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第四章 七月七日の夜
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しおりを挟む「父上! 灑洛は、灑洛は無事なのですか! 父上!」
壊れるほどに、瓊玖殿の寝室の扉を叩きながら、遊嗄は叫んだ。必死に中の様子を探るが、物音一つしない寝室は、人の気配も少ない。本来ならば、夜中、皇帝が休むときでも、女官や宦官は寝室にて控えるはずだった。
ところが、中からは、人の気配が殆ど感じられない。
一体どういうことか……と、遊嗄は冷や汗をかいていた。
(まさか、父上が、気を失った灑洛に無体を働くことは、ないだろうが……)
けれど、胸騒ぎが止まらなかった。
中から、戸が開けられる気配はない。となると、蹴破るしかない。遊嗄は、意を決した。少し後ろに下がり助走を付ける。そのまま、勢いを付けて走り出すと寝室の戸を、その勢いのまま、肩から全身力を込めて体当たりした。
瓊玖殿の戸は、衝撃に耐えきれず、ついに、開かれた。
「灑洛っ!」
無礼は承知だった。入り口から、さらに廊下を行くと、寝室になる。寝室は寝台と、寝際に読書や飲食をするための、小さな卓子と椅子が置かれている。本当ならば、灑洛が牀褥を使っている以上、ここで皇帝は座っていなければならなかったが、皇帝の姿は椅子にはなかった。
牀褥の天井から、羅で作った牀帷が、幾重にもたれ込んでいた。牀帷は閉ざされていて、その中にいる人影を映している。
「灑洛! 父上!」
遊嗄は、もはやここまで来たら躊躇わなかった。牀帷に手を掛け、乱暴に開く。そして、そこに居た二人の様子を見た。
灑洛は、ぐったりとしていた。いつもならば薔薇色をした頬が、今は、蝋のように白い。桃の花のような口唇も、紫色を帯びていた。灑洛は、褥に寝せられ、布団を掛けられて、死んだように気を失って居るままだった。
その傍らに、父帝の姿があり、心配そうに灑洛の顔を覗き込んでいる。
「父上!」
遊嗄が、父帝に呼びかけると、ぎこちなく遊嗄を振り返り「今、薬を飲ませたところだ」と小さく、言う。
「―――父上が、飲ませて下さったのですか?」
信じられない事を聞いたような心地で、遊嗄は、皇帝に尋ねる。
「まあ、そうだよ……私が、飲ませた」
歯切れの悪い物言いながらも、事実らしかったので、牀褥の上ではあったが、遊嗄は拱手して礼をとった。
「皇帝陛下におかれましては、我が妃に格別のご配慮下さいまして、有り難う存じます。灑洛に代わって御礼申し上げます」
深々と拝礼する遊嗄に、皇帝は「いや、良い」と、小さく礼を許す。その顔色も血の気を失って、青白かった。遊嗄に対する態度が、妙によそよそしいのと、常の、皇帝らしい冷厳な態度が消え失せている。なにか、おかしい、と遊嗄は思った。
「陛下、灑洛は、どのような様子でしょう」
遊嗄は、父帝に、鋭く問い掛ける。
「怪我は、酷かったが大事ないだろう。しかし、身体が冷え切っているらしい。今晩が、峠のようだ。今、身体を温める薬湯を……」
父帝の言葉が終わらぬうちに、遊嗄は自らの服を脱ぎ捨てた。皇太子出ある事を示す、紺色の上衣と深衣、下裳まですべて、脱ぎ捨てる。あっけにとられていた皇帝は、遊嗄に、掠れた声で問い掛けた。
「何をする?」
「人肌で暖めます……おそらく、それが一番です。灑洛は、私の妃ですから、私が素肌で暖めても、何もおかしな事はない」
丸裸になった遊嗄の、瑞々しい肉体を見た皇帝が、息を呑んだ。瑞々しく、若枝のようにしなやかな体つき。逞しいという形容詞には遠いが、痩身の割に、筋肉がほどよく乗って、無駄な肉など微塵も感じられない。そして何より、肌が美しい。張りがあって、はち切れそうだった。
「ここは、朕の牀褥だが」
皇帝は、小さく苦情を言う。まさか、遊嗄が、ここで脱ぎはじめるとは思って居なかったらしく、皇帝は、あっけにとられていた。
「可愛い灑洛の為に、一晩お貸し下さい。灑洛を動かすわけには参りませんから、ここで、灑洛を暖めます」
「そなたは、朕に寝ずの番をせよと?」
「お休みになるのでしたら、どうぞ、妃嬪の殿舎をお尋ね下さい。今晩は、七月七日の夜です。妃嬪の殿舎でお過ごしになっても、不思議なことはありません」
遊嗄は、きっぱりと言い切って、褥に潜り込んだ。灑洛が纏っている夜着を、慣れた手つきで奪いとって、真っ裸にする。無論、布団の中での事だから、皇帝には、灑洛の肌を晒したわけではない。
「どうぞ、灑洛のことは、私にお任せを。……父上は、どこかでお休み下さいませ」
「そこは、朕の牀褥だぞ」
「父上が、ここへお連れしたのですから……、何度も動かすわけにも行きませんので、このまま暖めます」
「全く、勝手な事を申して……」
皇帝は、呆れた声を出したが、遊嗄は構わなかった。灑洛の身体を抱き寄せると、氷を抱いたように冷たい。「こんなに冷え切って……」脚を絡めて身体をよりいっそう密着させる。
その姿を見た皇帝が、一瞬、息を呑んだが、「灑洛は必ず助けるように」と言い残して立ち去っていった。人の気配が消え、瓊玖殿の寝室に二人きりになった遊嗄は、そっと灑洛の肩口に顔を埋めて、そこに、父帝の好んで薫きしめている衣の薫りを感じた。
移り香がするほど……密着していた証だ。
ただ抱き上げているだけでは、こう、移り香はしない。
(父上は……最後までなさらずとも、灑洛に不埒な真似をしたのは間違いない)
遊嗄は、唇を噛みしめた。父帝が、どこまで、灑洛に触れたのか解らないが、氷のように冷たい灑洛とは対照に、腸が煮えくりかえるような心地になった。
柔らかな口唇は、多少色が戻ってきたものの、未だ死人のように蒼白だった。そこを触れながら、遊嗄は問い掛ける。
「あなたは……、この口唇を、あの男に許したの?」
たとえも灑洛に意識がなかったとしても、遊嗄には許しがたい事だった。
―――この、愛しき妃の身体に、他の男が、触れた!
手を這わせ肌を探り、口唇を味わい、髪を撫で、肌に舌を這わせて味わい……今まで遊嗄しか触れた事がないような、彼女の最奥にまで、深く探索していたとおもうと、嫉妬で身が焼き焦げそうだった。
とりあえず、灑洛の最奥を探り、そこに、情交の痕跡がないことは確かめたので、最後まで、奪い尽くされたわけではないことは確かめられたが、それでも……。
(あの男が、灑洛に、劣情を向けたのは間違いない)
それは、確信だった。
「灑洛……、私は、あなたを誰にも渡さないよ。必ず、あなたを守るからね……。もし、それが出来ないのなら……」
いっそ、あの男に奪われる前に……、と遊嗄は一瞬頭の中を過ぎった、冥い思考を苦笑した。
「ねぇ、灑洛……。あなたは、私のものなのだからね……」
きつく灑洛のか細い身体を抱きしめながら、遊嗄は、遠い昔のことを思い出していた。
桃の花が咲き乱れる、春のことだ。あの日、遊嗄は、花園で自らの守護仙女に会ったのだった。
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