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第一章 珍奇で美味なる菓子
恋に破れた娃琳
しおりを挟む彼は……、瀛遊嗄は、優しい男だった。
「私も、母上には、酷く打擲されたから」
と腕に残る鞭の痕を見せて貰ったとき、娃琳は、彼に共感したのだと思う。母親から、十分に愛して貰えないのは、自分だけではなかったのだという、安堵もあった。
「折角、お祖母さまの国へ来たのだから、ここで学べることをすべて学んでいかないと」
張り切って書楼に籠もりきりになる遊嗄と、書物の話や、湖都で見聞きした話など、他愛のない話をしているだけで、時は早足で過ぎていく。
そのうちに、娃琳は、遊嗄に逢いたくて、書楼に通っていることに気がついてしまった。
娃琳の寂しさと、つらさに心を寄せて、一緒に過ごしてくれるこの優しく……美しい男に、娃琳は恋してしまった。
(叔母上のように、游帝国に嫁ぐことが出来たら良いのに)
游帝国の黄金姫と謳われた叔母のように、娃琳も、游帝国に嫁ぎたいと思ったが、その夢は、あえなく崩れる。
「皇帝になって、愛する人を幸せにするのが、私の夢なんだ。……民全員と言えたら良いのだけれど、私には、そこまで出来る自信はないからね。だから、私は皇后だけ、絶対に幸せにすると決めているんだ」
属国のような扱いとは雖も、隣国から姫を娶るのだから、皇后の格でなければならない。ましてや、叔母の先例がある。しかし、皇后となるひとは既に決まっていて、遊嗄自身、そのひとを、深く愛しているようだった。
「彼女は、私を救ってくれたのだよ。自分、家の中では肩身の狭い思いをしていたのに、私の事を気遣ってくれたんだ。だから、私は、絶対に、彼女を幸せにすると決めたんだ。堋国に留学したのも、その為だよ」
遊嗄の言葉で、娃琳は腑に落ちた。
かつて、将来皇后となる人に救って貰ったから、同じように娃琳にも優しくしたのだろう。遊嗄の心は固く、何人も、立ち入ることは出来なさそうだった。
ならば少し、宦官達の遊嗄に対する『真面目すぎる』という評価を、少々覆すようなことを、教えようと思った。そして、羽目を外す度、堋国で出逢った、幼い王女のことを、思い出すようにと願いを込めて。
遊嗄は、はっきりいうと、性的な事に対して嫌悪感でも抱いているような潔癖ぶりだった。
「そんなんじゃ、将来の皇后さまが、がっかりなさいますよ」
と言いながら、杏仁酥を片手に、かなりきわどい内容の、書物を遊嗄に与えた。案の定、書物をひもといた瞬間に、美しい象牙色の花の顔が、かーっと赤くなって、目が泳ぐ。
美しい彩色まで施された、図まで載った性の指南書だった。
「あ……、娃琳……これは……っ」
口をぱくぱくさせている遊嗄だったが、娃琳にすれば、遊嗄のこの反応の方が異常だった。
なぜならば、皇帝の仕事には、子を作り、血筋を残していくことも含まれる。その為の、房中の方法なのだ。
「この程度、貴族に生まれたのでしたら、みな、知って居ますよ。……いずれ迎える皇后さまとの初夜で、ヘタを打たないように、頑張って下さいませ。ああ、杏仁酥美味しいですよ? 一枚如何ですか?」
不思議な事だった。
遊嗄が側に居ると、杏仁酥の甘さも、さっくりした歯触りも、口いっぱいに広がるアーモンドの香ばしい薫りも感じる事が出来て、素直に、美味しいと思えたのだった。
(きっと、私が、遊嗄さまを好きだから)
杏仁酥の味も感じるのだと、娃琳は思って居る。
一通りの閨房の書物を渡し、様々な媚薬についても、教えた。丁度、池に夜咲睡蓮が咲いていたので、その効能についても説明したことがある。
「あれは、西域から来た睡蓮ですが……花の香りには、淫らな心を催させる作用があると言います。どうぞ、皇后さまにお試し下さいませ。存外、野外でなさるのも、よいものだと、『酔醒夢楼』には書かれておりました。五巻の、中程です。もし、必要でしたら、お出ししますが」
「そ、その小説は……、その、あなたのような、子供の読むものではないでしょう」
顔を真っ赤にして、遊嗄は言う。
「おや、皇太子殿下。あれが、そういう小説だとご存じだったのですね。……ご愛読書とか?」
遊嗄の秀麗な顔が、気の毒なくらい赤くなった。『酔醒夢楼』は稀代の伝奇小説で、そして、艶書としても名高い内容のものだった。
「ち、ちがうっ! ……その、側近が……、そういう、いかがわしいものを好んで居たので……」
しどろもどろになって言う姿は、年上の男とも思えずに可愛いものだと思って居たのだった。
あけすけな話をしているが、どうせ、恋愛対象ではない。だから、思い出としては、『堋国のませた姫』というところで良い。
だから、胡姫がいかがわしい踊りをするところに連れていったり、とにかく、あちこち連れ回した。そのついでに、彼の興味を引きそうな、治水関係の工事現場なども混ぜ込んでいたのので、遊嗄も大人しく連れられていたのだろう。
けれど遊嗄が帰国するという段になって、娃琳は、我慢が出来なくなった。なので、彼を書楼に呼び出すと、一番綺麗な衣装に身を包んで、彼に告げた。
「大好きだったの。………嫌な娘だと思って居たと思うわ。でも……、私は、あなたが好きだったの。私は、皇后でなくても良いから、あなたの、妃嬪に、加えて下さいませ」
遊嗄は、困ったような顔をしていた。そして、そっと、娃琳の額に口づけてから、言う。
「あなたのことは嫌いではない。……だけど、私は、皇后のほかには、妃嬪を迎えないつもりだから、あなたを迎えることは出来ないんだ」
「万が一! ……皇后さまに跡取りが出来なかったらで良いわ! 私を、迎えに来て頂戴!」
どこに、こんな情熱があったのか、今の娃琳は解らない。
だが、恋に破れた娃琳は、それでも、待った。
遊嗄が、妃嬪として、娃琳を迎えてくれる日を。
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