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第五章 廟堂の宵
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しおりを挟む身体の震えが止まらないのは、雨に打たれたせいではない。
握りつぶすような酷い力で、皇帝が灑洛の手首を捕らえて、腕の中に引き寄せたからでもない。見上げた皇帝の瞳は、これまで目にしたことのないような、狂気じみた劣情の炎がありありと映っていたからだった。
「い……や……放して……」
唇が震える。幽かな言葉は、口唇に吸い取られて奪われた。皇帝の、薄い唇は、酷く熱かった。灑洛の口唇が、冷え切っていたからではないだろう。
皇帝は、何も言わなかった。
無言で灑洛から上衣を奪い、帯に手を掛けた。身をよじって灑洛が暴れる。必死で抵抗しなければ、ここで身を許すわけには行かない。恐怖に身体中から力が抜けたが、気力を振り絞って、灑洛は抵抗する。
口唇から侵入して、好き勝手に口腔を蹂躙する熱くぬめりを帯びた舌に思い切り歯を立てると、鉄の味が口の中に広がる。気分が悪くなって吐きそうになった。
まさか、女から舌を噛まれるとは思って居なかったらしい皇帝は、一度身を引いた。
口元を拭って、血が出ていることを確認したあと、皇帝は、笑った。どこか、陶酔するような、官能を帯びた冥い微笑だ。
「あなたが、噛みきった」
うっとりと、皇帝は呟く。
「玉体を傷つけたというのでしたら、ここで首をはねて下さいませ」
震える声で応戦する灑洛に、「まさか」と皇帝は微笑する。
「私の身体は傷だらけだし、妃達だって、私に縋り付いて、腕や背中に爪痕を残すことだってある。……噛まれたことだって、一度二度ではない。閨で、私を傷つけても、罪にはならないよ」
閨という言葉に、鳥肌が立った。
「お戯れは……この辺でおやめ下さいませ」
「戯れ、ねぇ……」
皇帝は、薄暗い笑みを浮かべながら、灑洛に囁く。「私は、あなたと、戯れたいよ。灑洛」
耳許、吐息混じりに囁かれる低い美声に、腰が甘くざわめくのを感じながら、灑洛は必死に、正気を保とうとする。流されれば、遊嗄を裏切ることになる。
「ああ、灑洛……私は、あなたがいい」
無理やり口づけながら、皇帝は、灑洛の身体を抱えて、そのまま、床に横たえた。
「いやっ! ……放してっ!」
手足をばたつかせながら、灑洛は抵抗する。手が、皇帝の頬に直撃した。まさか、殴られるとは思って居なかった皇帝は驚いたようだったが、笑みを濃くするばかりだった。
ばたつく、灑洛の細い脚を捕らえて、その甲に口づける。
「あっ!」
感じたことのない甘い刺激に、灑洛の身が、一瞬仰け反る。脚を捕らえたまま、皇帝は灑洛に覆い被さるようにして耳許に囁いた。
「遊嗄は、脚に口づけをしたことはないの?」
酷い格好だった。皇帝に組み敷かれ、片足を捕らえられて身体を折り曲げられている。
「暴れるから、裾が乱れていけないね……帯を解こうか」
捕らえた腕は肩の上にのせられてしまい、灑洛は戸惑う。戸惑いをよそに、悠々と皇帝は灑洛の帯を解いて、衣装を奪った。ほのかに輝く様な、白く美しい裸体が、皇帝の目の前にさらけ出された。
「……忌々しいな」
皇帝が小さく呟く。「ここ」と皇帝は指で触れた。豊かな胸の頂き近く。腰。へその横。脚の付け根。
「遊嗄が、口づけたのか」
そんなことまで観察されて、灑洛は恥ずかしさのあまり、気が狂いそうだった。なのに、皇帝の指が触れたところが、甘く痺れるようだったのにも、怖ろしくなった。
「おねがい……です、もう」
哀願を、皇帝は聞き入れない。
『黎氷、その辺で止めておけ!』
晧珂が飛んできて、皇帝の肩をつつく。
「黙れ!」
皇帝は激しく一喝して、晧珂を殴りつけた。腹にあたったらしく、空中でふらついたが、晧珂はめげなかった。
『おまえが、灑洛を恣にすれば、国が傾く!』
「構わないさ」
皇帝は、懐に隠し持っていた刀で晧珂の首を狙って腕を一閃させた。
「晧珂っ! ……お願い、逃げて……わたくしのことは見ないで!」
灑洛の眦から、涙が零れる。皇帝の刀の切っ先は、晧珂の嘴横を切り裂いた。晧珂は、飛ぶことが出来なくなって、ぱったりと、床に落ちる。
灑洛は、この隙を見逃さなかった。髪に挿した釵を引き抜いて喉を突こうと、勢いよく腕を引く!
しかし、その手を皇帝に捕らえられ、ねじり上げられた。
「うっ……」
乾いた金属の音を立てながら、釵が床に転がる。
「灑洛。死ぬつもりかい?」
「お許し下さい……どうか、陛下……っ」
泣きじゃくる灑洛に、皇帝は、たった今、晧珂を切りつけた短刀を握らせた。これで、自害せよと言うことだろうか……と、戸惑う灑洛に、黎氷は、殊更優しげな笑みを浮かべて言う。
「死にたければそうしなさい。ただ、あなたが自害したら、遊嗄を殺す」
鳥肌が立った。
「ま、まさか……ご自分の……」
「灑洛。私は本気だ。あなたを失ったのが、遊嗄への操立てだというのならば、あなたが死んだのは、遊嗄のせいだろう。皇帝の最愛の思い人を殺したのだから、罪は重い」
皇帝の、最愛の、思い人という言葉を聞いて、灑洛は首を振った。
「わたくしは、わたくしは、母上じゃないっ!」
「ああ、そうだよ、姉への気持ちなど、断ち切ったはずだった。……私は、姉上を愛していたはずなのに。気がついたら、あなた以外、いらなくなった」
肌に唇を這わせながら、黎氷は言う。黎氷と遊嗄と。よく似ているが、全く違う。
「嘘よ……そんなことを仰せにならないで。……そんなことを言えば、わたくしが、あなたに……なびくと……っ?」
「祁貴嬪に聞いて御覧? 皇帝は、祁貴嬪を抱いたときに、誰の名前を呼んでいたか」
「えっ……?」
黎氷は、灑洛の耳許に囁く。「私は、あの女を抱きながら、あなたの名前を口走っていた」
嘘よ、そんなのは知らない、と灑洛は必死に頭を振る。
「いいや、本当の事だ。……ああ、いまこそ、私は、あなたに告げよう。灑洛。私は、あなたが愛しいのだ。あなただけを愛している。いっそ、遊嗄から奪いとって、あなたを皇后にしよう。……そして、あなたは、私の子供を産んで……あなたは国母になる。
私は、あなたを諦めるつもりだったのだ。あなたを皇太子妃から廃して、濘家へ戻して……。それですべて、忘れて、上手くいくはずだったのに。あなたが、ここに来たんだ……だから、私は、運命にしたがい、人倫に逆らおう。
人に誹られても、私は、あなたを愛し尽くす」
熱っぽく囁く皇帝の、夢のような戯れ言を聞きながら。
灑洛は目を閉じた。
眦から、涙がこぼれ落ち、皇帝が握らせた短刀が、からりと床に転がった。
性急に身を繋げる男の律動に身を任せながら、灑洛は、(雷は嫌い)と、小さく呟いた。
―――遠雷。
雨と、土の香り。
窓の外から、槐花の、蜜を孕んだ濃密な香りが聞こえて来る。
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