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第二章 山科にて『鬼の君』と再会……

18.鬼の君の訪ない

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「……姫」

 私を、呼ぶ声がする……。

 誰の声だっただろう、と私は思い出す。

 男の方の声だけど、赤麿や家人のものではない。

 もっと、声に力があって、魅力的な、低いお声だ……。

 陽でもないし、潤さんでもない。関白殿下でもない。帝……はちょっと、声が似ているような気がする。つまり、それほど、お声が素晴らしいと言うことだわね。

「姫、起きて下さらないの? 折角、香をたいて下さったのに」

 その言葉を聞いて、私は、ハッと飛び起きた。

 暗いからよく解らないけれど、庭のところに、人が居る。それはよく解った。

 その人は闇に溶け込むような黒い狩衣に、黒い袴を着けていて、ひとえも青を使っているから、よく見えない。そして、闇色の扇で顔を隠してしまっているので、顔を見ることも出来ない。

 けれど、私は、香についてなにをかおっしゃったと言うことは―――と、思った。

 この方は、おそらく、鬼の君だ。

「八年前に、お会いいたしましたかしら」

「ええ。そして、七年前に、文をお出ししましたよ」

「私は、あなたを、なんとお呼びしていたかしら」

 私は『鬼の君』という呼び名で、あの殿方を呼んでいたことを誰にも教えていない。早蕨は、私が『鬼憑きの姫』と呼ばれるようになってから、伝説のスーパー乳母『二条のお乳の人』の思し召しで、私の為に早苗が女房として来てくれることになったのだった。

 その辺の経緯は、よく解らない。

 早蕨自体は、私と同じくらいの身分なのだけれど、『二条のお乳の人』の孫という立場ならば、あの関白様と同じだ。だから、本当だったら、私のような田舎者の、あんまり出世の見込みのない父親を持つ姫のところになんか、女房に来る人ではないのだ。

「鬼の君と、あなたは私を呼びましたよ。そして、私の従者は、小鬼と」

 本物だ! と私は確信した。

 御簾を上げて、廊下へ出ると、鬼の君も、近づいて、階のところに座る。

「本当に、ご無事だったのね」

「ええ。あなたに、あの時助けて頂かなかったら、私は、おそらく、この山なのかで捕らえられ―――殺されてから蓮台野れんだいのにでもうち捨てられていたでしょう」

 蓮台野というのは、葬送の場所のことだ。

 都の西の方に船岡山という山があって、その西の方が、蓮台野と呼ばれる。

 そこへ持って行って、埋めるのでもなく、焼くのでもなく、そのまま風葬にするのだ。こうやって、大地へと帰依していくという場所でもある。野犬に食われたり、烏に屍肉を突かれたりもするけれど、それもまた、この世の理なのだと、受け容れる場所だ。

「鬼は、こんなところでは死んではなりませんわよ」

 私が言うと、鬼の君は、ふふ、と笑った。

「あなたが、私の香を、寸分の狂いなく作って下さったのを、嬉しく思います。これは、とても、大切な香なのです」

「そうなのですか?」

「ええ。いずれ、詳しいことはお教えいたしますが……もとの香を聞いたこともないあなたが、良く、ここまで……と私は嬉しくなりました」

 過剰に褒められてしまって、恥ずかしくなる。話を変えたくて、私は鬼の君に問い掛けた。

「いままで、どこで身を隠していらっしゃったのですか?」

「私ですか? ……腹違いの姉が伊勢におりますので、そこを頼って……」

「伊勢……斎宮様のおわすところですね。伊勢は……どんなところですの?」

 なにせ私は、山科と都しか知らないので、他の土地と聞けば、ちょっと気になる。

 本当は、父様の任国地の伊予に行ってもいいのだけど。

「伊勢は……海が近いのですよ。私は、毎日海へ行って魚を捕っていましたよ」

「本当ですか?」

「ええ……、伊勢では、殆ど漁師のように生活を。小鬼は、あまり魚取りが上手くなかったから、姉上のところで下働きをしていたのかな」

 なんだか、冗談なんだかよく解らないわ……。

「そうやって、誰にも顧みられることなく生きて行けば良かったのかも知れないが―――私は、戻ってしまった」

 鬼の君が、そう呟くのを聞いて、私は何故か、鳥肌が立った。

 


 

 



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