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Ⅵ 迷う魔女
ii 盤上の駒たち
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「ああ、やっと来たのかい」
いつものゲームルームの扉を開くと、部屋の真ん中辺り、ボードゲームが広げられた3人掛けソファーで寝転ぶトレルダルの姿が目に入った。
カルロスの来訪に気づいたトレルダルが、組まれた長い足と手に持つ本の向こう側から軽く手を振っている。
この部屋は元々、賓客の待合室だったのを、子供のころカルロスとアルが占領して遊び道具をため込んでいるうちに、大人が使えないゲームルームとなってしまった。
そのころからこのトレルダルだけはここに入り浸り、大人の癖にいつもここでゴロゴロしていた。
「侯爵」
「ローでいいって言ってるよね」
ローは彼のファーストネーム、ローランドの略だ。
爵位持ちの彼をその名で呼ぶのは、ベッドの中の女くらいのものなのだが。
幼少期、トレルダルにいいように使われていた頃はその名を知らずに呼んでいたこともあった。
だが今はもうそんな訳にもいかないのは、この御仁が一番分かっているハズだ。
「トレルダル侯爵。アズレイアのことでお話があります」
呼び名を変えぬカルロスに、トレルダルが肩をすくめてソファーに座り直す。
「ほんと、頑なだねぇ。まあいい。そこに座りなさいな」
勧められるままに真正面のソファーに腰かけたカルロスは、トレルダルをまっすぐに見据えて口を開いた。
「俺は一度、アズレイアとの婚約を破棄しています。それを卿はご存じのはず」
「知ってるねぇ」
前置きもなく切り出したカルロスに、わざとらしく膝に肘をついて見返すトレルダル。
「でも、分かってるよね? それを知っている人間は多くない」
彼は正しい。事実、アズレイアもまた知らぬのだろう。
「だとしてもです。俺にはもう、この立場で彼女に求婚する権利がない」
貴族間の婚約には、それなりに複雑なルールがある。
それは血筋の濃くなりやすい高位貴族が、お互い正しく平等なチャンスを得るために作られたルールである。
特に彼女のような目立つ存在には、そのルールがより厳しく適用されるだろう。
「そうだね」
同じ高位貴族の、しかもその頂点に立つトレルダルがそれを知らぬ訳がない。
だがそれでも今、カルロスがこれをあえて口にする理由に、トレルダルも無論気がついている。
「話は変わりますが。昨日の一件、伯爵はどこまでご存じか?」
やっと本題を切り出したカルロスの声に、抑えきれない怒気が載る。
それを目にしてトレルダルの胸が踊った。
「いいよ、その顔。やっとやる気になってきたかな」
トレルダルはこのカルロスという小僧をどうしようもなく気に入っていた。
自分とどこか似た境遇に親近感があったのかもしれない。
優秀すぎる弟を持つ彼と、優秀すぎる兄を持つ自分。
彼我の差がよく見えるがゆえに、自分の役割を理解しすぎるその性分。
だがその中で、この男は全く曲がることなくただ真っ直ぐに生きている。
自分には叶わぬこの男の生き方が、羨ましくも妬ましい。
そして、それ以上に愛おしかった。
だからといって、トレルダルは自分が『やるべき事』に手加減はしない。
「僕が知ってたのはレイモンドが我が家の教育係を請け負ったこと、うちの孫がうちの家令に何やら頼み込んでたこと、うちの家令がうちの孫と塔に向かったこと、そしてうちの孫が大変直情的でバカだってことくらいかな」
こうは言うがトレルダルはやはり自分の孫も可愛くて仕方ない。
貴族政治を生きている彼には、愚かな身内ほど愛おしく思えるものなのだ。
トレルダルの答えに確信を深めつつ、カルロスが問いかけを続ける。
「それでは昨日、塔で何が起きたかご存じですか」
「半裸のチャールズがジェームズに引き回されてお説教されてたことくらいかな?」
勢い余って身を乗り出すカルロスを、思わずからかいたくなったのは仕方ないだろう。
その真っすぐな表情はまだ年端もいかぬ頃、ここで盤を前に挑んできた小僧の頃から大して変わらない。
あの頃と同じ拗ねた顔が一瞬いまの厳ついカルロスの顔に重なって、思わず吹き出しつつトレルダルが答えた。
「分かってるって、冗談だよ。アズレイア嬢には申し訳ないことをした」
だがすぐに素直に謝罪の言葉を返す。
今カルロスと自分がしているのは、形のないボードゲームのようなものだ。
お互いけん制しつつ、ある程度相手の手の内を読みあっている。
そのうえで、勝利をかけて駆け引きを進めていく。
やれやれ、やっとこの坊主とこんな楽しいゲームができるとはな。
恋とは正に人生の糧じゃないか。
内心ワクワクとしながら、トレルダルがカルロスの次の一手を待っている。
「卿はチャールズにアズレイアを娶らせるおつもりですか?」
直情的なその問いは、今の彼にしては悪くない。
そう思いつつ、トレルダルは自分の切れる手駒を見比べる。
「そうだねぇ、もしあのチャールズにアズレイア嬢を口説くだけの器量があるなら、それも悪くない」
そして、かわいい孫と、目前のカルロスを天秤に乗せつつ、その傾きに苦笑いを浮かべて答えた。
「だが、ない。そんな器量があの子にあったら、もっと別の生き方をしてるだろうよ」
チャールズがあの魔女を手に入れる勝算は非常に低かった。
それでも家名を背負う以上、トレルダルにも出さねばならぬ駒というものがある。
昨日の一件は、結果の見えた捨て駒の一戦だったのだ。
家令には悪いが、あの魔女はうちの孫の妾になど大人しく収まる器じゃない。
「だがそれでもチャールズが塔に来るのを見逃し、その上で俺にその企みが分かるよう、ヒントをくださった。一体なぜですか?」
ああ、一戦目はカルロスの完勝だ。
本気になった坊主は、すっかり大人のゲームを始めている。
答えのわかり切ったこの問いを、今僕に投げかける。
それはまさに王手をかけるひと筋だ。
満面の笑みを浮かべたトレルダルが、満を持してこのセリフを吐く。
「それくらいには、僕は君を買っているんだよ」
多分、少しは期待をしていたのだろう。
カルロスがほっと小さく嘆息する。
そしてトレルダルを見据え、肝を入れて申し出た。
「ならば、いっそ俺の名を買ってください」
「ほう?」
これはまた、想定のうちでも一番の答えが返ってきた。
ゆるむ頬を我慢しきれず、返す自分の声に喜色が載るのを抑えきれない。
そんな自分の反応を意識しつつ、トレルダルが楽しげに尋ねる。
「家を捨てると?」
トレルダルの問いは軽いようで非常に重い。
王弟たる彼の目前での次の返答は、自分の立場をがらりと覆す一言になる。
それを理解したうえで、カルロスははっきりと答えを返す。
「とうの昔に捨てました」
その一言を待っていた!
それを聞いたトレルダルが感慨に瞼を伏せる。
正直、カルロスは第三王子のアルに持たせておくのはもったいない駒だ。
こちらの出したヒントをすべて正しく拾い上げられる社交センス、粗削りとはいえ、トレルダル相手でも充分駆け引きが出来る政治手腕。
粗野に見えて、彼にはちゃんと高位貴族の血が流れている。
しかも若くして従軍し、軍備に関する知識は軍内の誰にも引けを取らない。
これだけ長い間近衛隊長の席を空席にしても、誰一人文句を言わず彼を待つ。
すべての隊員が支え復帰を望むその人望……。
近衛隊長などよりも、もっといい使いみちはいくらでもある。
できる事なら我が家に取り込んで、魔女と破談でもしたら孫娘の一人でも嫁がせてもいい。
そう思うくらい、幼い頃から目をかけた分、必要以上に欲もある。
しかも我が宿敵、あの男の息子ときた。
今まさに、長年手懐けてきた敵の駒が、自ら我が手に転がりこもうとしているのだ。
チェックメイト。
その感慨に深いため息をつき、トレルダルの顔に黒い笑みが浮かんだ。
いつものゲームルームの扉を開くと、部屋の真ん中辺り、ボードゲームが広げられた3人掛けソファーで寝転ぶトレルダルの姿が目に入った。
カルロスの来訪に気づいたトレルダルが、組まれた長い足と手に持つ本の向こう側から軽く手を振っている。
この部屋は元々、賓客の待合室だったのを、子供のころカルロスとアルが占領して遊び道具をため込んでいるうちに、大人が使えないゲームルームとなってしまった。
そのころからこのトレルダルだけはここに入り浸り、大人の癖にいつもここでゴロゴロしていた。
「侯爵」
「ローでいいって言ってるよね」
ローは彼のファーストネーム、ローランドの略だ。
爵位持ちの彼をその名で呼ぶのは、ベッドの中の女くらいのものなのだが。
幼少期、トレルダルにいいように使われていた頃はその名を知らずに呼んでいたこともあった。
だが今はもうそんな訳にもいかないのは、この御仁が一番分かっているハズだ。
「トレルダル侯爵。アズレイアのことでお話があります」
呼び名を変えぬカルロスに、トレルダルが肩をすくめてソファーに座り直す。
「ほんと、頑なだねぇ。まあいい。そこに座りなさいな」
勧められるままに真正面のソファーに腰かけたカルロスは、トレルダルをまっすぐに見据えて口を開いた。
「俺は一度、アズレイアとの婚約を破棄しています。それを卿はご存じのはず」
「知ってるねぇ」
前置きもなく切り出したカルロスに、わざとらしく膝に肘をついて見返すトレルダル。
「でも、分かってるよね? それを知っている人間は多くない」
彼は正しい。事実、アズレイアもまた知らぬのだろう。
「だとしてもです。俺にはもう、この立場で彼女に求婚する権利がない」
貴族間の婚約には、それなりに複雑なルールがある。
それは血筋の濃くなりやすい高位貴族が、お互い正しく平等なチャンスを得るために作られたルールである。
特に彼女のような目立つ存在には、そのルールがより厳しく適用されるだろう。
「そうだね」
同じ高位貴族の、しかもその頂点に立つトレルダルがそれを知らぬ訳がない。
だがそれでも今、カルロスがこれをあえて口にする理由に、トレルダルも無論気がついている。
「話は変わりますが。昨日の一件、伯爵はどこまでご存じか?」
やっと本題を切り出したカルロスの声に、抑えきれない怒気が載る。
それを目にしてトレルダルの胸が踊った。
「いいよ、その顔。やっとやる気になってきたかな」
トレルダルはこのカルロスという小僧をどうしようもなく気に入っていた。
自分とどこか似た境遇に親近感があったのかもしれない。
優秀すぎる弟を持つ彼と、優秀すぎる兄を持つ自分。
彼我の差がよく見えるがゆえに、自分の役割を理解しすぎるその性分。
だがその中で、この男は全く曲がることなくただ真っ直ぐに生きている。
自分には叶わぬこの男の生き方が、羨ましくも妬ましい。
そして、それ以上に愛おしかった。
だからといって、トレルダルは自分が『やるべき事』に手加減はしない。
「僕が知ってたのはレイモンドが我が家の教育係を請け負ったこと、うちの孫がうちの家令に何やら頼み込んでたこと、うちの家令がうちの孫と塔に向かったこと、そしてうちの孫が大変直情的でバカだってことくらいかな」
こうは言うがトレルダルはやはり自分の孫も可愛くて仕方ない。
貴族政治を生きている彼には、愚かな身内ほど愛おしく思えるものなのだ。
トレルダルの答えに確信を深めつつ、カルロスが問いかけを続ける。
「それでは昨日、塔で何が起きたかご存じですか」
「半裸のチャールズがジェームズに引き回されてお説教されてたことくらいかな?」
勢い余って身を乗り出すカルロスを、思わずからかいたくなったのは仕方ないだろう。
その真っすぐな表情はまだ年端もいかぬ頃、ここで盤を前に挑んできた小僧の頃から大して変わらない。
あの頃と同じ拗ねた顔が一瞬いまの厳ついカルロスの顔に重なって、思わず吹き出しつつトレルダルが答えた。
「分かってるって、冗談だよ。アズレイア嬢には申し訳ないことをした」
だがすぐに素直に謝罪の言葉を返す。
今カルロスと自分がしているのは、形のないボードゲームのようなものだ。
お互いけん制しつつ、ある程度相手の手の内を読みあっている。
そのうえで、勝利をかけて駆け引きを進めていく。
やれやれ、やっとこの坊主とこんな楽しいゲームができるとはな。
恋とは正に人生の糧じゃないか。
内心ワクワクとしながら、トレルダルがカルロスの次の一手を待っている。
「卿はチャールズにアズレイアを娶らせるおつもりですか?」
直情的なその問いは、今の彼にしては悪くない。
そう思いつつ、トレルダルは自分の切れる手駒を見比べる。
「そうだねぇ、もしあのチャールズにアズレイア嬢を口説くだけの器量があるなら、それも悪くない」
そして、かわいい孫と、目前のカルロスを天秤に乗せつつ、その傾きに苦笑いを浮かべて答えた。
「だが、ない。そんな器量があの子にあったら、もっと別の生き方をしてるだろうよ」
チャールズがあの魔女を手に入れる勝算は非常に低かった。
それでも家名を背負う以上、トレルダルにも出さねばならぬ駒というものがある。
昨日の一件は、結果の見えた捨て駒の一戦だったのだ。
家令には悪いが、あの魔女はうちの孫の妾になど大人しく収まる器じゃない。
「だがそれでもチャールズが塔に来るのを見逃し、その上で俺にその企みが分かるよう、ヒントをくださった。一体なぜですか?」
ああ、一戦目はカルロスの完勝だ。
本気になった坊主は、すっかり大人のゲームを始めている。
答えのわかり切ったこの問いを、今僕に投げかける。
それはまさに王手をかけるひと筋だ。
満面の笑みを浮かべたトレルダルが、満を持してこのセリフを吐く。
「それくらいには、僕は君を買っているんだよ」
多分、少しは期待をしていたのだろう。
カルロスがほっと小さく嘆息する。
そしてトレルダルを見据え、肝を入れて申し出た。
「ならば、いっそ俺の名を買ってください」
「ほう?」
これはまた、想定のうちでも一番の答えが返ってきた。
ゆるむ頬を我慢しきれず、返す自分の声に喜色が載るのを抑えきれない。
そんな自分の反応を意識しつつ、トレルダルが楽しげに尋ねる。
「家を捨てると?」
トレルダルの問いは軽いようで非常に重い。
王弟たる彼の目前での次の返答は、自分の立場をがらりと覆す一言になる。
それを理解したうえで、カルロスははっきりと答えを返す。
「とうの昔に捨てました」
その一言を待っていた!
それを聞いたトレルダルが感慨に瞼を伏せる。
正直、カルロスは第三王子のアルに持たせておくのはもったいない駒だ。
こちらの出したヒントをすべて正しく拾い上げられる社交センス、粗削りとはいえ、トレルダル相手でも充分駆け引きが出来る政治手腕。
粗野に見えて、彼にはちゃんと高位貴族の血が流れている。
しかも若くして従軍し、軍備に関する知識は軍内の誰にも引けを取らない。
これだけ長い間近衛隊長の席を空席にしても、誰一人文句を言わず彼を待つ。
すべての隊員が支え復帰を望むその人望……。
近衛隊長などよりも、もっといい使いみちはいくらでもある。
できる事なら我が家に取り込んで、魔女と破談でもしたら孫娘の一人でも嫁がせてもいい。
そう思うくらい、幼い頃から目をかけた分、必要以上に欲もある。
しかも我が宿敵、あの男の息子ときた。
今まさに、長年手懐けてきた敵の駒が、自ら我が手に転がりこもうとしているのだ。
チェックメイト。
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