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第二章 山科にて『鬼の君』と再会……

8.薄墨の桜

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 雷の音は、次第に近くなって、真っ白な光が部屋の中まで迸る。

 空の色も、どんよりと黒くなっていくので、雷は確実に近づいているのだろう。

「………関白殿下……」

 早蕨が、地獄の底から響くような声で、言う。

 さすがに、関白殿下も顔を引きつらせた。

 ぽつ、と雨が、廊下におちた音がする。最初はまばらだった雨音は、次第に間隔が狭くなって、すぐに、盥をひっくり返したように激しくなる。

「関白殿下ともあろうお方が、このような、狼藉をなさるとは!」

 早蕨は、ゆうらりと関白殿下に近づく。

「関白殿下。おばあ様に、言いつけますわよ」

 その早蕨の言葉を聞いて、関白殿下の整ったお顔が、見る間に蒼白になって行く。

「ま、待ちなさい、早蕨。それだけは」

 早蕨は、伝説の乳母、二条のおの人の孫娘。

 実は、関白殿下のお祖父さまで、いまも政にかなりの影響力のある、嵯峨野の太閤さまと言うかたがいて(元々は、二条のお邸に住んでいらっしゃったから、このかたも二条の関白殿下と仰有るのだけど。かなりのシスコンだったというお噂で、いまも、皇太后さまに仇なすものは、片っ端から消しているという……)、その嵯峨野の太閤さまの妾なのが、早蕨のおばあ様、というわけで。

 早蕨と関白殿下は、嵯峨野の太閤さまからみたら、同じ孫、なのだ。

 そして、一族を未だに牛耳っている嵯峨野の太閤さまが頭が上がらないのは、皇太后さまと、二条のお乳の人というわけです。

 なので、早蕨が、おばあ様に言い付けるというのは、関白殿下でさえ、顔色を無くすほど、恐ろしいということ。

「私は、なんにもしていないよ! まだ!」

 なにかするつもりはあったのかい!

「なにもなさらずに、気丈な姫さまが、こんなに嘆くことなどありませんわ!」

「だから、それが、誤解なのだよ! 私は、交際を申し込んだだけだ!」

「まあ! そういうお話でしたら、私や家人を通していただきませんと、困りますわ。それこそ、殿下は、私や姫さまを、田舎暮らしの、ものの道理も分からぬものと、侮っておいでですのね」

「いや、私は、いち早く、姫を手元に迎えたかったのだよ。こんな山奥でなく、都の一条の辺りに、丁度良さそうな、小さな邸があるものだから、そこへお迎えしたくてね」

 一瞬、世界が、真っ白い光に飲まれた。

 まぶしい、と目を瞑ると、ほどなく、天がわれたのではないかと思うほどの轟音を立てて、雷が落ちる。

 部屋から、紫色をした光の龍が、一目散にまっすぐ落ちてくる。 

 それが、邸の裏にある桜の木に、吸い込まれるように落ちた。 

「桜に、雷が落ちた! こりゃ大変だ!」

 赤麿は、走り出す。

「怪我をしたものがいなければいいが」と関白殿下が呟くが、早蕨は、気にも止めないようだった。

「関白殿下、とにかく今日は、お引き取り下さいませ」

 轟音と、稲光を受けながら、早蕨は言う。

 ちょっと、というか、かなーり、怖い。

「早蕨、こんな雷の中、帰れと言うのかい?」

「ええ。とっとと帰れやお早くお帰りなさいませ

 早蕨は、にーっこりと微笑む。

 怖い。

「山吹、今日はなんにもしないから、泊めてくれるよね?」

 あ、早蕨が、怖くて私に話をふって来た。

 しかし、早蕨は引かない。

「二条のお乳の人」

 ビクッと関白殿下は肩をお揺らしになって、爽やかに微笑むと、

「雷雨の中、馬を走らせるのも、なかなか風情があるものだしね」

 と言いながら、去っていった。

 早蕨、恐るべし。

 私も早蕨だけは、敵に回さなかったようにしなきゃ、と。心に誓った。
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