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1章 思い出は幻の中に

6 憧れは夢の彼方に ― 5 ―

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 突然置いてけぼりを食らった私は、暫くアーロンの影を探して屋敷の中をうろうろと歩き回ったが、
 やがて本当にいなくなってしまったのを確認して、ふーっと大きなため息をついた。

 応接間のソファーに戻ってゆっくりと座り直す。

 はー、なんか今日はいろいろあったなぁ。
 一気に気が抜けてしまった。

 長い一日を思い返してみる。

 朝は緊張でバリバリだったのだが、時間より早く面接場所についてみれば突然のアーロンの出現に驚かされ、あれよあれよという間に考えられないような好条件を目の前にチラつかされて有頂天になったかと思ったら、一気に地獄に叩き落された。

 こんな精神的に上がり下がりの激しい一日は生まれて初めてだ。

 いや、正直にいえば、こんな一日、私の二つの人生で2回目だ。

 そう、私は二つ、人生を回っている。

 いや、ちょっと違うな、私は2つの人生を一度に回っているのだ。


    ▽▲▽▲▽▲▽


 詳しくは省くがある時私はアチラの世界からコチラの世界に迷い込んだ。

 アチラの世界で普通の家に住み、両親もいて、小学校にも通い始めていた私は突然誰も知る人のいないコチラの世界のこの辺境の地に放り出された。

 当時まだ小さかった私は何が起きたのか全く分からず、泣きながら町の中を親を求め歩き回った。

 小さな子供が泣き続け歩き回っているにもかかわらず一向に親が迎えに出てこない。
 やがて泣き歩く私を暫く横目で見ていた露天商の商人たちが、私が捨てられたか道に迷ったようだと考えて辺境警備隊の出張所に引き渡した。

 人生初の独りぼっち、人生初の牢獄。

 生まれて初めての孤独と恐怖の中にいた幼い私の目の前にアーロン様が現れた……

 あの日アーロン様は私に「特別な一日」を下さり、そして突然いなくなられた。

 アーロンが去った後、誰も迎えに来る者がいなかった私は結局孤児として修道院に引き渡された。
 アーロンとの思い出を胸に、いつかきっと魔術師になってアーロン様に会いに行くのだ、と心に誓って。

 その後、私はすったもんだの末アチラとコチラを越えるタイミングを自分で選択する術を身につけたわけだが、それはまた別のお話。

 それからというもの私はアチラの世界での平穏な日々とコチラの世界の底辺ながらも魔法が使える生活を毎週毎週繰り返してきたのである。

 ただしどうやらコチラで過ごす時間とアチラで過ごす時間は流れる時間が違うようだ。
 どういう仕組みなのかは知らないが、私がコチラにいる時間、アチラでは少しゆっくり時間が流れる。
 私がアチラにいる時間、こちらではほとんど時間が流れない。
 だから毎週アチラの生活とコチラの生活を送る、本当の二重生活である。

 私ははっきりとした目標があるコチラの世界では精一杯生きて、アチラの世界ではぬるま湯の様な生活をダラダラと過ごした。

 そんな生活を十年以上過ごした結果、アチラの世界では大学にも行かず実家に住み、家事手伝いとパートの日々を送る立派な行き遅れとなっている。

いいんだもん。
私、こっちではもうすぐ16歳の花盛りでこれからだから。

 ここまでずっと2つの人生を走り続けてきた私は今日、本来の私の最大の目標だった「アーロン様」に再会し、人生の目標のあと一歩、というところまで行ってそこから一気に地獄の底まで叩きつけられたのである。
 もう歩み続けるための目標も私を心の中で支え続けてくれる憧れの存在も、何もない。

 そう、私は今日、人生の終点についてしまったのかもしれない。

「おい、お前まさか、あれからずっとここにいたのか? 掃除はどうしたんだ?」

 既に日は落ちて真っ暗になって暖炉の光のみで照らし出されている部屋の中にいつの間にかアーロンが立っていた。
 声を掛けられて長い思考の海から浮上した私は、ふっとアーロンの顔を見つめる。

 そう、全てはこいつのせいだ。
 すべてはこいつがこいつがこいつが!

「お、おい、どうした、なんだ?」

 私は頭の中で結論に至り、言葉に出す前に行動に移っていた。

「キィィィィィ!」

 そう、アーロンに襲い掛かったのだ。

 と言っても、がっちりと鍛え上げられた軍人さながらのアーロンにひよっこの小娘の私の力が何の凶器にもならないのは勿論、襲い掛かっているとさえ認識してもらえていない。
まるで猫がじゃれつくのをなだめる様に軽くいなされてソファーに押し倒されてしまった。

「落ち着け、悪かった、こんなに遅くなるとは思ってなかった。腹が減って苛立つのはわかったから、まずは落ち着け」

 まるっきり見当違いの返答に癇癪を起しそうになるが、叩きつけているつもりの拳はまるで握手でもしているかのように軽くいなされ、蹴り上げる足もいつの間にか片足でソファーに押さえつけられてしまった。
 いつの間にか両腕も顔の両横で抑え込まれていた。
 体重を掛けられているのか、掴まれた手首が結構痛い。
 その痛みで少し正気が戻って改めて今の自分の体制と、乱れてしまったスカートの端が気になって声を上げた。

「や、ちょっと、痛いです! もう暴れないから退いてください」
「あ、悪い。重たかったか?」

 私がそう言ってどうやら大人しくなったのを確認したアーロンは私を引っ張りお越してソファーに座り直させ、自分も私のすぐ隣に腰かけた。

「取りあえず、今度は食うもんを持って来たからちょっと待て」

 そう言ってアーロンは、パッ、パッ、と手を空中に差し出しては光らせ、料理の乗った皿をまるで誰かから受け取ったかのように取り出してはコーヒーテーブルに並べていった。
 まるで息をするように上級魔法が目の前で繰り広げられているのだが、こうも日常的に使われるともう全然ありがたみが無い。

 それでもアーロンがテーブルに広げた夕食の数々はコチラの世界ではまずお目にかかったことのない手の込んだ調理と飾りつけの施された品々だった。

 湯気を立てるシチューのようなクリームの中にはまるで定規で図ったように形のそろった野菜が白っぽい肉の塊と共に礼儀正しく並んでいる。

 今摘んで来たばかりのように瑞々しい青菜の上には、ゆで上げられた白いアスパラガスのようなものと、刻んだ玉ねぎ、卵、ピクルスのような緑のツブツブが半透明のソースと共に掛けられている。

 少し深い皿に大ぶりの肉のスライスが等間隔に並べられ、トロットした濃い茶色の油が乗ったソースが薄く掛けられている。

 他にも数品の野菜と、丸くふわふわのパン、ワインのボトル、背の高いグラス、キラキラのカトラリー、大小の取り皿に真っ白な厚手のナプキン、と、所狭しとテーブルに並べられた数々の湯気を上げる食べ物の匂いに、私のお腹がキュゥーっと大きな音を立てた。

 今まで全く感じていなかった空腹が一気にせり上がってくる。
 固唾を飲み、ちらっとアーロンを見た。
 私の隣に座り直し、行儀よくナプキンを膝にかけ、そしてやっとコチラに視線を送ってくる。

「どうした、冷めるぞ」

 言い方は乱暴だが自分だけさっさと食べ始めるわけでもなく、もう一対のナプキンを私の膝にも乗せてくれ、小さめの取り皿と銀製のナイフ、フォークを私の前に揃えて、取り分け用のスプーンを添えて私が見つめていたシチューらしきものを渡してくれる。

「ありがとうございます」

 感謝の言葉が素直にこぼれ出た。
 そのまま、シチューを大量に自分の皿に取り分け、一口フォークで掬って口に入れる。
 アチラのホテルやたまに連れて行ってもらった高級レストランでさえ食べたことのない、絶妙の旨みが口の中に広がった。
 たっぷりのクリームが絡んだ甘いニンジンらしき物がめちゃくちゃおいしい。

 もう一口、もう一口、と次々に口に運び続ける。

 トロッとしたクリームをそれぞれの野菜や、鶏肉らしきものと共に飲み込む度に少しずつ幸福感がお腹に積み重なるように溜まっていく感じがする。

 お腹の中から温まり始まると今度は喉が渇いていたことに気付いた。

 スッと目の前に真っ赤なワインをなみなみと注がれたグラスが突き出される。

「そんなに急いで飲み込むとつっかえるぞ」

 あまりにいいタイミングで差し出されたワインにびっくりして見やると、アーロンはまだ自分の皿に手も付けていない。

「食べないんですか?」
「ああ、俺は今あまり腹が減ってない。いいからもっと食え」

 そう言ってワインの入ったグラスを私の手に押し付けて、空になった私の皿を取り上げ新しい小皿に変えて今度はサラダとホワイトアスパラガスを肉のスライスを数枚と共によそってくれる。

 慌てて受け取ったワインを一口飲んで、それからとんでもない事に気付いてグラスを返す。

「まって、待ってください、私まだ成人に至っていません。神の名のもとに神の血となる飲み物を口にしていい年にはなっていません」

 そう、コチラの世界の修道院で厳しくしつけられた私は、ワインなどのアルコール類は16になって成人として認められる儀式を終えるまでは決して口をつけてはいけないといわれ続け、そして一応守ってきた。
 まあ、アチラの世界ではとうに成人を越えているので舐めるくらいはしているが、あえて飲みたいと思った事もないしそれを強要する様な友人もいなかった。

 そんな私を、何言ってんだという顔でアーロンが見返す。

「何修道女みたいな固いこと言ってんだ?って、お前、本当に修道院育ちだったか」

 そのまま返したグラスをテーブルに置きながら、ぶつぶつと何か言っている。
これから教えることがありすぎる、とかなんとか聞こえたような気がするが気のせいだろう。

 山盛りに盛られた野菜やポテトを皿に追加してからそれを私に手渡しながら、変な事を言い出した。

「まあ、ワインはともかく、酒の味を覚えてもらわないと料理一つできないだろう」

 私はと言えば目の前に差し出された新たな皿に気もそぞろだが、取りあえず答える。

「いえ、修道院では何の問題もなく料理していましたが。別にお酒の味などに頼らずともおいしい料理は作れます」

 受け取った皿に盛られた数々の食欲をそそられる品々をフォークで一つづつ口に運んではその際立った味に口元をほころばせ、次々と消化していく。

「それは、お前が旨いものを知らないだけだ。ほら、勿体ないが少し軽くしてやるから、試してみろ」

 そういってグラスに手をかざしたアーロンはその手をグラスの上でひらひらと2回振り、それからヒュッと音を立てて光と小さな炎をグラスの中に出現させる。
 驚いて見つめる私に、あっという間に炎の消え去ったグラスを再び差し出した。

 正直、アチラの世界でも生活している私にとって修道院で身に着けた行儀作法はコチラの世界で誰からも怪しまれることなく過ごすための鎧のようなものであって、決して盲目的に信じているわけでも従順に従っているわけでもない。
 だから、わざわざ何か手を入れてくれたらしいそのグラスを断る理由は、私にはなかった。

 改めてグラスを受け取り、再度、口をつける。

 先ほどは瞬時に口の中に広がったアルコールの鼻に抜けるような香りが今はすっかり薄くなって、だがしかしワインの濃厚な味はあまり損なわれることなく私の喉を潤してくれた。

「……おいしいです」

 素直に驚いて、感想を述べる。

「それは良かったな」

 アーロンがさも嬉しそうに私を見やる。
 そのまなざしには今までの乱暴な輝きも尊大な色もなく、私はふと見とれてしまった。

 なんか頭がぼーっとする。
 薄くなってもやっぱりアルコールは入っているようだ。
 頭をちょっと振って、皿に目を戻し、再度そこによそわれている料理を忙しく口に運んでいく。
 順調に皿の上の料理を平らげ、グラスに注がれていたワインも飲み干してしまう頃には疲れも相まって目がトロンっとして来ていた。

「さて、十分食べたようだし、そろそろ寝るか」

 いつの間にかテーブルに並んでいた料理は全て綺麗に消え去り、私の隣に座っていたアーロンがさも当たり前のように私の後ろに足を延ばしてソファーに寝転がった。

 押し出されるように前に出た私の体を引き寄せるようにしてアーロンが私を自分の横に抱え込む。
二人の重みでソファーがゆったりと沈み込んだ。

 突然の事で、何が起きたのか頭が追い付かなかった。

 今まで甲斐甲斐かいがいしく私に食べ物を与えていたその大きな手が、今度は私を抱きかかえるようにして後ろから巻き付いている。私の頭のすぐ後ろにはアーロンの背中があり、その長い足の間に挟み込むように私の足が押し込まれている。
 アーロンはふと気づいたように片手を上げると、空中から一枚の毛布を引き出した。当たり前のように取り出した毛布を自分と私の上にかけ、さっさと体の位置を少しずつずらして自分が寝やすい位置を探そうとする。

ちょっと待って、なんか当たり前のように、私抱きしめられちゃってるよ?

 慌てて体を起こして逃げ出そうとするがアーロンの腕は実にたくましく、身じろぎ一つままならない。

「まって、待ってください。私、向こうで寝ます。離してください」

 そういって騒ぐ私の口をアーロンの大きな手が塞いだ。

「うるさい」

 うるさいって、うるさいって!

 アーロンはもごもごと手の中で文句を続ける私をさも面倒くさそうに一旦引き離し、今度は私の体を少し上にずらして、私の顔のすぐ横、首筋に顔を寄せて低く腰に響く声でつぶやいた。

「あまりうるさいと、襲うぞ」

 私はその一言で固まった。

 ダメだ、やばい、この悪魔は何をするかわからない!

 耳元でささやかれた声にほんとはちょっとドキドキしなかった訳ではないが、そんな事より私の貞操観念と危機探知能力がこのままは絶対にヤバいと警鐘を鳴らす。

 一気に色々ありすぎたしここまでの経緯で自分の立場が今一つ分からなかったんだけど、やっぱりそう言う意味の奴隷契約だったのかもしれない。
 こんな幼い私を奴隷にしてどうするつもりだと怪しんでたけど、そういう趣味の人だっているらしいし。

 これでも現代人だ。
 私だってチカンの一人や二人、会った事だってある。
 一応、クラスの男の子に告白された事だってある。

 私は、スッと一息空気を吸い込み、私の顔の横にくっ付けられていたアーロンの顔の方に向かって、思いっきり声を張り上げた。

「絶対に嫌です」

 はっきりと声にして言えば肝も据わる。
 私はフンヌっと力を込めて肘鉄をアーロンの胃の辺りに突き込んだ。

 まさか私がここまではっきりと拒絶するとは思っていなかったのだろう。アーロンは突然の攻撃に腕を緩め、顔を思いっきりしかめて耳元と胃に手をやった。

 その隙に抜け出した私はターッと駆け出して、応接室の入り口のところで振り返って、叫んだ。

「もう一度言います、絶対、絶対、嫌です」

 ショックを受けたようなアーロンの唖然とした顔に、ちょっとの良心の呵責と大量の満足を抱えて私は応接室を飛び出した。


    ▽▲▽▲▽▲▽


 応接室を飛び出したのはいいが、廊下は真っ暗なうえに、応接室以外に火を入れていなかった館内はどこもかしこも震えあがるほど寒かった。

 取りあえず窓から差し込む月の光を頼りにいくつかの部屋を回ったが、どこもかしこも埃だらけ、クモの巣だらけで1分と居られない。

 二階にも上がって寝室らしき部屋にも行き当たったが、ベッドは足が折れていたり底が抜けていたりマットレスがなかったりと寝るどころの話ではない。

 それでも立ち寄った中の一部屋で古くてボロボロの上に何か獣臭いながらも毛布らしきものを発見した。

 その後も頑張って一時間程はうろうろと散策しただろうか?

 どこもかしこも部屋の状況はひどいもので、整えられた現代のベッドと貧しいとはいえいつも必要以上に清潔に保つことを義務付けられていた修道院のベッドくらいでしか寝たことが無い私にはどうやっても我慢出来る物では無かった。

 冷え切った体が震えを止める事さえできなくなってきて、とうとう仕方なくすごすごとさっき飛び出した応接室に足を向ける。

 すごく嫌だけど、でも、あの部屋は最低限綺麗だったし、何より暖かかった。

 そう思った瞬間、さっきまで私を抱きしめていたアーロンの腕の中の暖かさが生々しく思い出されて、ひとりでに顔が赤くなる。

 何思い出してんだろう、私。

 頭を振り払い、応接間のドアを音を立てないように、静かにそーっと開けて、中を覗き込んだ。

 見やればアーロンは扉に背を向けてソファーに横たわり、毛布にくるまって寝息を立てている。
どうやら私が屋敷内を徘徊している間に勝手に寝てくれたようだ。

 ホッと一つ吐息をついて私は物音を立てないように静かに静かにテーブルの反対側に置かれたソファーに行って横たわり、臭いに顔をしかめつつさっき見つけてきた毛布を体に巻き付けてアーロンに背を向けた。

 暫くの間はいつアーロンが起きだして私に襲い掛かってくるかと恐々としていたが、疲れ切っていた上に初めて結構な量のアルコールを飲んだ私は5分も立たないうちにストーンっと深い眠りに落ちたのだった。
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