曖昧なパフューム

痛みを思い出させる人

7

「ねえ、朱夏さん」

　不意に貴人が箸を置き、朱夏をまっすぐに見つめる。

「次は、休みの日にデートしましょう？」
「え？」

　唐突にプライベートな話題を振られ、朱夏の胸がどきりと跳ねる。貴人は愛しそうに瞳を細め、甘えた声で言う。

「一日中朱夏さんを独占して、もっといろんな顔が見たいんです。……ダメ、ですか？」

　朱夏は俯いて唇を噛んだ。

　貴人とこれ以上深く関わったら、あの頃の、弱気で、狡くて、自堕落な自分が戻ってきてしまうのではないか。まるで蜂蜜の中で溺れるような、苦しくて甘美なあの日々を思い出させられるのではないか。そんな不安を抱いて。

　……でも。

　朱夏はそれ以上に怖れていることがあった。かつて自分を弄んだ岡崎と、再び顔を合わせて仕事をしなければならないことだ。

　彼は自分よりずっと年上だし、遊び相手のひとりだった朱夏に対して今さらなにも感じないだろう。

　それでも、胸に深く刻まれた傷痕は、今でもたまに疼いて朱夏を苦しめる。岡崎の顔を見たら、そのかさぶたがはがれて、濁った膿があふれるのではないかと思うと、怖い。

「ダメ、じゃない」

　蚊の鳴くような声で返事をした朱夏は、ゆっくり顔を上げて貴人を見る。

「しよっか、デート」

　岡崎の存在に怯えて心をふさぐよりは、貴人の腕に溺れたい。

　どうせもがき苦しむことになるなら、甘い蜂蜜の中がいい。

　朱夏の答えを聞いた貴人は、ホッとしたように息をつき、スーツの内ポケットからスマホを取り出す。

「じゃあ、今度こそ連絡先教えてください。詳しいことは電話しますから」

　スマホを研究棟に置きっぱなしにしていた朱夏は口頭で電話番号を伝え、貴人がうれしそうに【朱夏さん】と電話帳に登録する姿を見て、ぼんやり思う。

　今の彼となら、以前とは違う関係を築けるかもしれない。あんな曖昧な関係ではなく、きちんとした恋人に。

　そこまで思い至っててハッとする。どうして自分は貴人と恋人になりたいと望んでいるのだろうか。

　ただ縋りたいだけ？　それとも――。

　走り出す感情に思考が追いつかず、朱夏は悶々としながら、弁当の残りを口に運ぶのだった。