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第二章 遠雷
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しおりを挟む灑洛と遊嗄が花園の蓮を見物しながら、はしたなくも屋外で戯れていた頃、皇帝は、高楼にて、急に胸を押さえて倒れた。
最初、毒殺との報が飛んで、灑洛と遊嗄は、はだけた装束を整えて、取るものも取り敢えずに皇帝の寝所がある瓊玖殿へと駆けつけた。
「父上っ!」
枕元に駆け寄った遊嗄と灑洛の姿を見た皇帝は、青白い顔をしながら、苦笑した。
「ただの過労だ。暑気にあたったようで、毒ではない」
その言葉には安堵したが、灑洛は、気が気ではなかった。
「お疲れの所を……、わたくしの為に、蓮の見物を用意して下さったから……」
あまりの申し訳なさに、灑洛は床に跪いて、声を堪えて泣いた。
「灑洛。顔を上げなさい……そなたのせいではない。それは、神鳥にでも聞いて貰えば解る」
神鳥、と言われて灑洛は部屋をぐるりと見回した。皇帝の枕近く。神鳥が、黄金の枝、翡翠と瑪瑙で出来た果実と、珊瑚で出来た花をあしらった豪華な止まり木に、純白の神鳥がいた。
神鳥は、澄んだまん丸の紫水晶の瞳で、すべてを見透かすように、灑洛を見つめて居た。
「それより、父上、お休み下さい」
遊嗄が皇帝を褥へと押し戻そうとした頃、瓊玖殿の入り口のほうから、騒がしい声が聞こえてきた。金切り声で、
「陛下っ! ご無事でございましょうかっ!」
などと叫びながら、妃嬪が参上したのだろう。
「遊嗄。……妃たちは、追い返すように。朕は休むゆえ、あの甲高い声を聞きたくない」
(あら、そんなものは太監にお任せになれば宜しいのに)
灑洛は首を捻ったが、遊嗄の受け答えで、納得した。
「そうですね。母上……祁貴嬪さまも、太監よりも私が行った方が穏便に引き取って下さることでしょうし……」
答えながら、遊嗄は、ちらちらと、灑洛を見ていた。灑洛の今の格好は、他の妃嬪たちの前に出せる格好ではなかった。上衣や襦裙の裾には、土がついてよごれ、綺麗に結っていたはずの髪も、乱れている。
「灑洛、あなたは父上の看病を」
「はい、畏まりました」
遊嗄が立ち去り、寝所には灑洛と皇帝と神鳥だけが残される。
「神鳥様……、陛下は薬湯などはお召し上がりになりましたか?」
『念のためにと、太医が薬湯を飲ましていった。酷く苦い薬で、黎氷は嫌がっていたが』
神鳥の声は、四方から響いてくるような、不思議な声音だった。
「お苦手な、苦い薬湯をお召し上がりになったのでしたら……静かにお休みになってた方がよろしゅう御座いますね」
灑洛は、瞼を閉ざして横たわる皇帝を見下ろしながら言う。いくらか、ホッとした気持ちだった。皇帝は、息苦しいのか、美しい眉を顰めながら胸元に手を遣っているので、
「もし、よろしければ……少し、お召し物を緩めたほうが、いくらか息苦しさもなくなると思います」
と申し出た。
皇帝が、目を見開く。灑洛は、何かおかしなことを申し上げたかと焦ったが、皇帝は、深い溜息と共に、「頼む」とだけ告げたので、その通りに、着衣に手を掛けた。
皇帝は、先ほど花園へ来た時と同じ格好だった。上衣まで纏っているのは、寝苦しいだろうと、上衣を脱がせる。と言っても、寝ているものから衣装を剥ぎ取るので、苦労した。肩や腕に手を掛けて、少しずつ上衣を脱がして、抜き取った頃には、灑洛は汗だくになっていた。
皇帝の漆黒の上衣は、酷く重い。飾り物が多いと言うのもあったが、万が一の暗殺などに備えて、生地に何かを仕込んでいるのだろう。
それから、腰に手を伸ばして、帯を緩める。
本当ならば、夜着に着替えた方が良いのだろうと想って、「夜着は、どちらに?」と聞いたが、答えはなかったので、仕方がなく、帯を緩めるだけにしておいた。
冠は、冕冠ではなかったが、黒珠で飾られた礼冠に近い形の冠を付けている。顎紐を解いて冠を取ったあと、灑洛はかんざしを抜き取ろうか、と逡巡った。
ふいに、遊嗄の言葉を思い出したからだ。
『あの父上が、こうして、あなたに夜咲睡蓮を使うのではないかと……私は勝手に邪推して』
夜咲睡蓮の効果を、灑洛は身をもって知った。
全身が、甘く蕩けて何も考えられなくなってしまいそうだった。触れられたところから、炙られるように熱く、燃え上がってしまった。
(まさか、邪推よ)とは灑洛も想う。
灑洛と皇帝は親子ほどの年の差がある。もっとも、毎年、官女として入宮する女達は、十三歳から十七歳までの年若い花の蕾で、皇帝は、それを想うがままに散らすことを許されている。
(遊嗄さまに、かんざしはお任せすれば良いわ)
灑洛は、抜き取った装束を綺麗に畳みながら、皇帝の寝顔をみやった。やはり、四十過ぎには見えない、美しすぎる肌だ。良く見れば皺もあるのだろうが、それでも、張りと艶の失われていない肌である。
「ん……」
皇帝が、何事かを呟いたような気がして、灑洛は側に駆け寄る。
「陛下、何か、仰せになりましたか?」
小声で確認すると、薄く、皇帝が目を開けた。吸い込まれそうな、黒水晶の瞳が、灑洛を写している。
「陛下?」
皇帝の手が、灑洛に伸びた。鋭く、神鳥が啼く。何事だろうと思った灑洛の手を取って、皇帝はぐい、と力任せに腕に引き寄せた。
「っきゃあっ!」
牀褥(ベッド)の上に引き寄せられて、灑洛の肌が粟立つ。そのまま、きつく抱きしめられてゆっくりと、牀褥に横たえられ掛けた時、灑洛はやっとの思いで声を出した。
「へ、陛下……っおやめ下さいませ……っ」
震える声で言うと、ハッとしたように皇帝が刮目して、身を起こした。その刹那、くらりと眩暈がしたらしく、頭を押さえる。灑洛は「陛下?」と皇帝の肩に手を触れたが、すぐに、振り払われた。
「陛下……?」
なにか、皇帝の不興を買っただろうかと、灑洛は気が気でなくなった。
「他の、ものと……勘違いをして、つい、引き寄せてしまった。牀褥から離れてくれ。じきに、遊嗄が来る」
皇帝は灑洛の方を見ることなく、苦々しい口調で言った。灑洛は、引き寄せたことから考えても、女なのだろうと思う。
「陛下の仰せのままに」
一礼をして、牀褥から下がる。灑洛が褥から降りたのを知って、皇帝は溜息を吐いた。
「昔のことを思い出していたのだ……。とうの昔に失って、叶わなかった恋だ。諦めていたと思い込んでいたのに、二十年も経って、諦めきれないことに気がついた。私は愚かだ」
「そんな……、きっと、相手の方も、結ばれなかったとは言え、陛下から、二十年もの間、忘れられずに思われていたのでしたらば、嬉しいと思います」
必死な口調で言う灑洛に、皇帝は微苦笑した。
「いいや、あの人は、私の想いを知れば、汚らわしいと罵っただろう。どうあっても、許されない想いだ」
「汚らわしいなど……」
灑洛口ごもったが、意を決して、毅然とした態度で申し上げた。「人を恋しく思うのに、汚らわしいことなど、何もありませんわ」
灑洛の問いには答えず、皇帝は。顔を手で覆い尽くしていた。
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