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第三章 噂と女たち
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しおりを挟む亡き皇太后を偲ぶ宴のあと―――すなわち、灑洛が、皇帝より神鳥を下賜されて以降、皇帝の足は掖庭宮から遠のいていた。
皇城での公務を終えるや、常の住まいである瓊玖殿にとじこもり、朝まで出てこない。
体調が悪いという噂も流れたが、執務をする姿は至って健康で、気が向けば、乗馬をして馬場を駆けることもある。
皇帝周りに配置している間者(密偵)から受ける報告を聞いて、祁貴嬪は、眉を歪めた。
「どういうことなのかしら。皇帝陛下は、気鬱の病にでも罹っておいでなのかしらね」
それならば、見舞いと称して参上することも可能だが、あの宴以降、遠ざけられている祁貴嬪は、参上も適わない。
「史玉、七月七日の宴は開くのでしょう?」
侍女の史玉に問い掛けると、史玉は、当月の予定として公示されている行事の一覧を持って、祁貴嬪に答えた。
「はい、娘娘。確かに、七月七日の宴は催される予定となっておりますし、中止になったという報せも参っておりません。それに……宴には出ないようにとのおおせはございません」
「ふん、宴に出ろという仰せもないわよ」
祁貴嬪は、榻に身を横たえて、自身の爪を見つめた。長い爪である。血で濡れたような真紅の爪は、瑪瑙と黄金で作ったつけ爪だ。
貧しい娘などは、爪を染めるときに、鳳仙花を磨り潰したものを使うという。鳳仙花と、団栗を磨り潰して作ったものを爪に塗りつけて、一晩置く。そうすると、爪が綺麗に赤く染まるという。
祁貴嬪は、灑洛のことを思い出した。
確かに、顔立ちは美しい。美形で名高い皇帝の姪である。その血を色濃く引いているのは間違いない。
(まあ、もっとも……、本当に、姪かどうかは解らないけれど……)
美しい容姿の割に灑洛の衣装などは、祁貴嬪や、濘夫人などに比べれば、遙かに質素なものである。華美に過ぎないようにして居るのかも知れないが―――自分で髪の手入れをするような娘だ。つまり、祁貴嬪のように美しいつけ爪などを付けることは出来ないだろう。
(みすぼらしい女)
その女が、神鳥を賜ったという。
祁貴嬪は、史玉が捧げ持った盆の上に置かれた茶を一口含み、菓子を一つ摘まんだ。乾燥させた棗に、たっぷりと蜜を含ませた、蜜棗という菓子で、大変贅沢なものだった。
(けれど、陛下が神鳥をあの娘に下賜したことを……こちらは利用してやるわ)
やりようは、いくらでもある。
知らず、口元に笑みが乗っていたらしく、史玉が「なにか、良きことでも?」と問い掛ける。
「考えて居たのよ。……我が義娘は……、ちゃんと、神鳥のお世話をしているかしら……とね」
史玉の瞳の奥が、祁貴嬪の言葉の真意を察して、煌めいた。
「そうですわね、もし、神鳥が……傷ついたり、飛べなくなったりしたら、困りますものね……。或いは、万が一、死ぬようなことがあれば……皇太子妃殿下だけではなく、神鳥を下賜した方も」
「そうね。本当に、万が一の話だけれど……神鳥が死ぬようなことがあれば……ね」
ふふ、と祁貴嬪は笑った。
「如何致しましょう、娘娘。皇太子妃殿下の所へ参りましょうか? 神鳥の様子が心配だと」
史玉の申し出を聞いて、祁貴嬪は「そうね」と考えを巡らせた。長い睫が伏せられて、祁貴嬪の美貌に影を作る。凄艶な横顔に、見慣れているはずの史玉でさえ、肌が粟立つ。
「そうね。七月七日の宴は、いつも通りに参加するのでしょう? ならば、その席で、灑洛が神鳥の世話をして居るか、疾くと拝見させて貰えば良いわ。……なにしろ、神鳥は、頭の良い鳥よ」
「鳥? 神の御使いなのでは?」
「真相は知らないわ。ただ、この国では今、あれを、聖なるものとして扱っていることがすべてよ。……あれは、聖なるものなの。実際は、解らないわよ。ただ、いくら、戦功を上げて、国土拡大と死守に努めたからと言って、若干二十五歳の青年が、後ろ盾もなく即位するには、はったりも必要だったのよ。
あんな、白い雉ぐらい、山奥にでも行けば、いくらでも探せるでしょう。
あの方は、ご自分の玉座を守る為に、即位式で、あの鳥を使ったに過ぎないわ。意外に、演技が上手いのよ。皇帝にならなかったら、役者でも向いていたわね!」
祁貴嬪の哄笑に、つられて史玉も笑う。
「では……七月七日の宴にて、皇太子妃殿下が、しっかりと鳥の世話をして居るか、確かめられるように、余興を準備いたしましょう」
「まあ、頼もしいわね。では、仕度をお願いね」
祁貴嬪は、満足げに笑って、史玉を下がらせた。史玉は、そのまま、藍玉殿を出て行った。七月七日の宴の仕度をする為である。
「ああ、喉が渇いたわね……ああ、そこのお前、茶を用意しなさい」
祁貴嬪は、端女に命ずる。碧瑠璃の茶器を割ってしまった、粗忽な端女の代わりに入ってきたものだが、中々、気が利いている。
「娘娘、畏まりました」
柔らかな物腰で礼をしてから、茶の仕度をする仕草も、可愛らしくて良い。
馨しい銀花茶が仕度され、茶葉につけた花の甘い香りが、部屋中に満ちて、祁貴嬪は今まで灑洛のことを考えて居て昂ぶっていた気分が落ち着いてくように感じていた。
「娘娘、お茶をお持ち致しました」
恭しく捧げ持たれた茶は、薫りが立ち上り、一口含めば体中に茶の香りが広がっていくようだった。
「良い香りだわ……。七月七日の宴は、どこで催されるのだったかしらね」
祁貴嬪が問い掛ければ「瓊玖殿の、天青堂でございます。大広間には、池から引いた水が巡らされて、広間の中だというのに、噴水や橋がございます」などと、淀みなく答える。
「そうだったわ……天青堂は、あまり行くことがないから、忘れていたわ。それにしてもお前は、なぜ、天青堂の内部のことまで知って居たの?」
祁貴嬪でさえ、数えるほどしか立ち入ったことのない場所である。端女が出入りしているのは、おかしなことだ。
(もしや……この娘、陛下の間者では?)
疑った祁貴嬪に、娘は「私は、こちらに来る前に、瓊玖殿にて下働きをしておりました。床を磨いたり、溝の泥を攫ったりという……貴嬪さまから見れば賤しい仕事です」と言って、拱手して拝礼する。
「いいえ。お前は若いのに、大変な仕事をして居たのね。……名はなんというの?」
端女は、目を丸くした。
祁貴嬪のような高貴な方が、端女の名前を気に掛けることなど、普通はあり得ない。端女は、はっきり言って『使い捨て』だ。たとえ場、彼女が死ねば、すぐに次のものが入れられる。
だから、高貴な人は、端女の名など、知る必要は無いのだ。
「あ、あの……、私の名前は、柳栄花と申します……」
「そう、清々しくて良い名前ね。……栄花、妾は、そなたの仕事ぶりを気に入っているわ。これから、史玉が外すことが多くなるから、妾のそばにてよく仕えなさい」
祁貴嬪の優しげな言葉を聞いて、栄花は床に伏せて拝礼した。
「祁貴嬪さまに、御礼申し上げます」
「まあ、大げさよ、栄花」
ころころと笑いながら、祁貴嬪は、胸の中に皇帝の姿を思い描いた。
(思い知らせて差し上げるわ……。妾を敵に回したことを。灑洛もろとも、必ず、滅ぼして上げる)
祁貴嬪の瞳は、狂気じみた怒りを宿し、爛々と燃え上がるように揺れていた。
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