまでもなかった。
志摩は、まだ疑うような目を向けていたので俺は渋々生徒手帳からメモ用紙を渡した。
「これが、そのときのだよ」と差し出せば、志摩に取り上げられる。
「……それで、齋藤はまた方人さんと連絡を取るつもり?」
「そんなわけ無いだろ。何を勘繰ってるのか知らないけど……俺……あの人のこと、苦手だし……」
志摩には適当な誤魔化しは利かない。
俺は、本音を口にした。あまりこういうことはいいたくないが、志摩に納得してもらうには包み隠さないのが一番早い。
「ああ、そうなんだ」
ホッとしたのか知らないが、一先ずは俺の言葉を信じてくれたらしい。メモに目を走らせた志摩の表情は、先程よりも心なしか和らいでいるようにも見えた。
これで、開放してくれるだろうか。
そう、思った矢先のことだった。
何を思ったのか、志摩はいきなり縁のメモをビリビリに破いた。
「っ、なに、して」
「なら、これは齋藤に必要ないよね。嫌いなら連絡取らないでしょ?」
なんでもないように笑う志摩の手からメモが落ちる。細かく千切られたそれを元に戻すには手間がかかるだろう。
確かに縁を頼るような真似をしたくないとは思ったが、万が一のため、保存しておきたかったというのが俺の本音だった。けれど、志摩にはそれは通用しないらしい。
「志摩……いくらなんでも、それは……」
「なんで?嫌いなんだよね?なら何も困らないでしょ。……それとも、なに?さっきの言葉は方便だったの?俺のご機嫌取りのために適当なこと言ったわけ?」
「っ、そうじゃない、けど……」
「それじゃあ何も困らないでしょ。…………齋藤には俺がいるんだから」
息を吸うように吐き出されるその言葉に、腹の奥底がぐずりと重く疼く。恐怖、というよりも、言いようのない不快感にも似た違和感。俺は、志摩に何も言い返すことができなかった。志摩は、きっと俺が何を言ったところで通じない。思考からして、決定的に食い違ってるのだ。
分かりあえない、そう脳が判断し、言葉を失う。
「方人さんのことは俺も注意しておくけど、齋藤も、関わらないで。……あの人は、厄介だから」
志摩は、言いたいことだけ言えば満足したのか「それじゃあ、また明日」と鞄を拾い上げ、踵を返す。
何が、厄介だ。俺には、志摩がわからない。床の上、散らかったそれらを拾い上げ、俺は、部屋に戻る。復元することは諦めた。けれどせめて、残骸は残したくなかった。
志摩はまだ俺を心配してくれてるのか、それとも、俺に嫌がらせをして楽しんでるのか、わからない。けれど、以前のように向けられる笑顔が理解できず、まるで未知の生き物のように思えて仕方ない。
部屋のロックを解錠し、扉を開いた。締め切られたカーテン。クーラーは除湿モードになったまま可動しっぱなしだ。阿佐美の姿はない。
玄関の扉を閉め、瞬間、どっと疲労感に襲われる。
何をされたわけでもない、昨日の方が痛い思いはした。けれど、今日は。まるで見えない手にずっと首を締められてるような息苦しさが付き纏うのだ。
制服のまま、ベッドに雪崩込む。そのままシーツに顔を埋め、しばらく俺はその体勢のまま動くことができなかった。
芳川会長のこと、志摩のこと、色々考えては頭が爆発しそうになる。できることなら逃げ出したいというのが本音だ。
どうして、どうしてこうも悪い方へと行くんだ。俺が、駄目だからか。もっと、ハッキリと物が言えて、阿賀松にも抵抗できればまた違ったのかも知れない。
考えたところで何も変わらない。少しでも逆らったとき、大きな拳に殴られた痛みを思い出しては身が震える。
ベッドの上、布団を被り、丸まる。ダンゴムシみたいに体を守り、蹲る。何も考えたくない。できることなら、明日にでも誰かが阿賀松たちを殺してくれないだろうか、そんな風にすら思える。
『齋藤には、俺がいるんだから』
頭の中に、志摩の柔らかい声が響く。俺の心の奥底まで見透かすようなあの目が蘇り、胸がざわつく。俺は布団を押し退け、ゆっくりと起き上がった。
……シャワーを浴びよう。熱いシャワーを浴びれば、少しは気分が晴れるかもしれない。
今は何も考えたくなかった。
会長なら、どうするだろうか。会長ならそもそもこんなことにはならなかっただろう。わかったが、それでも、救いを求めてしまう。幻影に縋り付きたい気分になる。
そんなんだから、駄目なんだ、俺は。
ブレザーを脱ぎ、シャツのボタンを外していく。鏡はなるべく視界に入れたくなかった。阿賀松に殴られた痣が皮膚の下で広がり、とてもじゃないが見るに耐えないことになっていた。
鏡の前から逃げるように浴室へと踏み入れる。阿佐美が入ったあとなのだろうか、微かに浴室の空気が湿っていて、シャンプーの甘い臭いが充満していた。
……阿佐美。
阿佐美の言ったとおり、今日はおとなしく休んでおけばよかったかもしれない。そんなことを考えながら、頭からシャワーを被る。髪を濡らし落ちるシャワーの粒がやや痛いが、今の俺にはそれくらいが丁度良かった。
無心でシャワーを浴び、全身を洗った。皮膚が剥がれてアザも油汚れみたいにするんと落ちるんじゃないかってくらい、必死になって洗った。
もちろん、ただ皮膚がヒリヒリするだけだ。おまけにあまり強くない肌は赤くなり、俺は後悔した。
長くはないシャワーを終え、浴室を出た。マットの上で予め用意していたタオルで頭の水分を吸い取り、それから足下から全身の雫を拭い取る。
少しは、さっぱりしたかもしれない。それでも、熱が引けば生傷が耐えない体は至るところが痛みだしてきた。
跡に残らないよう、薬を塗らないとな。
そんなことをぼんやりと考えながら、予めタオルと一緒に用意してた新しい下着に履き替える。
そこで、着替えの服まで用意していなかったことに気付いた。
……俺は、何やってるんだ。もし阿佐美がいたらどうするんだよ。
考え事ばっかりしていたせいでいろいろなことが疎かになってしまう。
俺はタオルを被ったまま、雫を落とさないようにそろりと扉を開き、自分の私服を閉まっているクローゼットまで向かった。そして手頃なジャージを引っ張り出し、それを履こうとしたときだった。
扉が、開いた。阿佐美が帰ってきたのだ。
まずい、と俺は考えるよりも先に慌ててTシャツを被る。ジャージの紐を結び直し、慌ててタオルを被り直した。
「ただいま……って、わ、ごめん、もしかして……着替えてた?」
「い、いや……大丈夫だよ」
間一髪のところで体を見られずには済んだが、途中からなりふり構わなくなっていたせいで首元が濡れてしまった。気持ち悪いが、放っておけば直に乾くだろう。
俺はタオルでガシガシと頭を拭き、そして、それを洗濯物カゴにしまう。ドライヤーをする気にもなれず、そのまま俺は気まずさを紛らすようにテレビの電源を入れた。
丁度バラエティ番組の最中のようだ、前までは楽しみにしていた番組ではあったが、今は聞こえてくる笑い声があまり耳障りがいいとは思えなくなっていた。
チャンネルを変えようと、テーブルの上のリモコンに手を伸ばしたときだった。ふわりと、視界が陰る。そして鼻腔に広がるのは、淡い洗剤の香り。
驚いて、顔をあげればタオルを手にした阿佐美と確かに視線がぶつかり合った……気がする。
「ゆうき君、髪、濡れてるよ。……そのままじゃ風邪引いちゃう」
どうやら新しいタオルを持ってきてくれたようだ。
新しい乾いたフカフカのタオルを頭から被せられ、わしわしと髪を拭われる。
「っ、わ、わ……ちょっ、詩織……自分でやるよ……」
「……いいよ、ゆうき君は座ってて。……たまには俺にも世話を焼かせてよ」
背後に立つ阿佐美の声が頭上から落ちてくる。阿佐美がどんな顔をしてるのかわからないが、優しいその声につい、俺は抵抗の手を緩めた。
こうして、身内以外の誰かに世話をされるのは初めてかもしれない。……それも、年の近い相手にだ。
恥ずかしかったが、阿佐美が俺のことを気遣ってくれてるのがわかったからこそ、本気で拒むことはできなかった。
タオル越し、阿佐美の指が地肌の水分を拭うように頭部全体に触れていく。……正直な話、気持ちよかった。
最初は緊張してガチガチになっていた体が、阿佐美に触れられるにつれ筋肉が弛緩していくのが自分でもわかる。
「……ゆうき君、痛くない?」
「……大丈夫……なんか、ちょっと……マッサージみたいで気持ちいい……かも」
擽ったさもあるが、阿佐美の手が思いの外優しくて、すぐに凭れ掛かりそうになる。タオル越しではあるが、地肌を丁寧に指の腹で撫でられれば、ゾクゾクと脳髄が甘く痺れだすのだ。
「眠たくなったら寝てていいよ、ゆうき君」
「……っ、そんなこと……」
「ゆうき君、いいんだよ」
長い前髪の下、細められた目は確かに俺を見据えていた。暖かい眼差しに、声に、つい、甘えてしまいそうになる。
甘えてもいいんだよ、と言うかのように阿佐美は俺の髪を撫で、丁寧に水分を拭い、乾かしていく。
「……今朝から具合悪そうだったのに、学校頑張ったね。……偉いね、ゆうき君」
頭を撫でられ、優しく髪を掬われれば、鼻の奥がツンと痛んだ。色々、色々追い詰められて、俺は逃げどころを探していた。だからこそ余計、阿佐美の優しさが傷口に染みるように心が痛んで、暖かくて、必死に堰き止めていたものが溢れ出しそうになる。
視界が滲む。阿佐美は、俺にタオルを掛けたまま、俺の顔を無理に覗こうとするわけでもなく、「お疲れ様、ゆうき君」と俺の髪を拭いてくれる。
阿佐美は、もしかしたら、知ってるのだろうか。今日、何があったのか、察してるのかもしれない。それでも、深くを問いだそうとしない阿佐美の優しさに溺れそうになる。
「ゆうき君は、本当……頑張ってるよ」
響く阿佐美の言葉は、空気に溶けた。
ほんの少しの間の触れ合いだった。それだけでも、俺のささくれ立った心を落ち着かせるには十分なものだった。……我ながら単純だと思う。気付けば俺は阿佐美の腕の中、眠りに落ちていた。
「……ごめんね、ゆうき君」
夢か現かもわからない。
だけど深層へと意識が落ちる瞬間、確かに俺は阿佐美の声を聞いた。……ような気がした。
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