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 秦野は料理上手だった。
 レストランかと思うほどの調理器具を並べ、料理をする。イタリアンから和食まで、秦野は幅広く料理を用意してくれた。コンビニ弁当やインスタント料理ばっかり食べていた俺は、お店以外で温かい料理を食べたのが酷く久しぶりのように思えた。
 秦野は、あれから俺に手を出さない。
 帰ってきては俺に料理を用意してくれて、それから、持ち帰った仕事を片付けるのだ。
 俺はというと一度門限を破ってしまえば、もう怖いものがなくなっていた。ヤケになっていたのだと思う。あの男からしてみれば俺は裏切り者も同然だ。二日三日もなれば、もう揺るぎない。
 そして、秦野の家にきて、ちゃんと寝れるようになった。初日はひどい目にあったものの、その次の日は夢も見ないほど爆睡していた。
 あの男がいないとわかるだけでほっとするのだろうか、実家ではあんなに寝れなかったのに、秦野のベッドがふかふかなこともあってか秦野に起こされなければ昼間で寝てることもよくあった。
 睡眠時間がちゃんと取れるようになって、あんなに猥雑としていた思考が酷くスッキリしていくのがわかった。
 お腹もちゃんと減って、秦野の手料理が美味しく感じ、四日目になると、俺は秦野におかわりをもらっていた。

 日にちだけが過ぎていく。
 秦野のことは相変わらず好きになれそうになかったが、俺はこの状況に慣れてしまっていた。甘えていた。それでも、頭の片隅では母親のことが気になっていた。
 そして、秦野の家に閉じ込められて一週間。今日は休校日だった。
 秦野は俺と一緒に昼過ぎまで寝ていた。余程疲れていたのだろうか。いつもは先に目を覚ましている秦野は、無防備に寝顔を晒している。
 あまり、秦野の顔をちゃんと見たことはなかった。女子生徒からは爽やかな好青年だと評される顔だが、俺には、鋭利で冷たい男のように思えて仕方ない。それは恐らく、俺に見せた一面のせいだろう。
 薄く、結ばれた唇に触れる。秦野はぴくりと眉を動かし、それからすぐに規則正しい寝息を漏らした。よく眠っている。
 そこまで考えて、俺の頭に一抹の可能性が過る。
 ……今ならば、この男から逃げられるのではないだろうか。
 それは、淡い期待だった。俺は、息を殺し、なるべく音を立てないようにベッドを降りる。
 期待通り、秦野は気付いていない。呑気に眠っている。馬鹿な男だと思った。俺が逃げると思わなかったのか。それとも、そんなこと考える余裕もなかったか。
 俺は物音を立てないように部屋を出た。
 それから、驚くほどあっさりと俺は秦野から逃げ出すことができた。本当に逃げていいのかと憚れるほどだった。
 だが、今しかない。俺は、ずっと玄関に放置されていた自分の靴を履き、マンションの外へと降りた。入ってくるのには厳重なロックはかかっていたが、出るとなると簡単に出られるのだ。
 車で連れて行かれるときはここがどこなんて考えなかったが、随分と実家から離れた場所まで来ていたようだ。
 手持ちの金もない。歩いて帰るしかないと思うと気が遠くなるが、それでもぼさっとしていられない。
 また秦野に捕まったらと思う恐怖が、ただ俺の足をつき動かした。


 半日はかかったのではないだろうか。そう思うほど道程は長かった。
 腹が減ったが、家に帰るまでの辛抱だ。足を止めれば秦野に捕まる。その思いだけで俺は自宅まで帰ってきた。
 秦野のマンションの立体駐車場よりも小さいであろうこのボロいアパートが酷く懐かしく思えた。
 呼吸が浅くなる。きっと俺はあの男に殺されるかもしれない。どんな目に合うかもわからない。
 ……それでも、母親に会いたかった。一目だけでもいい、会って、おかえりと伝えたかった。
 そのあとは、秦野の言っていた通りに児童相談所に行こうと考えていた。
 何故、そう思ったのかは単純明快だ。このままでは母親のためにならないとわかったからだ。
 俺に虐待するようなあの変態が母親と結婚したところで母親は幸せになれないだろう。それが一時的に母親を傷つける結果になろうと、長い目で見たら別れた方がいいに決まってる。
 ……なんで、こんなこと気付かなかったのだろうか、俺は。
 秦野は最初からそう言っていたのに、俺は、恐怖により思考が麻痺していたのか。だからこそ、この地獄のような家から離れてわかった。気付いたのだ。自分もその地獄の一部へ取り込まれていたことに。
 日は暮れていたが、まだこの時間帯なら母親はいるはずだ。俺はぐっと固唾を呑み、アパートの階段を上がる。
 怒られるだろうか、泣きつかれるだろうか、もしかしたら、捨てられるかもしれない。それでもいい、会いたかった。
 自宅の扉の前に立つ。俺は意を決してドアノブを掴んだ。そのままゆっくりとひねれば、鍵がかかっていなかった。
 少し不審に思ったが、あの男はいい加減だった。扉の鍵を掛けずに出かけることも多々あった。
 あの男の顔を思い出し、具合が悪くなる。それでも、それを堪え、俺は、思い切って扉を開いた。――そして、息を呑む。
 まず、厭な匂いがした。吐き気を催すような、生ゴミが腐ったような酷い匂い。
 電気すらついていない玄関には乱雑に脱ぎ捨てられたあの男の靴と母親のハイヒールがあった。
 なんだ、なんだこの匂いは……。
 あの男が居座って、部屋のゴミを放置して散らかすことはあったが、ここまで臭くなることはなかったはずだ。汗が滲む。得体の知れない恐怖に、鼓動が加速する。
 俺は、靴を脱ぎ、部屋を上がった。音一つもしない部屋の中、生活感はあるのに、肝心なものが抜け落ちていた。
 ……誰も、いないのか。
 遠くから近所の子どもたちが遊ぶ声が聞こえてくる。烏の鳴き声が不安を掻き立てた。一歩、また一歩と進むにつれ、その異臭は強くなる。頭の中で警報が鳴り響く。
 それでも、立ち止まることはできなかった。立ち止まれば、今度こそ俺は、逃れられなくなる。そんな気がしたからだ。
 異臭は、リビングからだった。
 微かに水の音が聞こえてくる。母親が使ったあと、よく水を出しっぱなしになっていたことを思い出した。
 額から流れ落ちた汗がぽたりと足元に落ちた。呼吸を整える。俺は、なるべく匂いを意識しないように口で呼吸をしていた。
 何も考えるな、そう己に声をかけながら俺はリビングの扉を開いた。
 ――そして、目を瞑る。
 テーブルの傍、床の上にうつ伏せになった母親がいた。……それは、母親だったもの、というべきなのかもしれない。
 目に入った絨毯の上の紅い染みを見て、瞬時に理解する。全身から、力が抜け落ちるようだった。
 目の前で広がるのは俺が、最も危惧していた光景だった。酒に溺れ、理性を無くすあの男がいつか何かしらをしでかす気はしていた。
 けれど、それが、自分ではなく、母親に向けられた。
 急激に体温が引いていく。不思議と、頭の中は落ち着いていた。まだ、夢を見ているようだった。混乱していたのかもしれない。
 俺は、その場から動けなかった。

 ――だから、あいつが背後にいたことにも気付けなかったのだ。
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