天国か地獄

田原摩耶

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四月二日目【恐喝】

06

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 何も考えられなかった。
 恐らく、自分がとんでもないことをされたというのは節々の痛みと下腹部に走る鈍痛で自覚することは出来たが、それでも、まだ、現実味が沸かなかった。
 こちらを見下ろす赤髪のあの男の目が、食い込む指の感触が、じっとりと滲む汗が、溢れ出す精液が、先ほどの行為が現実のものと知らしめてくる。

「…………」

 なんで、こんなことになってしまったのだろうか。
 酷い倦怠感の中、肛門から溢れる赤が混ざった精液を拭い、掻き出す。
 不思議と、もう、涙は出なかった。ただ、これからのことを考えると、向けられたレンズが頭を過ぎり、気が気ではなくなるのだ。
 とにかく、人目を盗んで精液を拭って、服を着直して、俺は阿賀松の残り香から逃げるように便所を後にした。
 安久と呼ばれた男子生徒も、阿賀松も、そこにはいない。
 けれど、他の生徒の姿を見つける度に、心臓が破裂しそうになる。聞かれてるんじゃないか、おかしいと思われてるんじゃないか、何があったのかバレてるのではないか、そんなよからぬ想像ばかりが先行してしまい、俺は、人から逃げるように自室へと駆け込んだ。

「ゆうき君、おかえりなさい」

 部屋に入ると、阿佐美が出迎えてくれた。
 明るい笑顔、その声に、いつもの俺なら「ただいま」と返すことができたのかもしれない。
 けれど、部屋に阿佐美がいないものだと思っていた俺は阿佐美がそこにいることに動揺してしまい、つい、言葉に詰まってしまう。

「……ゆうき君……?」

 恐る恐る名前を呼ばれ、ハッとする。
 心配そうに覗き込んでくる阿佐美に、肩を掴まれそうになって、全身がびくりと震えた。

「……」
「あっ……ご、ごめ……」

 ごめんなさい、と言い掛けたとき、阿佐美の手がスッと離れる。
 そして、申し訳なさそうに笑う阿佐美がそこにいた。

「こっちこそ……ごめんね、ちょっと不躾すぎたかな」
「ち、違う……俺が勝手に、ビックリしただけだから……その、悪いのは……俺だから……」

 阿佐美は悪くない。寧ろ悪いのは、と阿賀松の顔が脳裏に蘇り、下腹部に痛みが走る。
 それを紛らすように、俺は服の裾を掴んだ。

「……ゆうき君、何かあったの……?」

 言い淀む俺に何かを察したのか。微かに表情を強張らせた阿佐美は、静かに尋ねてくる。
 いつも通りに振る舞うなんて、出来るわけがなかった。
 助けてくれ、なんて、阿佐美に言えるわけもない。阿賀松と面識のある阿佐美には、特に。

「な、なんでもない……少し、お腹が、痛くて……」
「……お腹が? 大丈夫? 薬飲む?」
「ううん、大丈夫。……きっと、その内収まるだろうから……だから、ごめんね」

 そっとしておいてくれ、ということは出来なかった。
 けれど、俺のニュアンスから感じ取ってくれたのだろう、阿佐美は少しだけ寂しそうに笑い「何かあったらすぐに呼んでね」と言ってくれた。
 ……阿佐美は、ぽややんとしているように見えて、敏い。それは、ここにきてからすぐに気付いた。
 何も見えていないように見えて、人の細部にまで目を配らせている阿佐美に嘘を吐くことは無意味だとわかってても、本当のことなど言えるわけがないのだ。
 俺は、服を着替えるために洗面室へと向かった。
 自室には、洗顔などができる洗面室と、浴槽とシャワー付きの簡易浴室、そして便所がある。
 一通り済ませることは出来るのだが、娯楽の一つとして一階には大浴場とサウナ、トレーニングジムもあるらしい。
 殆どの生徒はコミニュケーションの一環として大浴場を使用しているらしいが、とてもじゃないがこんな状況で人前で脱ぐことは出来なかった。
 俺は汗と精液がこびりついた制服と下着を洗濯機に突っ込み、浴室へと足を踏み入れる。
 何度身体を洗っても、阿賀松の手の感触が取れなかった。こうしている間にも阿賀松の手元にデータがあるのだと思うと、気分だけが急ってしまう。
 そんな中、気持ちが落ち着けるわけがなかった。
 全身を何度も擦り、赤くなった皮膚にお湯が染みる。そこでまた、枯れたと思っていたはずの涙が滲んだ。
 憂鬱な気持ちのまま風呂を出て、髪を乾かす。
 自室に戻ったとき、パソコンと向かい合う阿佐美がそこにいた。

「湯加減、どうだった? 俺は結構熱めが好きなんだけど、ゆうき君はどのくらいがいいのか分からなかったんだよね」
「……俺も、熱めでいいよ。ありがとう」
「……ううん、俺はこれくらいしか出来ないから」
「……」

 どういう意味か、深く聞くことは出来なかった。
 それでも、それ以上阿佐美といるのが辛くなって、俺は、「ちょっと飲み物買ってくる」と言って手ぶらで部屋を出ていった。

 絶対、避けられたと思ってるよな、阿佐美……。
 そんなつもりはないのだけれど、やっぱり、阿佐美に変な気を遣わせるのも忍びない。
 ……と言っても、その結果余計気遣わせてるのだからどうしようもない。
 殆どの生徒が大浴場に向かっているお陰か、学生寮内・三階は比較的人気が少なかった。
 俺は外の空気を吸おうと思い、ラウンジから繋がったバルコニーに出た。
 そこに人気はない……と、思っていたが、どうやら、先客がいたようだ。
 それに気付いたのは俺がベンチに腰を掛けたときだ。
 バルコニーの奥、佇む人影に心臓が停まるかと思った。

「……何、勝手に入ってきてんだよ」

「ここ、俺の場所なんだけど」と、一言。気だる気な声がバルコニーに響いた。
 生徒会副会長、栫井平佑。じとりとこちらを睨む栫井に、俺は、軽率にこの場を選んでしまった自分を恨んだ。

「ご、ごめん……その、知らなくて……」

 そもそも、ここは公共の場ではなかったのか。『俺の場所』ということは、予約制になっているということか?まさか私物化しているわけでもないだろうが……。
 なんて、一人で考えていると、栫井のシルエットが近付いてくる。
 早くここから出ていかないと、と一歩後ずさったとき、手首を掴まれる。

「ぁ、あの……っ」

 驚いて、顔を上げれば、すぐそこには眠たそうなやつの顔があった。
 まずい、まずい、また因縁吹っ掛けられる。
 正直、この男のことは苦手だった。こいつも俺のことをよく思っていないことは分かったし、だからこそ余計、俺は耳を疑った。

「座れよ」

 そう、一言。
「は?」と思わず、素っ頓狂な声が喉から出てしまう。

「勝手に入ってきたのはお前だろ。……なら、責任とって付き合えよ」

 付き合うって、何を。そう聞き返すよりも先に、さっき座っていたそこに無理矢理肩を押され、座らせられる。
 ひんやりとした木の感触に、俺はどうしたらいいのかわからず、ただされるがままに座っていた。
 そして、その向かい側。動揺の椅子に腰を掛けた栫井平佑とは、テーブルを挟んで向かい合うような形になった。
 ……どうして、こんなことになっているのだろうか。
 バクバクと鳴り止まない心音。掌にはじんわりと汗が滲む。
 俺は、向けられた視線から逃げるようにただ俯いていた。

「齋藤……佑樹」
「は、はい……」
「お前、甘いものは好き?」

 そう言って、栫井は静かに尋ねてくる。
 甘いもの。と言われても、一概には言えないが、いわゆるポピュラーな洋菓子類は実家でよく出されていたので好きだ。と思う。
 返答に迷っていると、苛ついたように栫井がテーブルを指で叩いた。俺はそれに反応するように「はい」と声を上げた。

「そうか……なら、カフェラテは?」

 そう言って、栫井は手に持っていた缶を指で弄ぶ。
 カフェラテ、は好きというほどでもないが、普通くらいだろう。が、下手に応えて苛つかせるわけにもいかない。質問の意図に迷いながらも、俺は「好きかな」と頷き返した。

「そうか。……なら、これやる」

 今度こそ、俺は驚いた。栫井は持っていた缶を俺に渡した。
 既に口は開いていて、半分くらいだろうか、中で液体が動くのが分かった。

「え……いいの?」
「俺はもういらねーから」
「あ、ありがとう……」

 回し飲み、というやつか。栫井はこういうことがあまり好きなようには思えなかったが、それでも、俺にくれるというその事実が素直に嬉しかった。

「飲めよ……ぬるいかもしれないけどな」

 そう、半笑いを浮かべた栫井に促され、「うん」と俺は慌ててその飲み口に唇を押し当てた。
 そして、思い切って傾けた瞬間、口の中に、言い知れぬ味が広がる。ざらっと流れ込んでくる灰のような何かと、水分を含んだ棒状の紙のようなものが唇に当たり、瞬間、堪らず俺はカフェラテを吐き出していた。

「ッ、ぶ、ぅ、ぇ……ッ」

 口を汚れることも構わなかった。いまはただ、口からこの『異物』を吐き出したかった。
 床の上に落ちた液体の中には数本のタバコが混ざっていて、痺れるような舌の感触、こびり付き、刺すようなドギツイヤニの味に、吐き出しても、舌をこすっても、それは消えなかった。
 何が起こったのか理解できず、目を白黒する俺に栫井の笑い声が響く。
 呆れて、そちらを見れば、冷ややかな笑みを浮かべた栫井平佑は制服のポケットから箱を取り出し、一本、タバコを咥えた。
 俺の前だというのに、隠すわけでも、当たり前のように取り出したライターで着火したやつは気分がよさそうにそれを吸い、吐き出した。

「おい、どうしたんだよ……まだ残ってるだろ。もういらないのか?」

 そう、缶に目を向けた栫井は喉を鳴らして笑った。
 俺は、正直、ここにいたくなかった。
 分かっていたはずなのに、栫井に好かれていないと。それでも、少しでも浮かれてしまった自分が許せなくて、椅子から立ち上がろうとしたとき、腕を掴まれた。

「っ、はなし……」
「そう、つれないこというなよ。……お前とは『仲良くするように』って言われてんだよ、俺」

 そう言って、栫井は咥えていたタバコを指に挟み、そして、俺の手の甲に思いっきり押し当てた。

「い、ひ……ッ」

 慌てて栫井の手を振り払おうとするが、手首を掴む栫井の指は絡みついたように離れず、それどころか、執拗に火のついたそこを押し当ててくる栫井に、全身が強張る。
 熱いというよりも、痛い。熱された棒が貫くようなそんな感覚に、堪らず喉奥から悲鳴が漏れた。
 そんな俺を見て、栫井は笑う。このままでは、やばい。そう直感で感じた俺は、机の上のカフェラテの缶を思いっきり栫井に投げつける。
 既に中身のなくなっていたそれは乾いた音を立て、栫井の頭にぶつかり、床に落ちた。その一瞬、栫井の手が緩んだのを狙って、やつの手から離れる。

「……なんで、こんな、こと……っ」
「……なんでって……お前が飲んだんだろ。俺の灰皿」
「……ッ」
「お前、それくらいしか役に立ちそうにないしな」

 何を言ってるんだ、この男は。
 俺のことを、人として見ていない。
 それだけは明らかで、その薄暗い瞳は笑っていない。言い返す気力もなかった。
 人に好かれる性格ではないと分かっていたが、何故、ここまでされなければならないのか。そんな気持ちの方が大きくて、それ以上にただやるせない。俺は、そのまま逃げ出そうとした。けれど。

「……っ、離して」

 再度掴まれ、思いっきり壁に叩き付けられる。放課後、阿賀松に組み伏せられたときの痛みが蘇り、身体が竦む。
 殴られる、と身構えた時。胸倉、シャツの胸元を思いっきり引っ張られ、ぎょっとした。

「や、め……ろ……ッ」
「……ふぅん……」

 そう、俺の上半身に目を向けた栫井は相変わらず感情のない表情のまま呟く。
 なるほどね、と笑うその口元に、俺は何がなんだか分からなかったが、大きく開かれた襟の下、阿賀松の手の跡だろうか、赤黒く浮かんだアザが目につき、ぞっとした。

「……阿賀松伊織か」

 そう栫井が口にすると同時に、俺は、思いっきり栫井を突き飛ばす。
 やつは少しバランスを崩しただけだったが、それでも、俺にとっては絶好のチャンスだった。
 襟元を抑え、俺は、栫井から逃げ出した。
 どうしてバレているのか、そんなこと考えたくもなかった。
 俺はただこの男から逃げたい一心でバルコニーを後にした。
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