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本編
俺のことが好きな美形全員と付き合うことになったけど、想像以上に激重だった。【透輝編】
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「ワンマンライブ!?」
新曲お披露目ライブも終わって、その次のバンド練習日。
俺はスタジオで素っ頓狂な声を上げていた。
ええと、どうもこんにちは。インディーズロックバンド『DIAMOND』ボーカル担当の神崎瑪瑙 です。
初っ端から大きな声を出してすみません。だって、リーダー兼ベーシストの篠宮透輝さんから告知された内容が、あまりにもビッグニュースだったものだから。
「ああ。前回のワンマンからもう一年くらいは経つし、そろそろまた企画してみようと思ってな」
俺の反応を面白そうに眺めながら、篠宮さんは皆に向かって言った。
ワンマンライブ。ひとつのバンドがライブハウスをまるごと貸し切って、単独でライブを行うことだ。
普段のライブは基本的に対バン形式だから、俺たちのバンド以外にもいくつか他のバンドも出演していて、そのためひとつのバンドに設けられる演奏時間は2、30分程度である。30分だとだいたい5曲くらい演奏して終わりになることが多いけど、ワンマンの場合はたっぷり二時間ほど時間を与えられるので、20曲くらいは披露することができるだろう。普段のライブとは規模も段違いだし、ワンマンライブを成功させることはアマチュアにとっては大きな目標であり、実績にもなるのだ。
「ということは、今のメンバーでは初のワンマンになりますね」
「そっか、蛍はワンマン初めてかぁ。楽しみだな」
篠宮さんからの告知を聞いて、ドラム担当の早乙女蛍とギター担当の玻璃間クリス先輩も前向きな意見を述べている。
前回のワンマンは、確か俺がバンドに加入してすぐのタイミングだった。あの頃はステージに立って歌うことに慣れていなくて、バンドメンバーともまだそれほど打ち解けられていなかったから、すごく大変だったけど……。それでも、篠宮さんやクリス先輩のサポートのお陰で無事にライブを成功させることができて、本当に嬉しかったしすごく気持ちがよかった。あの時の体験があったからこそ、俺は今でもこうしてバンドで歌い続けることができているのだと思う。
「今回のワンマンは前回よりも規模を大きくするつもりだ。とはいえ、先日のライブでの集客や物販の売上も上々だったし、決して無理のない目標ではあると思う。もちろんメンバー全員の意見を聞いた上で確定したいんだが……」
そう言って篠宮さんは俺たちにワンマンの詳細を書き出したメモ書きを見せてくれた。
いつ、どのライブハウスでやるのか。チケットの値段はいくらにするか。集客ノルマはどのくらいか。物販では何を売るのか。できれば当日までに新しく準備しておきたいものは。
篠宮さん、凄いなぁ。俺がバンド練習で必死になっている間に、ライブハウスの人とやりとりして、ここまで話を進めておいてくれていたんだ。
篠宮さんはいつもライブの時はお酒を飲んで酔っ払っているだけに見えるけど、実はこうして裏で企画の話を立ち上げてくれていたりするし、集客やファンサービスにも余念がないし、何よりその演奏技術はメンバー随一だ。何でもスマートにこなせてカッコいいなぁって、平凡な俺が憧れてしまうのも無理はないだろう。
結論から言うと、篠宮さんの計画や見通しは完璧だった。そこから皆で話し合って、具体的にどんなことをするか考えていく。まだ企画段階だから未定な部分も多いけれど、こうして計画を話しているだけでもわくわくしてきて、俺は早くも高揚感でいっぱいになっていた。
「このメンバーでワンマンできるなんて、夢みたいです……! 絶対、絶対成功させましょう!」
俺が感極まってそう言うと、メンバーは皆微笑みながら頷きを返してくれた。
ワンマンライブの日付は、約半年後。それまでにフライヤーを作って告知をして集客して、新曲も作って、セトリを組んで……やることは山積みだ。これから準備で忙しくなると思うけど、それでもライブのことを考えるだけで胸が高鳴ってくる。
俺はボーカルとしてまだまだで、経験も技術も足りないと思っている。だけど、このワンマンは絶対に成功させたい。半年後のライブでは、俺がDIAMONDのボーカルだって皆に認めてもらえるように。メンバーのために、ファンのために……そして、俺自身のためにも全力で頑張らないと!
俺はぐっと拳を握りしめ、ひとり決意を固めたのだった。
その日はそのままワンマンライブの打ち合わせをして、少し練習をしたあとに解散となった。
そんなわけで、流れに身を任せて俺も帰ろうとしたのだが、その前に篠宮さんに呼び止められる。
「瑪瑙、そういえば忘れてないか?」
「えっ、何をですか?」
篠宮さんの言うことにまったく心当たりがなくて、俺は首を傾げた。
ワンマンの打ち合わせはちゃんとしたと思っていたけど、何か抜けがあっただろうか。それとも、先日のライブの時の俺の歌にどこか悪い部分が……? 俺としては満足のいくライブだったと感じたけど、自分の歌が完璧だとは露ほども思わないので何か言われるかもしれないと緊張してしまう。
しかしそんな俺をよそに、篠宮さんはくすりと笑って俺に囁いた。
「日曜のデート。やっと俺の番だな」
「あっ」
「まさか本当に忘れてたわけじゃないよな? 俺はずっと楽しみにしてたんだぞ~」
「ち、違います! 覚えてますっ! その、ライブの話かと思って……」
そうだった。今の俺はバンドメンバー三人と『お試しの恋人期間中』だったんだ。決して忘れていたわけじゃないけど、今日はワンマンライブのことで頭がいっぱいだったから、つい思考から抜けてしまっていた。
とりあえず今は週末限定、一人ずつ交代でデートをすることになっている。先々週はクリス先輩と、先週は蛍とそれぞれ初デートをして、今週は篠宮さんの番だった。
思えば、三人から告白されて約三週間。ライブやら何やらであっという間だった気もするけど、篠宮さんは三人で取り決めたらしい“順番”が一番後だったこともあって、俺の中では意識する時間が減っていたように思う。俺に対する篠宮さんの態度も、特に変わらずいつも通りだったし……いや、俺としてはむしろそっちの方がありがたいけど!
「ん、だったらよかった。また後で連絡するから、週末開けておいてな」
「は、はい」
篠宮さんは俺の耳元でそう言うと、「それじゃあまたな」と何事もなかったかのように去っていった。対して俺はというと、篠宮さんの低い声にドキドキして少しの間動けなかったのだけど。
篠宮さんとデート、かぁ……。他の二人の時もそうだったけど、篠宮さんは特に、なんか全然想像つかないな。
クリス先輩や蛍は大学でもよく顔を合わせるし、今までだってたまに一緒にご飯を食べに行ったりなどはしていた。だけど、篠宮さんとはバンドを通して知り合ったのでそういうのはない。二人きりで出かけたこともないし、どこか行くにしても大概他のバンドメンバーも一緒だったし、そもそも彼が普段どんな生活をしているのかすら俺は知らなくて……。よくよく考えてみると、今までバンド以外のプライベートな篠宮さんを見る機会というのは、他の二人に比べて格段に少なかった。
それに篠宮さんはメンバー最年長で、バンドマスターで、社会人。器用で人当たりもよくてカリスマ性も抜群で、その上すごくかっこいいし、なんだか俺よりもずっとずっと大人って感じ。きっと半端じゃないほどモテるはずなのに、なんで俺なんかを好きだと言って、俺とのデートをあんなに楽しみにしてくれるのだろうか。
デート、どこに行くのかな。篠宮さんの好きな場所ってどこだろう。休みの日はいつも何をしているんだろう。知らないことばっかりだ。
篠宮さんのこと、もっと知りたい。今はこうしてお試しの関係ではあるけれど、いずれ俺はバンドメンバーの中から誰か一人を選ばなくてはいけない。だから、皆のことをちゃんと知って、俺を好きだと言ってくれる彼らの気持ちを無下にすることがないよう、俺なりにちゃんと向き合いたいと思っている。
——なんてことを考えながらぼんやり歩いていたら、危うく帰りの路線を間違えそうになった。
ほんと俺、抜けてるな……。
✦✦✦
そして、日曜日。
今日はついに、篠宮さんとのデートの日だ。
一昨日くらいに篠宮さんからデートについては連絡がきていたので、俺は起きて身支度をしたらすぐに向かうつもりでいたんだけど……。
それよりも前に、スマホのメッセージアプリの通知音で起こされた。
「んん……?」
スマホのディスプレイを見ると、現在時刻は朝の7時半。
篠宮さんとのデートは昼過ぎからだから、せっかくの休日だし欲を言えばもう少しだけ寝ていたかったのだけど……。二度寝する前に通知の内容だけ確認してしまおうと、俺は緩慢に指を動かしてメッセージアプリを開いた。
メッセージは篠宮さんからだった。
『朝早くにごめん。急な仕事が入って、出勤しなきゃいけなくなった。本当に申し訳ないけど、今日のデートは中止にしてほしい』
その文面のあとに、涙を流してめそめそと泣いている某ゆるキャラアニメのスタンプ。
そっか。篠宮さん、仕事入っちゃったんだ……。
社会人ならそういうこともあるよな、仕方ない。篠宮さんに了承のメッセージを返しつつも、デートが中止になってしまったことに対してどこか残念に思っている自分がいた。
一応誤解のないように言っておくと、篠宮さんは普段から人との約束をドタキャンするような人ではない。だから、直前になって俺とのデートが嫌になった……わけではないと、思いたい。確かに俺は平凡でつまらない人間だけど、篠宮さんはそんな俺に対しても不誠実な対応をしたことなど今まで一度もなかったのだから。
篠宮さんに連絡を返したあと、しばらくしてから俺は暇になってしまった日曜日の時間を浪費するべく、目的もないまま外に出た。今日はデートの予定だったからバイトも入れていないし、家の中にいてもあまりすることがなくて、どうにも落ち着かなくて。
適当にぶらぶらと駅前を散歩してから、やっぱり行くところがなくて俺は近くのファストフード店に入った。もうお昼時だ。俺は一人で席に座ってポテトをつまみながら、取り留めもなく考えごとをしていた。もちろん篠宮さんのこと。
今日のデートが中止になったということは、篠宮さんとの初デートはまた三週間後までお預けということになる。デートを楽しみにしていた先日の篠宮さんの様子を思い出すと、なんだか可哀想に感じてしまった。クリス先輩と蛍に先の順番を譲った上に、それでもずっと楽しみにしていてくれたのに……。俺の自惚れかもしれないし、急な仕事ではどうしようもないけれど、自然と「俺にも何かできることはないだろうか?」と考えていた。
俺はおもむろにスマホを取り出すと、メッセージアプリに文章を打ち込んだ。
『お仕事、何時ごろに終わりますか?』
仕事中に申し訳ないと思いつつ、メッセージを送ってみる。
すると意外にもすぐに既読がついて、返信がきた。
『たぶん、19時くらいには』
19時。夕方くらいには終わるのかなと思っていたら、わりと遅い時間だった。
ええと、19時に仕事が終わったとして、それから家に帰ってご飯を食べてお風呂に入って……うーん、全然時間がなくて大変そうだ。せっかくの日曜日なのに、ろくに休む時間もなくて大丈夫かな……。そう思うのと同時に、俺の頭の中にある考えが浮かんだ。
迷惑かもしれない。仕事で疲れているところにこんなことを言って、困らせてしまうかもしれない。でも……デートはできないけど、一日頑張った篠宮さんを、“恋人”としてちょっとだけでも労いたいと思った。
少し震える指でスマホの画面をタップし、文字を打つ。なかなかうまい言い方が思いつかず、何度も文章を消して打ち直したのち、俺は勇気を出して送信ボタンを押した。
『会社か、家の最寄り駅ってどこですか? もしよかったら、お仕事の後にご飯とか一緒しませんか?』
ちょっとだけでも会えたら。本当に、邪魔にならない程度に。少し顔を見せるだけでも。もし篠宮さんが許してくれるなら、そのままどこかでご飯をご馳走したりとか……。俺にはそのくらいしかできないけど、デートを抜きにしたっていつも篠宮さんにはお世話になっているし、こういう時くらいは俺にできることをしたい。
ただのエゴかもしれないというのはわかっている。だから、疲れていてそんな余裕がないのであれば、断ってくれて構わない。
お誘いのメッセージを送信したものの、俺はすぐに何と返ってくるか不安になった。やっぱり送信取り消ししようか……あれ、でもこのアプリ、一度送ったら消せない仕様だったっけ。ていうか、そんなこと考えているうちに既読マークついちゃってるし……。あっ、しかも返事きた!
『それは、俺に会いにきてくれるってこと?』
「疲れてるだろうし、迷惑だったら……」
全然いいです、と打とうとしたところで、それよりも早く篠宮さんから追加のメッセージが送られてくる。
『すっげー嬉しい!! できるだけ早く終わらせて、すぐ迎えに行く!』
それから、万歳しながら喜ぶ某ゆるキャラのスタンプ。いつも大人っぽくてかっこいい篠宮さんにそぐわないテンション高めの反応に、思わずくすりと笑みが溢れてしまった。
『ありがとうございます。それと、お仕事の邪魔してすみませんでした』
『ちょうど休憩中だったから大丈夫。こっちこそありがとう。会えるの楽しみにしてる』
最後に職場の最寄り駅だという駅名を教えてもらって、篠宮さんとのやりとりは終わった。
そんなわけで、改めて今夜に篠宮さんとの約束ができた。クリス先輩や蛍みたいに、一日使ってのんびりとデートして……っていうのは流石に難しくなってしまったけど、これで少しでも埋め合わせができたら嬉しいな。
篠宮さんに話したいことはいっぱいある。ワンマンライブのこととか、今作っている曲の話。クリス先輩が編集してSNSに上げてくれた、先日のライブ映像の話なんかも。……ってこれじゃあいつものバンド練習の時と同じになってしまうな。とはいえ、恋人同士の甘いやりとりなんて恋愛経験が全然ない俺には難易度が高すぎる。クリス先輩や蛍とデートした時は、二人にリードしてもらってばかりだったし……。
まあ、なるようになるだろう。
先に他の二人とデートをした後だったこともあって、俺もなんだかんだで少し慣れてきたというか、肝が据わってきたのかもしれない。今回は初めて俺から声をかけたので緊張はするけれど、今までどおり変に意識せず平常心を保っていれば相手に変に気を遣わせるようなこともないだろう。多分。
そんなふうに考えて、正直楽観していたと思う。先週までのように一日デートするわけでもなく、仕事の後にちょこっと会ってご飯を食べるだけなのだから、特に何も起こらないだろうと高を括っていた感は否めない。
それがまさか、あんなことになるだなんて——
✦✦✦
その日の夜。
篠宮さんの職場の最寄り駅。俺はその出入り口付近に立ち、スマホの時計がちょうど19時を回ったのを確認していた。
都営地下鉄の、俺が普段あまり利用しない路線にある駅の周辺は、ビルが立ち並ぶオフィス街になっていた。当然、道を行き交うのは高そうなスーツをビシッと着こなしているサラリーマンや身綺麗なOLさんばかりで、ごくごく平凡な大学生である俺はこの場ではちょっと浮いてしまっている気がする。
「瑪瑙!」
「あ、篠宮さ……」
少しすると聞き慣れた声で呼びかけられて、俺はすぐに顔を上げる。篠宮さん、とこちらも声をかけようとしたが、その言葉はすぐに喉の奥で詰まってしまった。
篠宮さんの両脇には、女の人がいたのだ。
右隣と左隣にそれぞれ一人ずつ。年齢は二十代から三十代くらいだろうか、オフィスカジュアルといった雰囲気の服装と、指先には綺麗なネイル。化粧は少し濃かったけれど、それでも二人ともすごく美人だった。篠宮さんと一緒にいるってことは、たぶん同じ職場の人なのかな?
そんな綺麗な女性に囲まれていても篠宮さんはまったく見劣りせず、むしろ釣り合っていてお似合いだった。そんな彼の姿を見ていると俺は余計に何も言えなくなってしまい、足がすくんでしまう。
……そっか。そうだよな。俺、別に「二人きりで」なんて言わなかったし。
デートじゃない。ただちょっとだけ会えたら、それで晩ご飯とか一緒できたらな……って思っていただけだ。篠宮さんは喜んでくれていたけど、普通に考えたら俺みたいなつまらない奴より会社の同僚と一緒にいたほうが断然楽しいだろう。ていうか、俺なんかがいたらせっかくの美味しいご飯も不味くなってしまう……。
重度の女性恐怖症、特に知らない相手に対してはろくに会話もままならないほど苦手意識がある俺は、女性が一緒にいると本当に何もできなくなってしまうのだ。きっとご飯もろくに喉を通らないだろう。
このままだと絶対に篠宮さんに気を遣わせる結果になる。俺から誘った上に、せっかく約束して来てもらったところ申し訳ないけれど、俺、帰ったほうがよさそう……。
「瑪瑙、来てくれてありがとう。待たせて悪かった」
「篠宮さん……あの、俺、やっぱり……」
やっぱり帰ります。
そう口に出そうとした俺の肩をぐっと抱き寄せて、篠宮さんは女性二人に向かって言った。
「ってことで俺、これからこの子とデートなんで」
いきなり抱き寄せられて吃驚したけど、篠宮さんの言葉にもっと驚いた。
俺があまり状況を理解できないでいると、篠宮さんは唖然としている女性たちを置き去りにして、俺の腕を引いてさっさと改札に入っていってしまう。俺は慌ててポケットからICカードを取り出して、彼に遅れないようにと必死でついて行った。
篠宮さんはそのまま駅構内をスタスタと歩き続け、人の多いホームまで来てからようやく立ち止まってくれた。
俺は少し乱れてしまった呼吸を整えながら、おそるおそる彼の顔を見る。スタイル抜群で脚も長い篠宮さんと平凡な俺とでは歩幅があまりにも違いすぎるので、早足で歩く篠宮さんについて行くだけで俺は息切れする始末だった。
「し、篠宮さん……さっきの人たち、置いて来ちゃって大丈夫だったんですか?」
俺が呼吸を整えながらそう尋ねると、篠宮さんは困ったように苦笑しながら答えてくれた。
「ごめんな。先約があるって言ってるのに、飲みに行こうってしつこくて……そのまま駅まで着いて来ちゃって。二人とも、普段は悪い人じゃないんだけどなあ……」
それから「巻き込んでごめん」とまた謝罪した。
そういう事情があったのか。俺はてっきり、篠宮さんが連れて来たのだとばかり……。勝手にそんな風に思ってしまって申し訳なくなったけど、俺に謝る篠宮さんはもっと申し訳なさそうな表情をしていた。
「気にしないでください……。すみません、俺がご飯一緒したいなんて言ったから」
「何で謝るんだ? 瑪瑙との約束を優先するのは当たり前だろ」
「で、でも……俺とご飯行くよりも、会社の人たちと飲みに行ったほうが楽しかったんじゃ……」
しかも、去り際の篠宮さんの一言。俺みたいなのとデートだなんて絶対冗談だと思われているとは思うけど、もしかしたらそのせいで篠宮さんの職場での立場に何らか影響が出てしまうかもしれない。俺は学生だからまだよくわからないけど、社会人って上下関係とか、人間関係とか、きっと大事だと思う。それなのに……。
篠宮さんは俺が女性恐怖症であることも知っているから、それに対しても少なからず気を遣ってくれたのだろう。ちょっと会うだけなら大丈夫、って思っていたのに、さっそく迷惑をかけてしまった……。
申し訳なさでそれ以上言葉を続けることができずに俯いてしまった俺を見て、篠宮さんがどんな顔をしていたのかはわからない。でも、その直後に彼から発せられた声音は、とても優しかった。
「何言ってるんだ。職場の同僚よりも、好きな子と一緒にいるほうがずっと楽しいに決まってるだろ?」
篠宮さんはそう言って俺の頭をぽんぽんと撫でてくれる。あったかくて大きな手に、不思議と心が軽くなった気がした。
そして、気持ちが落ち着くと同時に先程の彼の言葉が脳内でリフレインする。
『好きな子』。
ぶわりと顔が熱くなった。
わかってはいたけど、そっか……俺のこと、好きなんだよな。篠宮さんも……。
いまだになんで俺なんかをって思っているから、こうして改めて口に出して言われるとドキドキしてしまう。誰かに好きだって言われることなど今までは一度もなかったのに、いきなりとんでもない美形、しかも三人から一気に告白されるだなんて嘘みたいだった。モテ期なんてレベルじゃない、奇跡でも起きない限り、そんなことは有り得ないと思っていて。だけど何度自分の頬をつねってみても、これはやっぱり現実なわけで……。
「俺、デートのつもりで来たから。瑪瑙は違う?」
「……ちがわない、です」
篠宮さんからの問いに、俺は今度は照れ臭さで俯いたまま答えた。
そう、今日は本当だったらデートの約束だった。でもそれができなくなってしまったから、こうして夜に時間を作ってもらって会っているわけで……。多分これもデート、って言っていいんだよな?
「電車来た。乗ろうか」
篠宮さんはそう言って俺の腕を引いた。俺はまだ幾分か頬を赤く染めたまま、彼について行く。
電車に乗り込むと、ちょうど帰宅ラッシュの時間帯なこともあり車内はかなり混み合っていた。当然座席に座ることはできず、篠宮さんと一緒に僅かな隙間に身を収めて、なんとか座席横の仕切り棒を掴む。
「いつもの癖で帰りの路線乗っちゃったけど……日曜なのに混んでるな。瑪瑙、大丈夫か?」
「は、はい……平気です」
満員電車でスペースに余裕がないので、身体が密着せざるを得ない。それでも篠宮さんは自分の身体でガードするようにしてさりげなく俺を人混みから守ってくれている。ここでもまた彼の気遣いを感じて、俺は心から感謝した。
篠宮さんは慣れているのか吊り革を掴んで平然としているように見えるけど、平気と言いつつも俺は正直息も絶え絶えだった。彼は毎日こんな思いをしながら通勤しているのだろうか。大変すぎる……。
電車が走り出して少しすると、狭いながらもやっと場所が安定してきた。俺は周囲の迷惑にならないよう小声で篠宮さんに話しかける。
「えっと、どこで降りるんですか?」
「そうだな、とりあえず俺んちの最寄りまで行くか。なんなら泊まっていってもいいぞ?」
「そ、そこまでは……。急にそんな、迷惑になりますし」
「迷惑じゃないし、むしろ嬉しいけどなぁ俺は」
遠慮する俺に、篠宮さんはそう言って笑った。ただ笑うだけでも並みの女性なら一目惚れしてしまうんじゃないかってくらいかっこよくて、つくづく本当に顔立ちが整っているなぁと感じる。
電車に揺られながら、俺は車内に掲示してある路線図を見た。篠宮さんの家の最寄りだという駅まではあと4駅ほど。この路線は一駅の間隔もそれほど長くはないから、きっと10分もしないうちに到着するだろう。
「そういえば飯どこ行く? 瑪瑙は何が食べたい?」
「えっ……俺じゃなくて、篠宮さんが食べたいもので……」
俺がそう言いかけた瞬間、電車のドアが開いてどっと大勢の人が乗り込んできた。いつの間にか次の駅に着いていたらしい。
停車したのが比較的大きな駅だったこともあり、人の乗り降りが激しい上に、降りていった以上の人が代わりのように乗り込んでくる。押し寄せる人の波に逆らえず、俺は車内の奥の方まで流されてしまった。
(どうしよう、篠宮さんとはぐれちゃった……)
スマホを取り出してメッセージを送りたいが、人が多すぎてポケットに手を運ぶことすら憚られた。辺りを見てみても、人に阻まれて篠宮さんがどこにいるのかがわからない。少なくとも近くにはいないようだった。
こうなっては仕方がない。降りる駅はちゃんとわかっているし、到着してから合流すれば大丈夫だろう。この調子じゃ、仮に見つけたとしてもそこまで移動できそうにないし……。
俺はそう思い直し、篠宮さんを探し当てるのを一旦諦めることにした。
少しの間だし、大丈夫だろう。俺は路線図を念入りに確認しながら、うっかり降りる駅を逃さないようにと気を張っていた。
その時だった。
すり……っ
「!」
俺の尻に何かが当たった。
何かっていうか、たぶん、人の手。誰かの鞄なんかが当たった感じではない。温かいものが、俺の下半身を撫でていく感触がする。
一回ならたまたま当たってしまったのかなと気にも留めなかったけれど、その手はすりすりと明確な意思を持って何度も俺の尻を撫で回している。
——これ、もしかして痴漢?
いやいや、俺は男なのに。ありえない。
俺は女性と間違えられるほど可愛らしい外見をしているわけでもないし、相手も硬い尻の感触で今触れているのが男であることは当然わかるはずだ。それなのに、その手は一向に止まってくれない。
俺はちらりと目線だけを動かして背後の気配を探った。俺の後ろにいたのはサラリーマン風のスーツを着た、俺と同じくらいの背丈の男性だったと思うけど、怖くてもう振り返ることができない。そもそも、なんで可愛くもなんともない俺なんかに触っているんだ!?
頭が混乱している。痴漢なんて勿論されたことがないから、どうすればいいかわからない。すぐに触るのをやめてほしいけど、今何か言ったらきっと周りから注目されてしまう……。平凡男のくせに痴漢されるだなんてとてもじゃないけど恥ずかしくて、俺は声を上げることができなかった。
耐えろ。我慢しろ、俺。あとほんの数分で目的地に着く。そうしたら、すぐに電車を降りればきっと相手は追ってこない。俺は知らない人に尻を触られる感覚をなんとか殺そうと、ぐっと唇を噛み締めた。
「っ……」
しかし俺が無反応であることに気を良くしたのか、最初はゆるく撫でるだけだったその手の動きがだんだんと大胆になってくる。
尻の割れ目をなぞったり、それにも飽きるとついに力を込めて揉んできた。びっくりして思わず声が出そうになるが、周囲に大勢の人間がいることが頭をよぎりなんとか耐えた。
怖い。気持ち悪い。女の人に触るのはずっと怖かったけど、同じ男の人でも知らない人に無遠慮に触られるのはとても怖いことなのだと知った。
終わらない責め苦にだんだんと涙目になってくる。路線図を見ると、目的地まではまだ2駅もある。先程まではすぐに着くだろうと思っていた距離が、今はとても長く感じられた。
そうしている間にも、尻をいたぶっていたその手は徐々に前へと移動してきて、そしてジーンズの上から俺の股間をつうと撫で上げた。
「ひ、……!」
小さく声が出てしまい、すぐに両手で口を塞いだ。
嫌だ。嫌だ……そこだけは触らないでくれ。そんな俺の願いもむなしく、何度も何度もそこをすりすりと摩擦された。
急所に触れられている恐怖感と、不快感。そして……こんな状況でも拾ってしまう、ほんの僅かな快感。俺のそこは極度の緊張と気持ち悪さからかいまだ萎えたままだったが、そんなに何度も擦られたら、いよいよ勃ってしまう……。
耳元ではぁはぁと熱い息づかいが聞こえる。怖くて動けない。仮に動けたとしてもこの満員電車の中、ろくな逃げ場などなかった。
電車が駅に停車する。その時、俺の腕を掴んだ人がいた。
「瑪瑙!」
ぐいっと強い力で身体を引かれて、ホームに連れ出される。知らない人だったら怖かったけど、俺を呼んだ声とその手の感触から、すぐに篠宮さんだとわかった。
まだ目的の駅じゃないのに、降りていいのかな……そう思いつつも、俺はふらふらとおぼつかない足どりで篠宮さんについて行く。人の乗り降りが終わって電車が発車すると、ホームは一気に人が減って閑散とした雰囲気になった。
彼はホームに設置されていたベンチに俺を座らせると、心配そうにこちらの顔を覗き込む。
「大丈夫か? 遠目で見つけたとき、様子がおかしかったから」
「だ、だい……だいじょぶ、です」
「無理しなくていい。かなり混んでたからな。体調が悪いようなら、駅員に言って少し休ませてもらおう」
そう言って駅員に声をかけに行こうとする篠宮さんの腕を、俺は反射的に掴んだ。
「いいです! 体調悪いとかじゃなくて……あの、ほんとに、大丈夫ですから」
「そんなフラフラで大丈夫なわけないだろ。それとも、何かあったのか……?」
「あ、えっと……」
痴漢に遭いました、なんて恥ずかしくて、相手が篠宮さんであっても言えない。
触ってきた人、たぶん男の人だった。もし女の人だったら、それこそ卒倒していたかもしれないけど……男の人でも、気持ち悪かった。見ず知らずの人に、公共の場で急に触られて、放っておいたらそれがだんだんエスカレートして。もしあのとき篠宮さんに電車を降ろされなかったら一体どうなっていたんだろう。想像しただけでぞっとした。
下に落としていた視線をちらりと篠宮さんに向ける。彼は本当に心配そうな顔で俺を見ていて、とても申し訳なく思った。
恥ずかしいけれど、篠宮さんに余計な心配はかけたくない。俺はその一心で、ぐっと喉に力を込めて言葉を絞り出した。
「あの、その……さっき、電車の中で……」
「うん」
「知らない男の人に、お尻とか、触られて……」
「……え?」
篠宮さんの表情がみるみるうちに曇っていく。
「なんですぐに言わなかったんだ」
「だって、男なのに痴漢されたなんて、恥ずかしくて……。周りに人いっぱいいたし、怖くて言えなくて」
「……」
「だから、大丈夫です……。心配かけてすみません」
体調が悪いわけじゃない。混乱のあまりちょっと身体が動かなくなってしまっただけだ。
男のくせに、痴漢されたくらいで足がすくんで歩けなくなる自分が情けなかった。俺みたいな平凡が同性に痴漢されたなんて、本来だったらただの笑い話で終わるはずなのに……。
俺が打ち明けると、篠宮さんは心底申し訳なさそうに眉を下げて謝罪してきた。
「すぐに気付いてやれなくてごめんな」
そんな顔をさせたかったわけではない……そもそも、なぜ篠宮さんが謝るのだろう。決して彼の責任ではないし、どちらかといえば声を出せずにされるがままになった俺がいけないのに。
俺はちょっとだけ笑ってから彼に言い返した。
「そんな、無理ですよ。あんなに人いっぱいいて、場所だって離れてたんですから」
「でも、怖かっただろ? 俺がはぐれないようにもっと気を付けていればよかった……。本当にごめん」
篠宮さんに落ち度など何もありはしないのに、彼の表情は一向に晴れず、何度も俺に謝る。
篠宮さんと一緒に楽しくご飯が食べたかっただけなのに、こんなことで気分を台無しにさせてしまって、俺が謝りたいくらいだった。ただでさえ篠宮さんは日曜なのに一日仕事をしてきて、今はとても疲れているはずなのに……。
俺はこれ以上彼を心配させまいと、できるだけ明るい笑顔を作ってベンチから立ち上がった。
「もう大丈夫です! 時間なくなっちゃうんで、そろそろ行きましょう」
そう言って元気に歩き出したが、まだ膝がガクガクしているのを自覚できていなかったようで、すぐに足がもつれて転びそうになってしまう。もう電車を降りてからは少し時間も経ったというのに、ほんと情けない……。
「こら、無理するなよ」
ふらついた俺の身体を篠宮さんは慌てたように支えてから……そのまま背中と膝の裏に腕を回して、抱き上げた。
「へっ!?」
いきなり身体が宙に浮いたので、つい驚きの声を上げてしまう。
篠宮さんは俺を横抱きにしたまま、周囲の視線をものともせずにホームを歩いていく。俺はというと、恥ずかしい以前に今自分が置かれている状況が理解できなくて、固まってしまっていた。
篠宮さん、あの。これって、これって……もしかしなくても、いわゆるお姫様抱っこ、ってやつなんじゃ……!?
「篠宮さん! いいです、いいですから……! 俺、自分で歩きます!!」
「そんなこと言って、転んで怪我でもしたらどうするんだ? こういう時は素直に甘えとけ」
「で、でも、俺重いですし、腰でもやったら……」
「全然重くないぞ? というか、役得だな」
重くないわけない。俺の身長は日本人男性の平均くらいはあるし、体格はいいわけじゃないけど特別痩せているわけでもないから、体重だってそこそこあるはずだ。しかしながら篠宮さん、こんな細身なのに俺のこと軽々抱き上げている……すごいな。いやでも、やっぱり重いって!!
路線の中では比較的小さめの駅とはいえ、人通りはゼロではない。駅員だって普通にいる。それなのに篠宮さんは俺のことをなかなか降ろしてくれず、彼の美しいルックスも相まって駅構内で終始注目の的になってしまった。結局改札を通るところで定期を使わなければいけないからと訴えたら、渋々ながらもそこでようやく俺を解放してくれた。
う、生まれて初めてお姫様抱っこをされてしまった……。
篠宮さんは改札を出ると、篠宮さんは俺を駅前のベンチにまた座らせて、今度はなにやらスマホを操作し始めた。
そういえば、改札出ちゃってよかったのかな。篠宮さんの自宅の最寄り駅までは、あと1駅か2駅ぶんくらいあったはずだけど……。
そんなことを思っているうちにどこからかタクシーがやって来て、篠宮さんは俺に一緒に乗るように促す。どうやらスマホの専用アプリでタクシーを呼んだみたいだ。
「あの、篠宮さん……。これ、どこ行くんですか?」
流されるがままにタクシーに乗り込んで、ちょこんと座席に腰掛けた。俺は普段あまりタクシーに乗ることがないのでどことなく緊張しつつ、篠宮さんに行き先を尋ねる。
「ん、俺の家」
彼が返した一言に、俺は思わずきょと、と目を丸くしてしまった。
俺の家。俺の、って……。
篠宮さんの家!?
✦✦✦
「篠宮さん仕事で疲れてるのに、家までお邪魔するのはさすがに……ていうか、タクシー代払います! すみません!」
「そんなの気にしなくていい。そんな状態で一人で帰せないし、うちで休んでけ」
篠宮さんが住んでいるらしいマンションの前でタクシーは止まった。
俺のせいでこんなことになったというのに、篠宮さんはタクシー代すら受け取ってくれなかった。彼は気にしなくていいと言ったけど、あのとき目的の駅に着く前に電車を降りてしまったからタクシーを呼ぶことになったわけで……それって、俺のせいだし。
それに、せっかく自宅に帰ってきたというのに、俺までいたらきっと気が休まらないだろう。そもそも一緒にご飯……だなんてもう言っていられない雰囲気になってしまったし、いや、それも俺が痴漢なんかされたせいなんだけど……。
「とか言って、俺がもう少し瑪瑙と一緒にいたいだけなんだ。強引でごめんな?」
申し訳なさで今すぐ足元のコンクリに埋まりたい気持ちだったけれど、当の篠宮さんからそんなことを言われてしまっては、もとより彼に懐きまくっている俺はこれ以上遠慮することなどできなかった。
家に上がるのはさすがにちょっと緊張したけど、篠宮さんのような義理堅い人が、クリス先輩たちとの「何もしない」って約束をそう簡単に反故にはしないと思うし……多分。
篠宮さんの自宅は、2Kほどの間取りの単身用マンションだった。
部屋の中は意外と普通で、強いて普通じゃない点を挙げるならば部屋の隅に愛用のベースやエフェクターの数々がまとめて置かれているくらいだった。部屋の中は脱ぎ散らかしたままのスウェットや靴下なんかがあったけれど、それでもなんとなくスッキリした印象を受けるのは篠宮さんの家具や色合いのチョイスが良いからだろう。
「散らかってて悪いな」
「いえ、全然綺麗だと思います。むしろ思ってたより普通でびっくりしてます……」
「はは、なんだそれ。俺ってそういうイメージなの?」
なんとなくだけど、もっと派手なのを想像していたりしたのだ。
篠宮さんは、今みたいなスーツ姿だとそうでもないけれど、私服のファッションセンスは結構クセがあるほうだと思う。ライブの時はいつも全身をモノトーンの服で固めて、目元にはトレードマークであるスクエア型の黒縁眼鏡、そして耳には数え切れないほどのピアスがついている。所謂ダウナー系というか、俺なんかと比べたらわりと尖っている感じのファッションだ。そんな格好も篠宮さんにはめちゃくちゃ似合っていて凄くかっこいいんだけど、知り合ったばかりの頃はその見た目の第一印象から「ちょっと怖そう」って思っていたんだよな……。
ちなみに、俺はファストファッションしか着たことがない、服のセンスに至るまで平々凡々な人間である。そんなんだから余計に地味な印象になって、ネットでも馬鹿にされてしまうのかなぁと思うのだけど、仮に俺が篠宮さんみたいな服装をしたところで絶対に似合わない。イケメンで背が高くてスタイル抜群な篠宮さんだからこそ、あれほどまでに魅力的になるのである。
「社会人二年目の一人暮らしなんてこんなもんだよ」
篠宮さんはそう笑いながら、俺に適当な場所へ座るよう促してくれた。俺はお言葉に甘えてテーブルのそばに正座をすると、篠宮さんは「もっと楽にしてていいぞ」と言ってまた笑った。
ていうか、今更だけど本当に上がってしまってよかったのかな。結局ご飯行く予定もなくなっちゃったし。元はといえば俺のせいなんだけど……。篠宮さんがスーツを脱いでいる間、俺はそんなことを考えながらずっとモヤモヤしていた。
そんな俺をよそに篠宮さんはラフな部屋着に着替えを終えると、冷蔵庫を開けて中身をチェックする。
「今から夕飯作るから待っててな。ありあわせで悪いけど」
「えっ!? そ、そんな、申し訳ないです! 俺、すぐ帰りますから……ほんとごめんなさい!」
俺がご飯奢るつもりだったのに、逆にご馳走になってしまうのはさすがに気が引ける。仕事で疲れている上に、帰りも遅くなって、タクシーまで使わせて……。その上自宅に上がり込んで食事まで作らせるだなんて俺はどこまで無礼なんだ。
篠宮さんにこれ以上迷惑をかけたくなかった。せっかくワンマンライブも決まってこれからって時なのに、バンド以外のところまで足を引っ張りたくない。ただでさえ俺は鈍臭くて人見知りで、ボーカルなのに華もなくて、一部の人にはバンドのお荷物だって言われているのに。
俺は手荷物を持って立ち上がると、すぐに帰ろうと玄関へ向かおうとした。しかし、すかさず篠宮さんに腕を掴まれて阻止されてしまう。
「帰さない」
「……っ!」
「一人で電車乗って、また痴漢に遭ったらどうするんだ?」
その言葉を聞いて、先程のことを思い出し一瞬びくりと肩が震えたものの、俺は大丈夫と首を横に振った。痴漢に遭ったのなんて今日が初めてだったし、あんなことそう何度も起こらないはずだ。
「すみません……でも、平気ですから」
「瑪瑙、今日はずっと謝ってる気がする。俺と二人でいるの、疲れる? それとも、そんなに俺のことが嫌いか?」
「そ、そういうわけじゃ……」
篠宮さんといて疲れたりとか、嫌な気持ちになったことなんて一度もない。いつも面倒を見てくれて、弟のように可愛がってくれて、元気づけてくれる。そんな篠宮さんを俺が嫌うだなんて絶対にあるわけない。むしろ俺のほうが篠宮さんに愛想を尽かされないかと、いつも心配しているくらいで……。
「ごめんなさい……」
ずっと謝ってる、と言われたばかりなのに、それでもなお俺の口からは謝罪の言葉しか出てこなかった。
「篠宮さんに悪いとこなんてないです。ただ俺が……俺が無理言って誘ったのに、篠宮さんに気を遣わせてばっかりで、申し訳なくて」
「……」
「今日だって、俺のせいでご飯も行けなかったし、デートらしいこともできなかった……。せっかく時間作ってもらったのに、俺、篠宮さんに迷惑しかかけてない……」
こんなはずじゃなかった。それなのに、今日はなにひとつうまくいかない。
だんだんと胸の中が不安な気持ちだけで支配されていく。
ほんの少し会っただけなのに、たくさん迷惑をかけてしまった。もしかしたら、今後もっと一緒にいたら、更に大きな、取り返しのつかないほどの迷惑をかけてしまうかもしれない。
「今度のワンマンも、失敗したらどうしよう……。いっぱい準備して、みんな楽しみにしてるのに……もし本番で俺が上手に歌えなくて、俺のせいでライブが上手くいかなかったら……」
ついにライブのことまで弱音を吐き出した俺。
俯いたまま泣きそうになっている俺を、篠宮さんはどんな思いで見ていたのだろう。
少しの間の後に、彼は俺に向かってこう言った。
「じゃあ、やめるか?」
「え?」
「迷惑がかかるのが嫌なら、やめたっていいんだぞ。ワンマンも、ボーカルも」
篠宮さんにそう言われて、どうしてか目からぽろりと涙が零れ落ちた。
俺みたいな足手まとい、バンドなんてやめたほうがみんなのためだ。それはわかっている。美形揃いのメンバーの中で俺だけが平凡で、才能なんかなくて、技術だってまだまだで……挙げ句の果てにはバンド以外の部分でも迷惑をかけている。
半年後のワンマンライブは、絶対に失敗できない。今のメンバーになって初めての、記念すべきワンマンになるからだ。そのために篠宮さんが企画を立ち上げてくれて、新曲も作って、良いライブにしようってみんなで話し合って、いろんな演出を考えて……。
「お前の代わりなんていない。瑪瑙がやらないと言うなら、ライブはしない。それに、瑪瑙に歌ってもらえないなら、新曲だって作る意味がない」
「………」
「でも、本当につらいのなら、やめてもいい。もしそうなっても、誰もお前を責めたりなんかしないよ」
篠宮さんはいいと言っている。
今ならまだ逃げられる。
だから、やめてしまえばいい。
俺なんかがいたって、どうせ皆の邪魔にしかならないのだから——
篠宮さんの言葉と、自分の心の声が、頭の中で交互に反芻する。
俺はどうしたいんだ?
俺は。俺は——
「やめたくない……」
気付けば、俺はほとんど無意識にそう口にしていた。
ひとこと口に出してしまえば、卑屈だった心の奥底に埋まっていた本心が、少しずつその姿を現して。
「俺、もっとライブしたい……。篠宮さんが作った曲、もっともっとたくさん歌いたい」
俺がそう言うと、篠宮さんは微笑んだ。嬉しいような切ないような、なんとも言えない感情がないまぜになったような笑みだった。
「俺は……俺の作った曲と真剣に向き合ってくれる瑪瑙が好きだ。楽しくて仕方がないって顔で歌ってくれるのも、バンドのこと何より大事に思ってくれてるのも、すごく嬉しいんだ。だから、迷惑だなんて思わないでくれ。どんなことがあっても、うちのボーカルは神崎瑪瑙、お前なんだよ」
俺の頭を撫でてくれる篠宮さんの手は、やっぱり大きくてあたたかくて……とても優しかった。
俺、まだまだダメなとこいっぱいだけど、でもやっぱりこのバンドで歌いたい。ワンマンライブも成功させたい。篠宮さんや、クリス先輩や、蛍の演奏も、もっとたくさんの人に聴いてほしい。俺の歌を好きだって言ってくれた人たちに、俺を救ってくれた皆に、俺の気持ちを最高の形で返したい。失敗するのはやっぱり怖いし、不安もあるけれど、それでも紛れもなくこれが俺の本音だった。
「瑪瑙は真面目だからなぁ、一人で悩みすぎちゃうところがあるよな。バンドメンバーなんて、迷惑かけてなんぼだろ?」
「ご、ごめんなさ……」
「こーら、謝らない」
「あ……え、えっと……」
篠宮さんにこつんと頭を小突かれて、今日は「ごめんなさい」とか「すみません」ばかり言っていた口をつぐむ。
俺を元気づけてくれる彼にどんな言葉を返すべきかと少しだけ考えを巡らせたのち、俺はおずおずと顔を上げた。
「ありがとう、ございます」
涙で濡れたままの情けない顔だったけど、それでも精一杯の笑顔で言った。
そんな俺を見た篠宮さんは一瞬息を呑んで、それからぎゅっと俺の身体を抱きしめる。急に抱きしめられたのでびっくりしてしまったけど、篠宮さんはそれ以上は何もしなかった。
しかし、彼の次の言葉に俺は耳を疑うことになる。
「困ったなぁ。諦めなきゃいけないのに、難しくなっちゃうな」
「諦める……?」
諦めるって、何を? もしかして俺のことを?
どうして?
「皆の前ではあんなこと言ったけど……本当は、最初から脈なんてないってわかってたから。俺はクリスや蛍ほどお前との付き合いも長くないし、同じ大学にいる二人と違って、今まではバンド以外で一緒に過ごす機会もなかった。それに瑪瑙、最初の頃は俺のことちょっと苦手だっただろ?」
……篠宮さん、気付いていたんだ。
彼の言うことを否定できなかった。確かに俺は、知り合って間もない頃は篠宮さんがなんだか怖い人に見えて、少し苦手だったから。当時の俺は篠宮さんとは面と向かって喋ることすら満足にできなくて、クリス先輩によく通訳してもらっていたっけ……。
篠宮さんは見た目もそうだけど、普段の立ち振る舞いからもなんとなくカリスマ性を感じるというか、独特のオーラがある。演奏技術だって実力派揃いのメンバーの中でもずば抜けて高いし、作る曲はどれも良い曲ばかりだ。
音楽の才能に溢れた、まるで音楽をするために生まれてきたような人。そんな人がまさか俺みたいな、内気で人見知りで、ステージの経験も殆どないようなちんちくりんを自分のバンドに招き入れてくれるだなんて、一体何を考えているのだろう……と、彼の真意がわからず加入当初は随分と困惑したものだ。
「……だから、俺だけは絶対ないなって思ってた。デートの順番を最後にしたのだって、振られるまでの時間をちょっとでも長くしたかったからだし……。瑪瑙だって、付き合いが短い上にデートの約束ひとつ守れない俺よりも、クリスや蛍の方が好きだろ?」
「え」
「普段は休日出勤なんて滅多にないんだ。なのに今日に限ってだし、デートドタキャンしたり、痴漢からすぐに助けてやれなかったり……最低だろ。……でもほんとは、俺も二人みたいに瑪瑙とデートしたかった。一回だけでいい、瑪瑙のこと一日中独り占めしてみたかった」
いつも前向きで自信満々で、実際に実力も伴っている篠宮さんが、こんな風に弱気なことを言うのは初めてで、俺は目を見張ってしまった。
篠宮さんも、自分に自信がなくて不安に思っていたりとか、したんだ。彼が他の二人と比べて劣っているだとか、俺から好かれていないだとか、そんなことはあり得ないのに……。
「瑪瑙だって、今日俺と一緒にいてろくなことなかったよな。嫌な思いばかりさせて、本当にごめん……。抱きしめるのも、二人きりになるのも、今日で最後にするから……あともう少しだけ」
篠宮さんはそう言って俺を抱きしめる腕に力を込める。
俺はそれに抵抗しないまま、彼の服をぎゅっと握って言った。
「最後じゃ、駄目です」
「え?」
「俺にとってメンバーの皆は、優劣なんてない、三人とも同じくらい大事な存在なんです。篠宮さんのことは……確かに最初は少し怖かったけど、今はそんなことない。尊敬してるし、大好きです」
「っ……!」
「だから……篠宮さんのことも、もっと知りたい。デートだって、してみたい。皆のこともっと知って、俺もちゃんと自分の気持ちに答えを出したいから」
そりゃあいっぺんに三人から告白されて最初は困惑したし、一度は断ってしまったけれど……今では俺なりに、彼らの好意に真剣に向き合いたいと思っているんだ。
だから、篠宮さんの気持ちだけ置いてきぼりになんかしたくない。俺、我儘だろうか……?
顔を上げて篠宮さんを見ると、彼は俺の言葉に逡巡している様子だった。しかしそれも長くは続かず、彼は余裕なさげに少し掠れた声で俺に言う。
「そんなこと言われたら、本気で諦められなくなる……」
篠宮さんの熱のこもった目が近付いてくる。さすがイケメン、目まで綺麗なんだなぁと思いながらぼんやりとそれに見惚れていると、ちゅっと音がして唇同士が触れ合った。俺はそれに対して抵抗せず、数秒ほどそのままでいたら彼の唇は何事もなかったかのようにそっと離れていったけれど、口元には柔らかい感触がしばらく残っていた。
キスが終わってから改めて篠宮さんの顔を見る。篠宮さんの顔は、キスをする前よりも心なしか赤くなっている気がした。
「もう一個だけ我儘言っていい? 名前で呼んでほしい」
「えっ……」
突然のお願いに俺が戸惑っていると、クリスや蛍のことは名前で呼ぶじゃないか、と篠宮さんは少し拗ねたような顔で言った。
篠宮さんって俺よりもずっと大人の人って雰囲気があるから……いや、実際は4つしか年齢は変わらないんだけど……。それ以外には特に深い理由があるわけではないけれど、出会った当初は俺が彼に対して人見知りしていたのもあって、なんとなく名字で呼んでいた。今まではそれについて篠宮さん本人から何か言われることもなかったので、まさか気にしていただなんて夢にも思わなかった。
もしかして、ずっと俺に名前で呼んでほしかった……のかな。でも、俺なんかが呼んでもいいのかな。
「……透輝、さん?」
俺が躊躇いつつも下の名前で呼ぶと、彼はなぜか「ぐっ!」と呻いてから口元を手のひらで覆った。だけど、長く筋ばった指の隙間から見える表情は笑みを隠しきれていない。
篠宮さん……じゃない、透輝さんのこんな姿を見るのは初めてかもしれない。意外だったけど、そんな彼もまた魅力的だ。
次のデートでは、もっと色んな透輝さんの顔が見られたらいいなと思う。
✦✦✦
「それじゃあ、結局デートはできなかったんだ?」
「は、はい。社会人って色々大変そうですね……」
二日後。
いつも通りに大学に授業を受けに来ていた俺。午前の講義が終わってお昼ご飯を食べようとしたところで偶然(たぶんきっと偶然)クリス先輩と会ったので、そのまま学食でお昼を一緒することになった。
食事をしながらの雑談の中で「透輝さんとのデートどうだった?」と聞かれたので、急な仕事が入って中止になってしまった、と伝えたわけだ。他の人とのデートの内容を事細かに説明するのはさすがに良くないかなと思うけど、このくらいなら大丈夫だよな……?
「それは、透輝さん落ち込んだだろうなぁ」
「あ、でも夜にちょっと会って、ご飯だけ……」
本当は、ちょっとでもご飯だけでもなかった。実はあのあと、そのまま透輝さんの家に泊めてもらったのだ。
俺は申し訳ないからと何度も断ったんだけど、透輝さんが「明日は午後出勤でいいって言われてるから」なんて言って引き留めてきて、押し切られた俺は結局ご飯までご馳走になってしまって。ほんと俺、流されやすいというか、バンドメンバーには特に弱いっていうか……。
泊めてもらったことはなんとなくクリス先輩には言わなかったけど、よくよく思い返してみると俺、クリス先輩の家にも既にお邪魔していたんだった。いくらなんでも、短期間で人の家に上がり込みすぎじゃあ……。
なにはともあれ、透輝さんは「また三週間後に」って次のデートもちゃんと約束してくれたし、ワンマンライブの計画なんかもたくさん話すことができて、結果的にはとても楽しい時間になったのだった。
「そうそう。俺知らなかったんですけど、透輝さんってすごく料理上手なんですよ!」
俺は彼の意外な特技をクリス先輩にも教えてみる。クリス先輩は俺よりも透輝さんと付き合いが長いから、既に知っていたかもしれないけど。
透輝さんは冷蔵庫のありあわせだけでお店で出てきそうな手の込んだ料理を作ってくれて、しかも味もめちゃめちゃ美味しかった。楽器だけじゃなく何でも器用にこなせるだなんて本当に凄いなぁ……と食べながら感嘆したものだ。
「……『透輝さん』?」
しかしクリス先輩は俺の話の内容よりも、もっと別の部分が気になったようだった。
「へぇ、ご飯だけでそんなに仲良くなったんだ?」
「え、えっと、これはその……。透輝さ、あ、篠宮さんからそう呼んでほしいって言われて……」
クリス先輩、顔は笑っているのになんだか纏うオーラが重たい……。
クリス先輩も透輝さんのことは名前で呼んでいるものだから、話の流れでついスルッと口から出てしまったけれど、そういえば誰かがいる前でこの呼び方をしたのは初めてだった。改めて指摘されるとなんだか恥ずかしいな……。
俺があたふたしていると、クリス先輩はにっこりとまるで王子様のような笑顔をこちらに向けた。
「そうだよね。ワンマンも決まったことだし、もっとメンバー同士打ち解けたっていいよなぁ。ね? 『瑪瑙』?」
「は、ひゃい……」
クリス先輩にやたら下の名前を強調しながらそう言われて、俺は裏返った声で返事をしたのだった……。
end.
新曲お披露目ライブも終わって、その次のバンド練習日。
俺はスタジオで素っ頓狂な声を上げていた。
ええと、どうもこんにちは。インディーズロックバンド『DIAMOND』ボーカル担当の神崎瑪瑙 です。
初っ端から大きな声を出してすみません。だって、リーダー兼ベーシストの篠宮透輝さんから告知された内容が、あまりにもビッグニュースだったものだから。
「ああ。前回のワンマンからもう一年くらいは経つし、そろそろまた企画してみようと思ってな」
俺の反応を面白そうに眺めながら、篠宮さんは皆に向かって言った。
ワンマンライブ。ひとつのバンドがライブハウスをまるごと貸し切って、単独でライブを行うことだ。
普段のライブは基本的に対バン形式だから、俺たちのバンド以外にもいくつか他のバンドも出演していて、そのためひとつのバンドに設けられる演奏時間は2、30分程度である。30分だとだいたい5曲くらい演奏して終わりになることが多いけど、ワンマンの場合はたっぷり二時間ほど時間を与えられるので、20曲くらいは披露することができるだろう。普段のライブとは規模も段違いだし、ワンマンライブを成功させることはアマチュアにとっては大きな目標であり、実績にもなるのだ。
「ということは、今のメンバーでは初のワンマンになりますね」
「そっか、蛍はワンマン初めてかぁ。楽しみだな」
篠宮さんからの告知を聞いて、ドラム担当の早乙女蛍とギター担当の玻璃間クリス先輩も前向きな意見を述べている。
前回のワンマンは、確か俺がバンドに加入してすぐのタイミングだった。あの頃はステージに立って歌うことに慣れていなくて、バンドメンバーともまだそれほど打ち解けられていなかったから、すごく大変だったけど……。それでも、篠宮さんやクリス先輩のサポートのお陰で無事にライブを成功させることができて、本当に嬉しかったしすごく気持ちがよかった。あの時の体験があったからこそ、俺は今でもこうしてバンドで歌い続けることができているのだと思う。
「今回のワンマンは前回よりも規模を大きくするつもりだ。とはいえ、先日のライブでの集客や物販の売上も上々だったし、決して無理のない目標ではあると思う。もちろんメンバー全員の意見を聞いた上で確定したいんだが……」
そう言って篠宮さんは俺たちにワンマンの詳細を書き出したメモ書きを見せてくれた。
いつ、どのライブハウスでやるのか。チケットの値段はいくらにするか。集客ノルマはどのくらいか。物販では何を売るのか。できれば当日までに新しく準備しておきたいものは。
篠宮さん、凄いなぁ。俺がバンド練習で必死になっている間に、ライブハウスの人とやりとりして、ここまで話を進めておいてくれていたんだ。
篠宮さんはいつもライブの時はお酒を飲んで酔っ払っているだけに見えるけど、実はこうして裏で企画の話を立ち上げてくれていたりするし、集客やファンサービスにも余念がないし、何よりその演奏技術はメンバー随一だ。何でもスマートにこなせてカッコいいなぁって、平凡な俺が憧れてしまうのも無理はないだろう。
結論から言うと、篠宮さんの計画や見通しは完璧だった。そこから皆で話し合って、具体的にどんなことをするか考えていく。まだ企画段階だから未定な部分も多いけれど、こうして計画を話しているだけでもわくわくしてきて、俺は早くも高揚感でいっぱいになっていた。
「このメンバーでワンマンできるなんて、夢みたいです……! 絶対、絶対成功させましょう!」
俺が感極まってそう言うと、メンバーは皆微笑みながら頷きを返してくれた。
ワンマンライブの日付は、約半年後。それまでにフライヤーを作って告知をして集客して、新曲も作って、セトリを組んで……やることは山積みだ。これから準備で忙しくなると思うけど、それでもライブのことを考えるだけで胸が高鳴ってくる。
俺はボーカルとしてまだまだで、経験も技術も足りないと思っている。だけど、このワンマンは絶対に成功させたい。半年後のライブでは、俺がDIAMONDのボーカルだって皆に認めてもらえるように。メンバーのために、ファンのために……そして、俺自身のためにも全力で頑張らないと!
俺はぐっと拳を握りしめ、ひとり決意を固めたのだった。
その日はそのままワンマンライブの打ち合わせをして、少し練習をしたあとに解散となった。
そんなわけで、流れに身を任せて俺も帰ろうとしたのだが、その前に篠宮さんに呼び止められる。
「瑪瑙、そういえば忘れてないか?」
「えっ、何をですか?」
篠宮さんの言うことにまったく心当たりがなくて、俺は首を傾げた。
ワンマンの打ち合わせはちゃんとしたと思っていたけど、何か抜けがあっただろうか。それとも、先日のライブの時の俺の歌にどこか悪い部分が……? 俺としては満足のいくライブだったと感じたけど、自分の歌が完璧だとは露ほども思わないので何か言われるかもしれないと緊張してしまう。
しかしそんな俺をよそに、篠宮さんはくすりと笑って俺に囁いた。
「日曜のデート。やっと俺の番だな」
「あっ」
「まさか本当に忘れてたわけじゃないよな? 俺はずっと楽しみにしてたんだぞ~」
「ち、違います! 覚えてますっ! その、ライブの話かと思って……」
そうだった。今の俺はバンドメンバー三人と『お試しの恋人期間中』だったんだ。決して忘れていたわけじゃないけど、今日はワンマンライブのことで頭がいっぱいだったから、つい思考から抜けてしまっていた。
とりあえず今は週末限定、一人ずつ交代でデートをすることになっている。先々週はクリス先輩と、先週は蛍とそれぞれ初デートをして、今週は篠宮さんの番だった。
思えば、三人から告白されて約三週間。ライブやら何やらであっという間だった気もするけど、篠宮さんは三人で取り決めたらしい“順番”が一番後だったこともあって、俺の中では意識する時間が減っていたように思う。俺に対する篠宮さんの態度も、特に変わらずいつも通りだったし……いや、俺としてはむしろそっちの方がありがたいけど!
「ん、だったらよかった。また後で連絡するから、週末開けておいてな」
「は、はい」
篠宮さんは俺の耳元でそう言うと、「それじゃあまたな」と何事もなかったかのように去っていった。対して俺はというと、篠宮さんの低い声にドキドキして少しの間動けなかったのだけど。
篠宮さんとデート、かぁ……。他の二人の時もそうだったけど、篠宮さんは特に、なんか全然想像つかないな。
クリス先輩や蛍は大学でもよく顔を合わせるし、今までだってたまに一緒にご飯を食べに行ったりなどはしていた。だけど、篠宮さんとはバンドを通して知り合ったのでそういうのはない。二人きりで出かけたこともないし、どこか行くにしても大概他のバンドメンバーも一緒だったし、そもそも彼が普段どんな生活をしているのかすら俺は知らなくて……。よくよく考えてみると、今までバンド以外のプライベートな篠宮さんを見る機会というのは、他の二人に比べて格段に少なかった。
それに篠宮さんはメンバー最年長で、バンドマスターで、社会人。器用で人当たりもよくてカリスマ性も抜群で、その上すごくかっこいいし、なんだか俺よりもずっとずっと大人って感じ。きっと半端じゃないほどモテるはずなのに、なんで俺なんかを好きだと言って、俺とのデートをあんなに楽しみにしてくれるのだろうか。
デート、どこに行くのかな。篠宮さんの好きな場所ってどこだろう。休みの日はいつも何をしているんだろう。知らないことばっかりだ。
篠宮さんのこと、もっと知りたい。今はこうしてお試しの関係ではあるけれど、いずれ俺はバンドメンバーの中から誰か一人を選ばなくてはいけない。だから、皆のことをちゃんと知って、俺を好きだと言ってくれる彼らの気持ちを無下にすることがないよう、俺なりにちゃんと向き合いたいと思っている。
——なんてことを考えながらぼんやり歩いていたら、危うく帰りの路線を間違えそうになった。
ほんと俺、抜けてるな……。
✦✦✦
そして、日曜日。
今日はついに、篠宮さんとのデートの日だ。
一昨日くらいに篠宮さんからデートについては連絡がきていたので、俺は起きて身支度をしたらすぐに向かうつもりでいたんだけど……。
それよりも前に、スマホのメッセージアプリの通知音で起こされた。
「んん……?」
スマホのディスプレイを見ると、現在時刻は朝の7時半。
篠宮さんとのデートは昼過ぎからだから、せっかくの休日だし欲を言えばもう少しだけ寝ていたかったのだけど……。二度寝する前に通知の内容だけ確認してしまおうと、俺は緩慢に指を動かしてメッセージアプリを開いた。
メッセージは篠宮さんからだった。
『朝早くにごめん。急な仕事が入って、出勤しなきゃいけなくなった。本当に申し訳ないけど、今日のデートは中止にしてほしい』
その文面のあとに、涙を流してめそめそと泣いている某ゆるキャラアニメのスタンプ。
そっか。篠宮さん、仕事入っちゃったんだ……。
社会人ならそういうこともあるよな、仕方ない。篠宮さんに了承のメッセージを返しつつも、デートが中止になってしまったことに対してどこか残念に思っている自分がいた。
一応誤解のないように言っておくと、篠宮さんは普段から人との約束をドタキャンするような人ではない。だから、直前になって俺とのデートが嫌になった……わけではないと、思いたい。確かに俺は平凡でつまらない人間だけど、篠宮さんはそんな俺に対しても不誠実な対応をしたことなど今まで一度もなかったのだから。
篠宮さんに連絡を返したあと、しばらくしてから俺は暇になってしまった日曜日の時間を浪費するべく、目的もないまま外に出た。今日はデートの予定だったからバイトも入れていないし、家の中にいてもあまりすることがなくて、どうにも落ち着かなくて。
適当にぶらぶらと駅前を散歩してから、やっぱり行くところがなくて俺は近くのファストフード店に入った。もうお昼時だ。俺は一人で席に座ってポテトをつまみながら、取り留めもなく考えごとをしていた。もちろん篠宮さんのこと。
今日のデートが中止になったということは、篠宮さんとの初デートはまた三週間後までお預けということになる。デートを楽しみにしていた先日の篠宮さんの様子を思い出すと、なんだか可哀想に感じてしまった。クリス先輩と蛍に先の順番を譲った上に、それでもずっと楽しみにしていてくれたのに……。俺の自惚れかもしれないし、急な仕事ではどうしようもないけれど、自然と「俺にも何かできることはないだろうか?」と考えていた。
俺はおもむろにスマホを取り出すと、メッセージアプリに文章を打ち込んだ。
『お仕事、何時ごろに終わりますか?』
仕事中に申し訳ないと思いつつ、メッセージを送ってみる。
すると意外にもすぐに既読がついて、返信がきた。
『たぶん、19時くらいには』
19時。夕方くらいには終わるのかなと思っていたら、わりと遅い時間だった。
ええと、19時に仕事が終わったとして、それから家に帰ってご飯を食べてお風呂に入って……うーん、全然時間がなくて大変そうだ。せっかくの日曜日なのに、ろくに休む時間もなくて大丈夫かな……。そう思うのと同時に、俺の頭の中にある考えが浮かんだ。
迷惑かもしれない。仕事で疲れているところにこんなことを言って、困らせてしまうかもしれない。でも……デートはできないけど、一日頑張った篠宮さんを、“恋人”としてちょっとだけでも労いたいと思った。
少し震える指でスマホの画面をタップし、文字を打つ。なかなかうまい言い方が思いつかず、何度も文章を消して打ち直したのち、俺は勇気を出して送信ボタンを押した。
『会社か、家の最寄り駅ってどこですか? もしよかったら、お仕事の後にご飯とか一緒しませんか?』
ちょっとだけでも会えたら。本当に、邪魔にならない程度に。少し顔を見せるだけでも。もし篠宮さんが許してくれるなら、そのままどこかでご飯をご馳走したりとか……。俺にはそのくらいしかできないけど、デートを抜きにしたっていつも篠宮さんにはお世話になっているし、こういう時くらいは俺にできることをしたい。
ただのエゴかもしれないというのはわかっている。だから、疲れていてそんな余裕がないのであれば、断ってくれて構わない。
お誘いのメッセージを送信したものの、俺はすぐに何と返ってくるか不安になった。やっぱり送信取り消ししようか……あれ、でもこのアプリ、一度送ったら消せない仕様だったっけ。ていうか、そんなこと考えているうちに既読マークついちゃってるし……。あっ、しかも返事きた!
『それは、俺に会いにきてくれるってこと?』
「疲れてるだろうし、迷惑だったら……」
全然いいです、と打とうとしたところで、それよりも早く篠宮さんから追加のメッセージが送られてくる。
『すっげー嬉しい!! できるだけ早く終わらせて、すぐ迎えに行く!』
それから、万歳しながら喜ぶ某ゆるキャラのスタンプ。いつも大人っぽくてかっこいい篠宮さんにそぐわないテンション高めの反応に、思わずくすりと笑みが溢れてしまった。
『ありがとうございます。それと、お仕事の邪魔してすみませんでした』
『ちょうど休憩中だったから大丈夫。こっちこそありがとう。会えるの楽しみにしてる』
最後に職場の最寄り駅だという駅名を教えてもらって、篠宮さんとのやりとりは終わった。
そんなわけで、改めて今夜に篠宮さんとの約束ができた。クリス先輩や蛍みたいに、一日使ってのんびりとデートして……っていうのは流石に難しくなってしまったけど、これで少しでも埋め合わせができたら嬉しいな。
篠宮さんに話したいことはいっぱいある。ワンマンライブのこととか、今作っている曲の話。クリス先輩が編集してSNSに上げてくれた、先日のライブ映像の話なんかも。……ってこれじゃあいつものバンド練習の時と同じになってしまうな。とはいえ、恋人同士の甘いやりとりなんて恋愛経験が全然ない俺には難易度が高すぎる。クリス先輩や蛍とデートした時は、二人にリードしてもらってばかりだったし……。
まあ、なるようになるだろう。
先に他の二人とデートをした後だったこともあって、俺もなんだかんだで少し慣れてきたというか、肝が据わってきたのかもしれない。今回は初めて俺から声をかけたので緊張はするけれど、今までどおり変に意識せず平常心を保っていれば相手に変に気を遣わせるようなこともないだろう。多分。
そんなふうに考えて、正直楽観していたと思う。先週までのように一日デートするわけでもなく、仕事の後にちょこっと会ってご飯を食べるだけなのだから、特に何も起こらないだろうと高を括っていた感は否めない。
それがまさか、あんなことになるだなんて——
✦✦✦
その日の夜。
篠宮さんの職場の最寄り駅。俺はその出入り口付近に立ち、スマホの時計がちょうど19時を回ったのを確認していた。
都営地下鉄の、俺が普段あまり利用しない路線にある駅の周辺は、ビルが立ち並ぶオフィス街になっていた。当然、道を行き交うのは高そうなスーツをビシッと着こなしているサラリーマンや身綺麗なOLさんばかりで、ごくごく平凡な大学生である俺はこの場ではちょっと浮いてしまっている気がする。
「瑪瑙!」
「あ、篠宮さ……」
少しすると聞き慣れた声で呼びかけられて、俺はすぐに顔を上げる。篠宮さん、とこちらも声をかけようとしたが、その言葉はすぐに喉の奥で詰まってしまった。
篠宮さんの両脇には、女の人がいたのだ。
右隣と左隣にそれぞれ一人ずつ。年齢は二十代から三十代くらいだろうか、オフィスカジュアルといった雰囲気の服装と、指先には綺麗なネイル。化粧は少し濃かったけれど、それでも二人ともすごく美人だった。篠宮さんと一緒にいるってことは、たぶん同じ職場の人なのかな?
そんな綺麗な女性に囲まれていても篠宮さんはまったく見劣りせず、むしろ釣り合っていてお似合いだった。そんな彼の姿を見ていると俺は余計に何も言えなくなってしまい、足がすくんでしまう。
……そっか。そうだよな。俺、別に「二人きりで」なんて言わなかったし。
デートじゃない。ただちょっとだけ会えたら、それで晩ご飯とか一緒できたらな……って思っていただけだ。篠宮さんは喜んでくれていたけど、普通に考えたら俺みたいなつまらない奴より会社の同僚と一緒にいたほうが断然楽しいだろう。ていうか、俺なんかがいたらせっかくの美味しいご飯も不味くなってしまう……。
重度の女性恐怖症、特に知らない相手に対してはろくに会話もままならないほど苦手意識がある俺は、女性が一緒にいると本当に何もできなくなってしまうのだ。きっとご飯もろくに喉を通らないだろう。
このままだと絶対に篠宮さんに気を遣わせる結果になる。俺から誘った上に、せっかく約束して来てもらったところ申し訳ないけれど、俺、帰ったほうがよさそう……。
「瑪瑙、来てくれてありがとう。待たせて悪かった」
「篠宮さん……あの、俺、やっぱり……」
やっぱり帰ります。
そう口に出そうとした俺の肩をぐっと抱き寄せて、篠宮さんは女性二人に向かって言った。
「ってことで俺、これからこの子とデートなんで」
いきなり抱き寄せられて吃驚したけど、篠宮さんの言葉にもっと驚いた。
俺があまり状況を理解できないでいると、篠宮さんは唖然としている女性たちを置き去りにして、俺の腕を引いてさっさと改札に入っていってしまう。俺は慌ててポケットからICカードを取り出して、彼に遅れないようにと必死でついて行った。
篠宮さんはそのまま駅構内をスタスタと歩き続け、人の多いホームまで来てからようやく立ち止まってくれた。
俺は少し乱れてしまった呼吸を整えながら、おそるおそる彼の顔を見る。スタイル抜群で脚も長い篠宮さんと平凡な俺とでは歩幅があまりにも違いすぎるので、早足で歩く篠宮さんについて行くだけで俺は息切れする始末だった。
「し、篠宮さん……さっきの人たち、置いて来ちゃって大丈夫だったんですか?」
俺が呼吸を整えながらそう尋ねると、篠宮さんは困ったように苦笑しながら答えてくれた。
「ごめんな。先約があるって言ってるのに、飲みに行こうってしつこくて……そのまま駅まで着いて来ちゃって。二人とも、普段は悪い人じゃないんだけどなあ……」
それから「巻き込んでごめん」とまた謝罪した。
そういう事情があったのか。俺はてっきり、篠宮さんが連れて来たのだとばかり……。勝手にそんな風に思ってしまって申し訳なくなったけど、俺に謝る篠宮さんはもっと申し訳なさそうな表情をしていた。
「気にしないでください……。すみません、俺がご飯一緒したいなんて言ったから」
「何で謝るんだ? 瑪瑙との約束を優先するのは当たり前だろ」
「で、でも……俺とご飯行くよりも、会社の人たちと飲みに行ったほうが楽しかったんじゃ……」
しかも、去り際の篠宮さんの一言。俺みたいなのとデートだなんて絶対冗談だと思われているとは思うけど、もしかしたらそのせいで篠宮さんの職場での立場に何らか影響が出てしまうかもしれない。俺は学生だからまだよくわからないけど、社会人って上下関係とか、人間関係とか、きっと大事だと思う。それなのに……。
篠宮さんは俺が女性恐怖症であることも知っているから、それに対しても少なからず気を遣ってくれたのだろう。ちょっと会うだけなら大丈夫、って思っていたのに、さっそく迷惑をかけてしまった……。
申し訳なさでそれ以上言葉を続けることができずに俯いてしまった俺を見て、篠宮さんがどんな顔をしていたのかはわからない。でも、その直後に彼から発せられた声音は、とても優しかった。
「何言ってるんだ。職場の同僚よりも、好きな子と一緒にいるほうがずっと楽しいに決まってるだろ?」
篠宮さんはそう言って俺の頭をぽんぽんと撫でてくれる。あったかくて大きな手に、不思議と心が軽くなった気がした。
そして、気持ちが落ち着くと同時に先程の彼の言葉が脳内でリフレインする。
『好きな子』。
ぶわりと顔が熱くなった。
わかってはいたけど、そっか……俺のこと、好きなんだよな。篠宮さんも……。
いまだになんで俺なんかをって思っているから、こうして改めて口に出して言われるとドキドキしてしまう。誰かに好きだって言われることなど今までは一度もなかったのに、いきなりとんでもない美形、しかも三人から一気に告白されるだなんて嘘みたいだった。モテ期なんてレベルじゃない、奇跡でも起きない限り、そんなことは有り得ないと思っていて。だけど何度自分の頬をつねってみても、これはやっぱり現実なわけで……。
「俺、デートのつもりで来たから。瑪瑙は違う?」
「……ちがわない、です」
篠宮さんからの問いに、俺は今度は照れ臭さで俯いたまま答えた。
そう、今日は本当だったらデートの約束だった。でもそれができなくなってしまったから、こうして夜に時間を作ってもらって会っているわけで……。多分これもデート、って言っていいんだよな?
「電車来た。乗ろうか」
篠宮さんはそう言って俺の腕を引いた。俺はまだ幾分か頬を赤く染めたまま、彼について行く。
電車に乗り込むと、ちょうど帰宅ラッシュの時間帯なこともあり車内はかなり混み合っていた。当然座席に座ることはできず、篠宮さんと一緒に僅かな隙間に身を収めて、なんとか座席横の仕切り棒を掴む。
「いつもの癖で帰りの路線乗っちゃったけど……日曜なのに混んでるな。瑪瑙、大丈夫か?」
「は、はい……平気です」
満員電車でスペースに余裕がないので、身体が密着せざるを得ない。それでも篠宮さんは自分の身体でガードするようにしてさりげなく俺を人混みから守ってくれている。ここでもまた彼の気遣いを感じて、俺は心から感謝した。
篠宮さんは慣れているのか吊り革を掴んで平然としているように見えるけど、平気と言いつつも俺は正直息も絶え絶えだった。彼は毎日こんな思いをしながら通勤しているのだろうか。大変すぎる……。
電車が走り出して少しすると、狭いながらもやっと場所が安定してきた。俺は周囲の迷惑にならないよう小声で篠宮さんに話しかける。
「えっと、どこで降りるんですか?」
「そうだな、とりあえず俺んちの最寄りまで行くか。なんなら泊まっていってもいいぞ?」
「そ、そこまでは……。急にそんな、迷惑になりますし」
「迷惑じゃないし、むしろ嬉しいけどなぁ俺は」
遠慮する俺に、篠宮さんはそう言って笑った。ただ笑うだけでも並みの女性なら一目惚れしてしまうんじゃないかってくらいかっこよくて、つくづく本当に顔立ちが整っているなぁと感じる。
電車に揺られながら、俺は車内に掲示してある路線図を見た。篠宮さんの家の最寄りだという駅まではあと4駅ほど。この路線は一駅の間隔もそれほど長くはないから、きっと10分もしないうちに到着するだろう。
「そういえば飯どこ行く? 瑪瑙は何が食べたい?」
「えっ……俺じゃなくて、篠宮さんが食べたいもので……」
俺がそう言いかけた瞬間、電車のドアが開いてどっと大勢の人が乗り込んできた。いつの間にか次の駅に着いていたらしい。
停車したのが比較的大きな駅だったこともあり、人の乗り降りが激しい上に、降りていった以上の人が代わりのように乗り込んでくる。押し寄せる人の波に逆らえず、俺は車内の奥の方まで流されてしまった。
(どうしよう、篠宮さんとはぐれちゃった……)
スマホを取り出してメッセージを送りたいが、人が多すぎてポケットに手を運ぶことすら憚られた。辺りを見てみても、人に阻まれて篠宮さんがどこにいるのかがわからない。少なくとも近くにはいないようだった。
こうなっては仕方がない。降りる駅はちゃんとわかっているし、到着してから合流すれば大丈夫だろう。この調子じゃ、仮に見つけたとしてもそこまで移動できそうにないし……。
俺はそう思い直し、篠宮さんを探し当てるのを一旦諦めることにした。
少しの間だし、大丈夫だろう。俺は路線図を念入りに確認しながら、うっかり降りる駅を逃さないようにと気を張っていた。
その時だった。
すり……っ
「!」
俺の尻に何かが当たった。
何かっていうか、たぶん、人の手。誰かの鞄なんかが当たった感じではない。温かいものが、俺の下半身を撫でていく感触がする。
一回ならたまたま当たってしまったのかなと気にも留めなかったけれど、その手はすりすりと明確な意思を持って何度も俺の尻を撫で回している。
——これ、もしかして痴漢?
いやいや、俺は男なのに。ありえない。
俺は女性と間違えられるほど可愛らしい外見をしているわけでもないし、相手も硬い尻の感触で今触れているのが男であることは当然わかるはずだ。それなのに、その手は一向に止まってくれない。
俺はちらりと目線だけを動かして背後の気配を探った。俺の後ろにいたのはサラリーマン風のスーツを着た、俺と同じくらいの背丈の男性だったと思うけど、怖くてもう振り返ることができない。そもそも、なんで可愛くもなんともない俺なんかに触っているんだ!?
頭が混乱している。痴漢なんて勿論されたことがないから、どうすればいいかわからない。すぐに触るのをやめてほしいけど、今何か言ったらきっと周りから注目されてしまう……。平凡男のくせに痴漢されるだなんてとてもじゃないけど恥ずかしくて、俺は声を上げることができなかった。
耐えろ。我慢しろ、俺。あとほんの数分で目的地に着く。そうしたら、すぐに電車を降りればきっと相手は追ってこない。俺は知らない人に尻を触られる感覚をなんとか殺そうと、ぐっと唇を噛み締めた。
「っ……」
しかし俺が無反応であることに気を良くしたのか、最初はゆるく撫でるだけだったその手の動きがだんだんと大胆になってくる。
尻の割れ目をなぞったり、それにも飽きるとついに力を込めて揉んできた。びっくりして思わず声が出そうになるが、周囲に大勢の人間がいることが頭をよぎりなんとか耐えた。
怖い。気持ち悪い。女の人に触るのはずっと怖かったけど、同じ男の人でも知らない人に無遠慮に触られるのはとても怖いことなのだと知った。
終わらない責め苦にだんだんと涙目になってくる。路線図を見ると、目的地まではまだ2駅もある。先程まではすぐに着くだろうと思っていた距離が、今はとても長く感じられた。
そうしている間にも、尻をいたぶっていたその手は徐々に前へと移動してきて、そしてジーンズの上から俺の股間をつうと撫で上げた。
「ひ、……!」
小さく声が出てしまい、すぐに両手で口を塞いだ。
嫌だ。嫌だ……そこだけは触らないでくれ。そんな俺の願いもむなしく、何度も何度もそこをすりすりと摩擦された。
急所に触れられている恐怖感と、不快感。そして……こんな状況でも拾ってしまう、ほんの僅かな快感。俺のそこは極度の緊張と気持ち悪さからかいまだ萎えたままだったが、そんなに何度も擦られたら、いよいよ勃ってしまう……。
耳元ではぁはぁと熱い息づかいが聞こえる。怖くて動けない。仮に動けたとしてもこの満員電車の中、ろくな逃げ場などなかった。
電車が駅に停車する。その時、俺の腕を掴んだ人がいた。
「瑪瑙!」
ぐいっと強い力で身体を引かれて、ホームに連れ出される。知らない人だったら怖かったけど、俺を呼んだ声とその手の感触から、すぐに篠宮さんだとわかった。
まだ目的の駅じゃないのに、降りていいのかな……そう思いつつも、俺はふらふらとおぼつかない足どりで篠宮さんについて行く。人の乗り降りが終わって電車が発車すると、ホームは一気に人が減って閑散とした雰囲気になった。
彼はホームに設置されていたベンチに俺を座らせると、心配そうにこちらの顔を覗き込む。
「大丈夫か? 遠目で見つけたとき、様子がおかしかったから」
「だ、だい……だいじょぶ、です」
「無理しなくていい。かなり混んでたからな。体調が悪いようなら、駅員に言って少し休ませてもらおう」
そう言って駅員に声をかけに行こうとする篠宮さんの腕を、俺は反射的に掴んだ。
「いいです! 体調悪いとかじゃなくて……あの、ほんとに、大丈夫ですから」
「そんなフラフラで大丈夫なわけないだろ。それとも、何かあったのか……?」
「あ、えっと……」
痴漢に遭いました、なんて恥ずかしくて、相手が篠宮さんであっても言えない。
触ってきた人、たぶん男の人だった。もし女の人だったら、それこそ卒倒していたかもしれないけど……男の人でも、気持ち悪かった。見ず知らずの人に、公共の場で急に触られて、放っておいたらそれがだんだんエスカレートして。もしあのとき篠宮さんに電車を降ろされなかったら一体どうなっていたんだろう。想像しただけでぞっとした。
下に落としていた視線をちらりと篠宮さんに向ける。彼は本当に心配そうな顔で俺を見ていて、とても申し訳なく思った。
恥ずかしいけれど、篠宮さんに余計な心配はかけたくない。俺はその一心で、ぐっと喉に力を込めて言葉を絞り出した。
「あの、その……さっき、電車の中で……」
「うん」
「知らない男の人に、お尻とか、触られて……」
「……え?」
篠宮さんの表情がみるみるうちに曇っていく。
「なんですぐに言わなかったんだ」
「だって、男なのに痴漢されたなんて、恥ずかしくて……。周りに人いっぱいいたし、怖くて言えなくて」
「……」
「だから、大丈夫です……。心配かけてすみません」
体調が悪いわけじゃない。混乱のあまりちょっと身体が動かなくなってしまっただけだ。
男のくせに、痴漢されたくらいで足がすくんで歩けなくなる自分が情けなかった。俺みたいな平凡が同性に痴漢されたなんて、本来だったらただの笑い話で終わるはずなのに……。
俺が打ち明けると、篠宮さんは心底申し訳なさそうに眉を下げて謝罪してきた。
「すぐに気付いてやれなくてごめんな」
そんな顔をさせたかったわけではない……そもそも、なぜ篠宮さんが謝るのだろう。決して彼の責任ではないし、どちらかといえば声を出せずにされるがままになった俺がいけないのに。
俺はちょっとだけ笑ってから彼に言い返した。
「そんな、無理ですよ。あんなに人いっぱいいて、場所だって離れてたんですから」
「でも、怖かっただろ? 俺がはぐれないようにもっと気を付けていればよかった……。本当にごめん」
篠宮さんに落ち度など何もありはしないのに、彼の表情は一向に晴れず、何度も俺に謝る。
篠宮さんと一緒に楽しくご飯が食べたかっただけなのに、こんなことで気分を台無しにさせてしまって、俺が謝りたいくらいだった。ただでさえ篠宮さんは日曜なのに一日仕事をしてきて、今はとても疲れているはずなのに……。
俺はこれ以上彼を心配させまいと、できるだけ明るい笑顔を作ってベンチから立ち上がった。
「もう大丈夫です! 時間なくなっちゃうんで、そろそろ行きましょう」
そう言って元気に歩き出したが、まだ膝がガクガクしているのを自覚できていなかったようで、すぐに足がもつれて転びそうになってしまう。もう電車を降りてからは少し時間も経ったというのに、ほんと情けない……。
「こら、無理するなよ」
ふらついた俺の身体を篠宮さんは慌てたように支えてから……そのまま背中と膝の裏に腕を回して、抱き上げた。
「へっ!?」
いきなり身体が宙に浮いたので、つい驚きの声を上げてしまう。
篠宮さんは俺を横抱きにしたまま、周囲の視線をものともせずにホームを歩いていく。俺はというと、恥ずかしい以前に今自分が置かれている状況が理解できなくて、固まってしまっていた。
篠宮さん、あの。これって、これって……もしかしなくても、いわゆるお姫様抱っこ、ってやつなんじゃ……!?
「篠宮さん! いいです、いいですから……! 俺、自分で歩きます!!」
「そんなこと言って、転んで怪我でもしたらどうするんだ? こういう時は素直に甘えとけ」
「で、でも、俺重いですし、腰でもやったら……」
「全然重くないぞ? というか、役得だな」
重くないわけない。俺の身長は日本人男性の平均くらいはあるし、体格はいいわけじゃないけど特別痩せているわけでもないから、体重だってそこそこあるはずだ。しかしながら篠宮さん、こんな細身なのに俺のこと軽々抱き上げている……すごいな。いやでも、やっぱり重いって!!
路線の中では比較的小さめの駅とはいえ、人通りはゼロではない。駅員だって普通にいる。それなのに篠宮さんは俺のことをなかなか降ろしてくれず、彼の美しいルックスも相まって駅構内で終始注目の的になってしまった。結局改札を通るところで定期を使わなければいけないからと訴えたら、渋々ながらもそこでようやく俺を解放してくれた。
う、生まれて初めてお姫様抱っこをされてしまった……。
篠宮さんは改札を出ると、篠宮さんは俺を駅前のベンチにまた座らせて、今度はなにやらスマホを操作し始めた。
そういえば、改札出ちゃってよかったのかな。篠宮さんの自宅の最寄り駅までは、あと1駅か2駅ぶんくらいあったはずだけど……。
そんなことを思っているうちにどこからかタクシーがやって来て、篠宮さんは俺に一緒に乗るように促す。どうやらスマホの専用アプリでタクシーを呼んだみたいだ。
「あの、篠宮さん……。これ、どこ行くんですか?」
流されるがままにタクシーに乗り込んで、ちょこんと座席に腰掛けた。俺は普段あまりタクシーに乗ることがないのでどことなく緊張しつつ、篠宮さんに行き先を尋ねる。
「ん、俺の家」
彼が返した一言に、俺は思わずきょと、と目を丸くしてしまった。
俺の家。俺の、って……。
篠宮さんの家!?
✦✦✦
「篠宮さん仕事で疲れてるのに、家までお邪魔するのはさすがに……ていうか、タクシー代払います! すみません!」
「そんなの気にしなくていい。そんな状態で一人で帰せないし、うちで休んでけ」
篠宮さんが住んでいるらしいマンションの前でタクシーは止まった。
俺のせいでこんなことになったというのに、篠宮さんはタクシー代すら受け取ってくれなかった。彼は気にしなくていいと言ったけど、あのとき目的の駅に着く前に電車を降りてしまったからタクシーを呼ぶことになったわけで……それって、俺のせいだし。
それに、せっかく自宅に帰ってきたというのに、俺までいたらきっと気が休まらないだろう。そもそも一緒にご飯……だなんてもう言っていられない雰囲気になってしまったし、いや、それも俺が痴漢なんかされたせいなんだけど……。
「とか言って、俺がもう少し瑪瑙と一緒にいたいだけなんだ。強引でごめんな?」
申し訳なさで今すぐ足元のコンクリに埋まりたい気持ちだったけれど、当の篠宮さんからそんなことを言われてしまっては、もとより彼に懐きまくっている俺はこれ以上遠慮することなどできなかった。
家に上がるのはさすがにちょっと緊張したけど、篠宮さんのような義理堅い人が、クリス先輩たちとの「何もしない」って約束をそう簡単に反故にはしないと思うし……多分。
篠宮さんの自宅は、2Kほどの間取りの単身用マンションだった。
部屋の中は意外と普通で、強いて普通じゃない点を挙げるならば部屋の隅に愛用のベースやエフェクターの数々がまとめて置かれているくらいだった。部屋の中は脱ぎ散らかしたままのスウェットや靴下なんかがあったけれど、それでもなんとなくスッキリした印象を受けるのは篠宮さんの家具や色合いのチョイスが良いからだろう。
「散らかってて悪いな」
「いえ、全然綺麗だと思います。むしろ思ってたより普通でびっくりしてます……」
「はは、なんだそれ。俺ってそういうイメージなの?」
なんとなくだけど、もっと派手なのを想像していたりしたのだ。
篠宮さんは、今みたいなスーツ姿だとそうでもないけれど、私服のファッションセンスは結構クセがあるほうだと思う。ライブの時はいつも全身をモノトーンの服で固めて、目元にはトレードマークであるスクエア型の黒縁眼鏡、そして耳には数え切れないほどのピアスがついている。所謂ダウナー系というか、俺なんかと比べたらわりと尖っている感じのファッションだ。そんな格好も篠宮さんにはめちゃくちゃ似合っていて凄くかっこいいんだけど、知り合ったばかりの頃はその見た目の第一印象から「ちょっと怖そう」って思っていたんだよな……。
ちなみに、俺はファストファッションしか着たことがない、服のセンスに至るまで平々凡々な人間である。そんなんだから余計に地味な印象になって、ネットでも馬鹿にされてしまうのかなぁと思うのだけど、仮に俺が篠宮さんみたいな服装をしたところで絶対に似合わない。イケメンで背が高くてスタイル抜群な篠宮さんだからこそ、あれほどまでに魅力的になるのである。
「社会人二年目の一人暮らしなんてこんなもんだよ」
篠宮さんはそう笑いながら、俺に適当な場所へ座るよう促してくれた。俺はお言葉に甘えてテーブルのそばに正座をすると、篠宮さんは「もっと楽にしてていいぞ」と言ってまた笑った。
ていうか、今更だけど本当に上がってしまってよかったのかな。結局ご飯行く予定もなくなっちゃったし。元はといえば俺のせいなんだけど……。篠宮さんがスーツを脱いでいる間、俺はそんなことを考えながらずっとモヤモヤしていた。
そんな俺をよそに篠宮さんはラフな部屋着に着替えを終えると、冷蔵庫を開けて中身をチェックする。
「今から夕飯作るから待っててな。ありあわせで悪いけど」
「えっ!? そ、そんな、申し訳ないです! 俺、すぐ帰りますから……ほんとごめんなさい!」
俺がご飯奢るつもりだったのに、逆にご馳走になってしまうのはさすがに気が引ける。仕事で疲れている上に、帰りも遅くなって、タクシーまで使わせて……。その上自宅に上がり込んで食事まで作らせるだなんて俺はどこまで無礼なんだ。
篠宮さんにこれ以上迷惑をかけたくなかった。せっかくワンマンライブも決まってこれからって時なのに、バンド以外のところまで足を引っ張りたくない。ただでさえ俺は鈍臭くて人見知りで、ボーカルなのに華もなくて、一部の人にはバンドのお荷物だって言われているのに。
俺は手荷物を持って立ち上がると、すぐに帰ろうと玄関へ向かおうとした。しかし、すかさず篠宮さんに腕を掴まれて阻止されてしまう。
「帰さない」
「……っ!」
「一人で電車乗って、また痴漢に遭ったらどうするんだ?」
その言葉を聞いて、先程のことを思い出し一瞬びくりと肩が震えたものの、俺は大丈夫と首を横に振った。痴漢に遭ったのなんて今日が初めてだったし、あんなことそう何度も起こらないはずだ。
「すみません……でも、平気ですから」
「瑪瑙、今日はずっと謝ってる気がする。俺と二人でいるの、疲れる? それとも、そんなに俺のことが嫌いか?」
「そ、そういうわけじゃ……」
篠宮さんといて疲れたりとか、嫌な気持ちになったことなんて一度もない。いつも面倒を見てくれて、弟のように可愛がってくれて、元気づけてくれる。そんな篠宮さんを俺が嫌うだなんて絶対にあるわけない。むしろ俺のほうが篠宮さんに愛想を尽かされないかと、いつも心配しているくらいで……。
「ごめんなさい……」
ずっと謝ってる、と言われたばかりなのに、それでもなお俺の口からは謝罪の言葉しか出てこなかった。
「篠宮さんに悪いとこなんてないです。ただ俺が……俺が無理言って誘ったのに、篠宮さんに気を遣わせてばっかりで、申し訳なくて」
「……」
「今日だって、俺のせいでご飯も行けなかったし、デートらしいこともできなかった……。せっかく時間作ってもらったのに、俺、篠宮さんに迷惑しかかけてない……」
こんなはずじゃなかった。それなのに、今日はなにひとつうまくいかない。
だんだんと胸の中が不安な気持ちだけで支配されていく。
ほんの少し会っただけなのに、たくさん迷惑をかけてしまった。もしかしたら、今後もっと一緒にいたら、更に大きな、取り返しのつかないほどの迷惑をかけてしまうかもしれない。
「今度のワンマンも、失敗したらどうしよう……。いっぱい準備して、みんな楽しみにしてるのに……もし本番で俺が上手に歌えなくて、俺のせいでライブが上手くいかなかったら……」
ついにライブのことまで弱音を吐き出した俺。
俯いたまま泣きそうになっている俺を、篠宮さんはどんな思いで見ていたのだろう。
少しの間の後に、彼は俺に向かってこう言った。
「じゃあ、やめるか?」
「え?」
「迷惑がかかるのが嫌なら、やめたっていいんだぞ。ワンマンも、ボーカルも」
篠宮さんにそう言われて、どうしてか目からぽろりと涙が零れ落ちた。
俺みたいな足手まとい、バンドなんてやめたほうがみんなのためだ。それはわかっている。美形揃いのメンバーの中で俺だけが平凡で、才能なんかなくて、技術だってまだまだで……挙げ句の果てにはバンド以外の部分でも迷惑をかけている。
半年後のワンマンライブは、絶対に失敗できない。今のメンバーになって初めての、記念すべきワンマンになるからだ。そのために篠宮さんが企画を立ち上げてくれて、新曲も作って、良いライブにしようってみんなで話し合って、いろんな演出を考えて……。
「お前の代わりなんていない。瑪瑙がやらないと言うなら、ライブはしない。それに、瑪瑙に歌ってもらえないなら、新曲だって作る意味がない」
「………」
「でも、本当につらいのなら、やめてもいい。もしそうなっても、誰もお前を責めたりなんかしないよ」
篠宮さんはいいと言っている。
今ならまだ逃げられる。
だから、やめてしまえばいい。
俺なんかがいたって、どうせ皆の邪魔にしかならないのだから——
篠宮さんの言葉と、自分の心の声が、頭の中で交互に反芻する。
俺はどうしたいんだ?
俺は。俺は——
「やめたくない……」
気付けば、俺はほとんど無意識にそう口にしていた。
ひとこと口に出してしまえば、卑屈だった心の奥底に埋まっていた本心が、少しずつその姿を現して。
「俺、もっとライブしたい……。篠宮さんが作った曲、もっともっとたくさん歌いたい」
俺がそう言うと、篠宮さんは微笑んだ。嬉しいような切ないような、なんとも言えない感情がないまぜになったような笑みだった。
「俺は……俺の作った曲と真剣に向き合ってくれる瑪瑙が好きだ。楽しくて仕方がないって顔で歌ってくれるのも、バンドのこと何より大事に思ってくれてるのも、すごく嬉しいんだ。だから、迷惑だなんて思わないでくれ。どんなことがあっても、うちのボーカルは神崎瑪瑙、お前なんだよ」
俺の頭を撫でてくれる篠宮さんの手は、やっぱり大きくてあたたかくて……とても優しかった。
俺、まだまだダメなとこいっぱいだけど、でもやっぱりこのバンドで歌いたい。ワンマンライブも成功させたい。篠宮さんや、クリス先輩や、蛍の演奏も、もっとたくさんの人に聴いてほしい。俺の歌を好きだって言ってくれた人たちに、俺を救ってくれた皆に、俺の気持ちを最高の形で返したい。失敗するのはやっぱり怖いし、不安もあるけれど、それでも紛れもなくこれが俺の本音だった。
「瑪瑙は真面目だからなぁ、一人で悩みすぎちゃうところがあるよな。バンドメンバーなんて、迷惑かけてなんぼだろ?」
「ご、ごめんなさ……」
「こーら、謝らない」
「あ……え、えっと……」
篠宮さんにこつんと頭を小突かれて、今日は「ごめんなさい」とか「すみません」ばかり言っていた口をつぐむ。
俺を元気づけてくれる彼にどんな言葉を返すべきかと少しだけ考えを巡らせたのち、俺はおずおずと顔を上げた。
「ありがとう、ございます」
涙で濡れたままの情けない顔だったけど、それでも精一杯の笑顔で言った。
そんな俺を見た篠宮さんは一瞬息を呑んで、それからぎゅっと俺の身体を抱きしめる。急に抱きしめられたのでびっくりしてしまったけど、篠宮さんはそれ以上は何もしなかった。
しかし、彼の次の言葉に俺は耳を疑うことになる。
「困ったなぁ。諦めなきゃいけないのに、難しくなっちゃうな」
「諦める……?」
諦めるって、何を? もしかして俺のことを?
どうして?
「皆の前ではあんなこと言ったけど……本当は、最初から脈なんてないってわかってたから。俺はクリスや蛍ほどお前との付き合いも長くないし、同じ大学にいる二人と違って、今まではバンド以外で一緒に過ごす機会もなかった。それに瑪瑙、最初の頃は俺のことちょっと苦手だっただろ?」
……篠宮さん、気付いていたんだ。
彼の言うことを否定できなかった。確かに俺は、知り合って間もない頃は篠宮さんがなんだか怖い人に見えて、少し苦手だったから。当時の俺は篠宮さんとは面と向かって喋ることすら満足にできなくて、クリス先輩によく通訳してもらっていたっけ……。
篠宮さんは見た目もそうだけど、普段の立ち振る舞いからもなんとなくカリスマ性を感じるというか、独特のオーラがある。演奏技術だって実力派揃いのメンバーの中でもずば抜けて高いし、作る曲はどれも良い曲ばかりだ。
音楽の才能に溢れた、まるで音楽をするために生まれてきたような人。そんな人がまさか俺みたいな、内気で人見知りで、ステージの経験も殆どないようなちんちくりんを自分のバンドに招き入れてくれるだなんて、一体何を考えているのだろう……と、彼の真意がわからず加入当初は随分と困惑したものだ。
「……だから、俺だけは絶対ないなって思ってた。デートの順番を最後にしたのだって、振られるまでの時間をちょっとでも長くしたかったからだし……。瑪瑙だって、付き合いが短い上にデートの約束ひとつ守れない俺よりも、クリスや蛍の方が好きだろ?」
「え」
「普段は休日出勤なんて滅多にないんだ。なのに今日に限ってだし、デートドタキャンしたり、痴漢からすぐに助けてやれなかったり……最低だろ。……でもほんとは、俺も二人みたいに瑪瑙とデートしたかった。一回だけでいい、瑪瑙のこと一日中独り占めしてみたかった」
いつも前向きで自信満々で、実際に実力も伴っている篠宮さんが、こんな風に弱気なことを言うのは初めてで、俺は目を見張ってしまった。
篠宮さんも、自分に自信がなくて不安に思っていたりとか、したんだ。彼が他の二人と比べて劣っているだとか、俺から好かれていないだとか、そんなことはあり得ないのに……。
「瑪瑙だって、今日俺と一緒にいてろくなことなかったよな。嫌な思いばかりさせて、本当にごめん……。抱きしめるのも、二人きりになるのも、今日で最後にするから……あともう少しだけ」
篠宮さんはそう言って俺を抱きしめる腕に力を込める。
俺はそれに抵抗しないまま、彼の服をぎゅっと握って言った。
「最後じゃ、駄目です」
「え?」
「俺にとってメンバーの皆は、優劣なんてない、三人とも同じくらい大事な存在なんです。篠宮さんのことは……確かに最初は少し怖かったけど、今はそんなことない。尊敬してるし、大好きです」
「っ……!」
「だから……篠宮さんのことも、もっと知りたい。デートだって、してみたい。皆のこともっと知って、俺もちゃんと自分の気持ちに答えを出したいから」
そりゃあいっぺんに三人から告白されて最初は困惑したし、一度は断ってしまったけれど……今では俺なりに、彼らの好意に真剣に向き合いたいと思っているんだ。
だから、篠宮さんの気持ちだけ置いてきぼりになんかしたくない。俺、我儘だろうか……?
顔を上げて篠宮さんを見ると、彼は俺の言葉に逡巡している様子だった。しかしそれも長くは続かず、彼は余裕なさげに少し掠れた声で俺に言う。
「そんなこと言われたら、本気で諦められなくなる……」
篠宮さんの熱のこもった目が近付いてくる。さすがイケメン、目まで綺麗なんだなぁと思いながらぼんやりとそれに見惚れていると、ちゅっと音がして唇同士が触れ合った。俺はそれに対して抵抗せず、数秒ほどそのままでいたら彼の唇は何事もなかったかのようにそっと離れていったけれど、口元には柔らかい感触がしばらく残っていた。
キスが終わってから改めて篠宮さんの顔を見る。篠宮さんの顔は、キスをする前よりも心なしか赤くなっている気がした。
「もう一個だけ我儘言っていい? 名前で呼んでほしい」
「えっ……」
突然のお願いに俺が戸惑っていると、クリスや蛍のことは名前で呼ぶじゃないか、と篠宮さんは少し拗ねたような顔で言った。
篠宮さんって俺よりもずっと大人の人って雰囲気があるから……いや、実際は4つしか年齢は変わらないんだけど……。それ以外には特に深い理由があるわけではないけれど、出会った当初は俺が彼に対して人見知りしていたのもあって、なんとなく名字で呼んでいた。今まではそれについて篠宮さん本人から何か言われることもなかったので、まさか気にしていただなんて夢にも思わなかった。
もしかして、ずっと俺に名前で呼んでほしかった……のかな。でも、俺なんかが呼んでもいいのかな。
「……透輝、さん?」
俺が躊躇いつつも下の名前で呼ぶと、彼はなぜか「ぐっ!」と呻いてから口元を手のひらで覆った。だけど、長く筋ばった指の隙間から見える表情は笑みを隠しきれていない。
篠宮さん……じゃない、透輝さんのこんな姿を見るのは初めてかもしれない。意外だったけど、そんな彼もまた魅力的だ。
次のデートでは、もっと色んな透輝さんの顔が見られたらいいなと思う。
✦✦✦
「それじゃあ、結局デートはできなかったんだ?」
「は、はい。社会人って色々大変そうですね……」
二日後。
いつも通りに大学に授業を受けに来ていた俺。午前の講義が終わってお昼ご飯を食べようとしたところで偶然(たぶんきっと偶然)クリス先輩と会ったので、そのまま学食でお昼を一緒することになった。
食事をしながらの雑談の中で「透輝さんとのデートどうだった?」と聞かれたので、急な仕事が入って中止になってしまった、と伝えたわけだ。他の人とのデートの内容を事細かに説明するのはさすがに良くないかなと思うけど、このくらいなら大丈夫だよな……?
「それは、透輝さん落ち込んだだろうなぁ」
「あ、でも夜にちょっと会って、ご飯だけ……」
本当は、ちょっとでもご飯だけでもなかった。実はあのあと、そのまま透輝さんの家に泊めてもらったのだ。
俺は申し訳ないからと何度も断ったんだけど、透輝さんが「明日は午後出勤でいいって言われてるから」なんて言って引き留めてきて、押し切られた俺は結局ご飯までご馳走になってしまって。ほんと俺、流されやすいというか、バンドメンバーには特に弱いっていうか……。
泊めてもらったことはなんとなくクリス先輩には言わなかったけど、よくよく思い返してみると俺、クリス先輩の家にも既にお邪魔していたんだった。いくらなんでも、短期間で人の家に上がり込みすぎじゃあ……。
なにはともあれ、透輝さんは「また三週間後に」って次のデートもちゃんと約束してくれたし、ワンマンライブの計画なんかもたくさん話すことができて、結果的にはとても楽しい時間になったのだった。
「そうそう。俺知らなかったんですけど、透輝さんってすごく料理上手なんですよ!」
俺は彼の意外な特技をクリス先輩にも教えてみる。クリス先輩は俺よりも透輝さんと付き合いが長いから、既に知っていたかもしれないけど。
透輝さんは冷蔵庫のありあわせだけでお店で出てきそうな手の込んだ料理を作ってくれて、しかも味もめちゃめちゃ美味しかった。楽器だけじゃなく何でも器用にこなせるだなんて本当に凄いなぁ……と食べながら感嘆したものだ。
「……『透輝さん』?」
しかしクリス先輩は俺の話の内容よりも、もっと別の部分が気になったようだった。
「へぇ、ご飯だけでそんなに仲良くなったんだ?」
「え、えっと、これはその……。透輝さ、あ、篠宮さんからそう呼んでほしいって言われて……」
クリス先輩、顔は笑っているのになんだか纏うオーラが重たい……。
クリス先輩も透輝さんのことは名前で呼んでいるものだから、話の流れでついスルッと口から出てしまったけれど、そういえば誰かがいる前でこの呼び方をしたのは初めてだった。改めて指摘されるとなんだか恥ずかしいな……。
俺があたふたしていると、クリス先輩はにっこりとまるで王子様のような笑顔をこちらに向けた。
「そうだよね。ワンマンも決まったことだし、もっとメンバー同士打ち解けたっていいよなぁ。ね? 『瑪瑙』?」
「は、ひゃい……」
クリス先輩にやたら下の名前を強調しながらそう言われて、俺は裏返った声で返事をしたのだった……。
end.
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「僕をあなたの側にずっといさせて」
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いやいや、みんな何いってんの?
異世界転生したけどBLだった。
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BL
「行ってきまーす!」
そう言い、玄関の扉を開け足を踏み出した瞬間、
「うわぁぁ〜!?」
玄関の扉の先にはそこの見えない穴があいてあった。俺は穴の中に落ちていきながら気を失った。
気がついた時には知らない屋敷にいた―――
⚠注意⚠️
※投稿頻度が遅い。
※誤字脱字がある。
※設定ガバガバ
などなど……
転生先がBLの世界とか…俺、聞いてないんですけどぉ〜?
彩ノ華
BL
何も知らないままBLの世界へと転生させられた主人公…。
彼の言動によって知らないうちに皆の好感度を爆上げしていってしまう…。
主人公総受けの話です!((ちなみに無自覚…
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