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かりそめの幸福
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しおりを挟むその日、梅雨をモチーフにしたフレグランスを開発し、季節のラインナップに加えたいのだという朱夏に、駒門や咲をはじめとするチームメンバーのほとんどが賛成した。ただひとり、岡崎を除いて。
皆の前では沈黙を貫いていた岡崎だが、終業後、研究室で朱夏とふたりきりになった時を見計らい、朱夏に声をかけた。
白衣姿で作業台に立つ彼女は、さっそく開発を始めた雨の香り再現のため、残業しようとしていたところだった。
「どうしたんだ急に、梅雨なんて。俺は雨が嫌いだから反対だ。たぶん、日本人のほとんどがいいイメージを抱いてないだろう。そんな憂鬱な季節をわざわざ加える必要性は?」
作業台に手をつき、どこか威圧的な口調の岡崎。常に余裕があり、客観的に物事を判断できる彼らしからぬ態度に朱夏は疑問を抱きつつ、彼女は自分の思いを口にする。
「梅雨に憂鬱なイメージを持つ人が多いというのには同意します。ですが、それと香りを楽しむこととは別の話ではないでしょうか。実際の夏は暑くて嫌いな人でも、蚊取り線香やプールの塩素の香りにノスタルジーを感じますし、花粉症で春が嫌いな人でも、太陽に温められた花々の香りを嗅いで、なにかが始まる予感にウキウキしたりします」
朱夏はまるで、今まさにそれらの香りを嗅いでいるかのごとく、心地よさそうに話す。
昨日、無理やり唇を奪った時の虚ろな彼女とは別人のようだ。
なにが……いや、誰が彼女に自信を与えた? その時パッと岡崎の頭に浮かんだのは、涼音とのメッセージのやり取りだった。
【桐野朱夏って、あなたの想い人よね?】
【そうだけど】
【今日会ったの。あろうことか、貴人とデートしてた】
庄司貴人。ナチュール・デコレの社長子息で現在専務職に就いているあの若造か。岡崎は、ふつふつと貴人への憎しみが沸き上がるのを感じつつ、朱夏の表情を注意深く観察する。
彼女は香料やアロマオイルを採取するためのガラス製ピペットを手に持ち、瞳を輝かせながら言葉を紡ぐ。
「だから私、梅雨の情緒も香りで表現したいんです。開発当初に行ったアンケートには雨の香りが好きだと答える消費者も多かったのですが、四季というテーマには合わないと決めつけていました。でも、梅雨が加わるなら別です。香水をつけた本人や、それを嗅ぐ恋人や夫婦。それぞれが、自分の中にある雨に関する記憶や感情を溶かしながら、香りに酔いしれる……そんな商品を開発したい」
嗅覚というのは他の五感と処理経路が違い、感情・本能をつかさどる大脳辺縁系に直接伝達される。つまり、香水ひとつで、消費者の心をダイレクトに揺さぶることができるのだ。
岡崎も当然知識として記憶していることだが、朱夏の言葉には実感がこもっているように思えて、彼の胸はちり、と焦げ付くような感覚を覚えた。
朱夏に活力を与えたのは、おそらく貴人であろう。たしか、昨日の夜は雨がよく降っていた。陳腐なドラマのように、雨の中で愛を告白し合ったりでもしたのだろうか。
岡崎の中で、嫉妬の炎が燃える。
壊してやる。朱夏が泣こうが、傷つこうが、関係ない。この手の中に彼女が戻るなら、なんだってしよう。
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