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第七章 吉報
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しおりを挟む灑洛は、その日の午後、刺繍をしようと思って仕度をしたが、手を止めていた。
重陽の私の衣装を―――黒衣に菊の刺繍を貼り替えておくれ
怖ろしい言葉を聞いてしまったものだ、と灑洛は思う。
明後日の朔日。大朝議の場にて、遊嗄は仕掛けるつもりだ。それによって、皇帝を凌遅刑へ追い込む。無論、そこまで残忍な殺し方はしないだろうが、遊嗄が皇帝を―――実父を殺すのは間違いない。
重陽の為の衣装―――を、黒衣にしろという遊嗄の言葉が、灑洛は怖ろしくて溜まらない。
(朔日……)
きっちり三日おきに灑洛を召す皇帝なので、丁度その日が、灑洛を召す日だ。つまり、遊嗄の計画が成功すれば、灑洛は皇帝から解放されると言うことになる。
それは喜ばしいことだと思って居るのに、灑洛は、やはりこう思う。
(そんなに、上手くいくのかしら………?)
やはり、勝利する前に、宴席の準備をするようなことはやめておいた方が良いのではないか……。
そう思うと、やはり気が進まない。
(遊嗄さまには、間に合わなかったと言ってしまおうかしら)
いっそ、その方が良いような気がして、灑洛は刺繍道具を片付けるように鳴鈴を呼ぼうとしたが、姿が見当たらない。
「あら? 鳴鈴、どうしたの? ……用を足しに行ったのかしら」
ならば仕方がないから、自分で片付けようと、裁縫道具を箱にしまい始めた時だった。
「―――おや? 黒衣に貼り替えなくて良いの? 遊嗄に言われていたのに」
ぞっとするような声が聞こえてきた。どこから、声がするのだろうと思って居ると、榻の後ろ、開いた窓から声がすることに気がついた。
灑洛は榻から飛び上がって、後ろを振り向く。窓から覗けば、暑くるしい黒衣を纏った皇帝が立っていたが、その手が、鳴鈴の腕を捻り上げている。
「鳴鈴に何をするのっ!」
「ああ……あなたは、宦官風情にも心を砕いていたね。愚かなことだ。それとも、人気取りがしたかったのかな?」
狂ったような薄い笑みを浮かべる皇帝の声は、寒気を覚えるばかりだ。
「鳴鈴を、放して……」
「まさか。この娘は、私の切り札だからね。太極殿で、丁重に保護することにするから、あなたはなんの心配もしなくて良い」
皇帝の言葉に、灑洛は首を捻った。
「陛下の……切り札?」
灑洛には、皇帝の言葉の意味がわからなかった。一体、何をどうすれば、切り札などになり得るのだろうか。鳴鈴は、何も知らない、何も持たないただの侍女だ。
「そうだよ。……この娘は、あるものを持っている。私にとって都合の良いもので―――あなたにとっては都合が悪いかな」
皇帝は近づいてきた宦官に、鳴鈴を渡してしまう。
「鳴鈴を、返して!」
「大朝議が終われば、戻して上げるよ。それまでの間は……そうだな、天帝の姫君をお迎えするように、丁重に扱おう」
くすくすと、皇帝は笑う。何をするのか解らないだけに、何一つ見当も付かなかったが、大朝議という限り、この皇帝は、何かを解っている。つまり、それは……。
「残念だったね、灑洛。大朝議で、私は失脚しない」
灑洛は、歯噛みした。皇帝は、遊嗄の意図に気がついて、計画をつぶしに来たのだ。皇帝は、東宮にも密偵を入れている。何故そのことに気がつかなかったのか。牀褥の上だから安心しきって、計画を話していたのをすべて聞き耳を立てて聞いていたのだ。
「こんなところで話すことでもないね……そちらへ行くよ」
皇帝は、悠然と、灑洛の殿舎である夢月殿へとやってきた。もはや、灑洛は、皇帝に拱手して礼など取らなかった。
「鳴鈴が、何を知って居るというの?」
「出迎えの挨拶も成しに、いきなり本題とは、……あなたも、せっかちだね」
皇帝は、つまらなさそうに呟いて、灑洛に近づいてきた。
「どうして歓迎もしていない方を、お迎えできますの?」
「ふふ、私は皇帝だよ。……今のところ、まだ、ね。けれど、遊嗄の計画は私が潰したから……ここから先も、私が玉座を暖め続けることになる」
皇帝は、さも楽しそうに、灑洛に言う。「実はねぇ……あなたの侍女が、私の密偵にちょっとした自慢話をしたのだよ」
(ということは、密偵の一人は、侍女として入っているのね)
遊嗄が厳選したものだけを、侍女や端女として雇っているとは聞いたが、それをかいくぐって、遊嗄に雇われたのだろう。
「鳴鈴は、あるものを手に入れた、らしい。……最初、それがなんだかわからなかったようだけどね。東宮には、本来あるはずがないものだったから」
「まさか」
灑洛には、思い当たる節があった。灑洛は兼ねて、密偵を通してあるものを手に入れていた―――が、折角入手したそれが、灑洛の思い通りに事態を動かさなかったので、ただ単に残念だと思って居た。捨てられたのだと思って居たが―――鳴鈴が持っていたとは思わなかった。ましてや、鳴鈴が持っていたとは思わなかったのだ。
「やっぱり。あなたが一枚噛んでいたか―――わたしも、人でなしだとは思うが、あなたも、人のことは言えないな」
くすくすと笑いながら、皇帝は灑洛の細い顎を捕らえた。
「灑洛。……取引をしよう」
灑洛は、答えなかった。言質を与えない為ではない。それによって、未来がどう変わっていくのか、全く予想できなくなってしまったからだった。
「私も、一応自分の命は惜しい。……帝位になどもはや興味はないが、玉座に居なければ、私は私の身を守ることは出来ない」
それは、もっともなことだった。仮に退位したとして―――政に煩く口を出してくるであろう、元皇帝は、邪魔な存在に違いない。
「……だから、取引だよ」
皇帝の指が、灑洛の口唇を辿る。
「あなたが孕むのは、私の子供だ。……いずれ、その子供が成人した暁には、その子に皇位をやろう」
「遊嗄さまは……?」
「生かしてやっても構わないよ。皇太子の身分は、そのまま。剥奪しない。あなたの産んだ子供に譲らせることにはなるが……私も、一応、人の親だから、遊嗄には情があってね。―――殺すには忍びない。
けれど、あなたの返答遺憾では、私は、遊嗄を凌遅刑に処さねばならなくなる。勿論―――一切温情なく、執行することにするよ」
灑洛の唇が震えた。
この話に乗ってはならない―――と、灑洛は思ったが、目の前の皇帝は、怖気を震うほど美しい顔で、灑洛の目の前で微笑んでいる。
「な、ぜ……?」
「そうだな」と皇帝は、何かを思い出すように、歌うような口調で呟いた。「愛するものとの間に、その証が欲しい……ただ、それだけの、凡夫のような、小さな望みだ」
「凡夫は、自分の息子の命を逆手にとって、嫁に我が子を産めなどと言う、おぞましいことは仰せにならないわ」
「おぞましい」
くっと、皇帝は身を屈めて笑う。
「ええ、おぞましいものでなくて、なんだというの?」
「そんな言葉で、私が止まるとでも? ……無駄だよ、灑洛。私は、もう止まらない。……遊嗄は、大朝会で私を陥れるつもりだろう? だったら、明日いっぱい、考えると良い。あなたが選びなさい。遊嗄を凌遅刑にするか―――私の子を産むか」
口唇を噛みしめた灑洛は、外が俄に騒がしくなるのを聞いた。
「やっと帰ってきたか」
皇帝の声を聞いて、灑洛は、ぞっとした。夢月殿で、灑洛と皇帝が逢っているというのを、遊嗄に直接見せつける為に、皇帝はここに来たのだ。
「遊嗄さまっ!」
駆け出そうとした灑洛の腕を皇帝が捕らえる。
「……どこへ行く」
あっという間に腕を捻り上げられ、灑洛は榻の上に押し倒される。二人分の体重を掛けられた榻は、ぎし、と軋む。そして、皇帝は、悠然と灑洛に覆い被さってきた。
「や……やめてくださ……」
「先払いの利子として、受け取っておこうかな」
皇帝は、無理に灑洛の衣装を奪った。抵抗した灑洛と引っ張り合いになって、絹が裂けるとき、裂帛の声は悲鳴のように夢月殿に響き渡った。
「灑洛! 灑洛っ!」
遊嗄の前で、抱かれるわけには行かない。灑洛は必死に抵抗しながら、皇帝に言う。
「……取引にもなって居ないのに、先に利子だけ取られるのはおかしなことだわ」
皇帝の手はいよいよ大胆に、灑洛の豊かな胸をわしづかみにする。
「では、ここで聞いても良いが? どのみち、あなたの答えは、一つだと思うがね。それとも……明日いっぱいで、何かを覆すつもりかい?」
皇帝の手の内が読めない。灑洛は歯噛みする。遊嗄を凌遅刑へ追い込む……のすら、灑洛には検討も付かないのだ。偽物の証人を作るくらい、皇帝には訳のないことだろう。だが、どうするのか、解らない。
「本当に、神鳥を殺したのは、誰なんだろうねぇ」
国の破滅が掛かっているかも知れないという状況で、皇帝は笑う。「存外、本当に遊嗄なのかも知れないし。私かも知れない」と皇帝は笑う。
「祁貴嬪かもしれないし、あなたかもしれない。……もしかしたら、鳴鈴かもしれないし、あなたの密偵かも知れない―――だが、これは利用できる。あなたも、遊嗄も、そして私も……神鳥の死を利用しているだけだ。
哀れなことだ。国を繁栄に導く象徴と言われながら、こんな末路を辿るとはね」
遊嗄の悲痛な叫びを聞きながら、灑洛は、唇を噛みしめた。
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