大書楼の司書姫と謎めく甜食

鳩子

文字の大きさ
上 下
9 / 43
第一章 珍奇で美味なる菓子

恋に破れた娃琳

しおりを挟む

 彼は……、えい遊嗄ゆうさは、優しい男だった。

「私も、母上には、酷く打擲されたから」

 と腕に残る鞭の痕を見せて貰ったとき、娃琳ゆりんは、彼に共感したのだと思う。母親から、十分に愛して貰えないのは、自分だけではなかったのだという、安堵もあった。


「折角、お祖母ばあさまの国へ来たのだから、ここで学べることをすべて学んでいかないと」

 張り切って書楼に籠もりきりになる遊嗄と、書物の話や、湖都れいとで見聞きした話など、他愛のない話をしているだけで、時は早足で過ぎていく。

 そのうちに、娃琳は、遊嗄に逢いたくて、書楼に通っていることに気がついてしまった。

 娃琳の寂しさと、つらさに心を寄せて、一緒に過ごしてくれるこの優しく……美しい男に、娃琳は恋してしまった。

(叔母上のように、游帝国に嫁ぐことが出来たら良いのに)

 游帝国の黄金姫と謳われた叔母のように、娃琳も、游帝国に嫁ぎたいと思ったが、その夢は、あえなく崩れる。

「皇帝になって、愛する人を幸せにするのが、私の夢なんだ。……民全員と言えたら良いのだけれど、私には、そこまで出来る自信はないからね。だから、私は皇后だけ、絶対に幸せにすると決めているんだ」

 属国のような扱いとは雖も、隣国から姫を娶るのだから、皇后の格でなければならない。ましてや、叔母の先例がある。しかし、皇后となるひとは既に決まっていて、遊嗄自身、そのひとを、深く愛しているようだった。

「彼女は、私を救ってくれたのだよ。自分、家の中では肩身の狭い思いをしていたのに、私の事を気遣ってくれたんだ。だから、私は、絶対に、彼女を幸せにすると決めたんだ。ほう国に留学したのも、その為だよ」

 遊嗄の言葉で、娃琳は腑に落ちた。

 かつて、将来皇后となる人に救って貰ったから、同じように娃琳にも優しくしたのだろう。遊嗄の心は固く、何人も、立ち入ることは出来なさそうだった。

 ならば少し、宦官達の遊嗄に対する『真面目すぎる』という評価を、少々覆すようなことを、教えようと思った。そして、羽目を外す度、堋国で出逢った、幼い王女のことを、思い出すようにと願いを込めて。

 遊嗄は、はっきりいうと、性的な事に対して嫌悪感でも抱いているような潔癖ぶりだった。

「そんなんじゃ、将来の皇后さまが、がっかりなさいますよ」

 と言いながら、杏仁酥アーモンドクッキーを片手に、かなりきわどい内容の、書物を遊嗄に与えた。案の定、書物をひもといた瞬間に、美しい象牙色の花のかんばせが、かーっと赤くなって、目が泳ぐ。

 美しい彩色まで施された、図まで載った性の指南書だった。

「あ……、娃琳……これは……っ」

 口をぱくぱくさせている遊嗄だったが、娃琳にすれば、遊嗄のこの反応の方が異常だった。

 なぜならば、皇帝の仕事には、子を作り、血筋を残していくことも含まれる。その為の、房中の方法なのだ。

「この程度、貴族に生まれたのでしたら、みな、知って居ますよ。……いずれ迎える皇后さまとの初夜で、ヘタを打たないように、頑張って下さいませ。ああ、杏仁酥アーモンドクッキー美味しいですよ? 一枚如何ですか?」

 不思議な事だった。

 遊嗄が側に居ると、杏仁酥アーモンドクッキーの甘さも、さっくりした歯触りも、口いっぱいに広がるアーモンドの香ばしい薫りも感じる事が出来て、素直に、美味しいと思えたのだった。

(きっと、私が、遊嗄さまを好きだから)

 杏仁酥アーモンドクッキーの味も感じるのだと、娃琳は思って居る。

 一通りの閨房の書物を渡し、様々な媚薬についても、教えた。丁度、池に夜咲睡蓮が咲いていたので、その効能についても説明したことがある。

「あれは、西域から来た睡蓮ですが……花の香りには、淫らな心を催させる作用があると言います。どうぞ、皇后さまにお試し下さいませ。存外、野外でなさるのも、よいものだと、『酔醒夢楼すいせいむろう』には書かれておりました。五巻の、中程です。もし、必要でしたら、お出ししますが」

「そ、その小説は……、その、あなたのような、子供の読むものではないでしょう」

 顔を真っ赤にして、遊嗄は言う。

「おや、皇太子殿下。あれが、そういう小説だとご存じだったのですね。……ご愛読書とか?」

 遊嗄の秀麗な顔が、気の毒なくらい赤くなった。『酔醒夢楼すいせいむろう』は稀代の伝奇小説で、そして、艶書としても名高い内容のものだった。

「ち、ちがうっ! ……その、側近が……、そういう、いかがわしいものを好んで居たので……」

 しどろもどろになって言う姿は、年上の男とも思えずに可愛いものだと思って居たのだった。

 あけすけな話をしているが、どうせ、恋愛対象ではない。だから、思い出としては、『堋国のませた姫』というところで良い。

 だから、胡姫こきがいかがわしい踊りをするところに連れていったり、とにかく、あちこち連れ回した。そのついでに、彼の興味を引きそうな、治水関係の工事現場なども混ぜ込んでいたのので、遊嗄も大人しく連れられていたのだろう。

 けれど遊嗄が帰国するという段になって、娃琳は、我慢が出来なくなった。なので、彼を書楼に呼び出すと、一番綺麗な衣装に身を包んで、彼に告げた。

「大好きだったの。………嫌な娘だと思って居たと思うわ。でも……、私は、あなたが好きだったの。私は、皇后でなくても良いから、あなたの、妃嬪に、加えて下さいませ」

 遊嗄は、困ったような顔をしていた。そして、そっと、娃琳の額に口づけてから、言う。

「あなたのことは嫌いではない。……だけど、私は、皇后のほかには、妃嬪を迎えないつもりだから、あなたを迎えることは出来ないんだ」

「万が一! ……皇后さまに跡取りが出来なかったらで良いわ! 私を、迎えに来て頂戴!」

 どこに、こんな情熱があったのか、今の娃琳は解らない。



 だが、恋に破れた娃琳は、それでも、待った。

 遊嗄が、妃嬪として、娃琳を迎えてくれる日を。

しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

【完結】殿下、自由にさせていただきます。

なか
恋愛
「出て行ってくれリルレット。王宮に君が住む必要はなくなった」  その言葉と同時に私の五年間に及ぶ初恋は終わりを告げた。  アルフレッド殿下の妃候補として選ばれ、心の底から喜んでいた私はもういない。  髪を綺麗だと言ってくれた口からは、私を貶める言葉しか出てこない。  見惚れてしまう程の笑みは、もう見せてもくれない。  私………貴方に嫌われた理由が分からないよ。  初夜を私一人だけにしたあの日から、貴方はどうして変わってしまったの?  恋心は砕かれた私は死さえ考えたが、過去に見知らぬ男性から渡された本をきっかけに騎士を目指す。  しかし、正騎士団は女人禁制。  故に私は男性と性別を偽って生きていく事を決めたのに……。  晴れて騎士となった私を待っていたのは、全てを見抜いて笑う副団長であった。     身分を明かせない私は、全てを知っている彼と秘密の恋をする事になる。    そして、騎士として王宮内で起きた変死事件やアルフレッドの奇行に大きく関わり、やがて王宮に蔓延る謎と対峙する。  これは、私の初恋が終わり。  僕として新たな人生を歩みだした話。  

後宮の棘

香月みまり
キャラ文芸
蔑ろにされ婚期をのがした25歳皇女がついに輿入り!相手は敵国の禁軍将軍。冷めた姫vs堅物男のチグハグな夫婦は帝国内の騒乱に巻き込まれていく。 ☆完結しました☆ スピンオフ「孤児が皇后陛下と呼ばれるまで」の進捗と合わせて番外編を不定期に公開していきます。 第13回ファンタジー大賞特別賞受賞! ありがとうございました!!

アラサーですが、子爵令嬢として異世界で婚活はじめます

敷島 梓乃
恋愛
一生、独りで働いて死ぬ覚悟だったのに ……今の私は、子爵令嬢!? 仕事一筋・恋愛経験値ゼロの アラサーキャリアウーマン美鈴(みれい)。 出張中に起きたある事故の後、目覚めたのは 近代ヨーロッパに酷似した美しい都パリスイの子爵邸だった。 子爵家の夫妻に養女として迎えられ、貴族令嬢として優雅に生活…… しているだけでいいはずもなく、婚活のため大貴族が主催する舞踏会に 参加することになってしまう! 舞踏会のエスコート役は、長身に艶やかな黒髪 ヘーゼルグリーン瞳をもつ、自信家で美鈴への好意を隠そうともしないリオネル。 ワイルドで飄々としたリオネルとどこか儚げでクールな貴公子フェリクス。 二人の青年貴族との出会い そして異世界での婚活のゆくえは……? 恋愛経験値0からはじめる異世界恋物語です。

【完結】転生少女は異世界でお店を始めたい

梅丸
ファンタジー
せっかく40代目前にして夢だった喫茶店オープンに漕ぎ着けたと言うのに事故に遭い呆気なく命を落としてしまった私。女神様が管理する異世界に転生させてもらい夢を実現するために奮闘するのだが、この世界には無いものが多すぎる! 創造魔法と言う女神様から授かった恩寵と前世の料理レシピを駆使して色々作りながら頑張る私だった。

5年も苦しんだのだから、もうスッキリ幸せになってもいいですよね?

gacchi
恋愛
13歳の学園入学時から5年、第一王子と婚約しているミレーヌは王子妃教育に疲れていた。好きでもない王子のために苦労する意味ってあるんでしょうか。 そんなミレーヌに王子は新しい恋人を連れて 「婚約解消してくれる?優しいミレーヌなら許してくれるよね?」 もう私、こんな婚約者忘れてスッキリ幸せになってもいいですよね? 3/5 1章完結しました。おまけの後、2章になります。 4/4 完結しました。奨励賞受賞ありがとうございました。 1章が書籍になりました。

迦国あやかし後宮譚

シアノ
キャラ文芸
旧題 「茉莉花の蕾は後宮で花開く 〜妃に選ばれた理由なんて私が一番知りたい〜 」 第13回恋愛大賞編集部賞受賞作 タイトルを変更し、「迦国あやかし後宮譚」として現在3巻まで刊行しました。 コミカライズもアルファノルンコミックスより全3巻発売中です! 妾腹の生まれのため義母から疎まれ、厳しい生活を強いられている莉珠。なんとかこの状況から抜け出したいと考えた彼女は、後宮の宮女になろうと決意をし、家を出る。だが宮女試験の場で、謎の美丈夫から「見つけた」と詰め寄られたかと思ったら、そのまま宮女を飛び越して、皇帝の妃に選ばれてしまった! わけもわからぬままに煌びやかな後宮で暮らすことになった莉珠。しかも後宮には妖たちが驚くほどたくさんいて……!?

君に恋していいですか?

櫻井音衣
恋愛
卯月 薫、30歳。 仕事の出来すぎる女。 大食いで大酒飲みでヘビースモーカー。 女としての自信、全くなし。 過去の社内恋愛の苦い経験から、 もう二度と恋愛はしないと決めている。 そんな薫に近付く、同期の笠松 志信。 志信に惹かれて行く気持ちを否定して 『同期以上の事は期待しないで』と 志信を突き放す薫の前に、 かつての恋人・浩樹が現れて……。 こんな社内恋愛は、アリですか?

一宿一飯の恩義で竜伯爵様に抱かれたら、なぜか監禁されちゃいました!

当麻月菜
恋愛
宮坂 朱音(みやさか あかね)は、電車に跳ねられる寸前に異世界転移した。そして異世界人を保護する役目を担う竜伯爵の元でお世話になることになった。 しかしある日の晩、竜伯爵当主であり、朱音の保護者であり、ひそかに恋心を抱いているデュアロスが瀕死の状態で屋敷に戻ってきた。 彼は強い媚薬を盛られて苦しんでいたのだ。 このまま一晩ナニをしなければ、死んでしまうと知って、朱音は一宿一飯の恩義と、淡い恋心からデュアロスにその身を捧げた。 しかしそこから、なぜだかわからないけれど監禁生活が始まってしまい……。 好きだからこそ身を捧げた異世界女性と、強い覚悟を持って異世界女性を抱いた男が異世界婚をするまでの、しょーもないアレコレですれ違う二人の恋のおはなし。 ※いつもコメントありがとうございます!現在、返信が遅れて申し訳ありません(o*。_。)oペコッ 甘口も辛口もどれもありがたく読ませていただいてます(*´ω`*) ※他のサイトにも重複投稿しています。

処理中です...