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第四章 七月七日の夜
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しおりを挟む針に糸を通すだけだ―――。
灑洛は、そう言い聞かせたが、舌が震えて、上手く答えることができない。
「おや、どうしたの、灑洛」
皇帝が愉しげに声を掛けてくるのを聞いて、灑洛は何か答えなければと思うが、声にならなかった。
「わ、わたくし……」
上擦ってみっともない声だったが、祁貴嬪も、咎めることも、笑うこともなかった。妃嬪たちは、皆、顔色を失って声を出すことも出来ないようだった。
灑洛の言葉を遮ったのは、遊嗄の、刃のように鋭い声だった。
「おそれながら!」
「おや、どうした、遊嗄」
す、と皇帝の美貌から愉悦の笑みが消えた。双眸が、すぅと引き締まり氷のような冷ややかな視線に晒されて、遊嗄は一瞬気圧されたが、なんとか踏ん張った。
「おそれながら―――我が妃に、糸を通せと仰せになりましたのは、今晩のご進御(夜伽)も務めよと言うことでありましょうか」
遊嗄のあけすけな言い方に、彼が余裕がないことが解った。だが、この言い方ならば、皇帝は心づもりをはっきりと示さなければならないだろう。祁貴嬪をはじめとする妃たちも、ほ、と吐息したのが解った。
けれど、もし、これで夜伽をせよと言われたら―――という空気は、まだ払拭できない。
「ご無礼ながら」と前置きした上で、遊嗄は言葉を続ける。「皇帝陛下は、我が妃をお側にお召しになりたいという噂を聞いております」
皇帝の薄く美しい口唇が、すぅ、と歪んだ。
「こういう席で、聞くことではないね」
皇帝は、不愉快そうに口にしたので、遊嗄は、伏して拝礼した後に申し上げる。
「お戯れが過ぎます。……我が妃は、名門濘家の出身ではありますが、その分、世間知らずのところがございます。陛下に対して、なにぞ、ご不快なことがあれば、妃に代わって、私が責めを負います」
必死に言いつのる遊嗄の隣に、灑洛も伏して拝礼する。
「夫婦仲良きことは良いことだ……私のことについては、神鳥はなにか言っていなかったのかな、灑洛」
「晧珂は……いえ、神鳥は、なにも……」
「ふうん、そうか……あれも、中々義理堅い」
皇帝は、二人に礼を許した。「この七月七日の宴に、見るに堪えないような言い争いをして居たものだからね。これは、余興だ。少しは、祁貴嬪も肝を冷やしたかな?」
皇帝は、笑う。薄く笑う。その瞳の奥は、笑みなど浮かべていない。百花に並んで勝るような美しき貌に、笑顔の形を貼り付けているだけだ。
名前を出された祁貴嬪は、気を取り直したように悠然と微笑んで、皇帝に言う。
「驚きましたわ……もう、陛下、からかってはいけません。お戯れが過ぎますから、このように年若な者たちは、本気にして興を削ぎましたわ」
ころころと鈴を転がしたように笑う、祁貴嬪に同調して、濘夫人、裴淑妃も「本当に」「あれでは、皇太子殿下が気の毒ですわよ」などと、笑う。
「本当に、まだ、遊嗄は、若いね―――それが、遊嗄の良さでもある。己の妃を守ろうとする心は立派なものだ」
「あら、陛下も、もし、その空席に座する方の為ならば、国を傾けておしまいになるのでは?」
皇后に座る女の為ならば。
あなたは、国を傾けても、その女の為に生きることでしょうよ、と裴淑妃は、皇帝を非難したのだ。
「……朕の隣は、空席だよ」
否定はせずに、皇帝は、そう告げた。「そうすると、そなた達の間で、そうとう、朕は、暗君として通っているようだね」
「まあ、暗君だなんて」
「さあ、とにかく、七月七日の宴なのだから、そろそろ、糸を通しなさい。まずは、灑洛。この舞台まで出て来て、糸を通すと良いでしょう」
皇帝は話を打ち切って、灑洛に命じた。結局、なにもかも、うやむやにされたが、進御はないのだろうと灑洛は思う。そう。皇帝は、これを『余興』と言った。
(余興ついでに、ご寝所まで連れて行かれたら困るから、糸を通すのを失敗すれば良いわ……それに……)
おそらく、祁貴嬪が本日、『一夜限りの皇后』などと言い出したのは、あそこまで言えば、他の妃嬪が、針に糸を通さないだろうと分でのことだ。祁貴嬪を、進んで敵に回したい妃嬪が居るとも思えない。
だからこそ、灑洛は失敗しなければならない。ここで、祁貴嬪に張り合っても、何も良いことなどない。酔った振りをして、手元が狂ったとでも言えば良いだろう。
舞台まで続く橋を渡りながら、灑洛は、そう考えていた。
ゆっくりと橋を行きながら、すこし、蹌踉けておく。これで、『酔っていた』と言い訳をしても良いはずだ。
「おや、灑洛、どうしたのかな?」
蹌踉けた灑洛を見た皇帝が、声を掛ける。
「あまりに美味しいお酒でしたので、酔ってしまいましたの。けれど、針に糸を通すくらいでしたら、出来ますわ」
「そうかい、では、期待しているよ。……あなたの裁縫が上達したら、遊嗄も、喜ぶだろうからね。時に、あなたは刺繍が得意だと思ったけれど……、なにか、遊嗄に作ってやったのかな?」
夫婦の会話まで、すべて皇帝の耳に筒抜けになっているような気がして、灑洛は不安になったが、よく考えれば、皇帝の目や耳―――つまり、手足になって働く隠密が居るのは、当然のことだ。この皇城内で、皇帝の知らないことはないのだろう。
「重陽(九月九日)が、皇太子殿下のご生誕の日と伺いましたので、その日の為に、上衣を作っております」
「それは良いことを聞いた。……では、遊嗄。重陽には菊見の宴を催すから、その時に、灑洛の作った上衣を着てきなさい」
遊嗄は席で拱手して「畏まりました」と受ける。
「祁貴嬪。……そなた達は、皆、菊を育てていたね」
「はい、陛下」
「灑洛にも、菊の世話を教えてやりなさい。これは、妃の務めでもあるからね」
「畏まりました、陛下」
祁貴嬪は、優雅に拝礼する。灑洛も「祁貴嬪さま、わたくしめに、どうぞお教え下さいませ」と膝を突いて拝礼する。
このやりとりのあと、やっと舞台へたどり着いた時には、灑洛は疲労困憊していたが、既に宦官達によって用意されていた針と五色の糸を手に取った。
(たしか、月の方を向いて……月を見上げながら、針を通すのだったわ)
灑洛は、「それでは、皇帝陛下、どうぞ御覧下さいませ」と針を天へ掲げた。
――――その時だった。
天青堂の、玉座の下。黄金の柱の陰から、大きな黒い影が猛然と灑洛に向かって来た。
「灑洛! 危ない!」
遊嗄の声がした時には、灑洛の身体は、大きな黒い影に覆われて、舞台を転びおちて、堂内を巡らせている、水の中へと落ちてしまった。
(なに! なにがあったの……っ?)
灑洛は、水の中で必死に藻掻いた。しかし、薄い衣とは雖も、水を含んでいる為か酷く重く、手足に絡みついて思うように動かせなかった。
黒い影が、灑洛の肩口に食らいつく。
その時、灑洛は、黒い影が、血走った目をした、真っ黒で大きな犬だと知った。
(犬っ? ……なぜ、こんな所に、こんな、犬が……っ)
犬は重く、押しのけることも出来ない。その上、噛まれた肩口から、血がほとばしり出て、あたりをあっという間に真紅に染め上げていた。
息が出来ない。目の前が暗くなって、意識が遠のいていく。
最後に、灑洛の名を呼ぶ声が聞こえてきたが――――誰の声だったか、解らない。
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