神鳥を殺したのは誰か?

鳩子

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第六章 天譴

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 子守歌が聞こえる。

 低くまろやかな声で歌われる子守歌……。

 優しく髪を撫でてくれる優しくて大きな手の感触を感じて、灑洛れいらくは、牀褥しょうじょく(ベッド)の上でうとうとして居たところだったが、本格的に眠りに落ちそうだった。頬に感じる絹の褥の感覚も、艶めかしくて、とても良い。

 子守歌……、と灑洛は思う。子守歌を歌って貰った記憶は、殆どない。

(ああ、じゃあ、なぜ、わたくしは、これを子守歌と知って居るのかしら……?)

 記憶も定かでないころ。母が歌ってくれたものなのかも知れないとおもったら、目の奥がじんわりとして来た。

「母様……」

 小さな呟きが、口唇から零れていた。

「私は、姉上ではないよ」

 その言葉で、灑洛は一気に覚醒した。子守歌を歌っていたのが、誰だか解ったからだ。

「……陛下っ!」

 牀褥しょうじょく飛び起きて、辺りを見回す。ここは、東宮の寝所―――華臥かが殿だ。皇帝は、随分と寛いだ様子で牀褥しょうじょくに上がり、灑洛に添い寝しながら子守歌を歌っていたらしい。

「な、なぜ……陛下が……っ?」

 声が震える。声だけでなく、全身が震えた。あの、怖ろしかった陵辱を、思い出して、灑洛は後ずさる。優しい手―――などと思って、髪を撫でられていた不覚に、死にたくなった。

「一度でも、をうければ、私の妃だからね……具合が悪そうなのを聞きつけて、見舞いに来たのだよ?」

(あんなことを、皇恩と言うなんて……)

 灑洛は唇を噛みしめる。あの、心が砕けてしまいそうだった、果てしない淫虐の時間を、この男は皇恩と呼ぶ。灑洛は、皇帝を睨み付けた。その眦から、涙がこぼれ落ちる。

 ああそういえばそうだ……と灑洛は思い出した。

 奪い尽くされ、指一本動かすのも億劫で、このまま消えてしまいたいと思いながら廟堂に横たわっていた灑洛に、この男は命じたのだった。

『皇城へもどるから、衣装を着けるのを手伝いなさい』

 たしかに、この男が一人で衣装を着ることなど出来ないだろう。それはわかっているが、あまりにも、灑洛を軽んじた命令だった。膝も、腰も、力が入らずに床を裸で這うようにして、不機嫌に着替えを待つ男の側に行って、着付けを手伝ったのだ。

『見送りなさいと言いたいところだが、やめてやろう』

 代わりに手ひどく口づけをして、灑洛を解放したあとで、やっと皇帝は皇城へ戻った。

 始まりから終わりまで、何もかも屈辱に塗れたあの出来事を、皇恩と呼ぶ、この男の厚顔無恥さに、灑洛は、怒りの炎が身体の中に燃え上がるのを感じていた。

「存外、無事そうで良かったよ」

 皇帝は、さっと、灑洛の頬に手を伸ばす。頬を優しく撫でてから、皇帝は、灑洛の腕を引き寄せた。

「っ!」

 声にもならなかった。牀褥しょうじょくに横たえられ、覆い被さるようにして、口づけられる。

「いや……です、お願い……助けて下さい……これ以上……」

 こんなところで、皇帝に抱かれるなんて、絶対に嫌だ。灑洛は、それだけは嫌だと、何度も訴える。

「遊嗄は、私の牀褥しょうじょくで、あなたを抱いたのにね。……解るかい? あなたたちが交わった痕跡を想いながら、あそこで独り寝する、私の苦痛が……」

 まあ、無論、あの牀褥しょうじょくは、すぐに焼いて捨てさせたけれど。

 皇帝は、笑いながら、ゆうゆうと灑洛の口唇を奪い尽くす。重ねるだけでは済まない官能的な口づけを繰り返される。

「さあて、今日は、本当に見舞いに来たのだよ」

 唐突に皇帝は身を引いた。ここで最後までされると思っていた灑洛は、半信半疑だったが、皇帝が牀褥しょうじょくの端まで移動したことで、ようやく、皇帝の言葉を信じた。

 灑洛も、さりげなく後ろに下がりながら、身を起こした。

「あなたがね、あどけなく眠っているものだから。……私も、つい子守歌なんか歌ってしまった」

「遊嗄さまにも、歌って差し上げたのですか?」

「遊嗄に……ああ、どうだったかな。一応、最初の子供だから、物珍しさも手伝ったし……紅淑こうしゅくの機嫌を取るのにも、歌ってやったことはあったかも知れないな」

 紅淑の名を聞いたとき、灑洛は、たとえようもないざらついた心地になって、戸惑う。おそらくかつて―――一番の寵愛を祁貴嬪に与えていたころ、皇帝は彼女を、紅淑と呼んでいたのだろう。

「仲睦まじいご様子でしたのね」

「まあ、ご様子だな……あなたは、あの日から、伏せて居ると聞いた」

 灑洛は答えなかった。だが、皇帝は構わずに続ける。

「あの日のことを、私は、謝らない。……どんなに取り繕っても、あれが私の欲望そのものだ。だから、私は、あなたを私だけのものにするよ。それとも、噂を本当にして、皇帝と皇太子と、二人を牀褥しょうじょくに連れ込んで同時に戯れるかい?」

 いっそ、それでも構わないというような口ぶりの皇帝に、灑洛は爪先から震えが上がってくるのを感じた。おぞましい、の一言に尽きた。

「けれど、私は、あなたを遊嗄と共有するつもりはない……だから、あなたを奪うよ。遊嗄も、全力で私の簒奪くらい考えてくるだろうからね。私も、家とねい家を敵に回したくなかったが、仕方がない」

 灑洛は、ぞっとした。これは、見舞いではない。皇帝の宣戦布告だ。

 皇帝は、灑洛を得る為に、遊嗄を退けるつもりだ。

 そして、遊嗄もまた、灑洛を得る為に、簒奪するつもりだ。

「……わ、わたくしは! では、出家します! ……父子が、憎み合い、争えば、国は……」

「灑洛」

 皇帝は、灑洛の必死の言葉を遮って言う。「国なんか、どうでも良い。結果として、私も遊嗄も、この国を悪い方へは回さないだろう……だがね。あなたを出家もさせないよ。あなたが身を引けば、万事が上手くいく―――そんなことは、絶対にない。もし、あなたがそれでも出家するのなら、私は、その寺に火を放つ」

 灑洛は、耳を塞ぎたかった。このまま、牀褥しょうじょくに伏して、何も考えず、何も見ず、百年くらい眠っていたい。

「なぜ、わたくしなの? 祁貴嬪だって、はい淑妃しゅくひだって、美しく聡明な方です。わたくしは、足許にも及ばない」

「ああ。家柄や条件で、愛せれば良かった。―――もともと、愛に意味などないと知って居たのに、あなたが、私に、火を付けた。だから私は……この愛の為に、生きなければならないんだ」


 黒衣が翻って、皇帝が去って行く。

 その後ろ姿を見送りながら、灑洛の眦から、涙が落ちた。

 何故こんなことになったのか、きっと、だれも、解らない。



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