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第七章 吉報
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しおりを挟む体温のぬくもりが離れていくのに、灑洛は、なんとなく淋しいきもちになっていた。
おもわず、夜着の裾を掴んでしまうと、皇帝が、「朝議に遅れてしまうよ」と、まんざらでもないように、にやついている。
ぬくもりが離れていくのは、淋しい。
遊嗄の冷たい死体を見てから、その気持ちはいっそう濃くなって、灑洛を蝕んでいる。寒くて、たまらないのだった。
「あなたは、今日は修華として入宮するのだからね。仕度に遅れないようにしなさい」
修華は、九嬪の中でも上から四番目。さほど、身分が高いわけではない。勿論、上衣の妃には、拱手して拝礼しなければならない。
「ほんの一瞬だけの修華だが、いきなり皇后として迎えることが出来なかったのだ。順序を踏むだけだから、あなたは、何も気にしないように」
皇帝が、灑洛の頬に口づける。その、冷たい感触にも、慣れてしまった。
「身分なんて、どうでも構いませんわ」
「私が、嫌なんだよ。……思えば、この日の為に、私の隣の席は、空けておいたようなものだからね」
皇后の席は。
灑洛は、鼻で笑いたくなるような気持ちになったが「わたくしのために?」と聞き返した。皇帝は、氷のような美貌を溶かして、「もつろん、あなたの為に」と呟いて、灑洛を抱きしめると、殊更優しく、言った。
「ゆっくり仕度しておいで。今日の朝議は―――大変だからね」
皇帝が立ち去ったあと、灑洛は、牀褥に転がった。皇帝に助けを求めた一夜から、灑洛は、東宮へは戻っていない。途中、裴淑妃を取り込む為に外に出たが、その程度だ。
(今日……わたくしは、変わるのだわ)
灑洛は、確信している。変わるのだ。皇太子妃ではなく、妃の一人になる。まずは、濘修華と呼ばれる下位の妃だ。そこから、一気に皇后へ登る。
灑洛は、そっと下腹部に手をやった。幽かにも、そこに懐妊の兆候は見られない。瞼を閉じて、灑洛はそっと呼びかける。
(わたくしを、守ってね……遊嗄さま)
そうやって、灑洛は耐え抜くつもりだ。
緊急の大朝議が開かれたのは、いくつかの議案が浮上している為だ。
まず、皇太子の病死は、誰もが想定していなかったことである。皇帝は壮健だったが、皇太子は決めておく必要がある。そして、皇帝から事前に知らされていたのが、
―――神鳥を殺した犯人が見つかったらしい。
ということだった。
次の皇太子と、神鳥殺し。国を揺るがしかねない、この大事の為に、今回の朝議は集められたのだ……と信じて疑わない高官たちは、意気揚々と太極殿へ参集したのだった。
灑洛も、皇太子妃として与えられた席に座る。皇妃ではないので、高官や大臣たちと同じ並びだ。皇妃になれば、十七段の玉座、その両翼の席へ登る。
高官達が居並ぶ中、皇帝が出御する。
「本日、諸侯に集まって貰ったのは、いくつかの重大事項の為である。一同、皇帝陛下に拝謁!」
尹太監の言葉に、一同立ち上がって拱手し、皇帝陛下に拝礼した。皇帝陛下は、たっぷりと三呼吸ほど待って、一度を見回した後に、礼を許す。
「皇太子に思わぬ不幸があった為、掖庭宮を見直そうと思ってな。……皇太子妃についても、実家に戻るも不幸かと思い、そのまま、掖庭宮へ迎えることとなった」
皇帝の言葉を受けて、尹太監が読み上げる。
「皇太子妃はこれを廃し、濘灑洛を修華とし『銀晶殿』を与える」
灑洛は、しずしずと進み出て「濘灑洛、有り難く賜ります。皇帝陛下、万歳、万歳、万々歳」と決まり通りの挨拶をして、勅命の書かれた勅書を受け取る。黒い布には宸筆の銀泥で描かれた勅命があった。
「では、濘修華。そなたは、こちらの席へ」
灑洛は、「かしこまりました」と受けて、玉座の横、祁貴嬪たちが居並ぶ所へ座った。
太極殿がざわついている。だが、皇帝は、気にも留めなかった。妃嬪の席に現れた灑洛を見て、祁貴嬪が眉を吊り上げる。
「汚らわしい女が、ついに、妃嬪に登ったのね。……けれど、お前の思い通りにはさせないわ。覚えておきなさい」
「まあ、娘娘。そんな怖ろしいお顔をせずとも……。娘娘の指導など、きっと、不要ですわ」
裴淑妃が口を挟む。祁貴嬪は「どういうこと?」と首を傾げたが、議題は次へ移った。
「先日、七月七日の宴にて、濘修華が犬に襲われた。また、今月に入っても、犬に襲われ、大蛇が放たれると言うことがあった。この件で、衛士から報告があると聞いている」
衛士は前へ、と呼ばれた衛士が、玉座の前で伏して拝謁した。
「そなた、犬がどこから来たか、調べているそうだな。なにか、解ったことがあったと聞いたが」
「はい。犬は、門を通っておりません。つまり、門を通る際に、外から犬がいると解らぬように小細工されていたと言うことでしょう」
「それで、その小細工は、わかったのか?」
はい、と衛士は頷いた。「皇子様方は、親王府からおいでになる際、輿か車をお使いです。その時に何度か、見慣れない大きな箱のようなものを持ち込んでいるとの記録が残っております」
「記録?」皇帝が聞き返した。
「はい。衛士の日記の様なものですが、当番で、気になったことなどを記してございます……」
奉った記録を見て、皇帝が微笑した。「なるほど、大分正直に書かれているらしい」
「そうなのですか?」とは、禎大臣だ。
「ああ、……この間まで、冠の隙間から頭皮がてかてかと見えて居た、在る高官については、どうやら付け毛を買ったらしいなどと評してあるな。朕についても、気に入りの姫の寝所からの帰りらしいと、書かれている」
衛士は青ざめていたが「ならば、その記録は正しいようですね」と禎大臣が認めるに至った。
「さて、朕は、人を使って調べさせたことがある。……、燕遙、凍璃。そなたたちは、犬を飼っていたそうだな」
名指しされた燕遙、凍璃の二人は、玉座の前へ進み出て、ぶるぶると震えていた。
「犬は飼っていたのか? 燕遙」
燕遙の顔は、酷いほど青ざめていた。まるで、死体のようだ。
「飼って……おりました」
絞り出すようなか細い声だった。「それを、朕の寵姫にけしかけ、襲わせたのか」
何か言いたげに燕遙の口唇が動いたとき、裴淑妃が「おまちくださいませ!」と声を上げた。
「なんだ、裴淑妃」
「恐れながらもうしあげます。……犬は確かに飼っていたようですが、おそらく、立派に育った犬を、皇帝陛下に見物して頂こうと、七月七日の宴の余興に持ってきたものだと思います……まさか濘修華を襲う為になど」
涙ながらに訴える裴淑妃に、皇帝は顔を向けた。
「だが、それでは、今月の件は、言い訳が立たぬのだよ。遊嗄の葬儀のその日に、大蛇と犬をけしかけ、濘修華の命を脅かしたのだ。裴淑妃。あなたは、一度、殿舎へ戻って休みなさい」
何か言いたげに唇を動かした裴淑妃だったが「それでは、裴淑妃、御前を失礼いたします」と申し上げて帰る。
裴淑妃が居なくなったとき、皇帝は、二人の皇子に向き合った。皇帝は、無表情にも見える顔で、淡々と告げる。
「そなたらは、兄の死を悼むでもなく、あまつさえ、濘修華を獣を使って襲わせたのだ。なんという、むごいことを考えつくのだろうね」
「いえ、それはっ!」
「まさか、悪ふざけとでも言うのかい? ならば、余計に悪いよ。本当は、裴家にも責任があると言うところだが……濘修華が、温情ある沙汰をというので、そなた達だけに罰を与えることにする」
皇帝の告げた罰は、むごたらしいものだった。
全裸のまま、飢えた犬の中に放り込んで、生きながら犬に食わせるという刑だ。それを告げられた時、皇子二人は、「そんな、父上……、あんまりです」と温情に訴えようとしたが、許さなかった。
そのまま、気を失った皇子二人が、獄吏に連れられて消えていく。
太極殿は、指一本動かすのを躊躇われるほどに、静まりかえっていた。
「さあ、では、次の案件にいこうか。……次は、神鳥殺しの犯人の件だ」
実に楽しそうに笑う皇帝を見て、一同は、震えが止まらなかった。
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