悪役令嬢の使用人

橘花やよい

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第六章 因縁と家族

第9話 はじめの一歩

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 お嬢様は磨き上げられた本館の廊下を進み、最奥の扉の前で立ち止まる。

「失礼します」

 子気味よいノックの音を鳴らし、部屋に入る。驚いた様子の旦那様が、執務机越しにお嬢様をみた。お嬢様は前に進み出る。お時間よろしいでしょうかと尋ねると、旦那様はあっけにとられているのか、気の抜けた了承の返事をした。

 私は、マリーとレオンを見た。二人とも困惑している様子だったが、その表情に不安は感じられない。お嬢様は部屋の中心まで歩くと、椅子に座る旦那様を見据えた。

「お父様はライラを后の座につかせたいのでしょう」
「なんだ、急に」
「わたくし、后の座には興味がございません」

 は、と旦那様は口を開けた。

「ライラが后になるための障害は長女のわたくしの存在のはず。ですから、わたくしは長女としてのその立場、辞させていただきます」

 旦那様はただひたすら、ぽかんとお嬢様を見つめる。その顔が旦那様らしくなくて、不覚にも笑いそうになった。

「……そうか」

 やっと、その一言を旦那様は告げる。

「はい。しかし、代わりといってはなんですが、わたくしの話を聞いていただけますか」

 お嬢様の瞳に真剣さが光る。静かで、理知的で、私が敬愛するお嬢様の瞳だ。

「わたくしは、自分の居場所は自分で守りたいのです。お母様が守ろうとしてくれたこのバルド家を、わたくしの手で守りたい」

 お嬢様は自分の胸に手を当てた。

「わたくしに仕えてくれるマリー、レオン、リーフのような人たちも」

 ゆっくりと赤い瞳が私たちを順々にみる。マリーはにこりと微笑んだ。レオンは照れくさそうにはにかむ。私は、お嬢様の視線に応えるように頷いた。

「わたくしを慕ってくれるみんなのことを。そしてライラや、ライラの大切な人のことも」

 微笑んで、お嬢様は旦那様に視軸を当てる。

「わたくしはこのバルド家を継ぎます。他の誰にもその役目、任せたくはありません。その許可を、いただけますか」

 旦那様は、あっけにとられていた。

「……この家を、継ぐか」

 しばらく手元に視線を落として、机の上で骨ばった指を組む。なにを考えているのかは、よく分からない。それでも、お嬢様も私たちも、待った。

「お前は、母によく似ているな」

 こぼされた言葉に、お嬢様はわずかに瞳を大きくさせた。

「――私は、当主として決められた道を進むのに嫌気がさしていたのだ。彼女のことも、疎んでいた。彼女の存在が自分を苦しめているのだと思っていた。そこにばかり気を注いで、私が彼女を苦しめているとは微塵も考えていなかった」

 誰に言うでもなく、旦那様は呟く。

「私が屋敷から離れている間、彼女は私の代わりに、家を守ってくれていた。聡明な人だったのだろう。――こんなことを言っても、今さらだとは思うがな」

 はじめて、旦那様の心の内を知った気がした。彼もまた、苦しんでいた一人だった……のかもしれない。それを知ったところで、私が旦那様を許せるかと言われれば、そんなこともないけれど。

 私は、この男が嫌いだ。
 ただ、それでも。
 お嬢様は目を閉じた。

「本当に、今さらですね。ですが、私たちにはまだ、未来がある。どうかこの先、ご判断を誤りませんように」

 私たちは、未来を生きていく。過去のことばかりに囚われない。前を向くんだと、そう決めたから。再び旦那様を見据えて、お嬢様は微笑んだ。

「リーフのこと、返していただきます。彼女はわたくしの大事な使用人ですから。構いませんね?」

 ああ、と旦那様が頷いた。

 お嬢様は、私に目を向けた。とても真っ直ぐな、澄んだ瞳に見つめられて、私の心臓が大きく跳ねた。お嬢様の唇が、弧を描く。

「必ずリーフを取り戻すって、言ったでしょう?」

 私が、ライラ様の使用人になった日。その日のお嬢様の姿を思い出す。それよりもっと昔の、別館に閉じこもっていた姿や、一歩踏み出す決意をした日の姿も、一瞬で記憶が駆け巡る。

「おかえりなさい。またわたくしのもとで、働いてもらうわよ」

 自信に満ちた、お嬢様の笑顔。
 伸ばされた手を、私はそっと握った。

「いくらでも、お嬢様のために尽力いたします。これから先、いつまでも」

 私は、嬉しくて、誇らしくて――、きっととても下手な笑顔を浮かべた。
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