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第四章 七月七日の夜
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しおりを挟む夢月殿では、白い羽を羽ばたかせながら晧珂《こうか》と名付けた神鳥が、飛んでいた。
神鳥を賜ってから、灑洛は、晧珂と共に夢月殿にて過ごしている。
晧珂は、神鳥と言うだけあって、人の言葉を理解し、人の言葉を話すだけではなかった。賢く、天地の開闢から現在に至るまで、この地の歴史をあまねく覚えているのである。
神鳥の口から聞く、遠い昔に、何十もの国があって、戦を続けていたという時代の話などは、灑洛にとって、お伽噺のようにも聞こえた。
神鳥が部屋の中を舞うのは、灑洛の目を楽しませる為である。大きな羽を広げたところを見てみたい、と灑洛が気軽に言ったのだ。
『存外大きいぞ』
神鳥が羽を広げると、灑洛の身の丈よりも大きい。貴曄殿の宴席で、神鳥の羽を広げたところを見たはずだったが、その時よりも神鳥は大きく見えた。
「本当に……大きいのですね……」
それだけではない。
神鳥が羽ばたくと、沈香や伽羅や白檀、乳香、貝香、没薬……などを調合したような、霊香が漂う。
不思議な事に神鳥は、この世の食べ物を摂取する必要がないということで、僅かな茶――それも、特別に香りが高く、とろりとした口当たりをした茶――だけを食事として摂る。
最初、お腹がすいてしまわないかと、果物や穀物などを用意していたが、どれも必要ないと言われてしまった。
神鳥は、ふわり、と黄金で出来た枝に止まった。瓊玖殿の、皇帝の寝室にあったものを、神鳥の為にと、もらい受けた。本当は、断りたかったが、神鳥の為ならば仕方がない。
『灑洛、どうした?』
黄金の枝は、榻の横に置いている。灑洛は座ったまま。神鳥は、枝に止まったままで話が出来る。
「晧珂《こうか》は、わたくしの噂話をご存じかしら?」
灑洛は、思い切って神鳥に聞いてみた。他の者ならば、口をつぐむだろうが、神鳥は、嘘偽りを語ることはない。それは、神鳥を賜ってから五日。灑洛が、実感したことだった。
『そなたの噂か』
神鳥は、考えるような素振りをしてから、『それを、そなたが知ることを、黎氷も遊嗄も望んで居ない』とだけ、静かな声音で答えた。相変わらず、部屋の四方八方から響いてくるような声音だった。
黎氷、という言葉には、多少、灑洛は反応した。皇帝の名である。
「皇帝陛下も、皇太子殿下も、わたくしに、よほど、その噂を知られたくないようね」
『致し方あるまい。そなたの為だ』
神鳥も、同じ立場のようだが、灑洛は、面白くない気分になった。灑洛の意向を無視して、灑洛の頭上ですべてが決まっていくような感覚だ。灑洛は、確かに皇帝と違って力を持たない。だからと言って、存在を蔑ろにされるのは、悲しかった。
「晧珂も同じ考えなのね」
『そうだな。そう言える』
ふう、と灑洛は溜息を吐いた。神鳥は、こうなると、梃子でも灑洛に語ることはないだろう。
神鳥の足許、黄金の枝の間に、茶碗を置くのに相応しい、小さな平たい黄金の台が隠れているので、その上に、鳴鈴が運んで来た茶を置いてやってから、灑洛も茶を含む。
神鳥も、瑪瑙の嘴を茶碗に入れて、ほんの少しずつ、茶を飲んでいた。
茶菓子は、石榴を干してつくったもので、指で千切って少しずつ食べると、口の中一杯に酸味と、それから濃厚な甘みが押し寄せてくる。
「晧珂。あなたは、なぜ、わたくしに、あんなことを仰有ったの?」
『なんのことだ?』
「貴曄殿での宴の席で……あなたは、わたくしのことを『この娘は、変わった運命を持っている』と言ったわ」
改めて、聞いてみることにした。もしかしたら、例の『噂』というのは、神鳥の『予言』が絡んでいるかも知れないと思ったからだ。
『この娘は、国母になる運命を持っている。そして、この娘は、我を退け、黒珠黒衣を身に纏う』
改めて、神鳥は、『予言』を語った。
「不思議だったの。どうして、あなたが、そんなことを、言ったのかしらって」
それは、紛れもない事実だ。灑洛は、ずっと、不思議だった。黙っていれば良いものだったが、わざわざ、人の集まるところで言ったのだ。
「もしかしたら、あなたは、わたくしと遊嗄が結ばれるのを、阻止したかったのかしら?」
『いいや』
神鳥は、ゆっくりと首を横に振った。ふぁさり、と絹糸の束が残す衣擦れのような音を残して、長々しい尾羽が揺れた。
『私は、見たものをただ、口にしただけだ。それに依れば、あなたは、国母になり、私を退け、そして、黒珠黒衣を身に纏う。あるいは、あそこでそれを口にしたのは、あなたが、黒珠黒衣を身に纏うようなことにならないように……、誰かに止めて貰いたかったからかも知れない』
黒珠黒衣。
それは、皇帝の衣装だ。
黒い上衣、黒い薄物を重ねた下裳。その他のすべてが、漆黒である。
「晧珂……あなたを、退ける、とはどういう意味なの?」
灑洛は、不安な気持ちになりながら問い掛けたが、神鳥は答えなかった。ただ―――。
『私は、游帝国が好きだ。……出来ることならば、末永く、幾久しく、繁栄してほしいと願っている』
祈りのような言葉を告げると、紫水晶の瞳を閉ざしてしまった。
「妃殿下……、神鳥様は?」
「お休みのようよ」
手短に告げて、灑洛は、榻に身を横たえた。そして、手を見る。美しい、白魚のような手だ。かつて、遊嗄と灑洛が出逢う前は、手はいつも荒れていて、汚れたようだった。
「わたくしは、どうなるのかしらね」
廟堂の掃除をしていたから、手は汚れていた。今は、見る影もない白い繊手だ。
そこに、皇太子妃に相応しく―――珊瑚で作ったつけ爪を付けている。神鳥の爪にも似た、猛禽の鋭さにも似たつけ爪を見遣りながら、灑洛は、もう一度「わたくしは、どうなるのかしらね」と呟いていた。
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