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第十二章 到達する物語とハッピーエンド
影法師とパエリア(その1) ※全4部
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あれは、綺麗な満月の夜だった。
俺っちはまだ、母ちゃんに抱かれているような気分で眠っていた。
ずっと、ずっと、そこは自然の音が豊かだった。
風の音、木々のざわめき、鳥と虫の獣の声、どれも俺っちの安眠を邪魔するものじゃなかった。
遠くから聞こえる滝の音が、今にして思えば俺っちの眠りを深いものにしていたのかもしれねぇ。
流れる水の音は赤ん坊が母親の胎内で聞く音に似ているって話だからよ。
だけど、そこに自然のものじゃない音が聞こえ始めた。
言葉らしいものだったてのはわかる、だけど意味はわからなかった。
なんせその時の俺っちは子供……、いや、やっと片言で会話できるくらいの幼子だったんだからよ。
そして、その日がやってきた。
俺っちを封じていた岩がパカリと割れ、光が射した。
月の光でさえ眩しいと感じるくらいの久しぶりの光。
「おや、あまりにも強大な妖力を封じた物だったから、どんな恐ろしい”あやかし”かと思ったら、可愛い坊やじゃないか」
「よー、よー、よーかいおー? パパ、じゃない……」
俺っちを封印から解いたのは八百。
妖怪王”八百比丘尼”。
「ママは? ママ―、どこー、ボクおっきしたよー」
「やれやれ、本当に子供だね」
「おばたん、だーれ? よーかいおー?」
「妖怪王は肩書きさ。私は八百。ボクのお名前は?」
「りょくらん」
「”りょくらん”か良い名だね」
「ママはどこ? ボクおなかすいた」
「腹が減っているのかい。無理もないね。そうだ、ここに握り飯がある。こいつをお食べ」
それまでは母ちゃんのおっぱいか、細かく刻まれた魚のスープしか食べたことがなかった俺っちが初めて見た米の飯。
真っ白でうまそうに見えたのを憶えている。
「や、ママがぱせてくれないと、たべない」
「ぱせて? ああ、食べさせてか。ほら」
「やー、ママがぱせてくれないと、たべない」
「本当に子供だね。なら、こいつは私が食っちまうよ」
その時の八百が食べた握り飯はやけにうまそうに見えた。
俺っちの腹もグゥゥーと鳴るくらいにはな。
「やっぱ、ぱえる」
「そうかい、じゃあ、こっちをおたべ」
八百が出してきたのは、真っ白じゃなく、少し茶色の焦げのある握り飯。
「ぱっきのとちがう」
「こいつは釜の底の焦げの握り飯さ。うめえさね」
…
……
「食わんのか? なら私がくっちまおうかなー」
「ぱえる、ボクぱえる」
「なら、あーん」
「あーん」
唇に触れた八百の指はほんのりと温かく、少しお香の匂いがしたのを憶えている。
パリッ
「これおいしー、ぱり、ぱりっ、あまーい」
俺っちが封印されたころの日本は砂糖どころか米すらあったか怪しい。
少なくとも、それが俺っち感じた初めての米の甘さだった。
釜でお米を炊く時に底に焦げが出来ちまうことはよくある。
でも、その焦げの部分はパリパリとした食感で、ほんのりと甘く、そして中の米の柔らさと相まって、幼い俺っちはその虜になった。
「もっと! もっと! ぱせて!」
「ほいほい。たんとおたべ」
俺っちは夢中になって食べ、そして寝た。
やがて朝が来て、俺っちは泣いた。
隣に母ちゃんがいなかったからな。
「ママ―、ままどこー! うっ、ぐすっ、おばたん、にーにー、パパーでもいい、どこー!」
「なんね、笑って寝て、起きたら泣き虫さんかね」
起きた俺っちの近くには薪と釜で米を炊く八百の姿があった。
「やお、ママしらない?」
「さあ? 知らないね。きっと、誰も知らないと思うよ」
「やー、やー、やだー、やー」
俺っちは大泣きしたさ、なんせ知らない場所でひとりぼっち、いやふたりっきりだったからよ。
「あー、もう、うるさいね。わかった、わかった、私が力を貸してやるよ」
「ママをみつけてくれるの?」
「ああ、一緒に探しちゃる。それと、坊やを鍛えてやるよ」
「きたえるって、つよくなること? パパみたいに?」
「そうさ、強くなるだけじゃなく、大きく、勇ましく、何よりも優しく、立派になるんよ。そしたら」
「そしたら、ママがむかえにきてくれる?」
「ちがうさね。そしたら、ママを見つけられるくらいの一人前の男になるってことさね。まずは、大きくなりんね」
八百が作ってくれた炊きたての握り飯は熱々で美味かった。
焦げの甘い香りがまだ立ち昇るおこげの握り飯はパリパリのパリパリで香ばしくって旨かった。
八百と母ちゃんを探す旅は楽しかった。
結局、母ちゃんは見つけられなかったけど、ひいひいばあちゃんには逢えたしな。
今でも”おこげご飯の握り飯”は俺っちの好物のひとつで、よく嬢ちゃんに作ってもらっている。
コイツも目覚めた時に八百が一緒に居てくれれば、こんなにはなりゃしなかっただろうによ。
俺っちだけじゃなく、嬢ちゃんや弟にまで敵意を向けるようなヤツになりゃしなかっただろうに。
俺っちの名は緑乱。
戦う相手、そいつの名も緑乱。
俺の影法師。
◇◇◇◇
「下がってな、嬢ちゃんたちに紫君。近づくと怪我するぜ」
俺っちがそう言うと、嬢ちゃんは「ええ、まあ、ママの話はまた今度で」と言いながら部屋の隅へと下がる。
「タマモママは、りょくらんのママだ。おまえたちのじゃない」
こいつもまぜっ返すなよ。
「あの悪そうな玉藻ってやつが、どうしてお前さんのママになっているかは知らねぇが。俺っちたちは無事にここから出たいんでな。邪魔をするなら無理やり通らせてもらうぜ」
「できっこない。りょくらんはムテキ。タマモママもそう言ってた。あのオロチたちも、りょくらんにはかなわなかった」
あの大蛇ってのは、藍蘭兄と蒼明のことだろうな。
ま、しゃーないか。
俺っちが封印された時、俺っちは小さくって兄たちのことなんて自覚してなかったからな。
憶えているのは俺自身の母ちゃんと他の母ちゃん、そして父ちゃんくらいだ。
イザナミひいひいばあちゃんと逢ってなければ、存在も知らなかったんだからよ。
「そうかい、できっこないか。ま、そう思うだろうな。お前さんの迷廊の権能は強えからよ。でも、俺っちは負けないぜ」
「むり、そっちのチカラよわい。りょくらんのほうがつよい」
「そうか。なら、試してみな」
「やる。ないてもしらないから」
ブオッと俺の影法師の妖力が膨れ上がり、そのままダッシュ一番とばかりに俺っちの胸へと叩きこまれる。
ゴオンッ!!
建設現場で鉄杭をハンマーで打ち付けるような音が宴会場に響き、嬢ちゃんの「ヒッ」という悲鳴が聞こえる。
だが、俺の身体はビクともしない。
「か、かたい!?」
「鍛え方とくぐり抜けた修羅場が違うってね。そらっ、お返しだっ!」
間合いに入ったのを幸いとばかりに俺も拳を振るう。
「そんなの、あたらないっっ──!?」
影法師の余裕の表情もなんのその、俺の拳はその腹を真芯で捉える。
「そらっ、もう一丁!」
俺の肩口からの体当たりまともにくらい、ヤツはバンッと吹っ飛ばされ壁にめり込む。
「ど? どうして!? どうしてあたっちゃうの? いままで、どんなやつのこうげきもあたらなかったのに!?」
「知ってるだろうが教えてやる。お前さんの使っているのは”迷廊の衣”。どんな攻撃でも迷わせてしまう、やっかいな防御結界みたいなもんだ」
「そ、そうだよ。タマモママもいってた。これがあるかぎりゼッタイいたくならないって」
絶対か。
おこちゃま向けの説明だな。
”迷廊の衣”は俺も昔使っていた防御結界。
夷狄妖怪との戦いでは重宝したもんさ。
「”迷廊の衣”ってのは便利なもんでよ。遠距離攻撃は行く先を迷わせ、近距離攻撃も拳を迷わせちまう。普通の攻撃はまず当たらなねぇ」
「そういえば夢の中で観ました! ヤング緑乱さんが八百比丘尼さんと一緒に西洋妖怪と戦った時も、全然攻撃があたらなかったことを!」
遠間から嬢ちゃんの声が聞こえてくる。
そう、その通り。
高い防御能力を持つ俺と、無限の回復力を持つ八百のふたりなら、他に誰の犠牲を出さずに勝つことが出来る。
そう思って俺たちは、ふたりっきりで夷狄妖怪と戦った。
ま、現実はそう甘くはなかったけどな。
「だが、万能無敵の防御結界なんてありゃしねぇ。”迷廊の衣”の弱点は迷いのない攻撃さ。これなら結界をくぐり抜けて当てられる。ご覧の通りにな」
だが、それを知ってても実践するのは難しい。
あの強大な妖力を前に拳が鈍るっての無理ねぇしし、藍蘭兄や蒼明じゃ兄弟相手に拳を迷わずに振るえねぇだろうからよ。
「さ、わかったろ。お前さんじゃ俺に勝てねぇよ。これ以上痛い目に遭いたくなきゃ、そのまま玉藻ママの所へ戻るんだな」
めり込んだ壁から抜け出したヤツは何が起きたか理解しているが、理解したくはない、そんな視線をその身体に落とす。
痛みに耐えるってのは経験が要る。
知らないことを体験するってのは嬢ちゃんの料理や蒼明が知的好奇心を満たす時みたいに嬉しいこともある。
だが、そいつは安全だってが保証されてるからなんだぜ。
痛みのような本能が忌避するもんは、大半は恐怖と苦痛でしかないもんだ。
こいつは初めて感じた痛みに震えているだろうよ。
「ダメ。タマモママがいってくれたんだ。りょくらんは出来る子だって。だから、りょくらん、やる! タマモママのために!」
パンッと床が爆ぜるほどの脚力でヤツは真っ直ぐに俺に向かって来る。
速いねぇ、強いねぇ、でも直線的すぎらぁ。
俺が酔っ払いがこける時のようなポーズで上半身を逸らし足を突き出すと、ヤツは俺っちの長げぇ足に引っかかって体勢を崩す。
そのまま腕を取ってグルンとね。
バンッ!!
つんのめった走る勢いが回転運動に換えられ、ヤツはグルリと一回転して背中から床に叩きつけられる。
床のタイルが何枚も衝撃で弾け跳び、コンクリの姿が剥き出しになる。
こいつは効いただろうよ。
「あ゛い゛い゛ーーー! いだい、いだい!」
「痛い目に遭うって言ったからな。そりゃ痛いだろうよ」
涙目になって床を転げ回る俺の影法師を、俺は冷ややかに見る。
「ねぇ、なんだか可哀想じゃありません?」
「そうね。ちょっと大人げないと思うわ」
「緑乱お兄ちゃん! 緑乱お兄ちゃんをいじめちゃダメだよ」
味方のはずの嬢ちゃんたちから俺を非難する声が飛んでくる。
嬢ちゃんたちは甘ぇな。
こいつは藍蘭兄と蒼明のやつを痛めつけて、橙依をここまで攫った張本人なんだけどよ。
まあ、これくらい痛めつければ懲りるだろう。
「わあった。わあった。今日はこれくらいにしといてやるよ」
「ダメ。まだおわりじゃない! りょくらんまけてない!」
地面から立ち上がる勢いで放たれる拳を俺っちはホイっと躱す。
「やめときな。お前さんの攻撃は単調過ぎる。いくら速くってもそれじゃ当たらんよ」
わぁぁああ、とヤツは無茶苦茶に拳を繰り出されるが、そんなのに当たる俺じゃねぇ。
「いったんだ、タマモママが。りょくらんはがんばれるこだって! できるこだって!」
「そうかい。そうかもしれんが、お前さんはまだ小さいからな。いずれ出来るようになるさ。いずれ」
拳は速さを増すが、駄々っ子パンチに毛の生えたような攻撃なんて簡単に見切れる。
おおっと、でも今のは惜しかったかもな。
「できるるんだ、りょくらんは、なんどだってがんばってみせるんだ!」
ヒュン、ん? ヤツの攻撃の速さは変わらねぇが、鋭さが増したか?
「できるんだ、りょくらんは、いつだってあきらめたりしないんだ!」
チッ、おおっと、よけたと思った拳が俺の顎先をかすめやがった。
「できるんだ、りょくらんは! できないなら! できるまでまでやってみるんだ!」
迫りくる拳が、わかっているのに俺の側頭部を捉えた。
俺っちはまだ、母ちゃんに抱かれているような気分で眠っていた。
ずっと、ずっと、そこは自然の音が豊かだった。
風の音、木々のざわめき、鳥と虫の獣の声、どれも俺っちの安眠を邪魔するものじゃなかった。
遠くから聞こえる滝の音が、今にして思えば俺っちの眠りを深いものにしていたのかもしれねぇ。
流れる水の音は赤ん坊が母親の胎内で聞く音に似ているって話だからよ。
だけど、そこに自然のものじゃない音が聞こえ始めた。
言葉らしいものだったてのはわかる、だけど意味はわからなかった。
なんせその時の俺っちは子供……、いや、やっと片言で会話できるくらいの幼子だったんだからよ。
そして、その日がやってきた。
俺っちを封じていた岩がパカリと割れ、光が射した。
月の光でさえ眩しいと感じるくらいの久しぶりの光。
「おや、あまりにも強大な妖力を封じた物だったから、どんな恐ろしい”あやかし”かと思ったら、可愛い坊やじゃないか」
「よー、よー、よーかいおー? パパ、じゃない……」
俺っちを封印から解いたのは八百。
妖怪王”八百比丘尼”。
「ママは? ママ―、どこー、ボクおっきしたよー」
「やれやれ、本当に子供だね」
「おばたん、だーれ? よーかいおー?」
「妖怪王は肩書きさ。私は八百。ボクのお名前は?」
「りょくらん」
「”りょくらん”か良い名だね」
「ママはどこ? ボクおなかすいた」
「腹が減っているのかい。無理もないね。そうだ、ここに握り飯がある。こいつをお食べ」
それまでは母ちゃんのおっぱいか、細かく刻まれた魚のスープしか食べたことがなかった俺っちが初めて見た米の飯。
真っ白でうまそうに見えたのを憶えている。
「や、ママがぱせてくれないと、たべない」
「ぱせて? ああ、食べさせてか。ほら」
「やー、ママがぱせてくれないと、たべない」
「本当に子供だね。なら、こいつは私が食っちまうよ」
その時の八百が食べた握り飯はやけにうまそうに見えた。
俺っちの腹もグゥゥーと鳴るくらいにはな。
「やっぱ、ぱえる」
「そうかい、じゃあ、こっちをおたべ」
八百が出してきたのは、真っ白じゃなく、少し茶色の焦げのある握り飯。
「ぱっきのとちがう」
「こいつは釜の底の焦げの握り飯さ。うめえさね」
…
……
「食わんのか? なら私がくっちまおうかなー」
「ぱえる、ボクぱえる」
「なら、あーん」
「あーん」
唇に触れた八百の指はほんのりと温かく、少しお香の匂いがしたのを憶えている。
パリッ
「これおいしー、ぱり、ぱりっ、あまーい」
俺っちが封印されたころの日本は砂糖どころか米すらあったか怪しい。
少なくとも、それが俺っち感じた初めての米の甘さだった。
釜でお米を炊く時に底に焦げが出来ちまうことはよくある。
でも、その焦げの部分はパリパリとした食感で、ほんのりと甘く、そして中の米の柔らさと相まって、幼い俺っちはその虜になった。
「もっと! もっと! ぱせて!」
「ほいほい。たんとおたべ」
俺っちは夢中になって食べ、そして寝た。
やがて朝が来て、俺っちは泣いた。
隣に母ちゃんがいなかったからな。
「ママ―、ままどこー! うっ、ぐすっ、おばたん、にーにー、パパーでもいい、どこー!」
「なんね、笑って寝て、起きたら泣き虫さんかね」
起きた俺っちの近くには薪と釜で米を炊く八百の姿があった。
「やお、ママしらない?」
「さあ? 知らないね。きっと、誰も知らないと思うよ」
「やー、やー、やだー、やー」
俺っちは大泣きしたさ、なんせ知らない場所でひとりぼっち、いやふたりっきりだったからよ。
「あー、もう、うるさいね。わかった、わかった、私が力を貸してやるよ」
「ママをみつけてくれるの?」
「ああ、一緒に探しちゃる。それと、坊やを鍛えてやるよ」
「きたえるって、つよくなること? パパみたいに?」
「そうさ、強くなるだけじゃなく、大きく、勇ましく、何よりも優しく、立派になるんよ。そしたら」
「そしたら、ママがむかえにきてくれる?」
「ちがうさね。そしたら、ママを見つけられるくらいの一人前の男になるってことさね。まずは、大きくなりんね」
八百が作ってくれた炊きたての握り飯は熱々で美味かった。
焦げの甘い香りがまだ立ち昇るおこげの握り飯はパリパリのパリパリで香ばしくって旨かった。
八百と母ちゃんを探す旅は楽しかった。
結局、母ちゃんは見つけられなかったけど、ひいひいばあちゃんには逢えたしな。
今でも”おこげご飯の握り飯”は俺っちの好物のひとつで、よく嬢ちゃんに作ってもらっている。
コイツも目覚めた時に八百が一緒に居てくれれば、こんなにはなりゃしなかっただろうによ。
俺っちだけじゃなく、嬢ちゃんや弟にまで敵意を向けるようなヤツになりゃしなかっただろうに。
俺っちの名は緑乱。
戦う相手、そいつの名も緑乱。
俺の影法師。
◇◇◇◇
「下がってな、嬢ちゃんたちに紫君。近づくと怪我するぜ」
俺っちがそう言うと、嬢ちゃんは「ええ、まあ、ママの話はまた今度で」と言いながら部屋の隅へと下がる。
「タマモママは、りょくらんのママだ。おまえたちのじゃない」
こいつもまぜっ返すなよ。
「あの悪そうな玉藻ってやつが、どうしてお前さんのママになっているかは知らねぇが。俺っちたちは無事にここから出たいんでな。邪魔をするなら無理やり通らせてもらうぜ」
「できっこない。りょくらんはムテキ。タマモママもそう言ってた。あのオロチたちも、りょくらんにはかなわなかった」
あの大蛇ってのは、藍蘭兄と蒼明のことだろうな。
ま、しゃーないか。
俺っちが封印された時、俺っちは小さくって兄たちのことなんて自覚してなかったからな。
憶えているのは俺自身の母ちゃんと他の母ちゃん、そして父ちゃんくらいだ。
イザナミひいひいばあちゃんと逢ってなければ、存在も知らなかったんだからよ。
「そうかい、できっこないか。ま、そう思うだろうな。お前さんの迷廊の権能は強えからよ。でも、俺っちは負けないぜ」
「むり、そっちのチカラよわい。りょくらんのほうがつよい」
「そうか。なら、試してみな」
「やる。ないてもしらないから」
ブオッと俺の影法師の妖力が膨れ上がり、そのままダッシュ一番とばかりに俺っちの胸へと叩きこまれる。
ゴオンッ!!
建設現場で鉄杭をハンマーで打ち付けるような音が宴会場に響き、嬢ちゃんの「ヒッ」という悲鳴が聞こえる。
だが、俺の身体はビクともしない。
「か、かたい!?」
「鍛え方とくぐり抜けた修羅場が違うってね。そらっ、お返しだっ!」
間合いに入ったのを幸いとばかりに俺も拳を振るう。
「そんなの、あたらないっっ──!?」
影法師の余裕の表情もなんのその、俺の拳はその腹を真芯で捉える。
「そらっ、もう一丁!」
俺の肩口からの体当たりまともにくらい、ヤツはバンッと吹っ飛ばされ壁にめり込む。
「ど? どうして!? どうしてあたっちゃうの? いままで、どんなやつのこうげきもあたらなかったのに!?」
「知ってるだろうが教えてやる。お前さんの使っているのは”迷廊の衣”。どんな攻撃でも迷わせてしまう、やっかいな防御結界みたいなもんだ」
「そ、そうだよ。タマモママもいってた。これがあるかぎりゼッタイいたくならないって」
絶対か。
おこちゃま向けの説明だな。
”迷廊の衣”は俺も昔使っていた防御結界。
夷狄妖怪との戦いでは重宝したもんさ。
「”迷廊の衣”ってのは便利なもんでよ。遠距離攻撃は行く先を迷わせ、近距離攻撃も拳を迷わせちまう。普通の攻撃はまず当たらなねぇ」
「そういえば夢の中で観ました! ヤング緑乱さんが八百比丘尼さんと一緒に西洋妖怪と戦った時も、全然攻撃があたらなかったことを!」
遠間から嬢ちゃんの声が聞こえてくる。
そう、その通り。
高い防御能力を持つ俺と、無限の回復力を持つ八百のふたりなら、他に誰の犠牲を出さずに勝つことが出来る。
そう思って俺たちは、ふたりっきりで夷狄妖怪と戦った。
ま、現実はそう甘くはなかったけどな。
「だが、万能無敵の防御結界なんてありゃしねぇ。”迷廊の衣”の弱点は迷いのない攻撃さ。これなら結界をくぐり抜けて当てられる。ご覧の通りにな」
だが、それを知ってても実践するのは難しい。
あの強大な妖力を前に拳が鈍るっての無理ねぇしし、藍蘭兄や蒼明じゃ兄弟相手に拳を迷わずに振るえねぇだろうからよ。
「さ、わかったろ。お前さんじゃ俺に勝てねぇよ。これ以上痛い目に遭いたくなきゃ、そのまま玉藻ママの所へ戻るんだな」
めり込んだ壁から抜け出したヤツは何が起きたか理解しているが、理解したくはない、そんな視線をその身体に落とす。
痛みに耐えるってのは経験が要る。
知らないことを体験するってのは嬢ちゃんの料理や蒼明が知的好奇心を満たす時みたいに嬉しいこともある。
だが、そいつは安全だってが保証されてるからなんだぜ。
痛みのような本能が忌避するもんは、大半は恐怖と苦痛でしかないもんだ。
こいつは初めて感じた痛みに震えているだろうよ。
「ダメ。タマモママがいってくれたんだ。りょくらんは出来る子だって。だから、りょくらん、やる! タマモママのために!」
パンッと床が爆ぜるほどの脚力でヤツは真っ直ぐに俺に向かって来る。
速いねぇ、強いねぇ、でも直線的すぎらぁ。
俺が酔っ払いがこける時のようなポーズで上半身を逸らし足を突き出すと、ヤツは俺っちの長げぇ足に引っかかって体勢を崩す。
そのまま腕を取ってグルンとね。
バンッ!!
つんのめった走る勢いが回転運動に換えられ、ヤツはグルリと一回転して背中から床に叩きつけられる。
床のタイルが何枚も衝撃で弾け跳び、コンクリの姿が剥き出しになる。
こいつは効いただろうよ。
「あ゛い゛い゛ーーー! いだい、いだい!」
「痛い目に遭うって言ったからな。そりゃ痛いだろうよ」
涙目になって床を転げ回る俺の影法師を、俺は冷ややかに見る。
「ねぇ、なんだか可哀想じゃありません?」
「そうね。ちょっと大人げないと思うわ」
「緑乱お兄ちゃん! 緑乱お兄ちゃんをいじめちゃダメだよ」
味方のはずの嬢ちゃんたちから俺を非難する声が飛んでくる。
嬢ちゃんたちは甘ぇな。
こいつは藍蘭兄と蒼明のやつを痛めつけて、橙依をここまで攫った張本人なんだけどよ。
まあ、これくらい痛めつければ懲りるだろう。
「わあった。わあった。今日はこれくらいにしといてやるよ」
「ダメ。まだおわりじゃない! りょくらんまけてない!」
地面から立ち上がる勢いで放たれる拳を俺っちはホイっと躱す。
「やめときな。お前さんの攻撃は単調過ぎる。いくら速くってもそれじゃ当たらんよ」
わぁぁああ、とヤツは無茶苦茶に拳を繰り出されるが、そんなのに当たる俺じゃねぇ。
「いったんだ、タマモママが。りょくらんはがんばれるこだって! できるこだって!」
「そうかい。そうかもしれんが、お前さんはまだ小さいからな。いずれ出来るようになるさ。いずれ」
拳は速さを増すが、駄々っ子パンチに毛の生えたような攻撃なんて簡単に見切れる。
おおっと、でも今のは惜しかったかもな。
「できるるんだ、りょくらんは、なんどだってがんばってみせるんだ!」
ヒュン、ん? ヤツの攻撃の速さは変わらねぇが、鋭さが増したか?
「できるんだ、りょくらんは、いつだってあきらめたりしないんだ!」
チッ、おおっと、よけたと思った拳が俺の顎先をかすめやがった。
「できるんだ、りょくらんは! できないなら! できるまでまでやってみるんだ!」
迫りくる拳が、わかっているのに俺の側頭部を捉えた。
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