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第一章 珍奇で美味なる菓子
大書楼へのみちゆき
しおりを挟む大書楼に鴻を案内するのに庭を歩いていると、唐突に「あの、済まなかった」と鴻が謝った。
「なにか?」
「俺のせいで、国王と、喧嘩になったのではないか?」
「いや、陛下にしても、いつまでも、私をここに置いておくわけにも行かないだろうから。遠国との縁談というのは、渡りに船だったのだろうよ」
「あなたは……まだ、若々しいのにな」
娃琳の実際の年齢―――二十九歳を知りながら、鴻は、そんなことを言う。
「あなたより、随分年嵩だろう?」
「あなたから見たら、俺は随分子供っぽく見えるんでしょうね」
間髪おかずに言い返されて、娃琳は面食らった。
「また……」
「事実でしょう。無謀にも、雑琉から単身出て来た、世間知らずの若い男……。そう哀れんだから、俺を、公主府の客人にしてくれたんでしょう?」
鴻は、縋り付くように言う。
「私が、若い男を愛人として囲いたかった……と言ったら、あなたは、一体、どうするんだ」
「じゃあ、夜のほうも、頑張るよ」
鴻は妙に乗り気で言うので、娃琳は、げんなりした口調で「止めてくれ」と吐き捨てるように言った。
「なんで? ……俺、上手いかどうかは解らないけど、持久力なら、多分、この国の奴らよりあると思うよ?」
「比べたこともないくせに、適当なことを言うな! ……というか、この話は、止めてくれ。昼間にする話じゃない」
娃琳は、心の底から(勘弁してくれ)と思った。鴻は、妙に乗り気のようだし、本当に困る。
「鴻。……もし、公主府の女官や、後宮の女に指一本触れたら、本当に、私は、あなたの指を落とすからな!」
「女官や妃嬪には、触れないよ」
なにやら言い回しに引っかかりを覚えたが、そこは流しておくことにした。
「しかし、後宮は、広いんだな」
鴻が感慨深げに言う。
「雑琉は、もっと狭いのか?」
「んー……殆どが、書楼とか仏塔だからな。こんなに広い庭は、後宮にもないよ」
鴻の言葉に、やはり何か、引っかかりを感じつつ、娃琳は問う。
「天空の都、千塔の街……西域と、こちらの中間という場所だったか? たしか、雑琉語は、どちらかと言ったら、西域の言葉に近いと聞いている」
「ああ、殆ど、西域の言葉に近いな。半分は、こちらの文字も使うが、音や意味を宛てているだけのことも多いし」
娃琳は、西域の文字を思い浮かべた。表意文字(漢字のように形が意味を持っている文字)を使う、大陸文化に対して、西域は表音文字(アルファベットやハングルのように音を意味する文字)を使う。なので、基本さえ知って居れば、読むことには苦労はしないが、意味には繋がりにくい。逆に、西域のものが、大陸の言葉を学ぼうとすると、膨大な表意文字を覚えなければならずに、苦労するというのだった。
どちらにも、善し悪しはある。
その両方を使っているのが雑琉語なので、こちらは、複雑で娃琳は今まで雑琉語で書かれた本を、あまり見たことはない。
「機会があったら、少し教えてくれ」
「解った、ほかならぬ、あなたの頼みだったら、喜んで!」
鴻の、晴れ晴れとした笑顔をまぶしく思いながら、娃琳は、(早く、大書楼に辿り着きたい……)と思って居た。太陽の下、鴻の若さも、笑顔も、まぶしすぎる。
「鴻、こちらへ」
大書楼への近道を示す。薔薇で作られた生け垣が続く、優美な場所なのだが、いかんせん、この季節は、春に備えて、ギリギリまで短く剪定されている。優美さの欠片もない。
大書楼の足許まで来たとき、不意に鴻が足を止めて、掠れた声で呟く。
「すごい……巨大な書楼だ……。本当に、大書楼というのが相応しいな………」
黄金色の瓦を葺いた八角形、地上八層、地下三層からなる大書楼は、黄金宮と供に光り輝き、眩いばかりの偉容を誇っている。
「雑琉にも、塔書楼群があるだろう? あちらは、十二層の塔書楼が三十四と聞いた。この世のすべての本が蒐集されると聞いているのに、なぜ、わざわざ、游帝国へ?」
予言のせいだと言うことは解っていたが、娃琳は敢えて問い掛けてみた。
「たしかに、予言で言われたから。ここに来た」
「予言……ねぇ」
娃琳は、あまり、予言の類いを信用していない。殆どの場合がインチキであることが多いからだ。たとえば―――後の国王となる男児が誕生したときに、季節外れの牡丹が咲き誇った……などというのは、大抵、裏がある。
瑞兆の演出は、国家事業である。だから、種明かしはされないし、秘密も漏れないだろう。ただ、それだけだ。
「雑琉の人たちは、とても立派な志を持っている」
娃琳は、唐突に、鴻に語りかける。
「えっ?」
「雑琉の初代王、九鳥多羅王は、塔書楼群を建て、近隣国の戦火を逃れた書籍経典を保護した。そうやって、先人が、苦労を重ねてやっとの思いで繋げてきたのが、今の塔書楼群のはず」
「まあ、そういうのは、習ったことがあるよ」
鴻は、照れたようにいう。
「人間は、現在にだけ生きているわけではない。だからこそ、書や美術品など、過去のものを大切にしなければならない。失ったモノは、二度と取り戻すことは出来ないのだからな。おそらく九鳥多羅王の考えは、そういうことだと思う」
「雑琉の奴らが聞いたら、きっと、喜ぶと思う。雑琉は、……自分たちが、游とか堋とかからは、辺境の国と言って、馬鹿にされていると思って居るから」
たしかに、大陸の五国はともかく、雑琉などの属国になると、辺境の蛮族と蔑むものも多い。それを心配したからこそ、娃琳も、自分の公主府へ客人として招くことを提案したのだ。
はたして、娃琳に差別するような気持ちが、欠片もないかと聞かれればよく解らない。
「最初から、揚げ饅頭を投げられたから、嫌な女かと思って居たら、いろいろ、世話をしてくれて、いい人だ」
「あれは、揚げ饅頭ではなくて……」
『一吻餅』という菓子だった。この菓子は、一吻……つまり接吻をしているように、口を窄めて食べなければ、中の甘くて柔らかな餡が流れ出てしまう。しれで、口づけをしたい相手に送る菓子、として最近、堋国の若い男女の間で流行っている。
というのを、鴻に説明するのも、甚だ気恥ずかしい気分になって、娃琳は「まあいい」と切り上げる。
「なにが、良いんだよ、俺は良くない」
「いや、あの菓子は……」
娃琳は口ごもる。他意はなかったが、口づけをねだったようでもあって、恥ずかしくて目を背けると、慌ただしく、後宮の女官達が走り回っているのが見えた。
後宮では、女官は走らない。しかし、ああして走っているのだから、よほどの緊急事態が起きているのだろう。
「そこな女官、なにか、あったのか?」
娃琳は、緊張しながら、女官に問い掛けた。
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