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第六章 天譴
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しおりを挟む祁貴嬪は、昼前か夕暮れ時に、掖庭宮の内院を散歩しているという。
掖庭宮は、皇帝の妃嬪や宮女たちが住まう場所なので散歩をしていても不思議な事はないが、皇宮や花園には近づかない―――とは、灑洛の密偵からの報告にあった。
今日は、昼前に出ることはないらしい――美爪術を昼過ぎまで行うという――ので、出かけるのならば夕方。場所は、十中八九、掖庭宮内院の、四阿になるだろうということだった。
鷺草が、水辺で見頃を迎えているのだった。
祁貴嬪は、これを見に来るはずである。
灑洛は、夕刻に向けて、仕度をはじめた。金歩揺などの、揺れてチリチリと音を立てるような装飾は外して、出来るだけ目立たない、控えめな衣装を身に纏う。いっそ、鳴鈴から、衣装を借りようかと思ったほどだ。
四阿は池辺へ着き出した形で建っている。つまり、ここに入った祁貴嬪は、他に逃れられない。こうでもしなければ、祁貴嬪は灑洛にあうことはない。
(きっと、わたくしと、皇帝陛下のことも、ご存じだろうから……)
祁貴嬪が誤解しているように、灑洛が皇帝の実娘ということは無いが―――義父と交わったという、忌まわしい事実は、生涯、灑洛について回るだろう。
「妃殿下。私は、反対です!」
仕度を調える灑洛の隣で、鳴鈴が顔を真っ赤にして怒っていた。
「―――わたくしを、祁貴嬪に逢わせるなと、遊嗄さまは、仰せだったの?」
「そうは言っておりませんけれど……、お一人では行かせられません! また、妃殿下の御身に何かあれば、私は、今度こそ、本当に、首を突いてお詫びするしかありませんもの!」
鳴鈴があまりに大きな声で泣くので、灑洛は困り果てた。
「本当に困った人ね、あなたは……。ねえ、あなたもそう思うでしょう? 晧珂……」
灑洛は、振り返って、眉を寄せた。灑洛が振り返った榻の横には、まだ、黄金出作った木の枝が置いてある。そこに、いつ神鳥が戻っても言いように置いてあるようだった。
鳴鈴の大きな瞳が、うるうると潤って、大粒の涙を溢れさせた。
「お願いです。東宮にいれば、御身を護ることが出来ます。けれど、……。私は、これ以上、お嬢様に、不幸になって貰いたくないんです。お嬢様。……危ないことでしたら、私にお任せ下さいませ。私の手なら、どんなに汚れても構いません。
私は、お嬢様が幸せになるのならば……。この手を汚して、天に憎まれようとも構わないんです。このままでは、私のお嬢様が、不幸すぎます……っ!」
鳴鈴は、顔を手で覆って泣き始めた。哀号のような、身を引き裂かれる痛ましい声だった。床に崩れ、突っ伏しながら泣く鳴鈴を見下ろして、灑洛は思う。
(わたくしは、この子をこんなに泣かせるほど、不幸な女なのね)
同情でも、哀れみでもない、鳴鈴の本心からの嘆きなのだ。
「ねぇ、鳴鈴。……わたくしは、嫌なことは確かに、沢山あったわ。死んでしまいたいと思ったこともある。だけど、すべてが不幸なわけではないのよ。だから、そんなに―――わたくしのことを思って泣くのは止めて。わたくしは、不幸な女だと思い込んでしまうわ」
鳴鈴の隣に膝をついて、灑洛は言う。鳴鈴が顔を上げた。涙で、化粧も流れて、鼻水まで垂れている。酷い顔だった。
「わたくしは、あなたが言う不幸な過去にばかり目を向けていられないわ。……わたくしは、この手で、遊嗄さまをお守りするの。その為なら、私も何でもするわ。
だから、お願い。鳴鈴。―――あなたは、わたくしの良心だわ。だから、あなただけは、綺麗なままでいて頂戴。わたくしは、もう薄汚れてしまったけれど―――なにより美しいあなたが、わたくしを慕ってくれるならば、それが私にとって誇らしいものになるわ。
だから、わたくしのために、あなたは、このままで居て。お願いだから」
灑洛の、必死な言葉を、鳴鈴は、ぼんやりと聞いていた。
「お嬢様……薄汚れたなんて……仰有らないで……」
声を上げて泣く鳴鈴を。多分、灑洛は、羨んでいた。もう、灑洛自身は、こんな風に素直な気持ちで泣くことは出来ないからだ。薄汚れた。―――その言葉が、なにより相応しいと自嘲しながら、灑洛は笑う。鳴鈴を安心させる為に、心を込めて微笑した。いずれ国母となる笑みだった。
鳴鈴を殿舎、夢月殿に残し、灑洛は単身、掖庭宮に向かった。
装いは、華美ではなく。ただし、人に見られては困るので、最低限、『皇太子妃』としての体面を保てる程度の衣装を身に纏った。闇に溶け込むことの出来そうな、紺色に近い上衣だ。
祁貴嬪は、灑洛を侮蔑し罵るだろう。言葉も掛けてくれないかも知れない。
(けれど、必ず、祁家にも関わりのある話だわ)
もし、祁貴嬪が逢ってくれないというのならば、裏から手を回すしかない。父である濘宰相に頼むか、或いは、伯母である濘夫人に頼むか――。
とにかく灑洛は、虫に刺されるのも厭わずに、四阿の下で祁貴嬪の到着を待った。水辺なので、暑さはそう酷くないのが救いだが、肌がしっとりするほど、蒸している。
名月も近い。月は、日ごとに肥っていく。天を彩る月を見上げながら、灑洛は、四阿の下で膝を抱えて座り込んでいる我が身の滑稽さに、笑いがこみ上げてきた。
「皇太子妃殿下……らしくないわね。これじゃ、密偵みたいよ」
強くありたいと思っても、どうしようもないこともある。それは解っている。
身を汚されたとしても、皇帝に、心までは汚されたりしない。それは、泥中の蓮のように、気高くあると言うことだ。
(なら、わたくしは、泥にまみれても、凜と咲いていたいわ)
泥ではなく―――この手を、血で汚そうとも。
灑洛の想いをかき消すように、人の気配と、慌ただしい衣擦れが聞こえてきた。
「貴嬪……あなたは、何を言っているのか、解っているのか?」
嗄れた声は、男のものだ。ここは、掖庭宮。後宮にあたる場所だ。男の出入りは限られているはずだった。
「ええ、わかっていてよ、お父様」
祁貴嬪の声だった。
どうやら、祁貴嬪は、父、祁僕射(大臣)を連れてきたらしい。これでは、祁貴嬪に話をすることは出来ない。それは残念だったが、このまま、出ていくわけにも行かず、灑洛は二人の話を盗み聞きすることになってしまった。
「あなたは、何を言っているか、解っているのか?」
「ええ、解っています。お父様のほうこそ、目をお醒ましなさいませ。……いまや、遊嗄は、あの毒婦に唆されて、名声は地に落ちるばかり。―――このままでは、廃太子になるのは必須です。
ならば、妾は、祁家の為に、遊嗄を切り捨て、燕遙《えんよう》を養子に迎えるわ。燕遙ならば、裴淑妃の産んだ、まごうことなき、皇帝の息子。
皇統を継ぐのに問題はないわ。そして、燕遙には、祁家から皇后を取らせなさい」
祁貴嬪の言葉に、灑洛は言葉を失った。
つまり、祁貴嬪は、遊嗄を廃太子にするつもりだ。そして、あらかじめ養子にしていた燕遙を、自分の子として、祁家、裴家の後ろ盾をもって、立太子するつもりであるということ。
そして。チラリと見えた言葉は―――。
『皇后』という言葉だ。それから察するに、祁貴嬪も、すでに、遊嗄とは別に、皇帝を弑虐するつもりなのだった。
灑洛は、悟った。
このままでは、遊嗄は、祁貴嬪に―――実の母親に殺される。
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