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Ⅲ 過去の魔女
i 王立図書館
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カルロスの求婚騒ぎから気をそらそうとひとり作業を続けるうちに、意識は自然と過去へと向いていく。
アズレイアの胸に深く傷を残すその事件。
その始まりは、彼女がまだ王立魔術学院の研究院生の頃だった──。
☆ ☆ ☆
歓談厳禁の王立図書館、物音ひとつしない書架の端。
当時、窓際の学習机はアズレイアのお気に入りの場所だった。
ここには飽きずに嫌味を繰り返すリザのような女子もいなければ、アズレイアを悩ます教授からの呼び出し状も届かない。
最終学年になり、履修科目はすでになく、実習研究もすべて終えていた。
よってアズレイアには、図書館にひきこもっていたからって誰かに文句を言われる筋合いもない。
研究院の四年目は、自分を指名してくれた師の元で研究するのが常だ。
アズレイアもモントレー教授の研究室に所属している。
だがその頃、アズレイアは自分の研究とは関係ない、たいへん私的な事情で自分の研究室にいづらくなっていた。
だからその日、アズレイアは当然のように寮から自分の所属する研究室ではなく、まっすぐこの図書室へ向かった。
磨りガラス越しに射し込む秋の柔らかい光と、手元には尽きることのない研究資料。
王城のどこかから訓練中の兵士たちの掛け声が響いてくるが、今のアズレイアの耳には届かない。
飲むこと、食べることを心配せずに、ただただ研究だけしていられるなんて、なんて贅沢なことだろう。
日中村の仕事を受けながら、夜の僅かな時間で勉学に励んでいた農村での生活とは雲泥の差である。
だからアズレイアには、どんな地道で終わりのない実習作業も文献検証も、全くもって苦にならない。
日がな一日王立図書館に閉じこもり、過去文献をあたっては自分の研究にかかわる見落としがないか確認を続ける。
他の研究者には苦痛にもなりうるこの作業時間も、アズレイアにしてみればただただ幸せな時だった。
日が傾くと、図書館内の人気はまばらになってくる。
風がいたずらに窓を叩き、アズレイアの集中が途切れかけたその時。
ふと手元の書物に影が差す。
図書館内の明かりは限られている。
後ろに立たれたら見えなくなるのは当たり前。
ひとの読書を邪魔するのはどこの誰よ?
アズレイアが険を帯びた眼差しを後ろに向けると、そこにはやけに身なりのいい青年が一人。
必要以上に近くに立って腰をおり、アズレイアの読む本を肩越しに覗き込んでいた。
「ずいぶんと難しい本をずっと一人で読んでるんだね」
磨りガラスを通して乱反射するオレンジ色の光があふれる書架の間、響いた声の主と視線があった途端、アズレイアは思いがけず自分が赤面していることを自覚した。
声をかけてきたのは、小娘ならば誰もが一度は夢見るような美青年だった。
透けるように薄い金髪と涼やかなアイスグレーの瞳。
けぶるような長いまつげの隙間から、アズレイアの手元の書物に視線を走らせている。
「レイモンド……様?」
「ああ、僕のこと、知っていたんだ」
確かに、彼のことは知っていた。
とくに恋愛に興味がないアズレイアでも、あれだけ周りが噂していれば嫌でも覚える。
しかもアズレイアとは同学年。
ただし彼とアズレイアの間に、接点といえるようなものは今までなにもない。
しいて言えば、同じモントレー教授の研究室に席をおいているが、アズレイアは彼を研究室で見かけたことは一度もなかった。
「『さま』はいらないよ。君だって知っているだろう? この学院では『貴賤問わず』だよ」
確かに、
『学院内では貴賤を問わず、皆一同に学問の徒』
という建前の元、この学院内ではお互い名前のみを呼び、家名は明かさないのが決まりではあった。
だがその身なりの良さや、付き合う人間などから誰が高位貴族なのかはおのずと知れる。
多分貴族どうしならばお互いの名字も知れているのだろうが、農民出身で友人の少ないアズレイアには知る術がない。
どのみち彼のようなお貴族さまたちは、同じ貴族のお仲間としか関わらず、アズレイアのような平民とは視線も合わせぬものである。
正直それで問題ない。
なんせ住む世界が全く違うのだから。
だがその日、なんの悪戯か、気の迷いからか。
そんな高位貴族の中でもひと際目立つレイモンドが突然、アズレイアに個人的に話しかけてきたのだ。
「君は……確か、アズレイア嬢だったかな?」
「アズレイアで結構です」
「ああ、そうだねアズレイア。それでその本だけど──」
その日、傾きかけていた日が落ちきって、図書館が閉じるまでの短い時間。
彼と何を話して、どうやって書架をあとにしたのか、アズレイアは思い出すことができない。
唯一思い出せるのは、彼と過ごしたその短い時間の特別感。
思い返せば多分あの時すでに、アズレイアはいとも簡単に恋に落ちていた。
☆ ☆ ☆
「賢い アズレイア、今日は何を読んでいるの?」
その日を境に、書架にひきこもるアズレイアの元にレイモンドが顔を出すようになった。
最初は今読んでいる本の子細やら、他愛ない学校の話やら。
そのうち話題は授業や教授陣の批評、研究技法、魔術とはなんたるやに至るまで広がり、話題は尽きることがなく、二人の会話は日々少しづつ増えていく。
「ほら、夜道に女の子の一人歩きは危ないよ。送っていくから暗くなる前に帰ろう」
農民出のアズレイアにとって、王城の夜道など明るくて歩きやすいことこの上ない。
だが、そんな優しい気づかいをアズレイアにもしてくれるレイモンドに、彼女の心が少しずつ溶かされていく。
よく通る柔らかいテノールや繊細なしぐさ、飽きることない巧みな話術。
一度心をゆるせば、後はだるま式に彼の魅力が見えてくる。
気づけばいつの間にか、アズレイアは書架で彼に会うのを楽しみに図書館へ通うようになっていた。
アズレイアの胸に深く傷を残すその事件。
その始まりは、彼女がまだ王立魔術学院の研究院生の頃だった──。
☆ ☆ ☆
歓談厳禁の王立図書館、物音ひとつしない書架の端。
当時、窓際の学習机はアズレイアのお気に入りの場所だった。
ここには飽きずに嫌味を繰り返すリザのような女子もいなければ、アズレイアを悩ます教授からの呼び出し状も届かない。
最終学年になり、履修科目はすでになく、実習研究もすべて終えていた。
よってアズレイアには、図書館にひきこもっていたからって誰かに文句を言われる筋合いもない。
研究院の四年目は、自分を指名してくれた師の元で研究するのが常だ。
アズレイアもモントレー教授の研究室に所属している。
だがその頃、アズレイアは自分の研究とは関係ない、たいへん私的な事情で自分の研究室にいづらくなっていた。
だからその日、アズレイアは当然のように寮から自分の所属する研究室ではなく、まっすぐこの図書室へ向かった。
磨りガラス越しに射し込む秋の柔らかい光と、手元には尽きることのない研究資料。
王城のどこかから訓練中の兵士たちの掛け声が響いてくるが、今のアズレイアの耳には届かない。
飲むこと、食べることを心配せずに、ただただ研究だけしていられるなんて、なんて贅沢なことだろう。
日中村の仕事を受けながら、夜の僅かな時間で勉学に励んでいた農村での生活とは雲泥の差である。
だからアズレイアには、どんな地道で終わりのない実習作業も文献検証も、全くもって苦にならない。
日がな一日王立図書館に閉じこもり、過去文献をあたっては自分の研究にかかわる見落としがないか確認を続ける。
他の研究者には苦痛にもなりうるこの作業時間も、アズレイアにしてみればただただ幸せな時だった。
日が傾くと、図書館内の人気はまばらになってくる。
風がいたずらに窓を叩き、アズレイアの集中が途切れかけたその時。
ふと手元の書物に影が差す。
図書館内の明かりは限られている。
後ろに立たれたら見えなくなるのは当たり前。
ひとの読書を邪魔するのはどこの誰よ?
アズレイアが険を帯びた眼差しを後ろに向けると、そこにはやけに身なりのいい青年が一人。
必要以上に近くに立って腰をおり、アズレイアの読む本を肩越しに覗き込んでいた。
「ずいぶんと難しい本をずっと一人で読んでるんだね」
磨りガラスを通して乱反射するオレンジ色の光があふれる書架の間、響いた声の主と視線があった途端、アズレイアは思いがけず自分が赤面していることを自覚した。
声をかけてきたのは、小娘ならば誰もが一度は夢見るような美青年だった。
透けるように薄い金髪と涼やかなアイスグレーの瞳。
けぶるような長いまつげの隙間から、アズレイアの手元の書物に視線を走らせている。
「レイモンド……様?」
「ああ、僕のこと、知っていたんだ」
確かに、彼のことは知っていた。
とくに恋愛に興味がないアズレイアでも、あれだけ周りが噂していれば嫌でも覚える。
しかもアズレイアとは同学年。
ただし彼とアズレイアの間に、接点といえるようなものは今までなにもない。
しいて言えば、同じモントレー教授の研究室に席をおいているが、アズレイアは彼を研究室で見かけたことは一度もなかった。
「『さま』はいらないよ。君だって知っているだろう? この学院では『貴賤問わず』だよ」
確かに、
『学院内では貴賤を問わず、皆一同に学問の徒』
という建前の元、この学院内ではお互い名前のみを呼び、家名は明かさないのが決まりではあった。
だがその身なりの良さや、付き合う人間などから誰が高位貴族なのかはおのずと知れる。
多分貴族どうしならばお互いの名字も知れているのだろうが、農民出身で友人の少ないアズレイアには知る術がない。
どのみち彼のようなお貴族さまたちは、同じ貴族のお仲間としか関わらず、アズレイアのような平民とは視線も合わせぬものである。
正直それで問題ない。
なんせ住む世界が全く違うのだから。
だがその日、なんの悪戯か、気の迷いからか。
そんな高位貴族の中でもひと際目立つレイモンドが突然、アズレイアに個人的に話しかけてきたのだ。
「君は……確か、アズレイア嬢だったかな?」
「アズレイアで結構です」
「ああ、そうだねアズレイア。それでその本だけど──」
その日、傾きかけていた日が落ちきって、図書館が閉じるまでの短い時間。
彼と何を話して、どうやって書架をあとにしたのか、アズレイアは思い出すことができない。
唯一思い出せるのは、彼と過ごしたその短い時間の特別感。
思い返せば多分あの時すでに、アズレイアはいとも簡単に恋に落ちていた。
☆ ☆ ☆
「賢い アズレイア、今日は何を読んでいるの?」
その日を境に、書架にひきこもるアズレイアの元にレイモンドが顔を出すようになった。
最初は今読んでいる本の子細やら、他愛ない学校の話やら。
そのうち話題は授業や教授陣の批評、研究技法、魔術とはなんたるやに至るまで広がり、話題は尽きることがなく、二人の会話は日々少しづつ増えていく。
「ほら、夜道に女の子の一人歩きは危ないよ。送っていくから暗くなる前に帰ろう」
農民出のアズレイアにとって、王城の夜道など明るくて歩きやすいことこの上ない。
だが、そんな優しい気づかいをアズレイアにもしてくれるレイモンドに、彼女の心が少しずつ溶かされていく。
よく通る柔らかいテノールや繊細なしぐさ、飽きることない巧みな話術。
一度心をゆるせば、後はだるま式に彼の魅力が見えてくる。
気づけばいつの間にか、アズレイアは書架で彼に会うのを楽しみに図書館へ通うようになっていた。
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