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第五章 廟堂の宵
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しおりを挟む七月七日の宴のあと、灑洛は傷が癒えるまでの間、東宮の夢月殿で静養していた。十日も経って、大分痛みは和らいできたが、腕を大きく動かすと、やはり傷に障る。
灑洛の元には、祁貴嬪を始めとする妃たち、それに二人の皇子、大臣達からも見舞いの品が届き、夢月殿の一室が贈り物で埋まるほどだった。
「まあ……こちらの錦の見事なこと……。そちらの薄物も、銀糸で刺繍が施こされておりましてよ」
鳴鈴が贈り物を広げて見せてくれるのが、灑洛の目を楽しませてくれた。贈り物は、釵、玉で出来た釧、耳飾り、錦や薄物、練絹などの布。それに貴重な書物、高価な薬、西域に住む孔雀鳥の羽根飾り、楽器や筆、紙や香、墨や硯という品まであった。
『まるで市場のようだな』
黄金の木の枝の上に留まった晧珂が、大きく羽を広げながら弾んだ声で言う。
「晧珂は、市を知っているの?」
晧珂は、昔を懐かしむように、眼を細めてから言う。
『ここに来て間もない頃かな、西域から来た学者を装って、黎氷と二人で市へ降りた事がある』
「皇帝陛下が……お微行で?」
信じられない。その上、西域の学者に扮装していたなんて……と想像したら、笑ってしまった。あの美しい皇帝が、どんな格好をしたところで、市井に混じるはずがない。
『そうだ。私など、西域に住む珍しい鸚鵡だとか言って誤魔化していたものだから……路銀代わりに売り飛ばされそうになった』
「どういう状況だったのか、怖ろしいけれど……難は逃れたようね。それならば良かったけれど」
市を歩く皇帝と神鳥を、やはり想像出来ない。ころころと笑っていた灑洛だったが、ふ、と皇帝のことを思い出してしまった。
あの日―――七月七日の宴から、灑洛は、皇帝の御前に出ることが怖かった。それは、皇帝の寝室で、遊嗄の求めに応じてしまったやましさもある。
遊嗄は、父帝に対して、―――こと、灑洛に関することについては、対立を露わにするようになった。おそらく、皇帝は東宮へ立ち入ることも出来ないだろう。
(皇帝陛下が、わたくしを、寝所にお召しになるはずもないのに)
そんなことをすれば、国が乱れるのは、皇帝が一番解っているはずだ。だから、皇帝には、その選択肢はない。灑洛一人の為に、苦労して統治してきた国を傾ける暗君ではないだろう。
『どうした灑洛』
晧珂が、灑洛の肩に止まり、そっと顔で頬を撫でた。止まっても、重さらしい重さはない。ふんわりとした羽が肩に降りたような感じだ。
「くすぐったいわ、晧珂。……遊嗄のことを考えて居たの。皇帝陛下と、仲が悪くなるのは良くないことなのに。わたくしはどうすれば良いのかしらね」
『時が経つのを待つしかないだろう。時が過ぎれば、黎氷の気持ちも落ち着く』
そうね、と言いかけて、灑洛は、晧珂が『遊嗄の』気持ちが落ち着くのではなく『黎氷の』気持ちが落ち着くのを待つ、と言ったことに気がついて、肌が、粟立つようだった。
(神鳥は……嘘を言わない)
これ以上、追求しても、神鳥は何も言わないだろうから、灑洛は、話を逸らすことにした。
「そういえば、こんなに贈り物を頂いたら、お礼をしなければならないわね」
鳴鈴に話を向けると、心得ていたとばかりに「すでに、大臣以下の方々には、礼状をお出ししております」と拱手して答えた。
「まあ、早いのね。有り難いわ」
「けれど……大臣や、皇子様方、お妃様たちとなると、妃殿下に対応して頂いた方がよろしいかと思いまして」
「そうね。それが良いわ」
灑洛は晧珂に枝に移るように言って立ち上がり、隣室へと向かう。山と積まれた贈り物を確認して、鳴鈴にお礼の品の手配を言いつけると、特に、祁貴嬪には、灑洛自ら、筆を執って礼状をしたためた。
祁貴嬪が贈ってくれた見舞いの品は、上等な錦と天女の羽衣のような被帛、練絹にたっぷりと刺繍を施した美しい上衣など装束だけでも、積み上げれば、灑洛の腰ほどの高さになるだろう。それに、菓子なども添えてあった。
衣装を犬に破かれたので、ぜひ、これで新しい衣装を作りなさいと言うところだろう。その心ばせは有り難いが、どうにも、これを使う気にはならずに、鳴鈴に言って倉庫の奥へとしまわせた。
礼の品は、無礼にならないようなもの。当たり障りのないもの……ということで、祁貴嬪の好みなどは知らなかったが、貴重な硯を一つ差し上げることにした。
「お礼の品を考えるのは、大変ね」
『終わったのか?』
羽音もなく飛んで、灑洛の机の端に、晧珂は立った。灑洛は、最近気がついたが、神鳥には、影がない。この世のものではないのだ。確かに、純白の美しい身体に、長々とした尾。大きな鶏冠。そして、紫水晶の瞳に、脚先には鋭い爪が付いていて、これが孔雀石のような深い緑色。くちばしは、瑪瑙の赤……これほど美々しい鳥など、存在するはずもない。
「ええ、終わったわ。晧珂……お茶は如何?」
『鳴鈴の手を煩わせるのも良くないから、今は良い』
そういえば、と灑洛は思い出した。七月七日の宴に、灑洛は本当は、晧珂を連れていこうとしたのだ。
けれど、遊嗄も皇帝も、神鳥を宴に連れ出すことを、躊躇ったのだ。
「遊嗄さまも、皇帝陛下も……もしかしたら、あの夜に、何かが起きることを知って居たのかしら?」
灑洛は晧珂の瞳を覗き込んだ。晧珂は、少し困ったような顔をして居たが、やがて、観念して口を開く。
『祁貴嬪が、私を殺して、簒奪を企てているらしい。……神鳥を、皇太子妃に与えたのが悪いということで、黎氷と灑洛に罪をなすりつけるつもりだよ。それで、七月七日の宴には、顔を出さないことにしたが……もし、私がいれば、犬をけしかけたのが誰だったか解ったのに、口惜しいことだ』
灑洛は、ぞっとして腕を抱いた。
命を狙われている。間違いない。祁貴嬪かも知れないし、祁貴嬪でないかも知れない何者かに。
「それでは、妃殿下、わたくし、お礼の品を届けに行って参ります」
鳴鈴が、侍女を従えて、藍玉殿へ向かうのを見届けて、灑洛は深々と、溜息を吐いた。
「命を狙われているのならば、自分で守るしかないわ」
すくなくとも、祁貴嬪も、『息子の妃を殺した悪女』の汚名を着たくはないはずだ。
『そうだな。そうして行くしかない。……皇城は、そういう所なのだ……』
晧珂の声が、胸に染みた。
◇◇◇
一刻ほどして戻ってきた鳴鈴は、気の毒なくらい気落ちしていた。侍女達も同じくうなだれている上に、祁貴嬪へと持って行ったはずの贈り物は、そのまま持って帰っているようだった。
「どうしたの、鳴鈴」
灑洛が鳴鈴に駆け寄ると、鳴鈴は大きな瞳をうるうると潤ませて「妃殿下、申し訳ありませんっ!」と泣き出して、いきなり平伏してしまった。
「どうしたの、鳴鈴。理由を話してちょうだい……あなたたちでも良いわ」
灑洛が侍女に目配せすると、侍女達はお互いに目配せし合いながら、何も言わない。困り果てていた時、晧珂が声を上げた。
『この贈り物。土が付いている。……祁貴嬪に転ばされたか?』
「なんですって?」
確かに贈り物を入れた箱には、土の跡が残っていた。
「ち、違うんです。……祁貴嬪が、あまりにも酷いことを仰せになるから、私……っ」
わあわあと泣きながら、鳴鈴が言う。侍女達も、「鳴鈴さまは、悪くありません」と口々に庇った。何事か解らなかったが、とにかく大事になって居るらしい。
「あなたたち……落ち着いて。そうね……、頂いたお菓子があるの。みんなで食べましょう。たまには、わたくしが、お茶の仕度をして上げるわ」
恐縮する侍女と鳴鈴を残して、灑洛は茶の仕度をはじめた。湯が沸くのを待ちながら、灑洛は思う。
鳴鈴は、ここでの暮らしに十分に慣れて、灑洛には報せないだけで、嫌なことも辛いことも沢山あっただろう。その鳴鈴が、耐えられずに泣き出したのだ。話をしっかり聞いて、祁貴嬪の対策をしなければならない。
灑洛は唇を噛みしめて、瞑目した。そして、じっと、耐える。
(わたくしは、強くならなくては……)
侍女達を、神鳥を、遊嗄を守る為にも。強くならなくてはならない。
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