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第二章 遠雷
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しおりを挟む急に笑い出した皇帝を灑洛は訝しんだ。
(なにか、わたくし、変なことを申し上げたかしら)
「『指南書』を守っている女が居るとは……」
身を屈めて笑うほど、おかしいらしい。
「あら? だって……そう、書いてありますし……」
「いや、ちょっと、灑洛。これ以上、言わないでおくれ。おかしくてたまらない」
眦に浮かんだ涙を美しく細い指で拭いながら、皇帝は言う。良く見れば、遊嗄よりも年齢を感じるが、やはり、齢四十を越えているとは思えない美貌だ。
「まあ、わたくしそんなにヘンだったかしら」
「あなたは、あの『指南書』を、その通りに守っているのかい?」
閨ごとを聞かれているとおもえば、恥ずかしくて顔から火が出そうになるが、質問とあれば仕方がない。
「ええ。その……守っております。だって、序文には『皇城に仕える宮女たるもの、主にしたがいこの書をよく読み、これを守るべし』なんて書いてありましたもの」
「あなたは真面目だな……では、可哀想に、遊嗄は、あなたの素顔も寝顔も見たことはないのか」
くすくすと皇帝は、からかうように笑う。
確かに、『女は見苦しい姿をさらさず、素顔を晒すべきではない』とか『朝寝の姿を見せるのは見苦しいことだ』と書かれていたので、朝も、なんとか頑張って起きて、身支度を調えてから、遊嗄と朝餉を採るのだ。
「当たり前ですわ……」
頬を赤く染めながら、灑洛は言う。
「たまには、遊嗄もあなたの寝顔を見たいだろうにね。……それと、閨でお願い事をしない方が良いのは確かだけれど、閨でお願い事をされて嫌な気分になる男は、そんなにはいないと思うよ?」
「そ、そういうものなのですか?」
「ふふ、甘えられるのは悪くない」
皇帝は、あまりにも蠱惑的に笑うものだから、灑洛の胸はどきり、と跳ねる。
「わ、悪くない……ですか? 陛下でも?」
「女人には政に口出しさせる気はないが……ささやかなお願い事までならば、悪くはないよ。たとえ、下心が見え透いていても、ね」
「下心?」
「あなたは知らなくて良いことだ。……あなたも、遊嗄も、真面目なところは美徳だが、少々真面目に過ぎる」
思わぬ評価を受けて、灑洛は、血の気が引くようだった。真面目すぎる、というのは良いことではない。
「ともあれ、今年も蓮も明後日には終わってしまう。……今宵は、私が骨を折ってやろう」
「陛下のお手を煩わせるわけには……!」
「いや、良い。今宵は天気が良いだろうから、花園で、幻灯を飛ばすことにしよう……私は途中で退散することにするから、あなたたちは、ゆっくり花見を楽しみなさい。……花園の睡蓮はね、『夜咲睡蓮』と言って、西域からの献上の品だ」
皇帝は立ち上がる。慌てて灑洛も立ち上がって、拝礼しようとした時、薄い襦裙に足を取られて、前のめりにつんのめった。
「きゃっ!」
倒れる! と思ったが、皇帝に抱き留められて、床に転がらずに済んだ。思わずホッと一息吐いたが、皇帝の腕の中にいることに気がついて、灑洛は慌ててしまった。
鼻先をくすぐる、くらりとするほど濃密に甘い香の香りは、竜涎香と沈香をベースに麝香や白檀などが混ぜられたものだ。
まるで媚薬のように甘い香りを好んで居るのは、意外なことだと思ったが、遊嗄よりも細く長い指を持つ皇帝の身体は、容易には押し返せないほど逞しい身体を持っていることにも気がついて、灑洛は慌てる。
ほんの一瞬、強く抱きしめられたような気がして、灑洛はなぜか心細いような気持ちになったが、皇帝はすぐに彼女の身体を介抱した。
「足許には気をつけなさい。私がいたから良いけれど、倒れて傷でも作ったら大変だ」
「はい、陛下………気をつけます」
皇帝は、侍官に目配せした。「本日、幻灯を飛ばす宴を催すゆえ、仕度を。朕と皇太子、皇太子妃の三人の仕度で良い」
「畏まりました」と侍官は受ける。
そのやりとりを聞いて、灑洛は、(あっ)と気がついた。皇帝は、自らを『朕』というのが普通だ。だが、ずっと、灑洛と一緒にいた皇帝は、自らを『私』と呼んでいた。
通常ならば、あり得ないことだ……。
胸の奥が、ざらつくような、嫌な予感を覚えつつ、灑洛は皇帝を見送った。
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