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第三話 蕎麦屋の神隠し(一)
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浅草は観音様のお膝元、雷門と駒形堂を繋ぐ参道沿いの、駒形は駒形でもちょいと西に入った裏小道に、小洒落た赤紫の暖簾を垂らし、涼しげな表を構える水茶屋『はなや』の名物。
きゃらきゃらと玉を転がしたような可愛らしい『お玉』の笑い声と、むっつり無言の『小菊』。
愛想はただよと振りまいて、店来る客全てを一瞬で惹きつけるお玉の人気は高い。
お玉の十六とは思えぬふくよかな腰つきと、襟足から覗くもっちりとした白肌は、見るからに今が旬の食べごろだ。
お仕着せに押し切られる貧相な体と、基本突っ立ってるだけの小菊とは大違い。
あとニ年。
小菊は、店中の視線を一身に集め、しゃらしゃらと練り歩くお玉を見ながらそう思う。
お玉に人気が集まるのは、お玉が正に綻ぶ寸前の花のような可憐さと妖艶さの中間に今あるからだ。
だが、女子のそんな旬はほんとうに短い。
大人びたお玉はあっという間に本当の大人の女になって、この店の看板から外れることだろう。
それでも一度浴びた衆目の心地よさは簡単には忘れられず、大概の娘は売るものを愛想と愛嬌から春と褥に落としてしまう。
愛想はいくら売ってもただだけど、春は売れば売るほど安くなる。
そうして気づけばこも引いて夜を渡り歩く夜鷹(最底辺の売春婦)になって、最後は大川べりに骨を晒すのだ。
まあ、お玉ちゃんはそんな柔い玉じゃあなさそうだけど。
小菊は知っている。あれでお玉ちゃんはまだおぼこだ。あれだけ頻繁に上客を相手しつつも、絶対に一線を超えさせない手管と話術。……まあ、手管に関しては小菊の入れ知恵もあるのだが。
爺がこさえた団子やら串焼きの豆腐やらを客に運びながら、小菊はお玉に授けた手練手管を思い返してにやりと笑う。
水茶屋の娘とは思えぬ無愛想な小菊の珍しい笑みに、田楽を出された常連客のほうが思わず手を引っ込める。
が、小菊は別段気にもせず、田楽を客の横に置いてすっと笑顔を引っ込めた。
ほっとして田楽代を払おうとした客がそのまま凍りつく。
無愛想に手を出していた小菊が、今暖簾を分けて入ってきた客を見た途端踵を返し、脱兎のごとく逃げ出したからだ。
だが、小菊が店の奥に引っ込むよりも早く、婆がひょいっと小菊のお仕着せの首根っこをひっつかむ。この婆は、老婆のくせに身のこなしは素早いし力も強い。
お仕着せの襟に首元を締められて思わずぐぅと鳴いた小菊に、婆は容赦なく待ったをかける。
「黒木の旦那がいらしたのに、なに逃げ出そうとしてるんだい」
文句の一つも返したいが、勢いのまま首元を締められた小菊はまだ声も出せない。
その腰にくるりと太い男の腕が巻き付いた。
「上借りるぞ」
そう言い切る男に婆は文句も言わぬ。
それどころか「今茶を持っていきますから」などと言って用意を始める。
俵のように抱え上げられた小柄な小菊は、ぶぅと不貞腐れつつも、されるがまま二階へと運ばれていくのだった。
❖
小菊には苦手なものが三つある。
雷と母『菊絵』のお小言とそしてこの黒木という同心だ。
「婆さんから使いの小僧が来たぞ」
二階の小部屋に小菊を放り込み、今入ってきた襖を静かに閉じた黒木は、その襖を背にして座る。両の手を黒巻羽織の袖に突っ込んで、腕組みしながら不承不承黒木に向き合って座った小菊を睨む。
小菊はまだぶぅと膨れっ面のままだ。
「拾物を出せ」
単刀直入にそう言った黒木をちろりと盗み見る小菊。
黒木はこの一帯の定町廻り同心だ。
親も同心なら爺さんも同心という、思い出せる限り代々同心を続けてる同心の鏡のような同心。
だがそれは裏を返せば、代を重ねても出世できる者が一人もいなかった、とも言える。
小菊は渋々、今朝酔っ払いの棒振りから取り上げた紙入れを懐から取り出す。
それをひったくるように取り上げて、黒木がにやりと黒い笑顔を浮かべた。
「なんだ、菱屋のご新造さんの紙入れじゃねぇか」
ちっと小菊は小さく舌を鳴らす。
こいつも知ってやがったか。
嵩張る紙入れは、すれないように懐紙に巻いて、懐からその表がぎりぎり見えるまではみ出させて歩く。挿した鏡の花鎖りを帯より下げて、しゃらしゃらと鳴らして歩く。
一点ものの紙入れは女の見栄看板のようなものなのだ。
「こいつは俺からちゃんと届けを出しておく」
ふん、そんで礼金もお前さんの懐行きだろ、この猫ばば同心。
小菊は胸内で悪態をつく。
小菊だって決してあのまま紙入れをくすねたりするつもりはなかった。
ただ、地審番にこの男がいない時間を見計らって届けを出しに行きたかったのだ。
定廻りのくせにこの男、当番の月は毎日番屋で茶を飲んでやがる。
そのくせ帰りは暮れ六つどころか、七つも聞かないうちに姿を消すのが常だった。
だから小菊はこいつが夜番の爺さんと交代で帰るのを見計らって届けに行くつもりだった。
別に小菊が正直者だから届けるって訳じゃあない。
あの紙入れにはまだ一朱金が三つ、合わせて四朱も入っていたのだ。
江戸で拾物は拾い主に半分の決まりだ。
それだけでも二朱。しかもあの絹の紙入れはその品自体が相当の値うち物、それに加えて見栄っ張りの菱屋のご新造さんのお気に入りだ。
礼金はかなりの値が期待できた。
それが全部、こいつの懐行きだ。
腐る小菊を見下ろして、黒木が手を差し出してくる。
無視を決め込む小菊をぎろりと睨み、「早く出せ」と手を振ってみせる。
渋々、今日小吉から預かった小判を帯の間から引き出した。
「これだけか?」
「これだけだよっ」
まだ疑わしげにこちらを見る黒木に、小菊が噛み付くように返事を返す。
それを満足そうに見返して、黒木はさっき婆が頼みもしないのに出してった茶に手をつけた。
「さて、今回は一割払うか話をするか」
これまたいつものやり取りである。
婆が黒木を呼んだのには訳がある。
こんな水茶屋で小菊のような小娘が一両なんて大金を持ち歩いてて良いことはない。
良くて小菊が夜道で襲われて、悪けりゃ茶店が襲われる。
だが、ここは観音様のお膝元。魚河岸千両、歌舞伎千両、夜は花街で千両動くってぇお江戸のど真ん中。町人だってそれなりに稼ぎを出すし、大金持つのも小菊だけじゃァない。
それをこの黒木って同心は上手く利用してるのだ。
いくらごろつきでも、相手にしちゃぁいけない相手くらいは知っている。まかり間違ってもその辺の浪人や渡世人は、黒巻羽織の定廻り同心に喧嘩をふっかけたりしやしない。
だからこうして黒木は『金預かり』を裏の生業にしていた。無論取り分は取られる。だが、茶店に押し込みに入られるよりはましだ。
そう考えて、婆がとっとと使いを出しちまった。
まあ、どの道他に手はないのだが、紙入れまで取り上げられたのはかなり癪だ。
「お話で」
不機嫌そのものの声で小菊がぶっきらぼうに返す。
「手数料溜め込んでくれてもいいんだぞ。そのうち千両にして俺が買ってやろう」
この下衆が。
視線で殺せんかとばかりにぎりりと黒木を睨みつけ、小菊が声に怒りを載せて繰り返す。
「お話で」
苛立ちがにじむ小菊をにやにやと笑いつつ見る黒木。
「そうかなら仕方なし。では聞こう」
婆の出した茶を啜り、目を細めた黒木は嬉しそうにそう言った。
きゃらきゃらと玉を転がしたような可愛らしい『お玉』の笑い声と、むっつり無言の『小菊』。
愛想はただよと振りまいて、店来る客全てを一瞬で惹きつけるお玉の人気は高い。
お玉の十六とは思えぬふくよかな腰つきと、襟足から覗くもっちりとした白肌は、見るからに今が旬の食べごろだ。
お仕着せに押し切られる貧相な体と、基本突っ立ってるだけの小菊とは大違い。
あとニ年。
小菊は、店中の視線を一身に集め、しゃらしゃらと練り歩くお玉を見ながらそう思う。
お玉に人気が集まるのは、お玉が正に綻ぶ寸前の花のような可憐さと妖艶さの中間に今あるからだ。
だが、女子のそんな旬はほんとうに短い。
大人びたお玉はあっという間に本当の大人の女になって、この店の看板から外れることだろう。
それでも一度浴びた衆目の心地よさは簡単には忘れられず、大概の娘は売るものを愛想と愛嬌から春と褥に落としてしまう。
愛想はいくら売ってもただだけど、春は売れば売るほど安くなる。
そうして気づけばこも引いて夜を渡り歩く夜鷹(最底辺の売春婦)になって、最後は大川べりに骨を晒すのだ。
まあ、お玉ちゃんはそんな柔い玉じゃあなさそうだけど。
小菊は知っている。あれでお玉ちゃんはまだおぼこだ。あれだけ頻繁に上客を相手しつつも、絶対に一線を超えさせない手管と話術。……まあ、手管に関しては小菊の入れ知恵もあるのだが。
爺がこさえた団子やら串焼きの豆腐やらを客に運びながら、小菊はお玉に授けた手練手管を思い返してにやりと笑う。
水茶屋の娘とは思えぬ無愛想な小菊の珍しい笑みに、田楽を出された常連客のほうが思わず手を引っ込める。
が、小菊は別段気にもせず、田楽を客の横に置いてすっと笑顔を引っ込めた。
ほっとして田楽代を払おうとした客がそのまま凍りつく。
無愛想に手を出していた小菊が、今暖簾を分けて入ってきた客を見た途端踵を返し、脱兎のごとく逃げ出したからだ。
だが、小菊が店の奥に引っ込むよりも早く、婆がひょいっと小菊のお仕着せの首根っこをひっつかむ。この婆は、老婆のくせに身のこなしは素早いし力も強い。
お仕着せの襟に首元を締められて思わずぐぅと鳴いた小菊に、婆は容赦なく待ったをかける。
「黒木の旦那がいらしたのに、なに逃げ出そうとしてるんだい」
文句の一つも返したいが、勢いのまま首元を締められた小菊はまだ声も出せない。
その腰にくるりと太い男の腕が巻き付いた。
「上借りるぞ」
そう言い切る男に婆は文句も言わぬ。
それどころか「今茶を持っていきますから」などと言って用意を始める。
俵のように抱え上げられた小柄な小菊は、ぶぅと不貞腐れつつも、されるがまま二階へと運ばれていくのだった。
❖
小菊には苦手なものが三つある。
雷と母『菊絵』のお小言とそしてこの黒木という同心だ。
「婆さんから使いの小僧が来たぞ」
二階の小部屋に小菊を放り込み、今入ってきた襖を静かに閉じた黒木は、その襖を背にして座る。両の手を黒巻羽織の袖に突っ込んで、腕組みしながら不承不承黒木に向き合って座った小菊を睨む。
小菊はまだぶぅと膨れっ面のままだ。
「拾物を出せ」
単刀直入にそう言った黒木をちろりと盗み見る小菊。
黒木はこの一帯の定町廻り同心だ。
親も同心なら爺さんも同心という、思い出せる限り代々同心を続けてる同心の鏡のような同心。
だがそれは裏を返せば、代を重ねても出世できる者が一人もいなかった、とも言える。
小菊は渋々、今朝酔っ払いの棒振りから取り上げた紙入れを懐から取り出す。
それをひったくるように取り上げて、黒木がにやりと黒い笑顔を浮かべた。
「なんだ、菱屋のご新造さんの紙入れじゃねぇか」
ちっと小菊は小さく舌を鳴らす。
こいつも知ってやがったか。
嵩張る紙入れは、すれないように懐紙に巻いて、懐からその表がぎりぎり見えるまではみ出させて歩く。挿した鏡の花鎖りを帯より下げて、しゃらしゃらと鳴らして歩く。
一点ものの紙入れは女の見栄看板のようなものなのだ。
「こいつは俺からちゃんと届けを出しておく」
ふん、そんで礼金もお前さんの懐行きだろ、この猫ばば同心。
小菊は胸内で悪態をつく。
小菊だって決してあのまま紙入れをくすねたりするつもりはなかった。
ただ、地審番にこの男がいない時間を見計らって届けを出しに行きたかったのだ。
定廻りのくせにこの男、当番の月は毎日番屋で茶を飲んでやがる。
そのくせ帰りは暮れ六つどころか、七つも聞かないうちに姿を消すのが常だった。
だから小菊はこいつが夜番の爺さんと交代で帰るのを見計らって届けに行くつもりだった。
別に小菊が正直者だから届けるって訳じゃあない。
あの紙入れにはまだ一朱金が三つ、合わせて四朱も入っていたのだ。
江戸で拾物は拾い主に半分の決まりだ。
それだけでも二朱。しかもあの絹の紙入れはその品自体が相当の値うち物、それに加えて見栄っ張りの菱屋のご新造さんのお気に入りだ。
礼金はかなりの値が期待できた。
それが全部、こいつの懐行きだ。
腐る小菊を見下ろして、黒木が手を差し出してくる。
無視を決め込む小菊をぎろりと睨み、「早く出せ」と手を振ってみせる。
渋々、今日小吉から預かった小判を帯の間から引き出した。
「これだけか?」
「これだけだよっ」
まだ疑わしげにこちらを見る黒木に、小菊が噛み付くように返事を返す。
それを満足そうに見返して、黒木はさっき婆が頼みもしないのに出してった茶に手をつけた。
「さて、今回は一割払うか話をするか」
これまたいつものやり取りである。
婆が黒木を呼んだのには訳がある。
こんな水茶屋で小菊のような小娘が一両なんて大金を持ち歩いてて良いことはない。
良くて小菊が夜道で襲われて、悪けりゃ茶店が襲われる。
だが、ここは観音様のお膝元。魚河岸千両、歌舞伎千両、夜は花街で千両動くってぇお江戸のど真ん中。町人だってそれなりに稼ぎを出すし、大金持つのも小菊だけじゃァない。
それをこの黒木って同心は上手く利用してるのだ。
いくらごろつきでも、相手にしちゃぁいけない相手くらいは知っている。まかり間違ってもその辺の浪人や渡世人は、黒巻羽織の定廻り同心に喧嘩をふっかけたりしやしない。
だからこうして黒木は『金預かり』を裏の生業にしていた。無論取り分は取られる。だが、茶店に押し込みに入られるよりはましだ。
そう考えて、婆がとっとと使いを出しちまった。
まあ、どの道他に手はないのだが、紙入れまで取り上げられたのはかなり癪だ。
「お話で」
不機嫌そのものの声で小菊がぶっきらぼうに返す。
「手数料溜め込んでくれてもいいんだぞ。そのうち千両にして俺が買ってやろう」
この下衆が。
視線で殺せんかとばかりにぎりりと黒木を睨みつけ、小菊が声に怒りを載せて繰り返す。
「お話で」
苛立ちがにじむ小菊をにやにやと笑いつつ見る黒木。
「そうかなら仕方なし。では聞こう」
婆の出した茶を啜り、目を細めた黒木は嬉しそうにそう言った。
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