曖昧なパフューム

宝月なごみ

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蘇る微熱

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 当時、許嫁であった貴人にフラれたことに腹を立てた涼音は、父親を通して貴人の父親に他の男を紹介するよう迫った。そこで白羽の矢が立ったのが、貴人と同じロンドン支社で目立つ存在であった岡崎だ。

 貴人と違い家柄は普通だが、敏腕営業マンからパフューマーに転向したという一風変わった経歴、そして貴人ほどの美男子ではないにしろ、切れ長の目が印象的な、大人の男性特有の魅力を漂わせた容姿。

 涼音は貴人の父親が用意した簡単な釣書をひと目見ただけで気に入った。

 すでに売れっ子女優としての地位を確立しつつあった彼女はなかなか日本を出られなかったが、代わりに岡崎がマメに帰国し、短い逢瀬を繰り返しては、愛を育んだ。

『できるだけ早く結婚したいな。貴人のこと、ぎゃふんと言わせたいの』

 交際を初めてわずか三カ月で、涼音がそう言いだした。

 なるほど。彼女にとって結婚は愛し合う延長にあるものではなく、昔の男をぎゃふんと言わせるためのものなのか。

 岡崎は少々興覚めしたが、良家のお嬢様、かつ女優である涼音の夫という肩書も悪くないだろうなどと、傲慢で計算高い考えをしていたのは自分も同じ。

 滑稽な似た者同士だと思いつつも、岡崎は涼音と婚約を交わした。

 しかし、彼はロンドンに戻った直後に気付く。同じ研究室に勤める朱夏の視線が、一日に何度も自分に向けられ、目が合うと気まずそうにパッと逸らされることに。

 まるで思春期のように不器用でくすぐったい朱夏の恋情は、恋愛経験豊富な岡崎にとって新鮮だった。

 自分だったら、気になる相手にはすぐ声を掛けて好意を示すか、とりあえず寝てみる。

 岡崎はそれが普通だと思っていただけに、視線以外のアプローチをしてこない朱夏の態度がだんだんと焦れったくなってきた。

 今思えば、あの時から自分は朱夏の視線に溺れていたのだろう。たまたま研究室でふたりきりになったタイミングで、岡崎は自分から仕掛けることに決めた。

 朱夏は棚に香料の瓶かなにかを戻していて、無防備な背中をこちらに向けている。岡崎は静かに彼女に近づいて、「桐野」と呼ぶ。そして振り向いた朱夏の唇を、不意打ちで奪った。

 その時、彼の頭の中に涼音の存在は少しも浮かばなかったため、罪悪感もなかった。それどころか、久々におもしろそうな恋愛ができそうだと、内心浮足立っていた。

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