44 / 74
第五章 廟堂の宵
8
しおりを挟む明け方まで、|遊嗄と牀褥《しょうじょく》(ベッド)で過ごすのが、入宮以来、灑洛の日常になっている。
最初のうちは、素肌に触れる絹の滑らかな感触が、艶めかしくて慣れなかったが、今では、素肌で感じる感覚の素晴らしさを全身で愉しんでいた。
絹の褥を素肌で泳ぐのは心地が良いし、素肌で感じる遊嗄の、逞しくて熱い身体も、陶然とするほど、心地が良い。夜のように身を繋げるわけではなくとも、素肌の胸に身を寄せて、脚を絡ませているだけでも、幸福感に満たされる。
遊嗄の、あどけない寝顔を見ているのも、楽しい。夢を見ているようなときには、口元が、なにやら、もごもごと動いている。戯れに、つん、と頬を突いてみても、遊嗄は起床時間まで起きることは、殆どない。眠りが短い分、深いようだった。
遊嗄は、初夜の時の約束―――私は、あなたの肌から、口づけの痕を消さないことを誓う、と言ったあの約束を、しっかりと守っているので、灑洛の胸元から、真紅の花弁が消えることはない。
(もしかしたら、これも、私が悪い噂をされる理由かも知れないけれど……)
それでも、止めて欲しいとは思わなくなっていた。これは、遊嗄にだけ許したことなのだ。遊嗄に愛されていることを実感する為の証でもある。
「……どうしたの、灑洛」
灑洛を無に元に引き寄せながら、遊嗄が問い掛ける。起床時間だ。
皇太子の寝所である華臥殿は、風華池の水面を渡る風が、そよ、と吹き込んできて、明け方近くは、夏でも肌寒いほどだ。もっとも―――肌を寄せ合って、暖め合う相手が居れば、少しくらい寒い方が都合は良い。
「この間、妹が殿舎を尋ねてきましたのよ」
「ああ……、黨睿泰が、一方的に、婚儀の約束を破棄したと聞いた」
遊嗄は、一応の事情を知っていたらしい。もしかしたら、灑洛の父である濘宰相が何か言って居たのかも知れないし、遊嗄自身が、黨睿泰から何か聞いていたのかも知れない。
「黨睿泰と仰有るのね……。私には、名前を明かしてくれなかったから」
「いずれ、将軍になる男だ。今は……辺境に居るはずだ。北の果ての―――天涯にいるのかな。そこは過酷なところだと聞くよ。夏ならば良いが、冬は、川までも凍てつく紅蓮地獄になると聞いた。
将軍を目指すのならば、通過点だが―――皇族でそこに配置されたら、死ねということだね」
ふ、と遊嗄は笑う。自嘲めいた、嫌な笑みだった。
「父上に逆らったら―――逆らい続けたら、天涯へと飛ばされるかも知れないな。辺境の、士気高揚の為だと言って」
それは、死を意味する言葉なのだとしたら、灑洛の答えは一つだった。
「では、わたくしも、お供いたします。……今日から、頑張って、馬に乗れるように練習しますわ」
「肌が裂けて、紅蓮の血しぶきが凍り付くほどの寒さだと聞いた。……私は、あなたの、柔肌を、そんな寒さに触れさせるつもりはない。もし、そうなったら、あなたは、私のことは見捨てなさい。私は、あなたを苦しめるのではなく、あなたの安らぎで居たいのだから」
遊嗄が、灑洛の手を取って、そっと口づけした。
このまま、噂がどうしようもないところまで行ったら――――。
皇帝も、そういう判断をせざるを得ないだろう。
「嫌です。わたくしは、あなたを愛し抜くと決めたのですから」
「困らせないでおくれ、灑洛。……私は、あなたの、桃香娘娘でありたいんだ」
桃香娘娘は、桃の花の女神だ。男性である遊嗄が、なぜ、桃香娘娘になりたいというのか意味がわからずに、灑洛は「なぜ?」と問い掛ける。
「私は……昔、桃香娘娘の絵姿に、勇気づけられていたんだ。辛いことがあっても、あの絵姿があれば、笑って見守ってくれると。だから、あの桃香娘娘の娘であるあなたに一目で恋をした。
けれど、私は、絵姿はいらない。私には、あなたがいるからだ……。あなたは、私の桃香娘娘だからね」
桃香娘娘の絵姿は、灑洛の母、娥婉の顔に似せて造られているはずだった。
(遊嗄さまと、皇帝陛下は、本当に、何もかも似ておいでなのね……)
けれど、どんなに似ていても、灑洛が選ぶのは、凍てつく凍土のような皇帝ではなく、春の息吹のような遊嗄だ。
「気を悪くしたかい? 今更、こんな話をして」
心配そうに、遊嗄が灑洛の顔を覗き込む。その口唇に、灑洛は自ら、口づけをした。灑洛の方から、口づけたのは、初めての事だった。
「灑洛……?」
口唇が離れたとき、遊嗄が、困惑顔で問い掛けた。触れるだけの、ほんの僅かな間の口づけだったが、遊嗄は、酷く驚いたようだった。
「絵姿ではなく、わたくしを見て下さいませ」
「勿論。出逢った時から、私は、あなた以外、なにも見えないよ。だから……」
どちらともなく、深く口唇が重なる。何度も、口づけを繰り返しながら、遊嗄は囁く。その囁きは、灑洛の耳朶に蕩けて、甘く響いた。
―――あなたを渡すくらいなら、私は、あの男と差し違えても良い……。
甘い、甘い毒のように、その言葉が灑洛を蝕んだ。
0
お気に入りに追加
35
あなたにおすすめの小説
5年も苦しんだのだから、もうスッキリ幸せになってもいいですよね?
gacchi
恋愛
13歳の学園入学時から5年、第一王子と婚約しているミレーヌは王子妃教育に疲れていた。好きでもない王子のために苦労する意味ってあるんでしょうか。
そんなミレーヌに王子は新しい恋人を連れて
「婚約解消してくれる?優しいミレーヌなら許してくれるよね?」
もう私、こんな婚約者忘れてスッキリ幸せになってもいいですよね?
3/5 1章完結しました。おまけの後、2章になります。
4/4 完結しました。奨励賞受賞ありがとうございました。
1章が書籍になりました。
愛する貴方の愛する彼女の愛する人から愛されています
秘密 (秘翠ミツキ)
恋愛
「ユスティーナ様、ごめんなさい。今日はレナードとお茶をしたい気分だからお借りしますね」
先に彼とお茶の約束していたのは私なのに……。
「ジュディットがどうしても二人きりが良いと聞かなくてな」「すまない」貴方はそう言って、婚約者の私ではなく、何時も彼女を優先させる。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
公爵令嬢のユスティーナには愛する婚約者の第二王子であるレナードがいる。
だがレナードには、恋慕する女性がいた。その女性は侯爵令嬢のジュディット。絶世の美女と呼ばれている彼女は、彼の兄である王太子のヴォルフラムの婚約者だった。
そんなジュディットは、事ある事にレナードの元を訪れてはユスティーナとレナードとの仲を邪魔してくる。だがレナードは彼女を諌めるどころか、彼女を庇い彼女を何時も優先させる。例えユスティーナがレナードと先に約束をしていたとしても、ジュディットが一言言えば彼は彼女の言いなりだ。だがそんなジュディットは、実は自分の婚約者のヴォルフラムにぞっこんだった。だがしかし、ヴォルフラムはジュディットに全く関心がないようで、相手にされていない。どうやらヴォルフラムにも別に想う女性がいるようで……。
王太子の子を孕まされてました
杏仁豆腐
恋愛
遊び人の王太子に無理やり犯され『私の子を孕んでくれ』と言われ……。しかし王太子には既に婚約者が……侍女だった私がその後執拗な虐めを受けるので、仕返しをしたいと思っています。
※不定期更新予定です。一話完結型です。苛め、暴力表現、性描写の表現がありますのでR指定しました。宜しくお願い致します。ノリノリの場合は大量更新したいなと思っております。
多産を見込まれて嫁いだ辺境伯家でしたが旦那様が閨に来ません。どうしたらいいのでしょう?
あとさん♪
恋愛
「俺の愛は、期待しないでくれ」
結婚式当日の晩、つまり初夜に、旦那様は私にそう言いました。
それはそれは苦渋に満ち満ちたお顔で。そして呆然とする私を残して、部屋を出て行った旦那様は、私が寝た後に私の上に伸し掛かって来まして。
不器用な年上旦那さまと割と飄々とした年下妻のじれじれラブ(を、目指しました)
※序盤、主人公が大切にされていない表現が続きます。ご気分を害された場合、速やかにブラウザバックして下さい。ご自分のメンタルはご自分で守って下さい。
※小説家になろうにも掲載しております
【完結】愛も信頼も壊れて消えた
miniko
恋愛
「悪女だって噂はどうやら本当だったようね」
王女殿下は私の婚約者の腕にベッタリと絡み付き、嘲笑を浮かべながら私を貶めた。
無表情で吊り目がちな私は、子供の頃から他人に誤解される事が多かった。
だからと言って、悪女呼ばわりされる筋合いなどないのだが・・・。
婚約者は私を庇う事も、王女殿下を振り払うこともせず、困った様な顔をしている。
私は彼の事が好きだった。
優しい人だと思っていた。
だけど───。
彼の態度を見ている内に、私の心の奥で何か大切な物が音を立てて壊れた気がした。
※感想欄はネタバレ配慮しておりません。ご注意下さい。
挙式後すぐに離婚届を手渡された私は、この結婚は予め捨てられることが確定していた事実を知らされました
結城芙由奈
恋愛
【結婚した日に、「君にこれを預けておく」と離婚届を手渡されました】
今日、私は子供の頃からずっと大好きだった人と結婚した。しかし、式の後に絶望的な事を彼に言われた。
「ごめん、本当は君とは結婚したくなかったんだ。これを預けておくから、その気になったら提出してくれ」
そう言って手渡されたのは何と離婚届けだった。
そしてどこまでも冷たい態度の夫の行動に傷つけられていく私。
けれどその裏には私の知らない、ある深い事情が隠されていた。
その真意を知った時、私は―。
※暫く鬱展開が続きます
※他サイトでも投稿中
殿下には既に奥様がいらっしゃる様なので私は消える事にします
Karamimi
恋愛
公爵令嬢のアナスタシアは、毒を盛られて3年間眠り続けていた。そして3年後目を覚ますと、婚約者で王太子のルイスは親友のマルモットと結婚していた。さらに自分を毒殺した犯人は、家族以上に信頼していた、専属メイドのリーナだと聞かされる。
真実を知ったアナスタシアは、深いショックを受ける。追い打ちをかける様に、家族からは役立たずと罵られ、ルイスからは側室として迎える準備をしていると告げられた。
そして輿入れ前日、マルモットから恐ろしい真実を聞かされたアナスタシアは、生きる希望を失い、着の身着のまま屋敷から逃げ出したのだが…
7万文字くらいのお話です。
よろしくお願いいたしますm(__)m
忘れられた妻
毛蟹葵葉
恋愛
結婚初夜、チネロは夫になったセインに抱かれることはなかった。
セインは彼女に積もり積もった怒りをぶつけた。
「浅ましいお前の母のわがままで、私は愛する者を伴侶にできなかった。それを止めなかったお前は罪人だ。顔を見るだけで吐き気がする」
セインは婚約者だった時とは別人のような冷たい目で、チネロを睨みつけて吐き捨てた。
「3年間、白い結婚が認められたらお前を自由にしてやる。私の妻になったのだから飢えない程度には生活の面倒は見てやるが、それ以上は求めるな」
セインはそれだけ言い残してチネロの前からいなくなった。
そして、チネロは、誰もいない別邸へと連れて行かれた。
三人称の練習で書いています。違和感があるかもしれません
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる