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1章 思い出は幻の中に

19 思い出は幻の中に ― 2 ―

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 そのままアーロンは私の手を引いていつもの応接間に入った。

 片方のソファーに私を座らせ、自分は立ったまま持って来たお酒をグラスに注いでそれを手に暖炉に向かう。

 私に背を向けて立つアーロンはまだ火も十分な暖炉に新たな薪をくべ、壁の横に立てかけてあった火かき棒を手に取って無言で意味もなく灰をかき回し始めた。

 やがて大きくため息をつき、決心したようにこちらに向き直る。
 手にしたグラスを一気に煽って飲み干し、口を開いた。

「お前はどこまで覚えている?」

 そう問われ、私は一瞬答えに詰まる。

 覚えている、といえば全て覚えている。

 ただ、それは過ぎ去った時間の分だけ何度も何度も思い返してきたので、今ではどこまでが本当にあった事でどこからが自分の作り出してしまった幻想なのか、既に判別がつかない。

 なかなか答えを返さない私をどうせ大して覚えていないのだろうと判断したらしいアーロンは私の前のソファーに座り、自分のグラスに再びお酒をを注ぎながら先を続ける。

「お前は覚えていないかもしれないが、あれは今から8年前の冬だった」

 そう言ってアーロンは私の思い出が幻想などではなく事実だったと証明してくれた。


    ▽▲▽▲▽▲▽


 あの日小学校から帰ってきた私は、いつも通りキッチンに母の姿を求めて真っすぐに飛び込んだ。

 いつもはそこで私の帰りを待っている母が、その日に限りどこにも姿が見当たらない。

 買い物にでも出たのか、と大して気にも留めずにランドセルを背負ったまま冷蔵庫から麦茶を取り出し、グラスに注いでテーブルに置いた。おいて、そこに置かれた古びた鍵に気が付いた。

 それは少なくとも今まで見たことのない鍵だった。

 お話にでも出てきそうな、美しい飾りの彫り込まれた古い鍵だ。
 小学校に入って間もない私には、それはまるでお話の中から出てきた秘密の扉を開ける鍵に思えた。

 今思えば、その通りだったわけだが、無論その時の私は単なる遊び心でそのカギを手に冒険ごっこに出かけることにした。

 家中の扉の鍵穴にそれをあてがっては呪文を唱えてドアを開き、その先に広がる世界を思い描いた。

 どんなところだろう?

 美しい庭園のあるお城?

 それとも森の中の魔女の家?

 そうやって順番に回っていった最後に私は自分の部屋にたどり着き、その鍵穴に鍵を突っ込んだ。
 そう、入ってしまったのだ。
 入ったと同時に鍵が光った。

 驚いた私は勢いよく扉を開いたが、いつもの自分の部屋は何故か真っ暗で中が全然見えない。
 いくら冬の夕方だって普段はもう少し明るいはずだ。

 なのにまるで墨で塗りつぶしたように全く何も見えない。
 恐る恐る首を突っ込んで中をのぞき込む。

 やはり何も見えない。が、何か音が聞こえてくる気がした。
 耳を澄ませると何かの音楽のようだ。
 その音にひかれて一歩中に足を踏み入れる。

 まだ、よく聞こえない。

 もう一歩踏み出すがそれでもよく聞こえない。

 3歩目を踏み出したところで突然誰かに腕をつかまれた。

 びっくりして手っ込めようとしたが掴んだ腕は大きくて力強く、乱暴にぐいっと前に向かって引っ張られる。

「こんなところで何やってんだ!」

 掴んだ腕に引かれてパッと明るいところに引き出された。

 外の明かりに目が慣れれば目の前には忙しく人の通り過ぎる大きな通りと、その手前には数々の野菜が板張りのテーブルに並べられている。

 漏れ聞こえていた音楽は通りの反対側で数人のお爺さん達が奏でている楽器の音らしい。

 掴まれていた腕を再度ぎゅっと引き上げられ、その痛みにびっくりして見上げると私の手をつかんだひげもじゃのおじさんがコチラを睨みつけていた。

「は、離して!」

 怯えた私は力いっぱい腕を引っ張り、反対の手でおじさんの手をひっかいて身をよじり何とかその腕から抜け出した。

「こん中には金目のもんは何も入ってないぞ、とっとと出てけ!」

 そう言っておじさんは私にひっかかれた手を撫でながら乱暴に私を追い出した。

 追い立てられて後ろを振り返れば、どうやら私はおじさんの露店の裏に止められた馬車の荷台にいたらしい。
 転げ出た先は人通りがあるさっきの通りだ。

 と、その通りを見渡して私はあっけにとられた。

 その通りは土ぼこりが立ち上がる舗装も何もされていない道で、道幅いっぱいに人や馬車、荷車などが行きかっている。
 沢山の人がいるのに、どこにも黒い髪の人がいない。

 標識も、アスファルトも、電線もマンホールもない。

 代わりに道の両側には思い思いの荷車や馬車が止められ、先ほど私が追い出されたような小さな木の台を並べた露店が所狭しと並んでいる。
 その後ろにはぽつぽつと掘っ立て小屋のような家がいくつか並んでいる。

 道は前も後ろも見渡す限り人の波で、小さな私はその流れに押し流されながら一方に歩き出した。

 知らない人、知らない町、知らない道。

 一歩歩くごとに心細くなる。

 いつの間にか涙が溢れだす。
 次は顔が歪む。
 声を殺して泣き始める。
 殺していた声が、いつしか少しずつ大きくなり。
 やがて、母を呼びながらアーンアーンと大きな声で泣いた。

 どれくらい泣いていただろう?
 いつの間にか私の周りには少し人波から隙間ができ、泣き叫ぶ私を指さして見やる人が何人かいる。

 そんな中でぶっきらぼうな顔のおじさんたちが数人近寄ってきた。

 私を引き留め、名前を聞く。

 私の発音が悪かったのか、泣き声が混じったのか。
 彼らは私をエリではなく、アエリアと呼んだ。

 そして、暫くの間、どこから来たのか、親はどうしたのかと次々と質問してきたが、私の要領を得ない答えの繰り返しにしびれを切らし、一人が私の腕をつかんで引っ張り出した。

 そのまま泣きながら腕を引かれるままに付いていく。
 歩くうちに声はかれ、目は涙ではれ上がり、でも現状は何も変わらず、やはり涙が溢れてくる。

 そうしてしばらく行くと石積みの壁に行き当たり、私はその一端に作られた細長い建物に連れ込まれた。

 今考えればあの時私を連れ歩いた人達は実は本当に良い人達だった。
 人攫いでもなんでもなく、迷子の私を辺境警備の出張所まで連れて行ってくれたのだ。

 ただ当時の私にはそんなことが分かるはずもなく、知らないおじさんたちから今度は強面の知らないおじさんたちに引き渡され、途端、恐怖と不安で火が付いたように泣き出した。

 困り果てたのはそこにいた兵士たちだ。
 『泣く子と地頭には勝てない』と、取りあえず私を空いていた牢屋に放り込みそれぞれの持ち場に戻って行ってしまう。

 私は暫く泣いていたがやがて誰も相手にしてこない事に逆に少し落ち着きを取り戻し、通りに面した牢屋から外の様子を伺い始めた。

 町は既に夕暮れの帳をまとい、あちこちで火をたいたり、店の明かりを入れたりしている。
 どこからか、食べ物の匂いが町の猥雑な匂いに混じって漂ってくる。
 それがよりわびしさを増して、ひざを抱え込んで丸くなる。
 そうしている内にいつの間にか眠りに落ちた。

 次の日目を覚ましても、世界は何も変わっていなかった。

 固い牢屋の床で寝てしまった私はあちこちが痛む体をさすりながらゆっくりと起き上がった。

 牢番をしていたらしき若い兵士が私に気付き、牢の扉を開けて水の入ったコップを渡してくれた。
 それに口をつけた私を見て、兵士は私に恐る恐る声を掛けた。

「どうだ、落ち着いたか? 話ができそうか?」

 どうやら兵士たちは子供のあやし方など知らず、仕方がないから私が泣き止むまで放って置く事にしていたらしい。
 目を覚ましてから静かな私の様子を見てやっと声を掛けてきた。

 私は泣いたまま寝てしまったせいで盛大にはれ上がった瞼をこすり、枯れて出にくくなった喉をもらった水で潤してからやっとのことで返事を返した。

「……うん」

 頼りないながらも返ってきた返事に勇気づけられるように若い兵士が質問を続ける。

「そうか、じゃあ、お前は自分がどこから来たか、わかるか?」

 私はうつむいて首を振った。

「じゃあ、帰り道はわかるか?」

 またもや首を振る。

「誰か一緒じゃなかったのか?」

 そこで思わず涙がこぼれた。

「お母さん、どこ? どこに行ったの?」

 若い兵士は今にも泣き出しそうになった私を『危険物』とでも言う様に慌てて背中を叩いて木の皿を差し出す。

「ほ、ほら、まずこれ食いな」

 そう言って、木でできたスプーンを皿の中の液体に突き刺した。
 皿の中には何かオレンジ色のドロッとしたスープのような物が入っていた。

 だが、そこでつい最近小学校で教えられたことを思い出す。

『知らない人から物をもらったり、ついていっちゃだめですよ。』

 その『常識』で考えれば正しい忠告は、さて、この『常識外れ』の状況で私を窮地に追いやった。

 今一つ自覚はないが多分お腹は空いている。
 胃の辺りが痛くてこれが空腹なのかそれとも何か別の病気なのか定かではないが。

 そんな私を『お腹が空いてない』と判断したその若い兵士は大して待ってもくれずにスープをひっこめてしまう。
 ひっこめられると途端、ひどく惜しい事をしたと後悔する。

 若い兵士はいつまで経っても上手く言葉にして返事が出来ない私にしびれを切らし、私を後ろに置き去りにして他の兵士に呼ばれてどこかへ行ってしまう。

 また牢屋の中で一人ぼっちになり、心細くなる気持ちを紛らわせながら外を見ていると!

 波のような色とりどりの髪をした人々の流れの中に、たった一人、真っ黒な髪の人間がすぐ近くを通り過ぎていく。
 私は慌てて反射的にその人に駆け寄った。

「まって、そこの人まって、」

 そう言って走り寄った私に最初は気づかずに歩き去ろうとしていたその黒髪の人は、近づいてみるとまだ大人とは言えない、若いお兄さんだった。

 しかし、振り返ったその顔を見て私はがっくりと肩を落とす。
 彼は確かに髪も目も黒かったのだが、その顔は彫りが深く、肌は透けるように白く、どう見ても私と同じ『日本人』には見えなかった。

 期待を裏切られ一瞬のうちに叩きのめされた私はボロボロと目から涙を溢れさせ、ワーッとその場で泣き出した。

 驚いたのは彼の方だろう。
 突然後ろから声を掛けられ引き留められたかと思ったら、自分の顔を見たとたん小さな子供がワンワンと泣き出したのだ。

 彼は慌てふためいて、私の口を手でふさぐと、きょろきょろと周りを見回してすぐさま私を抱えるようにして物陰に走りこんだ。

「おい、泣くな」

 そう言って私の頭を撫でてくれるが、一度持った希望を叩き折られた私はそう簡単に泣き止まない。

 何時までも泣き止まない私を困った顔で暫く撫でてくれていたが、ふと思いついたようにまだ泣きじゃくる私を近くの崩れた石塀に座らせ、ごそごそと黒いローブの裾の中を探ったかと思うと真っ赤なリンゴをひとつ取り出した。

 リンゴを手に一瞬迷って、それからローブを開いてごしごしと丁寧に自分のシャツの端で磨き、服の中から取り出したナイフでそのリンゴを半分に切って私に突き出す。

「ほら、くえ」

 そのあまりにぶっきらぼうな好意をどうしていいのか分からず、私はただ少年の顔を見つめたまま動かなかった。取りあえず、涙も止まった。

 少年は動かない私を暫く見つめていたが、あきらめたように一旦リンゴを横に置き、私を石塀から立たせ、今度は自分が崩れた石塀に座り、その膝に私を抱え込んで座らせた。
 そして、大人しく座った私を片手で支えながら、もう一方の手で先ほど切り分けた半分のリンゴをつかんで私の口に押し当てる。

「ほら、取りあえず食え」

 唇に当てられたリンゴは、とても瑞々しく、そこから鼻に立ち上がった甘ずっぱいリンゴの匂いに誘われるままに私は一口かじりつく。
 口の中に広がるリンゴの甘みと、かみしめる度にする口の中のシャクシャクという音が突然自分の心をこの世界と繋げたように感じられ、世界が色に満ちる。

 目の前の少年の顔が少し輝いて、もっと、もっととリンゴの位置を変えながら私の口に押し当てる。

 また涙が流れたが、今度は泣き声が出ない。

 食べてるからだけではない。

 暖かい涙が頬を伝った。


    ▽▲▽▲▽▲▽


 そして、今、アーロンが語るあの日の話を聞いている私の頬にもあの時と同じ、暖かい涙が伝っていた。
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