神鳥を殺したのは誰か?

鳩子

文字の大きさ
上 下
68 / 74
第七章 吉報

10

しおりを挟む

 遊嗄ゆうさの葬儀を終えたその夜、泣女なきおんなたち(葬儀の折に、泣き叫ぶ役)が五十人も雇われて、一晩中死を悼むことになっているので、東宮は、悲痛な叫び声で埋め尽くされるようだった。

(わたくしも、あんな風にも泣いて泣いて……声を張り上げて泣きたかった……)

 灑洛れいらくは、喪の装束である白一色を身に纏いながら、泣女たちの声を聞いていた。

 そっと目を伏せ、手を合わせる。心の中で、経文を唱えたのは、何千回目だろう。

(お願い、遊嗄さま……。わたくしと、この子を守って……)

 遊嗄の死から、三日。残暑の厳しい折だったので、遊嗄の遺体に逢うことが出来たのは、彼が自殺した当日だけだった。遺体の遊嗄の姿を思い出そうとしても、灑洛が思い出すことが出来るのは、惜しみなく優しい笑顔を向けてくれた、遊嗄の姿で―――。

 それを思うと、やはり涙が溢れた。

「今日は、もう休むわ……牀褥しょうじょくの仕度をして頂戴」

 呼びかけたが、侍女の姿は消え失せていた。やはり、鳴鈴でないと、勝手がわからないものだと、少々不自由な気持ちを味わいながら、灑洛は牀褥しょうじょくへ向かう。たれ込めている薄い帳を開いた灑洛は、「えっ?」と硬直してしまった。

 そこにいたのは、大蛇だった。真っ白で、男の腕ほどもある胴をした、大蛇だ。とぐろを巻き、シャーシャーという嫌な音を立てながら、鎌首をもたげてくる。

「誰か! 誰か居ないのっ!」

 必死に人を呼ぼうと叫んだ灑洛は、気がついた。今日は、一晩中、泣女が泣きわめいている。灑洛の声などかき消されてしまう。

(皇帝は、密偵が居ると言ったけれど……)

 しかし、周りに人影はない。

 ぼとっという重い落下音がしたので顔を向ければ、やはり、そこには、似たような大蛇が落ちており、猛然と灑洛に向かって床を這ってくる。

「い、嫌っ! 来ないでっ!」

 言って聞くようなものではない、灑洛は、恐怖に腰が抜けそうになりながらも、必死で走る。今ならば、皇太子の弔いを行っている華臥かが殿に、人が居るはずだ……。

 必死に華臥かが殿へ向かった灑洛だが、華臥かが殿にはたどり着かなかった。犬が、居たのだ。大きくて黒い影のような犬だった。かつて、あの犬の襲撃を受けたことを思い出して、灑洛は身体の芯から震え上がる。

(犬に犯され……)という噂話を思い出して、灑洛はぞっとした。おそらく、灑洛が、ここで捕まれば、あの犬に獣姦される。灑洛は、そういうことには詳しくなかったが、そういうことが出来るらしいとは鳴鈴が言っていた。

(逃げなくては)

 灑洛は、とにかく逃げた。途中、喪服の白い上衣が邪魔になったので脱ぎ捨てる。これが、犬の身体を包み込んだらしく、鳴き声を上げながら暴れているのが解ったが、振り返らない。

(……もう、どうしようもないわ……)

 灑洛は我が身の格好を思い返す。今、眠ろうとして居たところだ。とうぜん、喪の色である、白を着ているが……肌や、身体のラインが透けるほど、薄いものを着ていた。走って逃げる際に、あちこちが汚れて破れているし、酷い格好だ。

(もう、今しかないわ……)

 灑洛は、勝負に出ることにした。どうせ、皇帝の元へ行かなければ、未来はない。ここで、皇帝に助けを求めることにしよう。

 東宮を抜け、灑洛は皇帝の住まいである太極殿たいきょくでんへと向かった。ここには、沢山の衛士や宦官が居るはずである。

「どなたか、どなたか、助けて!」

 叫びながら灑洛は必死に走る。その様子に気がついた衛士の三人が駆け寄ってきた。

「皇太子、妃殿下?」

 掠れた声で、男たちは聞いた。その視線は、灑洛の豊かな胸の膨らみに釘付けだった。

「お願い……わたくしを、皇帝陛下の所まで、連れていって下さいませ……殿舎に、大蛇が二匹。それから、また、犬にけしかけられました。どうぞ、わたくしをお助け下さいませ」

 必死に灑洛が訴えると「妃殿下、お気を確かに。只今、皇帝陛下の所へお連れいたします。犬と蛇についても、お任せ下さい」と衛士は快く引き受けてくれたので、灑洛は心底安堵して、身体がくらりと傾いだ。

「少々……こちらでお休み下さいませ。只今、皇帝陛下に、許しを得て参ります」

 丁寧に拱手して、衛士は去って行った。休めと言っても、石に腰を下ろせば冷えてしまう。子を宿す女にとって、冷えは大敵だった。どうしようかと立ち尽くしていると、別の衛士が駆け寄ってきて自らの表着を脱いでから、石畳の上に敷いて、灑洛に座るように勧めた。

「けれど……あなたの衣装が汚れてしまいますわ」

 そう言って固辞した灑洛だったが「私如きの衣装をなど構いませんよ」と笑って提供してくれたので、有り難く使わせて貰うことにした。

「心ばせに感謝いたします」
 
 丁重に礼を言うと、男は、闇の中でもはっきりと顔を真っ赤にして「いえ、そんな!」と慌てた様子で言って、灑洛から少し離れた。

「犬に追いかけられたとか」

「ええ、前にも犬に襲撃されたことがあって………その時は、皇太子殿下に助けて頂いたから、良かったのだけれど……」

 七月七日の宴の折りだ。

 水に入って、灑洛を助けてくれたのは、愛しい夫だった。いまは、その夫の葬式の夜だというのが、灑洛には信じられない。

「あの時も、天青てんしょう堂に犬が入ってきたようだけれど……そんなに簡単に、犬が入ることが出来るのかしら」

「いえ、犬のような生き物は、人を襲いますから、我らは、見つければ入れることがありません。つまり……我々衛士の目をかいくぐって入った犬かと存じます」

 衛士の目をかいくぐって……。と灑洛は考える。

「つまり……どなたかが、わたくしに、犬をけしかけたということなのね? わざわざ……」

 殿舎は広い。ましてや、東宮に住まう灑洛は、掖庭えきてい宮の様子など、解らない。犬を隠れて飼っていたとしても、解るはずもない。

「どなたか……と申しましても、そうとう大きな犬だったと聞いております。そんな大きな犬ですから、女人だけしか居ない所では、飼いづらいのではないでしょうか」

 女人だけが住んでいるところ―――後宮である掖庭えきてい宮では。

 たしかに、大きな犬であっても、世話をしなければならないし、運動をさせなければならない。掖庭宮で、大きな犬を飼っていれば、おそらく、人目に付く。

「では、別の所から来たと言うことなのね?」

「我らの目をかいくぐっておいでになることが出来れば、或いは」

 衛士の言葉を聞いた灑洛は、それが出来るものについて、考えを巡らしたとき、あの宴に出席していた者の中で、二人、該当する者が居ることに気がついた。

(もし、犬をけしかけたのが、あの二人ならば……)

 灑洛にとって、もはや、都合は良い。

 やがて、皇帝へ取り次ぎを頼んで衛士が戻って来た。取り次ぎの結果を聞く必要はなかった。皇帝その人が、夜着を引っかけただけのしどけない姿で、駆けつけたからだった。

 一斉に、その場に居た衛士たちが拱手して拝礼する。

 灑洛は、拝礼しなかった。

 皇帝の腕の中に飛び込んでいって「わたくしをお助け下さいませ!」と縋り付いたのだった。

「灑洛?」

「……東宮にいれば、わたくしは、殺されます。どうぞ、わたくしをお助け下さいませ……」

 声が震えた。灑洛から、皇帝を求めたことは、一度もなかった。

(これは、遊嗄さまを裏切ることではない……)

 とは思って居たけれど、心の底では、やはり裏切りに等しいのではないかと灑洛自身を責める声が聞こえてくる。

「大蛇と犬に襲われたと聞いた」

「はい……わたくしは、どなたかに、命を狙われているのです……たすけてくださいませ、わたくしは、怖いっ!」

 必死に皇帝の胸に縋り付きながら、灑洛は、身体の震えが止まらなくなった。

しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

【完結】殿下、自由にさせていただきます。

なか
恋愛
「出て行ってくれリルレット。王宮に君が住む必要はなくなった」  その言葉と同時に私の五年間に及ぶ初恋は終わりを告げた。  アルフレッド殿下の妃候補として選ばれ、心の底から喜んでいた私はもういない。  髪を綺麗だと言ってくれた口からは、私を貶める言葉しか出てこない。  見惚れてしまう程の笑みは、もう見せてもくれない。  私………貴方に嫌われた理由が分からないよ。  初夜を私一人だけにしたあの日から、貴方はどうして変わってしまったの?  恋心は砕かれた私は死さえ考えたが、過去に見知らぬ男性から渡された本をきっかけに騎士を目指す。  しかし、正騎士団は女人禁制。  故に私は男性と性別を偽って生きていく事を決めたのに……。  晴れて騎士となった私を待っていたのは、全てを見抜いて笑う副団長であった。     身分を明かせない私は、全てを知っている彼と秘密の恋をする事になる。    そして、騎士として王宮内で起きた変死事件やアルフレッドの奇行に大きく関わり、やがて王宮に蔓延る謎と対峙する。  これは、私の初恋が終わり。  僕として新たな人生を歩みだした話。  

王太子の子を孕まされてました

杏仁豆腐
恋愛
遊び人の王太子に無理やり犯され『私の子を孕んでくれ』と言われ……。しかし王太子には既に婚約者が……侍女だった私がその後執拗な虐めを受けるので、仕返しをしたいと思っています。 ※不定期更新予定です。一話完結型です。苛め、暴力表現、性描写の表現がありますのでR指定しました。宜しくお願い致します。ノリノリの場合は大量更新したいなと思っております。

【完結】捨てられ正妃は思い出す。

なか
恋愛
「お前に食指が動くことはない、後はしみったれた余生でも過ごしてくれ」    そんな言葉を最後に婚約者のランドルフ・ファルムンド王子はデイジー・ルドウィンを捨ててしまう。  人生の全てをかけて愛してくれていた彼女をあっさりと。  正妃教育のため幼き頃より人生を捧げて生きていた彼女に味方はおらず、学園ではいじめられ、再び愛した男性にも「遊びだった」と同じように捨てられてしまう。  人生に楽しみも、生きる気力も失った彼女は自分の意志で…自死を選んだ。  再び意識を取り戻すと見知った光景と聞き覚えのある言葉の数々。  デイジーは確信をした、これは二度目の人生なのだと。  確信したと同時に再びあの酷い日々を過ごす事になる事に絶望した、そんなデイジーを変えたのは他でもなく、前世での彼女自身の願いであった。 ––次の人生は後悔もない、幸福な日々を––  他でもない、自分自身の願いを叶えるために彼女は二度目の人生を立ち上がる。  前のような弱気な生き方を捨てて、怒りに滾って奮い立つ彼女はこのくそったれな人生を生きていく事を決めた。  彼女に起きた心境の変化、それによって起こる小さな波紋はやがて波となり…この王国でさえ変える大きな波となる。  

ヤクザと私と。~養子じゃなく嫁でした

瀬名。
恋愛
大学1年生の冬。母子家庭の私は、母に逃げられました。 家も取り押さえられ、帰る場所もない。 まず、借金返済をしてないから、私も逃げないとやばい。 …そんな時、借金取りにきた私を買ってくれたのは。 ヤクザの若頭でした。 *この話はフィクションです 現実ではあり得ませんが、物語の過程としてむちゃくちゃしてます ツッコミたくてイラつく人はお帰りください またこの話を鵜呑みにする読者がいたとしても私は一切の責任を負いませんのでご了承ください*

【完結】愛とは呼ばせない

野村にれ
恋愛
リール王太子殿下とサリー・ペルガメント侯爵令嬢は六歳の時からの婚約者である。 二人はお互いを励まし、未来に向かっていた。 しかし、王太子殿下は最近ある子爵令嬢に御執心で、サリーを蔑ろにしていた。 サリーは幾度となく、王太子殿下に問うも、答えは得られなかった。 二人は身分差はあるものの、子爵令嬢は男装をしても似合いそうな顔立ちで、長身で美しく、 まるで対の様だと言われるようになっていた。二人を見つめるファンもいるほどである。 サリーは婚約解消なのだろうと受け止め、承知するつもりであった。 しかし、そうはならなかった。

一宿一飯の恩義で竜伯爵様に抱かれたら、なぜか監禁されちゃいました!

当麻月菜
恋愛
宮坂 朱音(みやさか あかね)は、電車に跳ねられる寸前に異世界転移した。そして異世界人を保護する役目を担う竜伯爵の元でお世話になることになった。 しかしある日の晩、竜伯爵当主であり、朱音の保護者であり、ひそかに恋心を抱いているデュアロスが瀕死の状態で屋敷に戻ってきた。 彼は強い媚薬を盛られて苦しんでいたのだ。 このまま一晩ナニをしなければ、死んでしまうと知って、朱音は一宿一飯の恩義と、淡い恋心からデュアロスにその身を捧げた。 しかしそこから、なぜだかわからないけれど監禁生活が始まってしまい……。 好きだからこそ身を捧げた異世界女性と、強い覚悟を持って異世界女性を抱いた男が異世界婚をするまでの、しょーもないアレコレですれ違う二人の恋のおはなし。 ※いつもコメントありがとうございます!現在、返信が遅れて申し訳ありません(o*。_。)oペコッ 甘口も辛口もどれもありがたく読ませていただいてます(*´ω`*) ※他のサイトにも重複投稿しています。

後宮の棘

香月みまり
キャラ文芸
蔑ろにされ婚期をのがした25歳皇女がついに輿入り!相手は敵国の禁軍将軍。冷めた姫vs堅物男のチグハグな夫婦は帝国内の騒乱に巻き込まれていく。 ☆完結しました☆ スピンオフ「孤児が皇后陛下と呼ばれるまで」の進捗と合わせて番外編を不定期に公開していきます。 第13回ファンタジー大賞特別賞受賞! ありがとうございました!!

〖完結〗私が死ねばいいのですね。

藍川みいな
恋愛
侯爵令嬢に生まれた、クレア・コール。 両親が亡くなり、叔父の養子になった。叔父のカーターは、クレアを使用人のように使い、気に入らないと殴りつける。 それでも懸命に生きていたが、ある日濡れ衣を着せられ連行される。 冤罪で地下牢に入れられたクレアを、この国を影で牛耳るデリード公爵が訪ねて来て愛人になれと言って来た。 クレアは愛するホルス王子をずっと待っていた。彼以外のものになる気はない。愛人にはならないと断ったが、デリード公爵は諦めるつもりはなかった。処刑される前日にまた来ると言い残し、デリード公爵は去って行く。 そのことを知ったカーターは、クレアに毒を渡し、死んでくれと頼んで来た。 設定ゆるゆるの、架空の世界のお話です。 全21話で完結になります。

処理中です...